春日祭

春日大社
奈良県の神社で多くの参拝者が訪れる春日大社は、全国に約1000社ある春日神社の総本社で1200年以上の歴史ある神社で毎年伝統の「春日祭」が行われています。春日大社は勅祭社と呼ばれ例祭である春日祭には天皇による勅使が遣わされます。勅祭社は全国に16社あり祭事の規模が大きい春日祭、加茂神社葵祭、石清水八幡宮の石清水祭の3つを日本三勅祭と呼びます。

平安時代に入り、藤原氏の隆盛と共に850年に春日祭が創始され、一族の権力拡大と共に規模は盛大な祭りとして執り行われるようになりました。しかし、藤原氏は戦国時代には没落したため春日祭も規模を縮小を余儀なくされ、江戸時代には更に簡素化されたそうです。明治時代になって天皇の意向で1885年に復活し現在に至っているそうです。、

神前の守護神
奈良県の春日大社における例祭は3月13日に於ける例祭で、春日祭(かすがまつり)とも云われており明治13年からは固定されてこの日に行われています。宮中から天皇の名代である勅使が参向して儀式を執り行い、国家の安泰と国民の安泰を祈ります。

天皇の勅使が派遣されて行う祭事を「勅祭」と呼びます、その中でも旧儀保存の観点から古式に則り行われるものを特に「三勅祭り」と呼ぶそうです。春日祭はそのうちのひとつで、残りの二つは加茂神社の加茂祭(葵祭)、石清水八                    幡宮の石清水祭です。今年も例祭の時期です。

 弥 生              八 大

 











通説とされる春日祭の創始は、嘉祥3年(850年)とされている(『一代要記』)。春日祭は藤原氏の祀りとして藤氏長者斎女またはその名代の使者の参詣、朝廷でも上卿が定められて使者が派遣され、天暦元年(947年)には興福寺が関与するようになり、永祚元年(989年)には一条天皇行幸が実現するなど、摂関政治の繁栄とともにその規模を拡大させてきた。中世後期(戦国時代)以後には衰退し、江戸時代には復興の動きが見られるが、上卿・弁の派遣の停止など簡略化された。明治4年(1871年)には祭日を2月1日とする官社祭式で行われることとなった。明治18年(1885年)に明治天皇の旧儀再興の意向を受けて翌年勅祭に列せられ、今日の形式となり、藤原氏の祭祀としての性格は喪失した。

鹿鳴館

 昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。 

鹿 鳴 館 
英国人j・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となる。館内には宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳士達を招待して連日のように園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれたそうです。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称されその外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれております。

舞 踏 会 の浮世絵
鹿鳴館と聞くと明治16年時の外務大臣、井上馨が賓客接待の社交場として日比谷に開設したものです。洋風の鹿鳴館は欧化主義の最先端をゆく鹿鳴館時代を演出したことが思い出されますね。この鹿鳴館の名は元々は中国に由来があり中国最古の詩集と云われている「詩経」の中に「鹿その食を得れば相呼びて取る」という、鹿の習性に                  ちなんだ一節があります。

詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。

この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。

 如 月            八 大






        八 大