五浦の六角堂と岡倉天心

 あの東日本大震災から7年の歳月が過ぎた先ごろ五浦の六角堂に足を運びました。地震と大津波に飲み込まれた六角堂は土台だけを残して無残にも姿を消しましたが、わずか一年後に原型の復旧がなされ白波の打ち寄せる断崖に再建され前の姿と変わらず依然として波の音の中に威容を見せていました。錣吹風を感じさせる赤い腰回りの六角堂は小さいけれど外海に向かって威容を誇っています。
 天心がここに座って太平洋を望み東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動した姿が思い起こされます。

 すぐ近くに茨城県天心記念五浦美術館がありますが日本近代美術の発展に大きな功績を残した岡倉天心の偉業は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め美術運動家として大きな功績を残しました。その活動には、日本画の改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館の日本美術部長を務めるなど、目を見張るものがあります。
 
六角堂 また天心は明治の初め新政府の神仏分離令によって廃仏毀釈が盛んになり多くの仏像等の美術品が破壊されたり、海外に流出される事を憂い古美術品の保護に関心を持ったそうです。その頃アーネスト・フェノロサとの出会いから、明治17年法隆寺夢殿を開扉し、秘仏であった救世観音像に出会えたことは「一生の最快事なりと云うべし」と熱く語っていたそうです。このような文化財保護に関する調査保護活動は「古社寺保存法」に反映され現在の文化財保護法制定に受け継がれ今日の文化財保護の礎
になっています。

 天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む五浦に居を構える一方、横山大観、菱田春草、下村観山ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活していました。

                  平成30年11月            八大




0 件のコメント:

コメントを投稿