突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!
この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。 心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。
令和5年 皐月 八 大
傘
他の
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| <山本や> |
東京隅田川に架かる言問橋・櫻橋の傍に長命寺桜餅の<山本や>があります。随分昔の話になってしまいますが何とも言えない桜葉の香りが忘れられません。辛党だったのに甘党でも行けるんですかと云われても・・・何でそんなことを言いなさるのか?物によっては両党づかいと云う事もあります。何とも贅沢に桜の葉を三枚も使った桜餅です薄皮に、こし餡と塩味のある葉が合わさり何とも上品で美味しい。
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| 長命寺の桜餅 |
桜餅の由来 江戸時代、長命寺の門番だった新六と云う人が隅田川沿いの桜から落ちる葉を惜しんで、何かに活用できない物かと考えていました。そこで葉っぱを塩漬けお餅を包んで売ったところ、それが人気を得て「桜餅」の発症になったそうですよ。
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| 関西の道明寺 |
令和4年 弥生 八 大
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| 牡丹餅(ぼたもち) |
この風習はインドや中国には存在せず、日本独自の習俗が仏教と結び付いて生まれた考えられています。一説には聖徳太子の頃に始まり、平安時代から江戸時代にかけて習慣化、年中行事化したといわれていますが、起源については定かではありません。
また、彼岸会の期間中に行う「六波羅蜜行」(6つの実践修行)という仏教の修業のことであります。経典ですので言葉が難しそうで、入って行けそうに思えませんが内容は基本的な修行を分かりやすく説明してあります。仏教の基本を示しておりますので下段に示します。
「布施」 人の為に見返りを求めず良いことをしたり施しをする 「持戒」 自ら戒めながら規律を守り規則正しい生活を送る 「忍辱」 如何なる屈辱を耐え忍び寛容な心を持つ 「精進」 怠けの心に打ち勝ち目標に向かって前進する 「禅譲」 心の乱れと動揺を鎮め、静かな心で審理を思惟する 「知恵」 正しい行をする為に仏の正しい知識を身に付ける
6つの修行からなる行の事です。彼岸会の期間中、中日はご先祖様に感謝し、残りの6日間はそれらの修行を一日一つを行う事で、仏の悟りの境地である彼岸に近づくことが出来るとされています。
西国三十三所第17番札所に六波羅蜜寺という真言宗のお寺がありますが、空也上人のお寺があります。そうです口から6体の阿弥陀像が空也上人の小像が吐き出されています。その阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し念仏を唱えるさまを視覚的に表現しております。 6体の小像は針金で繋がっています。
令和4年 弥生 八 大
一汁三菜はもともと室町時代に確立したと云われ、江戸時代に発展した本膳料理の基本となるもので、ご飯に汁物、なます、煮物、焼き物が付きそこに香の物が添えられるのが通常で、ご飯と香の物は数えないことから、一汁三菜となるそうです。かつて和食は一人ひとり独立した膳で食べるのが一般的で、家庭で食べる日々の食事のことを一汁三菜と呼んでいたとされています。
一方、食文化の頂点に立つおもてなし料理は、室町時代に武家社会で確立した「本膳料理」(一の膳、二の膳、三の膳と順番に膳に載せた料理が出される方法は、小さな膳(銘銘膳)に載せる料理の数に限界があるため、膳の数を増やしたと考えられます。江戸時代には「二の膳つき」(二汁五菜)が定着し食べ切れない料理は持ち帰ったそうです。
令和4年 弥生 八 大
「人生は一度きりではない」、一度きりだと思うとどんな生き方をしてもいいけれど「因果応報」と云う言葉があります。死後の世界で肉体は生命体の乗り舟である、人間の死とは生命体と肉体との別離であって生きているうちは生命体が肉体を支配しているが、老朽した肉体からは生命体が離れていく、だからこの世に執着心を残さないように生きることを強調しているように思います。
また「死後の世界には何段かのランクがあるらしく生きている間に人の為に、社会の為に尽くした人は高い位置にあり人を苦しめ社会に悪をまき散らしは人は、暗いじめじめした最下位に永くいることになる。人生が生きているときだけのものであるなら自分さえよければ、の一生も結構であろうが、その反作用は自分の死後の世界と次世代に生まれ変わって出て来た時の人生にも影響することを深く考えて見なければならない。」と書いておられる。
これらの事から、自分の本体は生命体であって肉体ではないこと、この世での肉体は一度きりであっても、生命体は未来永劫に続く、そして周りに幸せを与えて生きることの大切さを説いています。そんな時に「道標」になるのが「政山和三さん」の生き方であります。
1 コツコツと学ぶ (基礎的な学問をしっかりと身に付ける) 2 お金や物に執着しない (私的な目先の欲望を捨てる) 3 自分の事より周りを考える(陰徳を積む) 4 神の声を聴く (インスピレーションを受ける)
今の人生は、今世だけの修業の場であり魂は輪廻します。今だけが良ければという思いは来世に必ず影響します。苦しいときこそ、修業をさせられていると感謝して心得るべし!どのようなことが起きてもすべてに感謝して、人のためになること、役に立つことに目を向けて努力することです。それが今の自分に人間として必要なことと思います。
令和4年 弥生 八 大
ウクライナ紛争に思う
ロシアのプーチン大統領は用意周到に準備した上で、ウクライナのゼレンスキー政権に威嚇を示していたが対応しないと見るや、全世界中が見ている前で冷酷にも軍隊を使って強硬手段に出たのです。2014年にクリミヤの併合に成功したことがあったので今回も簡単に成功することが出来ると思っていたのではないかと思う?。ウクライナ人とロシア人は本来一つの民族で単なる隣国ではなく、歴史・文化・精神世界で切り離せないロシアの一部だと強調していました。
ウクライナには紀元前3万2千年から人が住んでおり、中世には東スラブ民族文化の中心地であり、「キエフ大公国」という強力な国家がウクライナのアイデンティティの基礎を形成していた。しかし、13世紀以降、モンゴル帝国の侵攻により領土が破壊され、オスマン帝国を始め近隣諸国から支配され分割されてきた歴史「モンゴルのくびき」がありました。18世紀には最終的にポーランドとロシア帝国の間で分割され、第2次世界大戦後ウクライナ西部はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に合併され国全体がソビエト連邦の一部になった。その後でソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナは独立を果たしたという事です。
今日のテレビを見とぃると2回目の停戦協議に入るように伝えておりますがどちらも歩み寄りには入っておりません。女性や子供たちはポーランドへ列車や車、徒歩で脱出しているようですが男たちの多くは国に残って立ち向かっているようです。民間人には被害を及ぼさないように対応するとロシア側は言っていますが相手が冷酷な民族ですどこまで通じるのか疑問が残ります。
私達の父親・祖父の世代の先輩たちは大東亜戦争に敗北した結果、悲惨な目に遭いましたが、戦争終了後もシベリアの極寒の地に抑留・強制労働を余儀なくされ日本の地を踏むことが出来なかった人が70,000人がいたことは皆さんご承知の通りです。昔話になりますがロシア人の事を「ロスケ(露助)」と卑下して呼んで嫌っていました。 (シベリアの抑留者575,000人、死者は55,000人 不明者15,000人です。厚労省調べ)
現段階では一般市民の死者が400人規模で出ているようですがこれ以上増えないことを望みます。核爆弾の用意も窺わせているようで地球規模の問題でもあります。世界の警察官と思って頼りにしていたアメリカ国は何処へ行ってしまったのか、これは日本国としても考え直す時に来ているのではないかと思います。一方で同盟国でもないウクライナへの武力支援することになると全面的な戦争になり兼ねないので思案中であると考えます。このロシアの暴挙に対して傍観しているだけではなく一刻も早く国連をはじめ世界各国の皆さんが行動に移してウクライナに支援の手を差し伸べるべき時ではないでしょうか。 ウクライナ頑張れ!
令和4年 弥生 八 大
そこらへんの草
最近「食べられる草」と云う本が出版され人気を呼んでいるそうですが、私が知っているだけでも「三つ葉、ヨモギ、タンポポ、オオバコ、野蒜、カラスノエンドウ、ハコベ、ユキノシタ、ナズナ、からし菜・・・など」子供の頃には川の縁や土手道には多く見られましたね。野草と云うと上品に聞こえますが雑草と云われる草でも子供の頃食べていましたね。今ではスーパーで売っているもの以外は食べようとはしない、時代は変わりましたね。
「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」という、人気漫画「翔んで埼玉」に登場したこともあった為「そこらへんの草天丼」を、春日部市内のスーパーが商品化したそうです。「ご当地グルメにしたい」と庄和地区の人達の発想がが当たり一時は連日完売の人気を発したことが評判になりましたね。埼玉を痛烈にこき下ろした作品だったがそのユニークな発想が大当たりし、連日完売するほどの人気だったという事でした。
令和4年 如月 八 大
「早春賦」
春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯歌は歌えど
時にあらずと 声も立てず 時にあらずと声も立てず
大正の初期に長野県安曇野を訪れた作詞家の吉丸一昌が穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて、この早春賦の詩を書き上げたとされています。日本の唱歌で長く愛されてきた名曲の一つです。「春は名のみ」と暦の上で”春”になったばかりの季節を歌うこの曲の一番はとても有名ですが三番の歌詞までご存知の方は少ないのではないかなと思います。
春と聞かねば 知らでありしを 聴けばせかるる
胸のおもいを いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
春だと聞かなかったら気付かなかったけれど聞いてしまったからには心がはやる。このそわそわして落ち着かないこの気持ちをどうしたらいいのか・・・。春を待つこの季節の微妙な心理を見事に表現したこの三番の歌詞から「早春賦」の魅力を再発見したのです。春爛漫の季節も確かにいいのですが「春の訪れ」をひとつひとつ感じられる早春ならではの楽しみを見つけてみては如何ですか。
令和4年 如月 八 大
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| ヴェスピオ山 |
西暦79年イタリアのナポリ近郊のヴェスピオ山で大規模な噴火が発生しローマ帝国の都市ポンペイが火山の噴出物に飲み込まれました。その後にも大規模の噴火が度々起こったことが記録から分かっております危険な山であることで手が付けられていませんでした。ようやく埋没してしまったポンペイの発掘は18世紀になって始まり、現在にまでも続いております。この展覧会では、壁画、彫像、工芸品の傑作から調理器具と云った日用品に至るまでを展示されておりスマホに納めることも出来ました。
| ポンペイレッドの壁画 |
噴火時に発生した火砕流の速度は時速 100km以上で、市民は到底逃げることはできず一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げ惑う
| 石膏によって蘇った遺骨 |
「ナポリを見てから死ね!」という言葉がありますが、40年程前ぐらいだったと思いますがナポリ湾の景色を見に行った事がありました。着いてすぐにポンペイから見て廻ろうとしたものの、そのポンペイに憑りつかれてしまって時間が空転してしまった事を思い出しました。強烈なポンペイへの想いは未だに脳裏をよぎります。
令和4年 如月 八 大
| 江戸紫の鉢巻き |
「目病み女に風邪ひき男」
と云う言葉がありますが昔から目を患っている女性はその潤んだ目つきが男心をそそり、風邪を引いている男は鼻にかかった風邪声が女心をくすぐる。いかにも江戸好みの諺で当時は目病み女なら眼帯の紅布(もみ)(紅花を揉んで染めることから)、風邪引き男はには江戸紫(えどむらさき)の鉢巻きと道具立ても揃っていました。男女とも病人を挙げたのは色恋も流行りの病の一種という皮肉な見方も感じさせますね。そう言う小生も「目病み男」になり下がってしまい江戸紫の鉢巻きを着けることになってしまいました。
| 眼帯姿 |
白内障とは、水晶体が年齢とともに白く濁って視力が低下する病気です。水晶体とは、目の中でカメラのレンズのようなはたらきをする組織で、外からの光を集めてピントを合わせるはたらきを持っています。通常は透明な組織ですが、白内障では白く濁ってしまうため、集めた光がうまく眼底に届かなくなるもので、進行するにつれて、目がかすむ、ぼやけて見えにくい、ものが二重三重に見える、光がまぶしく感じるなどの症状が現れます。 晴れた日の屋外がとてもまぶしく感じたり車の対向車のライトがまぶしく感じたりします。 また、遠くが見えにくく感じるために、近視が進んだように感じる場合もあるようです。
私達は皆が高齢になればなるほど目の中の水晶体が濁ってくることによって視力が低下することは分かって来ていることですので不自由の限度に気ずいたら医者にお願いすることで無理して我慢をしないで部品の交換をする事です。私達の臓器の中にも消味期限や消費期限ががあるよう適切に対応することも大切であると思います。
ご存知、坂東の17番札所である満願寺は徳川家康が江戸城修築の時にここ野州の白土を使用し、その効果が良かったので幕府の御用以外には諸大名の使用を禁止したと云われている。それ以来,石灰の産地となったと云われております。山路の途中には山肌を真っ白に覆った石灰工場がそびえたっておりこの先にお寺さんがあるとは思えません。
そばは秋に収穫されますが、その頃になると店先に「新そば入りました」のチラシが張られていました。寒ざらしとは秋に収穫した玄そばをを冬の厳寒期に冷たい水につけ、これを寒風に晒すと余分なアクや渋みが抜けて、甘みと風味が増し舌触りがよくなります。この製法は江戸時代に徳川家にそばを献上するために考えられた手法と云われ旨さの違いが分かります。
令和3年 如月 八 大
三日後の夜なんとカーテンの陰で産卵を見ることが出来ました、でも物音が気になったのか普通の大きさの三分の一程度の大きさで何処かへ姿を隠してしまいました。何とも申し訳ない事をしてしまったと後悔をしています。
カマキリ(螳螂)は前脚が鎌状に変化し他の小動物を捕食する肉食性の昆虫で、名前の由来は鎌切とも言われて分かるように「鎌で切る」から鎌切になったとも云われます。カマキリ類では、同じ種類でも体の小さいオスが体の大きいメスに共食いされてしまう場合がある。交尾の際も共食いが行われ、オスはメスに不用意に近づくと、交尾前に食べられてしまうので、オスは慎重にメスに近づいて交尾まで持ち込む。昨年はラグビー人気がありましたが、五郎丸選手のようなポーズをとる姿が一躍有名になりました。日本では昔からそのカマキリの形を拝み虫(おがみむし)の姿と呼ばれた様です。一週間たった今でも我が家のカマキリさんは居心地がいいのか天井付近にへばり付いており、時には三角目玉をくるりと動かし天下の情勢を伺っているようです。令和2年 師走 八 大
その当時の粘土板にこんな事が書いてあるのが見つかっていたようで「ぼくを朝には早く起こしてください。遅刻できないのです。僕の先生に鞭でたたかれます」と、紀元前2,000年ごろのシュメール語の文学作品「学校時代」に出て来る話であると聞きました。
現代のタブレットも教育利用が広がり、コロナ禍がそれを加速助長させているのではないかと思っています。当時の書記の卵が見たらあまりの高機能さにはビックリするに違いない。大切なのは楔形文字を正確に書くことありましたが、学び続けることでは昔も今も変わらないのではないかと思います。
令和2年 霜月 八 大
令和2年 神無月 八 大
里芋の皮をそのまま蒸し,その皮を剥いで食べる料理を「きぬかつぎ」(衣被き)と云う。
泥だらけでお世辞にもきれいとはいえない姿の里芋ですが、その独特のねっとり感とやわらかさは、和食のメニューには欠かせない野菜です。子供の頃「おやつ」として、小腹の空いたころに食べた塩味は今でも口元に残っていましたが、何できぬかつぎと云うんだろうと思っていましたが、本当に変な名前として頭に残っていました。これは平安時代以降に登場しました女性が外出時に頭から被った布のことだそうです。その時代には婦女子が衣もしくは薄衣を頭から被るようになり、脱ぐことが簡単であることから衣被かづきになぞらえてそう呼ばれたようです。その背景として風や埃を防ぐ目的と共に、顔を人前に晒すのを恥とする意識があったとみられています。衣服には単に手で前方をつぼめるものと腰のあたりで帯を結ぶものがありました。里芋のぬめりは胃の粘膜や腸の働きを活発にし、血糖値や血中コレステロールを抑える働きがあると云われています。そのほか塩分の取りすぎを抑える効果や、足のむくみの防止にも効果があるそうです。しかも他の芋類に比べると低カロリーで女性にはお勧めの野菜であると云われています。料理の主役ではありませんが煮物には欠かせない一品すね
また里芋は親芋のまわりに子芋がついて、更に子芋のまわりに孫芋が連なるところから、子孫繁栄の縁起物とされています。そのため、里芋の煮物はおせち料理やお祝いの膳の定番となっていて重箱の中では欠かせない一品でもあります。
令和3年 長月 八 大
旧暦八月十五日の満月は中秋の名月と云われ里芋の収穫時期にあたり芋名月とも呼ばれ、農村を中心に庶民の間の間で行われていた収穫祭と結びついて豊作への感謝を込めて芋をお供えする習わしがあった。
満月の前後の呼び名は、十三夜、子望月(こもちずき)十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月、更待月と、一夜一夜の月に名前を付けるほど月が身近に、愛でたい存在としてあったのでしょう。また十五夜が雲に隠れて見えないことを無月、雨で見えないことを雨月と雲の向こうの満月を言い表しました。
昔の日本は太陰暦で、月の満ち欠けと太陽の動きを基にして作られた暦で農業中心でその暮らしに役立てておりました。旧暦の7,8,9月を秋としておりその真ん中の日の8月の15日を「中秋」と呼び、その晩に上がる月を「中秋の月」と云いました。旧暦と新暦では1か月~2か月のズレがあるため現在の中秋は9月だったり10月だったりします。
日本では十五夜の月見が盛んになったのは平安時代に貴族の人達が、空を見上げて月を眺めるのではなく、水面や盃の酒に映った月を愛でたという事が書かれております。月が美しいから感激して眺めていたんでなくて、水面に映し出されたその月を愛でていたとは何と奥ゆかしいことか言葉が出ません。
また本場、中国の中秋の名月は、中華三大節の一つ中秋節として、家族や親しい友人を招き月餅を食べ月を見るという風習があり、現在の月餅はその時期の贈答品として定着したものだそうです。
令和2年 長月 八 大
社日と云う言葉は知らない人が多くなっていると思います、前後にある祝日に埋もれてしまって、最近ではその影がますます薄くなっており昭和の時代が益々遠くなっていることを実感してます。春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃に最も近い戊(つちのえ)の日を「社日」と云います。令和2年春の社日は3月16日で秋の社日は9月22日になります。その土地の神様を祀る日とされております。
社日(しゃにち・しゃじつ)
その由来ですが春の社日の頃は種まきの頃であり、秋の社日の頃は収穫の頃にあたります。そんなことから社日は重要な節目と考えられ、春は五穀の種子を供えて豊作を祈り、秋には初穂を供えて収穫を感謝するようになりました。
社日を祝う習慣は元来中国にあり「土」と云う意味がある「戊(つちのえ)」の日に豊作を祈願するするもので「社」とは土地の産土神(生まれた土地の守護神)のことを表しています。この風習が日本に伝えられると、土地の神様を信仰する日本の風土に溶け込み、重要な農耕儀礼として全国に広がったと云われています。
社日は「土の神」を祀るので、この日は農作業など土をいじることを忌む風習が各地にみられます。信州・上田平の地を訪ねた時には「お社日様は」春は神迎え、秋には神送りとして餅をついて祝っていることが現在でも行われております。そういう昔からの風習が残っているところを訪ねると改めて日本人としての歴史や民族の誇りを感じますね。



令和2年 長月 八 大
鶺鴒(せきれい)
古利根川の人道橋付近は川幅も広くゆったりとした流れは釣り人も多く、何となく人の心も穏やかになっていくようで楽しいスポットですね。いつものように水面を眺めていると朽ちた釣り船に留まって尻尾を上下させている鶺鴒を見つけました。その細めの体と長い尾が特徴的な鶺鴒はその長い尾でちょんちょんとリズムをとるようにして、歩き回り水生植物や昆虫をあさっているようです。その長い尾を上下に振る習性から地方によっては「石たたき」「庭たたき」などとも言われています。
日本書紀には日本神話の国生みの伝承として「恋かぞえ鳥」「恋知り鳥」という異名もあるそうですが、これは神話の中にあるエピソードが由来だそうです。それは日本の国を創ったイザナギノミコトとイザナミノミコトは結婚したものの、子供の作り方が全くわかりませんでした。そこへ鶺鴒が飛んできて盛んに尾を上下に動かす動作見せると納得し二人の神は性交の仕方をすぐに覚えたのです。
神様のやることは早いです、直ぐにイザナミは大八嶋(日本列島)を産み落としたのでした。今の日本列島があるのは鶺鴒のお陰かもしれませんね。そんな伝説からか鶺鴒は結婚にゆかりの深い鳥になっており皇室での成婚時には、新床の飾りとして鶺鴒が置かれていたとも言われております。
また鶺鴒は盛岡市や喜多方市、水戸市、あきる野市、板橋市、岡崎市など全国各地の自治体で愛される鳥として指定の鳥として選ばれているようです。一般にみられているセキレイは日本ではセグロセキれレイ、ハクセキレイ、キセキレイが主であるが中国地方にいるイワミセキレイと云う種は長い尾を左右に振る習性があるそうで見られると面白いですね。
令和2年 長月 八 大