太田南畝(蜀山人)狂歌師

この当時の狂歌や洒落本などは、読んでいくと風刺とその薬味が効いており楽しくて愉快になりますね。40年もの昔に出会った「ノミの狂歌」は何度読み返しても、軽妙洒脱と云うか滑稽でつい思い返して一人でにっこり頷いてしまいます。

蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた自作の
 朝もよし昼もなほよし晩もよしその合ひ合ひにチョイチョイとよし
を口ずさみながらご機嫌。そのときノミが一匹盃に飛び込んだ。そこで一首
 盃に飛び込むノミも飲み仲間酒飲みなれば殺されもせず
の即吟となる。盃の中のノミがすかさず返し歌としゃれて
 飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩にきてさす
と詠んだことに作家で精神科医のなだいなだ氏は狂歌に魅せられたという。

太田南畝
太田南畝(おおたなんぼ)寛延2年(1749年)~文政6年(1823年)の天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人でありました
当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなって行きました。
松平定信により田沼政治の重商主義の否定と緊縮財政、風紀取締りにより幕府財政の安定化を目指し、寛政の改革が始まると田沼寄りの幕臣たちは賄賂政治の下手人として粛清されていった。幸いに南畝は咎められなかったものの風評が絶えなかった。そんな時に政治を批判する庶民の文化として狂歌が大流行しました

「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」
上野公園の「蜀山人の碑}
が庶民に受け、その作者は南畝であると疑われましたが南畝はこれを否定します。事実であれば、幕臣として取り返しのつかないことになるところでした。
その後、享和元年(1801年)には大坂銅座出役として大坂に赴き、銅を「蜀山居士」とも呼んだことから、「蜀山人の号を使い始めています。
 
文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で南畝は75歳で世を去る。
辞世の句は、
「今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」とも 
「生き過ぎて七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」ともいわれます。
 当時を代表する文人でありながら、幕臣としてもきちんと務めを果たした南畝でした。

気になった狂歌
欲深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を和するる
白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりし田沼恋しき
上からは明治だなどというけれど 治明(おさまるめい)と下からは読む
わが禁酒破れ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう
世の中は色ととがなり どうぞ敵にめぐりあいたい
世の中はいつも月夜にのめし さてまた申し金のほしさよ
今さらに何か惜しまむ神武より 二千年来暮れてゆく年

令和元年   12月末        八 大






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