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「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










遠藤さんちの庭園

突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!

 この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。  心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。

 令和5年 皐月         八 大








他の



嵯峨野路その10

 嵯峨野路を歩いてから一か月が過ぎてしまいました。この際だからとして意気込んでみたものの心中の火種に心残りはありますが雑事に追い回されていっこうに進みません。元来の遅筆が災いして季節に追いつけなくなってしまい申し訳なく思っています。        嵯峨野路編はこの辺で一区切りにしたいと思います。                 

空也上人
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は平安時代の歴史書「扶桑略記」によれば、踊念仏で知られる市聖(いちのひじり)「空也上人(くうやしょうにん)」が十一面観音を造立し疫病の蔓延する京都でこの観音像を車に乗せて引きながら歩き、
念仏を唱え病人にお茶をふるまって多くの人達を救ったと云われています。その頃鴨川岸では遺体の捨て場であって葬送の場所になっていたと云います。 空也上人の口元から仏様が出て来る挿絵を見たことがあるでしょう。

平安時代の末期には近くに阿弥陀堂が立ち平清盛によって京都を守護するための六波羅探題と云う館も出来てその周辺一帯が平家に有らずんば人にあらずと云われた時代がありましたが、寿永2年(1183年)平家が都落ちした際に炎上しこのお寺も類焼してしまったという事です。その後鎌倉・室町を経て江戸時代までは大伽藍を連ねていたが明治維新の廃仏毀釈を受け現在の寺域は大幅に縮小されている。

八坂神社 

八坂神社
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする神社(約2,300社)の総本社と云われており通称祇園さんと呼ばれており祇園祭の胴元としても知られています。元の祭神であっ牛頭天王が祇園精舎の守護神であることから祇園神社または祇園社と呼ばれていたものが慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。隣接して丸山公園があることから地元の氏神(産土神)としての信仰を集めています。

社伝によれば斉明天皇2年(656年)高句麗から来た伊利之使主(いりしおみ)の創建と云われる。牛頭天皇は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、韓国において信仰された形跡はなく日本独自の神といわれる。山城国愛宕郡八坂郷に祀られ「八坂造(やさかのみやつこ)」の姓を賜ったことに始まるそうです。

をけら
「をけら詣り」 京都の年末の風物詩として12月31日の午後7時半頃から元旦の早朝5時ごろ迄執り行われる「をけら詣り」があります。本殿にて一年を締めくくる除夜祭の後神職により灯籠に火がともされ、白朮(をけら)灯籠に灯された吉兆縄に点火し一年間の無病息災を祈願した火を消さないように縄をくるくる回しながら自宅に持ち帰ります。神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種とする新年の習わしが「をけら詣り」である。一年の締めくくりをお世話になった竈の神様迄にも感謝をするこころ・・風情がありますよね。


 令和3年 師走        八 大
















嵯峨野路その9 (知恩院と増上寺)

 正面の石段を登ろうとすると目の前に覆い被さるように山門が迫り、これぞ圧巻です。

知恩院三門
知恩院 法然上人が開山した浄土宗総本山の寺院で正式な名称は「華頂山知恩教院大谷寺」と云います。法然上人が後半生を過ごし没した地に建てられた寺で現在あるような大規模な伽藍が建てられたのは江戸時代以降であります。徳川将軍家から一般の庶民まで広く信仰を集め今でも京都の人達から「ちおいんさん」と呼ばれています。

知恩院の歴史を細かく述べるのは長くなるので省略しますが、江戸時代以降に浄土宗の門徒であった徳川家康が慶長13年(1608年)から寺地の拡大を進めたのは二条城と共に京都における徳川家の拠点とすることで威勢を誇示し京都御所を見下ろし朝廷を牽制するといった、政治的な背景もあったとも云われています

増上寺三門
同じ浄土宗の大本山増上寺(東京都港区芝公園四丁目)がありますが山号を「三縁山広度院増上寺」と称し徳川家とゆかりの深い寺があります。室町時代明徳2年(1393年)浄土宗第八祖、酉誉聖聰(ゆうよそうしょう)の時に真言宗から浄土宗に改宗し寺号も増上寺と改めた。中世以降徳川家の菩提寺になる前、天正18年徳川家康が江戸入府の際たまたま通りかかった寺の住職(源誉上人)との対面が菩提寺になるきっかけだったと云われています。     (江戸城の裏鬼門との説も)

増上寺大殿本堂
徳川家威光のもとに権勢を誇った増上寺でしたが明治維新後神道国教化政策の下、半官半民の大教院神殿がおかれ参道には通常神社に建てられる鳥居が置かれたことも。また排仏主義者によって放火されたり徳川幕府の崩壊により神仏分離の影響によってその規模は大きく縮小された。また太平洋戦争の空襲によって徳川家霊廟や歌川広重の名所江戸百景にある五重の塔などが焼失し大きな被害を受けたのはご存知の通りです。(東京タワーはその代りではない)

三門とは 元来は門の形式で中央の大きな門と左右の小さな門との三つの門を連ねて一門としたものです。仏教寺院に用いられた結果、お寺の仏殿前の門を形式に関わらず三門と呼びます。三解脱門とも云われ、三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)を解脱する門と云う意味だそうです。山門という呼ばれ方もありますが古い時代には山林の中に建てられていたので山門と呼ばれていたものです。また三門には一般の人が仏門に入ることを拒まない仏の慈悲心を表わすもので扉を設けないものであったそうです。

 令和3年 師走        八 大














嵯峨野路その8

 南禅寺と琵琶湖疎水

南禅寺三門
南禅寺の正式名称は太平興国南禅寺と号し臨済宗南禅寺派の大本山のお寺で、開山は大明国師で開基は亀山法皇である。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で日本の禅寺の中で最も高い格式を持つ。南禅寺建立以前にこの地に亀山天皇が離宮として「禅林寺殿」を建立しそれから持仏堂を立て南禅院と名付けたのが始まりでその後に南禅寺と云う寺号に改めたのが正安年間(1299年~1302年)のことである。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが足利義満が1385年に自分が建立した相国寺を五山の第一とするため南禅寺を別格として五山の上に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭寺院(たっちゅうじいん)を60カ寺を要する大寺院となったため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなった。その後2度目の火災の後に応仁の乱が勃発、市街戦も広がり後の復興には多くの時間が掛かったが徳川家康の側近として「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が臨済宗寺院を統括する役職を務め復興に努めた。
疎水トンネル

琵琶湖の水を京都へ引くことは、昔から京都の人々の願いでした。長いトンネルや正確な図面を作る技術はありませんでした。そんな中その計画を実現させたのは第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。幕末の戦災と明治維新による東京遷都により衰退した京都の復興には「琵琶湖疎水」を建設することだ。

無鄰菴

当初の目的は田畑の灌漑、精米水車、運輸、防火、水道・・等が予定されていたが途中から水力発電が加えられ困難を極めた長期に渡る難工事でした。そんな中工事の途中でも古都の景観を破壊するとして反対の声も上がって南禅寺の三門に見物人が殺到する騒ぎもあった。また明治維新直後には上地(あげち)(民間から政府に召し上げられた土地)に遭い寺領の多くを失った為廃絶に追い込まれた塔頭寺院も少なくなかった。

對龍山荘
蹴上浄水場の完成を持って京都市の水道事業が明治45年に誕生しました。豊富な水は多様な用途と新たな価値を生み出しました。その一つが大きな庭園への引水でした。山県有朋公の別荘、無鄰菴を皮切りに南禅寺周辺には清流亭、碧雲荘などの広大な別荘ができ、疎水の水が流れる回遊式庭園が造られ貴重な空間を見せている。その多くに精魂込めて作られたのが庭園造りの名人「植治」こと小川治兵衛の存在を忘れることは出来ません。

南禅寺から山門をでて
天授庵・金地院・料亭八千代・對龍山荘の辺りは現在でも大きな区画で疎水を引き入れた池泉回遊式庭園はほとんどそのまま形を残しております。40年程前に伺った流饗院(龍村美術館)のお庭を拝見した時には紅葉の鮮やかさにこんな空間を独り占めできたことは今でも忘れられない思い出として印象に残っています。現在は真如苑が所有されています。現在15区画のお屋敷(別荘)の庭園となっていますが拝観できる処もいくつかありますので是非とご覧になる事をお勧め致します。

 令和3年 師走        八 大












嵯峨野路その7

禅林寺(永観堂) 
禅林寺 は当初真言宗の道場として貞観5年(863年)清和天皇により禅林寺の寺号を賜り浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺である。その後中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師の時に阿弥陀仏の熱心な信者になり念仏の寺として浄土宗のお寺に変わった。阿弥陀仏像を安置し病人救済や慈善事業なども行った。この永観律師が住したことにより永観堂と呼ばれるようになった。紅葉の名所としても知られ「秋はもみじの永観堂」と云われて今賑わいを見せております。

永観堂の本尊阿弥陀如来立像は顔を左に曲げた特異な姿「見返り阿弥陀」とも云われている。何故そんな姿かと云うと当時50歳の永観が日課の念仏を唱えていたところに阿弥陀如来が須弥壇から降りてきて一緒に念仏を始めたといいます。びっくりした永観が歩みを止めていると阿弥陀如来が振り返って一言「永観、遅し」と言ったという。それ以来阿弥陀如来の首の向きが元に戻らずそのままの姿にあると云われている。

晶子の歌碑
左を振り返った阿弥陀如来の姿は「思いやり深く周囲を見つめる姿」「愛や情けを掛ける姿勢」「遅れた者たちを待つ姿勢」といった解釈がされているようですが、実際に「見返り阿弥陀」を間近かに見ると、そのささやきが聞こえてきそうでな感じを覚えます。

この時期の紅葉は何処へ行っても赤のグラデーションで美しい、この一枚も圧巻です。背後に映った多宝塔に別れを告げ急斜面のもみじのトンネルをくぐり抜けると足元に与謝野晶子の歌碑を見つけた。「みだれ髪」の中にある一節ですが、与謝野晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われてこの永観堂の紅葉を愛でていた、その心の中の思いは・・・  

『秋を三人椎の実なげし鯉やいずこ 池の朝かぜ手と手つめたき』 詠みながら南禅寺へ

 令和3年 師走         八 大















嵯峨野路その6

今日も金閣寺は輝いていますネ・・・』と云っていた初老のご夫婦がおられた。

金閣寺
金閣寺の正式名称は北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)と云い臨済宗相国寺派の塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から金閣寺として知られています。寺の名前は室町幕府3代将軍、足利義満の法号である鹿苑院殿から名付けられました。その歴史を紐解くと600年以上も昔に遡ります。京都の北山にある西園寺家(さいおんじ)の邸宅と庭園を譲り受けた足利義満は1397年に山荘である北山殿(きたやまどの)の造営に着手し翌年に舎利殿が完成し51歳でこの世を去るまで住処としていました。

鏡湖池
金閣の目の前に広がる「鏡湖池(きょうこち)」は大小の島々との背景が美しく水面に金閣が反射し鏡の中に足を踏み入れた気分を味わえます。鹿苑寺庭園として特別名称指定地となっており池泉回遊式庭園の代表的なお庭とされています。

金閣寺は建立されて以来、さまざまな時代の流れの影響や災難を受けていますが1467年の応仁の乱では多くの建物が焼失しましたが、奇跡的に金閣などいくつかの建物は消失は免れました。第二次世界大戦終了後いよいよ戦後の復興の動きが見えたころ金閣寺放火事件がありました。

「金閣寺放火事件」金閣寺が燃えちゃった・・と小学2年生の時に祖父から聞かされたことがあった。それはお寺の坊さんが金閣寺に放火して丸焼けになっちゃったよ、残念としか言いようがないよと独り言のようにつぶやいていたことを覚えています。

昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の学僧によって放火炎上し焼失しました。その学僧は寺の裏山で自殺を図ったが一命は取り留めた、その動機は「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。しかし母親は警察の事情事情聴取のために京都に呼ばれその帰り道に保津峡で投身自殺をして命を絶ったそうです。

この事件から6年後になって三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求していく事になったと云われています。その時に出版されたベストセラー作品が小説「金閣寺」であります

その当時の住職は、いち早く再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が自ら進んで浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復がなされ焼失前より創建時の姿に近くなったと言われています。1944年には世界文化遺産に登録され海外からの観光客の人気も高く世界的な観光名所となっています。

 令和3年 霜月          八 大 




















嵯峨野路その5

「きぬかけの道」                                 
仁和寺を出て龍安寺に向かって歩いて行くと「きぬかけの道」の標識が出てきた、衣笠山の裾野ではあるけれど きれいな名前だ思った。裾野を見上げると色づいたモミジが彩りを添えて散歩をするには楽しいところですね。以前は観光道路と呼ばれていた気がする。後日調べてみるとなんと平成3年(1997年)に愛称を公募して命名されていたことを知りました。

道の途中・天授庵
宇多天皇が真夏に雪見をするために衣笠山に絹を掛けたと伝えられる故事にちなみ「きぬかけの道」と名前を付けられたと云います。地図を広げてみると周辺には多くの社寺が数多く点在しており平安から鎌倉、室町時代にかけて隆盛を誇った皇族貴族の歴史を今に伝える観光地域になっています。

歴史と伝統を誇る古都の道路名などは簡単に変えられるものではないと思いましたが、道路の愛称が30年前に変えられた事があったとは不思議に思えた。よく考えて見るとこれは京都の先取性にあるのではと思われます。角倉了以を始め京セラ、島津製作所、ワコール、日本電産等々の創業者達は古い土地柄に合っても新しいものを取り込んで行く姿勢は素晴らしいものですね。これぞ温故知新の心だと思います。

「龍安寺」                                    坂道を上がっていくと左手に池を望み方丈が見えて来る。明応8年(1499年)の造営と云われますが白砂の上に15個の石が配置された枯山水庭園で、虎が子供を連れているように見えることから虎の子渡しの庭とも云われます。一般的には虎の子渡しの庭あるいは、七五三の庭と云われている。春夏秋冬いつ来てみてもこの庭は変わっていないのに受ける自分の感じ方は違っていることが多い、正面に見える油土塀の落ち着きに自分が惑わされてしまうのかもしれない。

寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配されており、75坪程の枯山水庭園は虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも云われている。平成6年(1996年)に世界文化遺産に登録された

この石庭の作庭意図には”禅の精神”心の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく今だ謎のままである。けれどもこの謎こそがこの庭の解釈をめぐり人々を引き付けてやまない理由と思います。

昔の話になってしまいますが昭和50年にイギリスのエリザベス女王が日本を訪れた際、石庭を見学されました。当時の新聞には女王が絶賛したことが書かれており、海外のマスコミでも報道され石庭の名前は瞬く間に世界に広がったと云われます。現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となっています。


 令和3年 霜月         八 大

⦿ 拝観停止の話 石庭・油土塀の屋根の杮葺替え工事の為                          令和3年12月6日~翌年3月18日まで拝観を停止するそうです












嵯峨野路その4

 仁和寺の歴史 

五重の塔
仁和寺は創建から1100年を超える、京都を代表する名跡で真言宗御室派の総本山です。国宝の金堂や阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像の他多くの文化財を有し境内の一部も国の史跡に指定されています。また中門一帯に植えられた「御室桜」は背が低い事で知られて、当時の姿を今に伝える名勝地として数多くの歌人や俳人にも詠まれています。「私しゃお多福御室のサクラ 背は低くとも花は咲く」

寺の歴史は仁和2年に「西山御願寺」として建立を発願されましたが、先帝が崩御されたため第59代宇多天皇が遺志を継がれ仁和4年(888年)に完成したもので、寺号も元号から仁和寺となりました。それ以降皇室の出身者が代々の住職(門跡)を務めた為、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保持しました。

しかし応仁元年(1467年)からに始まった「応仁の乱」で一山のほとんどを兵火で焼失しましたが、阿弥陀三尊や多くの宝物などは近くの塔頭寺院の真光院に移されていた為に法灯と共に今に伝えられております。応仁の乱から160年後、寛永11年(1634年)徳川3代将軍家光によって仁和寺の再興が承諾され正保3年(1646年)再建が完了し創建当時の姿に戻ることが出来ました。

御殿と庭園
慶応3年(1867年)第30世純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史が終わりました。昭和の時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994年)古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録されて新たな歴史を刻んでいます。 ⦿ 還俗 (げんぞく)とは 僧が僧籍を離れて、俗人になること。

仁和の教え 「 は慈しみ、思いやり  は和やか、平和の和 」 

仏教詩人「坂村真民」さんが言った言葉に「人間は年を取って体の機能や動きは衰えますが気持ちや心まで落ち込ませてはいけません。老いることをあきらめるのではなく「念ずれば花開く」という言葉を胸に私達は、幾つになっても常に前向きにしっかりと生きることを忘れないで下さい・・と。」単なる長生きでは意味がない、本当の長生き=名が生きを目指して豊かな人生を送りたいものです。 


 令和3年  霜月         八 大 









嵯峨野路その3

百人一首の話(藤原定家と蓮生)

 祇王寺から清凉寺釈迦堂に向かう道を歩くと、道端の看板に目が留まった。「中院山荘跡」とありよく見ると「新古今和歌集」などの選者の一人であり「小倉百人一首」を編纂した藤原定家がここの小倉山の麓で作歌活動をしていたところであり、思わず目を閉じて想像を膨らませてしまいました。

「小倉百人一首」は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した藤原定家の息子の妻が、下野の国の城主だった宇都宮頼綱(法名・蓮生)の懇望によって作られたものである。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び年代順に色紙にまとめたもので、当時は小倉色紙などと呼ばれたていたが後になって定家が中院山荘(小倉山荘)で編纂されたことから「小倉百人一首」という通称に定着したそうです。

当時は神社・仏閣・貴族の邸宅などの襖や障子に色紙を貼ることが行われており、特に定家のような当代一の大歌人であり選者の書いた色紙ならば別邸の誉れとなると蓮生は思い、襖の色紙を定家に懇望しました。高齢の定家は中風を患いながらもこれを承諾し古来からの歌、各一首を天智天皇より順徳院までの秀歌百首を選んでいます。和歌を愛した蓮生の懇望がなかったら「百人一首」の誕生はなかったのではとも思います。

私の古くからの同級生が宇都宮市周辺に住んでおりますが、その仲間が故郷の街興しのテーマを考えたところ下野の国の五代目城主‣宇都宮頼綱公と「小倉百人一首」に繋がったという事でした。歌留多での街興しは毎年順調にすそ野が広がり、令和元年には第25回を数え参加者が700人を超え会場の体育館が満員だったそうです。

 私の推薦三句

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」持統天皇

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」藤原定家


 令和3年  霜月        八 大




 
















嵯峨野路 その2

                                                                                  

北野天満宮
 北野天満宮  通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、楼門と拝殿の間に建つ中門は三光門と呼ばれ壮麗な造りと上部に掲げられた後西天皇宸筆の『天満宮』の勅額は神社のシンボル的な建築である。三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として神社の七不思議に数えられている。 社殿と同じく桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。


おかめ像

千本釈迦堂
千本釈迦堂 12月の風物詩である大根炊きで知られる大報恩寺ですが本尊の釈迦如来坐像があります。文永年間(1270年頃)「徒然草」に「千本の釈迦念仏如輪上人これを始められけり」と書かれていたので通称でそう呼ばれています。徒然草228段には文永の頃「千本の釈迦念仏は如輪上人これを始められけり」と当寺に記されています。またこの本堂は応仁の乱にも焼けることなく創建当時の物で洛中では最古の現存構造物で国宝になっています。その他にも本堂の建立に関して大工の妻「おかめ」さんに関する厄除け信仰の伝説が伝えられている。


平野神社
平野神社 平安京の北方の平野の地に鎮座する神社で、桓武天皇の生母、高野新笠の祖神として平城京に祀られていた渡来系の神様であったが平安京遷都にに伴って大内裏に移し祀られたことに始まる。延喜式に記されている古くからの神社で平安時代には例祭 (平野祭)において皇太子自らにより奉幣が行われていました。多くの降下氏族から氏族として歴史的に崇敬された神社でありました。ご祭神は「今木神」「久度神」「古開神」「比売神」の四神で源氏‣平氏・高階氏・大江氏の他、中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており「八姓の祖神」と称されたと云います。


わら天神
わら天神宮 地元京都人が親しみを込めて「わら天神」と呼ばれておりますが正式には「敷地神社(しきちじんじゃ)」です。その名が有名過ぎて本当の名称を知る京都人は多くないと云われています。                    古くから安産にご利益あるとされており、戌の日の安産祈願には参拝客が大勢だそうです。主祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」で一夜にして懐妊し次々と3人の子を出産したという逸話から全国に広がったと云われています。安産のお守りとして藁が授与されることからその通称があり、藁に節があれば男児、節がなければ女児が誕生すると言われている。

次回に続く


 令和3年 霜月         八 大