土潤いて蒸し暑し(つちうるおいてむしあつし)
八朔
八朔とは一日(ついたち)のこを云いますが旧暦の八月一日を八朔と云って、そのころとれはじめる早稲の穂を日頃お世話になっている人へ贈る習慣がありました。田の実の節句とも云うそうです。その意味が転じて田の実を「頼み」となり農家だけでなく日頃の恩にお礼をする日になったと云われているそうです。(ホントかなと思いません?
もう一つあります これは皆さんご存知のことと思いますが、京都の芸妓さんや舞妓さんは新暦の八月一日になると日頃からお世話になっている、芸事のお師匠さんやお茶屋さんに「よろしくおたのもうします」「おきばりやす」とあいさつ回りをする習わしになっています。この日は祇園界隈では着飾った舞妓さんたちが忙しそうにあいさつ回りをしている姿を多く見かけることが出来ますよ。
八朔(ハッサク)日本原産のミカン科、柑橘類のひとつで
この時期スーパーで多く見られます。果皮だけでなく、袋(じょうのう膜)も厚いため、通常は袋も剥いて食べました。独特の苦みと酸味があるものの、鮮度の良い物は水分が多い。日本国内でのハッサク栽培は、江戸時代末期に尾道市因島の浄土寺で原木が発見されたのを機に始まったとされる。現在因島では約二千戸の農家がハッサクを育てている。
令和 元年 八月一日 八 大
大 暑 (3題)
今年の梅雨は異常気象とは云え何とも長い梅雨だったですね。気象庁の話によると近年では記録的mには日照時間が短かった。その結果か病害虫の発生か変な形のキュウリやナスが見られます。おかげで季節の野菜や果物の生育が思わしくないそうだ。我が家でもナスやキュウリは変な形が多く不作でした、代わりにトマトの成績は良好です。
今日は土用の丑の日
さて立春、立夏、立秋、立冬の前の十八日間を土用と云います。立秋前の夏土用の丑の日には鰻を食べる習慣があり精の付く鰻を食べて暑さ乗り切ることから始まります。鰻を食べる習慣が一般的に広まったのは江戸時代夏に売り上げが落ちると相談を受けた平賀源内が、店先に「本日丑の日うなぎの日、食すれば夏負けすることなし」という看板を立てたら大繁盛したことで、ほかの鰻屋でも真似するようになったとか。「本日丑の日」は日本初のコピーライティグ云われています。
桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)
高級桐ダンスは湿度が高いと膨張して気密性が高まり湿気を防いでくれる、乾燥時には収縮して通気性を良くしてくれる。昔の人は嫁入り道具として桐ダンスを持たせるため女の子が生まれたらきりを植えるという習慣がありましたネ。この時期キラメキ通りのポケットパークにも小さな実が付き始めました。
夏といえば花火の季節
江戸時代、八大将軍徳川吉宗の時代享保の飢饉のころコレラの流行がありましたが、この慰霊と厄払いを兼ねて隅田川で花火大会が行われたことが始まりと云われております。称賛の掛け声で有名な「玉屋』「鍵屋」と云った花火職人たちがありましたが「玉屋」は失火があり一台で断絶されました。鍵屋は現在にも続いており聞くところによりますと十五代目になっているそうです
令和元年 7月 八 大
日本人の死生観
物事は考えようだ
元来あまり先のことを考えるのが不得手な自分ではあるが最近になって「人は死んだ後どうなっていくんだろう」そろそろお盆が近づいてきましたが魂が存在してあの世とこの世を行き来すると云いますが本当はどうなんだろうと子供のころは考えていた。
その一方では物質にもとずく現代の科学的な考えでは、魂は存在せず死後はすべてが土に還り消えてなくなるというものです。そうすると死んだ後のことは生き返ることは出来ないので誰もそれを証明することはできない。そうするとその先を選ぶのは本人の自由であるのではないか? そうだとするならば気分的には楽しい方を選ぶのがいいと思いませんか。
最近は樹木葬という言葉が聞かれますが頷けることがありました。桜の木の下に親、兄弟、子供、孫たちや友人、恋人たちと身近な人たちが寄り添って咲き誇りほどなく散って同じ樹の下に帰ってゆく、そしてまた、繰り返されて同じ枝に咲いてまたその根元から養分として吸い上げてられ繰り返されていく桜があります。
あの時会えなかった人たちともう一度同じ桜の枝に咲いてあの暖かな陽を浴びて微睡むことが出来るかもしれないと思うと何も悩むことはないのでは? 輪廻転生という言葉もあるように大丈夫、貴女方とは、きっとまた何処かで廻り逢うことが出来る、そう考えると死の恐怖や別れの悲しみを受け入れやすくなるかもしれないですよね。
令和元年 7月 八 大
水神信仰と魔除け
深大寺 水神信仰
深沙大王を祀っておりますが本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話がありますが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を行っていますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
奈良時代の満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相学を学び帰郷後この地にお堂を建て深沙大王を祀りました。天平5年(733年)これが深大寺開創の言い伝えであります。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。
国宝 銅造釈迦如来倚像
元三大師
名前は良源といいますが、平安時代の天台宗の僧で朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている
延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。
角大師 魔除け
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵である。伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。
「元三大師」像はいずれも礼拝像として定型化した表現を示しており、やや吊り目で厳しい表情で、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)を持つのが特色で、不動明王のイメージが重ねられている。。
慈恵大師(良源)を祀るおもな寺院
群馬県前橋市-龍蔵寺(青柳大師) 大祭:1月3日
栃木県佐野市-惣宗寺(佐野厄除け大師) 大祭:2月11日
茨城県坂東市-安楽寺(元三大師)
東京都調布市-深大寺 大祭:3月3日
東京都台東区-輪王殿両大師堂(両大師)
東京都墨田区-木母寺
埼玉県川越市-喜多院(川越大師)
令和元年 7月 八 大