♯♯ 菜の花畠に入り日薄れ、見わたす山の端 霞ふかし ♯ 春風そよふく空を見れば、夕月かかりて 匂いあわし。
朧月夜 |
紺色の珠は触れると忘れていたことを思い出すと云われ、唐の張悦が持っていた物。表題として借用させて頂いております。
♯♯ 菜の花畠に入り日薄れ、見わたす山の端 霞ふかし ♯ 春風そよふく空を見れば、夕月かかりて 匂いあわし。
朧月夜 |
すずめ |
下駄の香りが漂っている地面に羽をバタバタさせたスズメが、足をくじいたらしいので保護してあげました。一時的に鳥かごの中で保護して摺り餌を作って与えると仲間の雀たちがバタバタと近寄ってきて様子をうかがっているようでした。餌を運んできた姿が見られて感動を覚えました。そんな姿を見て一刻も早く外の世界に返してやらねばいけないと思い摺り餌を作って保護してあげました。
翌日には仲間の雀が籠につかまって他から餌を運んできた姿を見られた。籠の周りで口移しで餌を上げている姿を見た時には、、、一刻も早く外の世界に返してやらねばならない一心で摺り餌を作って看病をし3日後には飛び立つことが出来ました。その後も籠の周りに現れてチュンチュンと近くの枝にとまって仲間たちと戯れているように思えました。
雀と桜と蜂 |
鳥の図鑑を見るとスズメは全長約15㎝位 、体重約18~30ℊの小型の野鳥で、日本全国に生息しており人家の近くで暮らす留鳥で、さえずりや地鳴きなど鳴き声が特徴の野鳥。
留鳥(りゅうちょう)とは スズメ・ハシブトガラス・キジバト・カワセミ・ライチョウ、など一年中同一地域内に定住する鳥のことを云うそうです。
弥 生 八 大
季節の案内人 |
「山笑う」とは、春の山の草木が一斉に芽吹き始め、動物たちも動きだして華やかになった山の様子を表した言葉で, 春の山の明るい様子を表したもの。この時季、俳句の世界では春の季語として一般的に使われていますね。寒いこの時期の季節に案内人として忘れてはいけない山野草に蕗の薹(ふきのとう)を忘れてはイケません。
同じように夏の山は「山滴る(やましたたる)」青葉が瑞々しくなってくる様子、秋の山は「山装う」、冬の山は「山眠る」と云いますよね。春になり一斉の木々が芽吹いた山々を覆い、緑の力強さを得たさまが、「山笑う」と云うそうですが見事な表現力で、毎年訪れてくれる新緑の山々に感謝・感謝の連続です。
原典は中国北宋の画家、郭煕の四時山と呼ばれる次の詩よりきているそうです。「春山淡冶笑うが如く 夏山蒼翆として滴るがごとし 秋山明浄ににし装うが如く 冬山惨たんとして眠るがごとし」とあります。何か格好が良すぎて講釈師になった気分がします。
夏の季語が山滴るで、山水訓の「夏山は蒼翆にして滴るが如し」が由来で、草木の葉で覆われて緑が滴るように見える夏の山をたとえた言葉で夏の季語として使われています。
弥 生 八 大
いざ討ち入りに出陣 |
策略に落ちて罪を着せられた若殿を切腹させられた恨みを晴らすべく、家老以下四十七人が元赤穂藩士たちが、にっくき吉良上野介の屋敷に討ち入りに行く物語は、日本三大仇討物の筆頭として、私たちの心の中に刷り込まれているかのようです。
その原因となった若き赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介にいじめられた末に、堪忍袋の緒が切れて江戸城の松の廊下で一太刀浴びせたことから、罪を言い渡されます。その後のお話の続きは皆さん後存じのとおりです。
そして旧暦三月十四日、浅野内匠頭は辞世の句を残して切腹します。
風さそう 花よりもなお 我はまた
春の名残を いかにとやせん
浅野内匠頭
弥 生 八 大
春日大社 |
平安時代に入り、藤原氏の隆盛と共に850年に春日祭が創始され、一族の権力拡大と共に規模は盛大な祭りとして執り行われるようになりました。しかし、藤原氏は戦国時代には没落したため春日祭も規模を縮小を余儀なくされ、江戸時代には更に簡素化されたそうです。明治時代になって天皇の意向で1885年に復活し現在に至っているそうです。、
神前の守護神 |
天皇の勅使が派遣されて行う祭事を「勅祭」と呼びます、その中でも旧儀保存の観点から古式に則り行われるものを特に「三勅祭り」と呼ぶそうです。春日祭はそのうちのひとつで、残りの二つは加茂神社の加茂祭(葵祭)、石清水八 幡宮の石清水祭です。今年も例祭の時期です。
弥 生 八 大
昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。
鹿 鳴 館 |
舞 踏 会 の浮世絵 |
詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。
この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。
如 月 八 大
焼いも |
戦後の食糧難の時代を超えてきた私たちの時代では、こんな不味い物はないと思っていた。不味い薩摩芋の味は今でも覚えています「農林2号」とか「太白?」とか云ってビチャビチャして不味い。後で聞いたことがありましたが農家の人たちは牛や豚の餌にしていたようでした。「代用食」(ご飯の代わりに食べさせられた)なんて言って食べさせられていましたね。只々一時的に腹を膨らせるだけの食事で贅沢なんては言えないけれど母親には悪いけど残してしまった思い出があった。
今時の薩摩芋とは形は似ても非なり、デザートの上等なケーキのようなもので品種改良の成果とだけでは言い表せない美味しさ。
さつまいもは昔から食されていたと思っていましたが意外や意外、17世紀の初めに唐芋と呼ばれ中国から琉球にもたらされ、鹿児島(薩摩)へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ 広まり定着したと云います。西日本の大飢饉のときに餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込め餓死者を出さなかった事から江戸時代にには救荒作物として栽培されていたと云う。
如 月 八 大
伏見稲荷大社 |
二月の初午の日は全国各地の稲荷神社で「初午祭」が行われ五穀豊穣を祈る特別な日となりました。稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされ「おいなりさん」と親しみを持って呼ばれています。
稲荷神社の総本社である伏見稲荷神社では前日の巳の日から商売繁盛や家内安全をお祈りする参詣者でにぎわい、京洛初春第一の祭事と云われています。本来は旧暦二月の最初の午の日だったため春先の行事でしたが、新暦では寒さが一番厳しい時季のお祭りになっています。
稲荷神社と云えばキツネを思い浮かべる人が多いのではと思いますが、キツネは稲荷神の使いであって神様を守る存在です。豊作を願い稲荷神を祀る風習と稲荷神の使いであるキツネが家を守ってくれると云う考えから稲荷信仰が広がりました。稲荷神はもともと五穀豊穣の神様ですが、今では商売繁盛、家内安全、交通安全などの守護神として信仰されています。そのため、「初午祭」では、五穀豊穣だけではなく様々なご利益を祈願するために多くの人が稲荷神社を訪れています。
鬼おろし |
如 月 八 大
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花弁餅 |
花弁餅の由来は、平安時代に宮中で行われていた「歯固めの儀式」に由来する「菱葩餅(ひしはなびらもち)」です。歯の健康が長寿につながると信じられていた時代で、鏡餅や大根、押鮎、かち栗、猪肉など、固いものを食べていたそうです。
花弁餅の季節が過ぎると和菓子は梅や福寿草をかたどったもので,それぞれの和菓子屋さんが腕を競い合い店先をのぞけば季節が分るほどだったそうです。それは茶会や茶稽古が常に季節を意識して行われているのと関係していると云います。
今年もこの時期に駅前の餅菓子屋「青柳」にて買い求め、新春の色合いとその味を確かめ春の訪れを感じることが出来ました。
如 月 八 大
飛鳥大仏 |
605年(推古13年)に推古天皇が造らせ、609年に完成したものと云い、朝鮮半島では寒さ凌ぎの肌着ではないかと学者先生に問う。中国の北魏様式をうけ面長で杏仁形の目、アルカイックスマイルをたたえた唇など独特の神秘性の漂う格調高い仏像であるとの返答がありまし た。
538年(欽明7年) 仏教が百済から伝来するや、蘇我氏と物部氏の間で崇物・俳物の争いが長く続いた。飛鳥寺は、蘇我馬子がその戦勝を記念して創建した、日本最初の本格的仏教寺院で、法興寺、元興寺とも呼ばれた。588年(崇峻1年)に百済から寺工、路盤博士、瓦博士らの来朝を得て建立に着手し596年(推古4年)に完成したと伝えられる。
その後、609年(推古17年)銅・縫の丈六の仏像を造立したが、その丈六金銅仏が今の本尊の釈迦如来像と云われる。平城遷都にともない新都に元興寺を建てたあとも、本元興寺として栄えた。だが、1196年(建久7)の雷火災で伽藍を焼失してからは衰退の一途をたどる。
室町時代の記録によれば唯一残された丈六釈迦像が仮に建てられた茅葺の小屋で雨露を凌いでいたと云う。現在の本堂は江戸時代に建てられたものである。1956年から発掘調査で当初は一つの塔を3つの金堂が囲む特異な伽藍配置であったと。これは高句麗の清岩里廃寺と同形式で朝鮮半島の強い影響を示していると云う。
如 月 八 大
春 蘭 |
春蘭は何時もの様に私を迎えてくれているようで暫くぶりみんな元気でしたかと声を掛けます。身を寄せ合うようにしてひっそりと咲くその姿は絨毯を敷き詰めたように咲いてくれる。目立たないように身を寄せ合いながら存在感なく咲き始めます。
シュンランは昔から、山野でごく普通にみられていたため、生活にも取り入れられていた身近な植物です。そのため、地域によってさまざまな呼び名があるようで、よく言われているのが「ジジババ」「ホクロ」などで、花びらにある斑点が老人の顔にあるシミに見立てて名付けられたと云われていますね。
大きな蘭ではありませんが、葉の陰に隠れて 可愛らしく咲くところが魅力であります。 「花言葉は飾らない心」「控えめな美」「気品」「清純など、どちらかというと 立たない花です。そんな中で、見た目が地味な姿には「控えめな美」という花言葉 もつけられています。
睦 月 八 大
昨年の夏ごろに玉子の値段が急騰して新聞紙上で大騒ぎになりましたね。その以前の卵は物価の優等生と云われて持て囃されていましたのに何で・・と叩かれました。その原因の一つは鶏インフルエンザが大流行毎日のように何十万羽或いは百万羽が殺処分となり卵の値段が上昇し大きな社会問題になりましたね。
田舎の親戚の 玉子 |
けれども、江戸時代になって無精卵が孵化しないことが分ってくると、卵を食べることは殺生に当たらないと解釈されるようになった。そのころから身近な卵料理が多数誕生したと云われています。それと同時に身近な養鶏も盛んになり急速に各地に広まったと云われています。
鶏は採卵のために品種改良され頻繁に卵を産みますが、今では毎日ではなく数日連続で産んで一日休むと云うサイクルをとっているそうです。なお、鶏は日が長い夏場に産卵が活発化するため、冬場の養鶏場では日没後に電気をつけて夏場だと錯覚させて産卵を安定させているとのこと。そんな裏話は知りませんでした。
睦 月 八 大
川の中の「ちんころたんころ」 |
ちんころたんころ |
それから六十有余年あの頃の記憶は不思議なことに明確に残っています。何故なぜなんだろう・・・? 今、記憶を手繰り寄せてみると辿り着くことが出来た。それは流れる川の冷たさでしたね。長靴を履き慎重に足元を確認しながら「ちんころたんころ」の枝を手繰り寄せて持ち帰った。
お隣さんに3本を届け、我が家の仏様にも3本を供える・・「春はそこまで来てるよ」と 母からの一言あり!
睦 月 八 大
懸魚(梅鉢) |
懸魚は取り付ける位置によって呼び方が変わります。中央にあるものを拝懸魚(おがみげぎょ)左右の下側にあるもの下側懸魚(くだりげぎょ)と呼びます。その他に唐破風につけられる兎の毛通(うのけとうし)と呼んでいます。
機能的には、屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということ、木造建築の場合には棟木や桁の端部を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味からも、建物を火災から守るために火伏の呪いとして取り付けられたということです。
猪の目懸魚 |
その機能としては屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということと木造建築の場合には棟木や桁の端を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味から、建物を火災から守るために「火伏の呪い」の意味が込められていると云います。
睦 月 八 大
年末の「上野アメヤ横丁」は毎年のことながら大混雑である。終戦後の闇市の名残りで終戦直後には東京も新橋、新宿、上野と三大闇市場が建ち、その他も渋谷、池袋と国電沿線の各処に闇市がありました。世の中が平静になるに伴い淘汰されて、東京上野のアメや横丁、大阪の鶴橋市場などに面影が残っている程度になりました。
先ごろアメ横を探訪して見てきましたが昔のような穴場ではなく、二、三級品の雑然とした雑貨物を売る店になっています。ただ、アメ横と云う人気だけで商いをしているだけに見える上野の闇市は、田舎から運んできた米、麦,芋などの物々交換の「路上市場」が国電のガード下に群がっていたのが始まりと云われています。
アメ横入り口 |
JR上野駅の不忍口(しのばずぐち)を出ると、交差点の向こうに「アメヤ横丁」という看板が見えます。ここから御徒町駅まで線路沿いに続いているのが「上野アメ横」。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。アメ横のエリアには400軒もの店があると云う。
『アメ横』は元々は”アメヤ横丁”と呼ばれていました。戦後の闇市があった場所で飴を売る店がたくさんあったことが名前の由来となっています。昭和25年以降になると、朝鮮戦争の勃発の影響もあって駐留米軍などからアメリカ物資がマーケットに大量に流れ込んできたと云う。アメリカ屋(実際にある)等のジーンズや革ジャンなどの舶来品を販売する店が多いからと思っていた方も多いと思いますが、その歴史は大変に古いんですね。
睦 月 八 大
生姜の話 「生姜科・多年草植物」
生 姜 |
中国では、紀元前から栽培され、香辛料、薬として重用されてきた。漢方の生薬のひとつで、生薑【ショウキョウ】と読む。生姜はそれを略したものだそうだ。渡来時期は定かでないが、和名を【くれのはじかみ】といい、平安時代の「延喜式」に、その栽培方法、保存法も記されているそうです。
江戸初期の本草書「本朝食鑑」には、(近ごろ新しい根を生梅とシソの葉を一緒に塩づけにして年を経たり、あるいは味噌漬け・粕漬・蜜漬けにしたりする。また老薑は、日に乾かして貯蔵しておき、薬として服する。旅の具としている)とある。江戸時代の人たちは、梅干に漬けて日々愛用し、乾生姜をもって旅をしたというのだ。
青森県下北半島の地で熊に出会ったことがありました。それは下北原発(しもきたげんぱつ)の真向かいにある山裾をノロノロと走っているときに、藪の中から何と熊が出てきた。よく見ると体長が50㎝ほどの子供の熊でヨチヨチ歩く程度で歩き出しました。仲間の一人が、早く逃げろ!と声をかけてくれたのを合図に速度を上げると、親熊が現れジッと睨みつけていました。小熊がいる時の熊は特に注意が必要だと云われました。
日本に生息する熊が今年は何かと話題になりましたね。民家の物置に入って3日間も捕獲できず住民の人は新聞沙汰になり大騒ぎでした。北海道では「ヒグマ」本州などでは「ツキノワグマ」がよく知られております。雑食性で動物の肉や果実、木の実などを食べ、寿命は二十年から三十年ぐらいと云われております。
古来より漢方薬として熊の胆のうを原料にした「熊胆(ゆうたん)」が強壮剤や解熱剤として、熊の手のひらが高級食材として、熊の掌が珍重されてきました。また昔話の「金太郎に登場したり」、年老いた熊は鬼熊に変化すると云う言い伝えがあったりと、日本人になじみの深い動物として知られています。
熊 |
師 走 八 大
恋に溺れるのが18歳、風呂に溺れるのが81歳。
道路を爆走するのが18歳、逆走するのが81歳。
心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳。
ドキドキが止まらないのが18歳、動機が止まらないのが81歳。
恋で胸詰まらせるのが81歳、偏差値が気になるの18歳。
血圧・血糖値が気になるのが81歳、まだ何も知らないのが18歳。
まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていない18歳。
自分を探している81歳、皆が自分を探している18歳。
笑っていられない自分も此処におります。
師 走 八 大
古利根川の一本桐 |
俳句で「桐の花」は初夏であり桐一葉は秋であります。それ以来だと思われますが「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」一葉とか、一葉落つと云っても桐の事だとわかります。それなのに季語から外れた桐が何故12月なのか不思議に思っていました。
それを見つけました。言語学者の金田一春彦先生の話によると、これは天承カルタに由来すると云う。このカルタはではⅠの札をピンと云った。サイコロの目と同じ名で、第一、はじめの事であり、そして10をキリと呼んだ。キリは「クルス(十字架)」なまりで、或いは「切り」の意と云われる。
始めから終わりまで、最上等から良くないものまでを指す「ピンからキリまで」はここから出たと云う。その語源はポルトガル語で 「ピン」は1,「キリ」は10の意味から転じて優劣を表す使い方に 「ピン」はポルトガル語のpinta (点)の意から、「キリ」は、ポルトガル語の cruz(クルス「十字架・十字形」の意)からだと言われています。 日本語ではなかったのですね。
師 走 八 大
季節が寒くなってきたこの頃、スーパーの店先には鍋料理には欠かすことが出来ない冬野菜の白菜です。今年も大きな白菜が並ぶ季節になってきました。「鍋の季節」がやってきましたね。スーパーの店先に大きな白菜が店先の目立つところに並んできましたが
白菜 食物繊維やミネラルが豊富で鍋料理以外にも浅漬けやキムチにも利用されていますね。日本では漬物以外ではあまり生で食することはありませんが、アメリカやヨーロッパなどではサラダとしてそのまま利用されているそうです。生のままではそれなりの量があっても、鍋で煮込んでしまうと量も少なくなりますし、カロリーも低いので野菜をたくさん食べたい人やダイエットしたい人にはうってつけの野菜と云います。
白菜の原産地は中国だそうです。江戸時代前には日本にも伝わっていたと云いますが、野菜として普及するようになったのは昭和時代になってからと云われています。以外にも最近の事と云われていますが・・・そうなんですかね?
キムチ |
師走 八 大
小春日和は初冬の季語、晩秋から初冬にかけての、冬に暖かい日が続くと草木が時ならぬ花を咲かせることがよくあります。そんな小春日和が続くと、草木も「春が来た来た!」と勘違いして、花を咲かせることがありますね。これを「帰り花」あるいは「忘れ花」とも云いますよね。11月の中頃の小春日和に、梅、桜、躑躅、梨などの草木にも見られます、チョット楽しいネ。
帰り花(さくら) |
この場合はもっと小さな草花のほうがその名前には似合いそうなきがしますが、冬の薄暗い日には、何故か神々しい雰囲気を感じさせます。人が忘れたころに咲くので「二度咲」「狂い咲」とも云われていますが、これを何と言っていいのか。 「帰り花」の解釈は人によって違いがあるようです。
「うっかり季節を間違えて咲いちゃった花」と捉えるとひょうきんなようにも思えますし、「寒さが本格化する直前に数輪咲く花」とすれば儚い美しさににも見えてきますが如何でしょうか。
調べてみるとビックリする事があります。 「帰り花」と云う言葉には悲しいことに、遊女が再び遊郭に勤めに出ると云う意味もあるそうです・・。
霜 月 八 大
近くの田んぼでは刈り入れが終わり、コンバインの姿は見えなくなりました。子供の頃、稲刈りの作業は農家にとっては家族総出の一大年中行事だったようで小学校が休校になったことも思い出しました。その後時間を置いて刈り取った稲の間に飛び回っているイナゴを捕まえ布袋に取り込むころが懐かしく思い起こされ・・そんな時期があったな~と今でも思い起こします。
小学校の教壇の前には「ミレーの落穂ひろい」の額があり、何か老婆達が腰を曲げて落穂を拾っている様子がありました。何をしているのかなんて考えることもなくそのまま受け入れていたように思っていました。そんな事より母親に縫ってもらった布袋に如何にしてイナゴを沢山捕まえる事だけが私にとっての仕事だったように思っていました。
ミレーの落穂ひろい |
旧約聖書の中に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」とあります。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。
収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい」。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」とある。これは近代の農村社会でも貧者の権利として一部に残っていた慣習であると云います。貧しいながら力強く生きる生命力を感じさせるミレーの巧みな技法によって評価される作品と云われます。
霜 月 八 大
小生、まだ駆け出しの頃土日と休暇を合わせて3日間程プライベートの旅に出ました。東京駅を22時発の夜行寝台列車「瀬戸号」?に飛び乗り車掌さんにお願いしてすぐに熟睡。京都到着20分前肩を叩かれ飛び起きて身支度を確認、駅改札を出てトイレ洗面を済ませ何気ない顔で八条口側にある、うどん屋で今日の予定表の再確認となる。
一人旅の気安さもあり観光案内の地図を片手に歩きだした先に「法華寺」のご本尊十一面観世音菩薩の姿でした。対面してビックリ・・なんと腕の長い仏様なのだろう・・忘れられない第一印象でした。法華寺は聖武天皇御願になる日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后の発願によって日本総国分尼寺として創建されたのが法華滅罪の寺であります。藤原不比等公の邸宅だったのを、皇后が先帝に並び老婢のおんために改めて伽藍となし給うもので以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かったい皇后の御精神を伝え、同心堅固に守られてきた女人道場「法華寺御所」であります。
法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の妃・光明皇后の発願によって始まりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子供のころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮寺に改められたのが法華寺です。正式には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺と云い、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑽を勧め、女人成仏の規範を意召されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提を祈られたのです。
法華寺石標 |
伽藍の完成は延暦元年、(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門に立つなど広大な寺地を有し東西両塔、金堂、講堂、食堂など壮大な伽藍を誇りました。
「光明皇后」は仏教を厚く信仰された慈悲深い方で社会福祉に大変貢献されました。施薬院、悲田院を開設されたことは当時としては画期的な事でありました。光明皇后は聡明なうえ、光明子と云われるくらいの光輝く美貌だったらしく夫の聖武天皇は皇族の女性以外は皇后になれないのに臣下出身の光明子を皇后に取り立てられました。民間出身の皇后の第一号でありました。しかし、臣下出身の皇后には皇族側の代表である長屋王の反対が予想され、起きましたのが有名な「長屋王の変」であります。また、娘の阿倍皇女は女性皇太子の第一号ありました。
霜 月 八 大
十一面観音菩薩
31日の米国大リーグ「ドジャース」と「ヤンキース」の決戦は大谷選手のいるドジャースが大逆転で文字通り世界一となりました。流石に大リーグの戦いであったな~と改めて実感しました。頭の中でアドレナリンやドーパミンが出動し心身ともに安定させ久しぶりに幸せな気分を感じることが出来ました。
アドレナリンは生命の危機に瀕したときに分泌されるホルモンで、心拍数や血圧を上昇させ、体のパフォーマンスを高める作用があると云われております。またドーパミンはやる気や集中力、モチベーションに関与しており、前向きな気持ちになれたり、目標に向かって頑張れたりするそうです。 デコピンちゃん
楽しいことをしているときや目標を達成したときに分泌されるホルモンです。 セロトニンと云われる神経伝達物質は、分泌されると幸せな気分を感じやすくなるため「幸せホルモン」と呼ばれています。 セロトニンは脳の興奮を抑え、心身をリラックスさせる効果があるが、不足するとイライラや不安などのストレスを感じやすくなると云います。
ドジャースの優勝パレードに参加した大谷翔平投手(30)の愛犬デコピンの写真が投稿された。デコピンは大谷選手と真美子夫人が、2階建てのバスに乗った。大谷選手がデコピンを抱きかかえてファンの声援に応えると「デコピンコール」!が発生した。デコピンはご主人に抱きかかえられ、お祭り騒ぎのファンにお披露目されパレードは続いた。
神無月 八 大
「松の事は 松に習え、竹の事は竹に習え。」 これは江戸の俳人松尾芭蕉の言葉です。教科書にも載っているお馴染みの「奥の細道」は皆さん後存じの松尾芭蕉の紀行文です。東北や北陸など2400KMの道のりを旅をしながら俳句を詠んだ旅の俳人の言葉です。
松尾芭蕉の名言 |
これは俳諧における自然観察について述べた言葉で、調べまわったり人に聞いたりするよりも直接「対象そのもの」にじっくり向き合った方が、その本質が見えてくると云っています。人間関係や仕事の上にもにも通じる言葉ですね。まずは「じっくり と向き合うこと」から始めるそうです。
「 月日は 百代の過客にして 行きかう年も また旅人なり 」
月日は永遠に旅をする旅人のようなものである。
去ったと思えばまたやってくる旅人のようである。 と
神無月 八 大
「自分の人生は自分で決める」これが自分の幸福感に直結すると思います! 長野県・諏訪中央病院の名誉院長である鎌田先生がおっしゃる言葉はいつも心に響きます。[幸福感に密接に関係するものは何ですか?」と云うアンケート調査がありました。
先生のアンケート調査によりますと一位から順に「健康、良い人間関係、自己決定、収入、学歴」へと続くと云います。物事がうまくいかなくても自分で決めたんだから諦めがつく、でも他人に強制されて失敗したとしたら心理的ダメージは大きい。収入・学歴以上に自己決定が幸福感に大きく影響を与えると云います。
自分のことは自分で決めると云うことを決めておくことは大切です。何時も他人に同調することなく「これで良い!」と自分で決める事が大切であると思います。その結果で出会った景色やその光景に出会えたことに満足すると幸福感が増すことになります。
恵比寿神 神不在の留守居役 |
神無月 八 大