鹿鳴館の跡地

在りし日の鹿鳴館
先日久しぶりに仲間と日比谷界隈を歩いた。目的の一つは鹿鳴館の跡地が無くなったそうだとの話が伝わってきた。跡地が無くなるってどういうことなの・・・?

帝国ホテルの角を曲がるとある筈の小さなモニュメントの付近には工事用のバリケートが積んであり立ち入り禁止の表示が。工事の担当者らしき監督さんが居られたので話を聞いた。

去年の今頃撤去して今は片付けてしまいました‥とのこと。モニュメント(石碑)は何処に行けば見られますかと聞いたところナント処分してしまったとのこと。そんな事ってあるの?・・と聞き返すと、鹿鳴館は昭和16年に取り壊された後小さなモニュメントがホテルの横裏に残っていましたが、この辺でお役御免となったそうです、そんなもんなんですね・・?なくなると見たいものですね。

鹿鳴館の碑
 鹿鳴館は明治16年に当時の外務卿井上馨の欧化政策の一環として建設された西洋館です。 国賓や外国の外交官を接待するために外国との社交場として使用されていました。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」と云われ、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」とも呼ぶそうです。

 欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上馨が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになりましたが、1941年(昭和16年)に取り壊されたそうです。

鹿鳴の言葉の由来は、鹿は群れを成して山に棲息する習性があります。冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の中に餌を求めてさ迷い歩く日が延々と続くのです。やがて雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達する。

そんな折に、たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つけた。その瞬間に鹿は貪り付くと思いますか・・?そうではないのです。嶺に駆け上がり悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べるという。この鹿鳴きの詩は、喜びを分ちあう鹿の習性讃えた詩であるそうです。

野生の動物から学んだ教訓を言い表しているのであり飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやりのない独善的な風潮が蔓延しつつあります。こうした自己中心的な社会からは本当の幸福は生まれない。鹿鳴の声は私達に自戒を促しているようですね。

神無月             八 大











0 件のコメント:

コメントを投稿