出雲大社は正式名称を「いずものおおやしろ」と言い、ご祭神は大国主の大神と云います。式内社(名神大社)で出雲国一之宮で旧社格は官幣大社、神社本庁の別表神社である。
また明治維新に伴う近代社格制度下においては唯一の「大社」を名乗る神社であった。
『日本書紀』には、国譲りの代償として、高天原の側が大国主命に対し、壮大な宮殿を造って与えた事が書いてありますが、これが出雲大社の始まりと記されている。いわゆる国譲りの神話ですが、その創建についての年代については明らかではありません。
けれども、『出雲国風土記』には杵築大社(きつきたいしゃ)が載っていまして、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築いたという伝えがありますので、少なくとも8世紀には、大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたことが伺えます。
平安時代中ごろの言い伝えでは、「雲太、和二、京三」という大きな社がありますが、その中でも出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、その次が京都御所大極殿の順でありますと。出雲大社本殿の高さは、16丈(48,48m)と云う壮大な建物であったろうと考えられます。更に遡ること上古の神代には32丈(おおよ96ḿ)であったと云う伝承があり、それを裏付ける金輪造営図の他、平成12年の調査の際3本一組の巨大な柱根(宇豆柱)が発掘され、巨大な神殿の存在が裏付けされました。これが現在と同じ8丈(24,24m)の高さに縮小されたのは、鎌倉時代の中頃からであるといわれています。現在の本殿(国宝)は延享元年(1,744)造営されたもので
あると言う。
本殿は大社造りの代表で、屋根は切妻造り、妻入りで、内部は心御柱(しんのみはしら)を中心に田の字型に仕切られ、神座は向かって右から左へ向いている。屋根にそびえる千木(ちぎ)は外削(そとそぎ)で、3本の勝男木(かつおぎ)の長さは5,4mと巨大なものであります。
出雲大社には、多くの祭礼がありますが中でも神在祭(かみありさい)は御忌祭(おいみまつり)ともいわれ、旧暦10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に参集され、会議をされるとの伝承に基づいた祭りが今でも受け継がれております。その前日の10日の夜、海の彼方から来る神々を迎えるため、稲佐(いなさ)の浜で神迎(かみむか)えの神事が行われ、神の使いである龍蛇(りゅうじゃ)を曲物(まげもの)に載せて本殿に納める。神々は境内左右にある十九社に宿り、上宮(かみのみや)において神議されるのであります。出雲大社を出発した神々は、佐太神社に移って再び会議をされることになる。従ってこの時期には全国各地におられていた神様は不在になっているのですよ・・。
出雲大社はその壮大な建物や、伝統的な神事等はやはり神話の国出雲の代表的存在であります。
令和2年 睦月 八 大
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