おわら風の盆

艶やかな女踊り
 越中富山の「おわら風の盆」は、おわら節の哀愁を帯びた胡弓の旋律に乗って坂の多い街の道筋を無言の踊り手たちで洗練された踊りが披露されます。毎年のように訪れる台風シーズン(二百十日の厄日)になりますが、静かに通り過ぎて欲しい、収穫前の稲を前にして被害を最小限に通り過ぎて欲しいと願う村人たちの祈りを込めて静かに静かに踊りは進みます。その祭りを越中八尾の村人は「おわら風の盆」と呼んで大切に守り続けてきたそうです。9月1日からの三日間は大勢の見物客が訪れ一年で一番の賑わいを見せます。

街流し
おわら風の盆の起源 は元禄時代に遡ると云われます。起源を記した明瞭な文献もなく、その正確な始まりは分かっていないが、諸説ある中で有力なのは、元禄15年(1702年)「町建御墨付」と呼ばれる加賀藩から下された町建ての文書が、米屋少兵衛から町の人々の手に戻った事を祝って街の老若男女が三味線、笛、胡弓、太鼓などを手に三日三晩踊ったのがその始まりといいます。これを端緒に孟蘭盆会(旧暦七月十五日)で踊り練りまわり、それがいつしか現在のように九月に行われるようになったと云われています。

「町建御墨付文書」とは その昔、米屋少兵衛という人物が加賀藩より「ここに町を作って良いですよ」という許可証「町建御墨付文書」を頂き、八尾に町を作りました。彼は今で言う銀行のような業わいをしており、藩への上納ができない者へ資金を貸し、後日利子をつけて返してもらっていました。しかし景気もだんだん悪くなっていき貸し倒れが増え、ついに八尾を去り水口村というところに移り住みます。その際藩からいただいた「町建御墨付文書」も持って出ました。

数十年経ち、藩は「町建御墨付文書」の返還を要求。しかし少兵衛の子孫はそれに応じませんでした。困った役人は一計を案じ、桜のころ花見だと言ってたくさんの酒や肴、芸人を伴い水口村の米屋を訪ね大宴会を開きます。宴が大盛り上がりをしている間に、こっそりと米屋の蔵から「町建て」の書類を盗み出し、持ち帰りました。無事書類が戻ったことを祝い、役人は三日間昼夜を問わず、にぎやかに歌い踊って町を練り歩いてよろしいというお触れを出しました。それがおわら風の盆の始まりだといわれています

八尾の町は坂の多い処、道筋にたくさんの灯りが燈されるれ三味線や胡弓の音が鳴り響いており、静寂の中に何となく上品な美しさがあり自分を夢のような時空に合せてくれます。この時期に何度か訪ねたましたがその思いをこのまま残して置きたいものだと思います。


「風の盆恋歌」 歌 石川さゆり       作詞 なかにし礼  作曲 三木たかし

 蚊帳の外から花を見る  咲いてはかない酔芙蓉  

          若い日の美しい  私を抱いて欲しかった  しのび逢う恋風の盆

 私あなたの腕の中  跳ねてはじけて鮎になる

          この命欲しいなら  いつでも死んで見せますわ  夜に泣いてる三味の音

 生きて添えない二人なら  旅に出ましょう幻の

          遅すぎた恋だから  命をかけてくつがえす  おわら恋唄道ずれに


小説「風の盆恋歌」のあらすじ             高橋 治 原作を借用

高橋治氏の恋愛小説で、胡弓の哀愁を帯びた響きと優雅な踊りと町の雰囲気が調和した素晴らしいものでした。この小説の主人公は、都築克亮と中出えり子と言う中年の男女です。二人は青春時代に金沢の町で共に過ごし、当時お互いに惹かれながらも、それぞれグループの中の別のパートナーと結婚し、それぞれの人生を歩んで来ました。

この2人が20数年を経て、パリで再開を果たす所からドラマが展開されます。このパリでの再開時に、やはり互いに忘れられない存在である事を強く認識します。この再会からさらに数年を経て、越中八尾の「おわら風の盆」の夜にようやく結ばれます。そして年に3日間だけ、この風の盆に合わせて逢瀬を重ねる事を約束します。

都築はこの3日間の為に八尾に民家を購入し、えり子がやって来るのを待つのです。しかし1年目も2年目もえり子は現れる事はありませんでした。それぞれに家庭や家族があり、それがえり子が簡単に八尾を訪れられない事を感じさせられます。えり子が八尾で待つ都築の所を訪れるには、勇気がいる事だったのでしょう。

そんな中で、えり子はようやく八尾を訪れ、再び都築との逢瀬に身を焦がします。そんな逢瀬での2人の心象風景も繊細に描かれています。しかしそんな逢瀬が可能な年月は長くは続きません。そして次の章では、年に3日だけの大人の恋愛を待ちわびる2人が交わす書簡が綴られます。その中に、それぞれの心象風景が精緻に描かれ、そして何とはなしに破局を予感させるのです。

そしてストーリーは大きく転換し始めます。2人は京都での逢瀬を最後に、しばらく音信普通となり、それぞれの普段の人生を送ります。そしてそんな中で都築は原因不明の病に冒されます。そしてある年の風の盆の日に、えり子の娘が突然訪れ、母は死んだと告げるのです。数日後、えり子を亡くし憔悴する都築に電話がかかって来ます。それは何とえり子からでした。娘は母親の不倫を知り、それにピリオッドを打たせるために嘘をついていたのです。電話口に出た都築は病状が悪化し、息も絶え絶えの状態で、それを感じたえり子は八尾に駆けつけますが・・・・・。

 令和4年 葉月           八 大








盆踊り

 子供の頃、一年中で何が一番楽しいかと問われると盆と正月ほど、嬉しいことはなかったと思っていました。新しい年を迎える心構えを教えられていたように思っていましたね。  お盆の頃私達が育った田舎では小学校の校庭に若い衆達が丸太たん棒を組み立ててくれた櫓を中心に舞台を作り三日間に亘って盆踊りの競演が行われ町中の皆が一体となって夜通し踊っていました。

盆踊り風景

盆踊りの起源は仏教の盂蘭盆会であると云う説が有力です。平安時代、空也上人によって始められて踊り念仏が民間習俗と習合して念仏踊りとして盂蘭盆会の行事と結びついたと云います。精霊を迎えるお盆には死者が家に帰ってくると云う考え方から先祖の供養するための行事として定着して行ったようです。

歴史的なことで考えると村社会では、娯楽と村の結束を強める役目を果たしてと思われます。そのため全国各地にご当地音頭も多く存在しオリジナルな地域的音頭も増えて行ったそうです。お盆の時期に行われますが宗教的な意味合いは薄く農村や庶民の娯楽として楽しまれていました。明治の頃には夜通し騒ぐことが不評を買って衰退した時期もありましたが、大正の中頃から農村娯楽として再び復活されていったそうです。夏休みの期間中には練習の期間も含めて夜通し行われることも多かったため治安の問題もあったそうです。

その昔、高名な民族学者の講演があった時に聞いた話ですが、盆踊りは性の解放のエネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになっていき、明治時代には風紀を乱すとして警察の取り締まりの対象となり一時は激減していたこともありました。けれども盆踊りは未婚の男女の出会いの場に留まらずに既婚者の交際の場?にもなって昭和の初め頃まで続いたと云われています。その後戦争がありまして・・・時代は大きく変わりましたね。


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蝉 の話

油蝉
 目の前の 花ザクロの木の下にセミの抜け殻を見つけた。今年の夏はこれが3個目であり油蝉(アブラゼミ)の声はジリジリジリと油で揚げるような鳴き声は暑さを増大させており暑苦しいことこの上ない。鳴く声が油を熱したときに撥ねる音に似ているために付けられたと云われるが他にも翅(はね)が油紙を連想させると云う説もあります。

油蝉の翅は羽化の際は不透明の白色をしているが時間と共に翅が乾いて行くと共に褐色になる。子供の頃、その間2時間余り飛び立つまでをじっと見続けていたことがありましたね。飛び立つときにオシッコを掛けられたこともありました。また油蝉は夜中にも泣くことがあり煩わしく思ったことがありましたね。何でだろうと考えていた時に思い浮かんだことは、七年間も土の中でその日を待ってわずか1~2週間で他界してしまう儚さではないかなと思えた。

つけ麵屋さん
春日部駅東口の旧街道通りにある美容院の隣に「蝉時雨(せみしぐれ)」と云う、つけ麵やさんがあります。15年ぐらい前に開業したと云いますが小生も興味本位で食べに行った事がありました。味は濃厚で旨いと評価できましたが塩分が強いので水で薄めて完食した覚えがあった。最近のグルメ情報誌などの評価を見ると春日部市内ではナンバーワンに輝いているそうです。その後に蝉時雨と云う名前の由来を聞き出そうと食べに行きましたが店主の顔を見ると無口の塊のような雰囲気は諦めざるを得ませんでした。蝉しぐれの言葉からは余計なことは云わないで食べなさい・・!と云われているようで今でも聞き出せてはいません。
蝉の種類は日本では30種ほどあるそうです。この近くでは「ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ、」ぐらいですが沖縄の方には変わった名前が多いそうです。そう云えば「うつせみ」という言葉もありますね。

「蝉」に纏わる気になる言葉

「セミファイナル
地面に落ちて死んでいると思っていた蝉が近ずいた途端に、急に暴れ出して動き出し驚かされた経験があると思いますが? この蝉の最後の大暴れこそが「蝉ファイナル」で別名「セミ爆弾」とも云われるそうです。またセミが人生の最期を迎える直前の状態とスポーツの準決勝、ボクシングではメインイベントの直前の試合を指す「セミファイナル」をかけたブラックジョークでもあります。

蝉の抜け殻
「空蝉(うつせみ)」とは                                うつせみ」と読むこの言葉は、読んで字のごとく「蝉の抜け殻」を表しています。しかし、単に抜け殻を示す名詞としてだけでなく、源氏物語に登場する架空の女性の通称でもあります。蝉の抜け殻の様子から、古来よりむなしいさま、はかないさまの例えとして使われてきました。形はあれども中が空っぽであることからそのように感じ取られてきたのでしょう。その語源は『現(うつ)し人』とされており、つまり、現実世界に生きる人間のことです。仏教の思想では人間の生は、とてもは悲しく空しいものだと捉えられてきました。それなので「うつしおみ」の発音が変化して「うつせみ」という言葉が、抜け殻となって空洞である「空蝉」の文字があてられたと云われます。

   

  閑さや 岩にしみ入る 蝉の声    芭蕉

         蝉しぐれ 一斉に止む 涼しさよ    八大?


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無言館

無言館
朝、テレビを見ていると「無言館」をテーマにした話が出ていました。緑豊かな信州塩田平の地に、1997年(平成7年)に開館した美術館で、館主自らが出征経験があり太平洋戦争で没した画学生の遺族を訪問して今でもその蒐集を続けていると云う。その蒐集された作品を展示し慰霊を掲げて美術館として開館したそうです。

しばらく前に訪れたことがあり緑の林の中に見るからに人を寄せ付けないような厳しい感じ受けたのが第一印象でした。こじんまりとした十字架をモチーフにした建物は人を寄せ付けない重い雰囲気を感じてしまうのは何故なんだろう。あの戦争さえなければと・・・こんな思いはなかったんだろうかと述懐してしまう。

無言館命名の由来については、展示された絵画は何も語らず「無言」であるが見る側に多くを語らせるという意味で命名したそうですが、もう一つは見る側の観客もまた展示されている絵画を見て「無言」になるという意味も含んでいると語っております。そういう見方もあるんですね。

前山寺未完の三重塔
離れがたい思いの中、戦国時代川中島の戦いの際武田信玄の本陣ともなって廃城となった塩田城を確認し、未完性の塔(回廊がない)と呼ばれる「前山寺三重塔」を訪ねた。翼を広げ見上げる程の様相は尋ねる人々を迎え入れてくれるような思いがします。それは戦国武将に支えられた信仰と建築のおりなす造形美を今に伝えてくれている。無言館を訪ねた後なので壮大な開放感が印象に残った。


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火焔型土器

火焔型土器
新潟県の十日町市にある十日町市博物館には笹山遺跡から出土した、縄文時代中期に(約5000年前)に造られたと云われる国宝の「火焔型土器」が展示されております。中学校の教科書にも載っておりますが 燃え盛る炎 をかたどったような形状の土器は縄文土器の中でも特に装飾性豊かでこれだけの美意識を持っていたのかと考えると脱帽しかありません。

縄文時代と云う名前からしてその総てが縄目の模様が出ているのかと思っていましたがこの土器には見られません。上部の4カ所に鶏の頭のような突起が付いておりますが何を表わしているのか分かりませんが全体が燃え上がる炎を思わせることから火焔型土器と呼ばれているそうです。

またその用途としては発見された場所によっては、火で焦げた部分や吹きこぼれの跡があることから煮炊きする鍋に用いられたものと考えられています。火焔型土器は実用性の他にその形状から見て祭祀的な目的に使われたのではないかと云う考え方もあると云われています。

あの有名な芸術家・岡本太郎は昭和26年に偶然、国立博物館で縄文土器を見て「なんだ、コレは!」叫んだそうです。この土器を見て内面から出て来る美に感動した岡本太郎は民俗学的な視点を越えて、大阪万博の「太陽の塔」などの作品に繋がったのではないかと云われております。

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