虎ノ門の云われ 大逆事件

    江戸城の西に虎之御門と云われる立派な門がありました、当時は青龍・白虎・朱雀・玄武の四獣神が四方を守るという考えがあり、青龍は東、白虎は西、朱雀は南、玄武は北がふさわしいとされていた。 これにちなんで江戸城の西に位置していた門は、白虎の「虎ノ門」と名付けられたといわれている。その後の交通事情から明治6年に今の場所に移り現在に至っています。
文部科学省の正面脇のここ地下鉄虎ノ門駅を出たところにその由来が石碑に書いてあります。目立たない小さな像ですので見落としてしまいそうになりそうです。

 大正12年12月27日時の皇太子裕仁親王が摂政として通常議会の開院式に出席するために皇居を出て5分後虎の門前を通過中群衆の中にいた難波大助(無政府主義者)が警戒線を突破して、ステッキ仕込み式の銃で狙撃した。銃弾は皇太子には当たらなかったが車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長が軽傷を負った。
 警護の中にいた私服警察官が飛びついて押さえたそうですが民衆も加わっていた為、誰が犯人なのか大混乱したそうです。(大逆事件)



  世の中は関東大地震と云う未曾有の大災害の直後に加えて左翼人や無政府主義者の横
 行などもあり大混乱を呈しておりました。年を越した10日後新年早々に山本権平内閣
 は総辞職が認められ清浦圭吾内閣が発足しました。
  難波は逮捕された後大逆罪で起訴され大正13年11月13日に判決が確定、3日後の15
 日に死刑が執行されました。その後も親兄弟は勿論の事親類縁者は勿論の事、学校の卒
 業生に至るまで広範囲な取り調べが続いたそうす。
  
  
                     平成30年8月        八 大













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