すずめ

 

すずめ
私が子供の頃近くに下駄屋さんの工場があって、荒削りの下駄を乾燥させる為に積み上げられた一つの風景が目に浮かんで来ます。うず高く積み上げられた工程で、乾燥させる段階がありまして下駄の薫りが何とも言えませんでした。

下駄の香りが漂っている地面に羽をバタバタさせたスズメが、足をくじいたらしいので保護してあげました。一時的に鳥かごの中で保護して摺り餌を作って与えると仲間の雀たちがバタバタと近寄ってきて様子をうかがっているようでした。餌を運んできた姿が見られて感動を覚えました。そんな姿を見て一刻も早く外の世界に返してやらねばいけないと思い摺り餌を作って保護してあげました。

翌日には仲間の雀が籠につかまって他から餌を運んできた姿を見られた。籠の周りで口移しで餌を上げている姿を見た時には、、、一刻も早く外の世界に返してやらねばならない一心で摺り餌を作って看病をし3日後には飛び立つことが出来ました。その後も籠の周りに現れてチュンチュンと近くの枝にとまって仲間たちと戯れているように思えました。 

雀と桜と蜂
スズメは不思議な小鳥です。世界中に分布しているにかかわらず、人間の住む集落に住み、人間がいなくなるとスズメもいなくなるそうです。鳥や鳩と同じように私たちが最も身近に感じる鳥ですネ。地面を歩くとき飛び跳ねるようにしてチュンチュンと歩く姿と鳴き声が特徴的、雑食性で何でも食べますが田んぼで実ったお米が好物なのは迷惑な限り。この時期に巣造りの為に稲を咥えて飛んでいる姿が見られます。人間の傍にいないと暮らせない雀ですが、飼うのは大変に難しいようです。

鳥の図鑑を見るとスズメは全長約15㎝位 、体重約18~30ℊの小型の野鳥で、日本全国に生息しており人家の近くで暮らす留鳥で、さえずりや地鳴きなど鳴き声が特徴の野鳥。

留鳥(りゅうちょう)とは スズメ・ハシブトガラス・キジバト・カワセミ・ライチョウ、など一年中同一地域内に定住する鳥のことを云うそうです。


 弥 生           八 大
















山笑う

季節の案内人

「山笑う」とは、春の山の草木が一斉に芽吹き始め、動物たちも動きだして華やかになった山の様子を表した言葉で, 春の山の明るい様子を表したもの。この時季、俳句の世界では春の季語として一般的に使われていますね。寒いこの時期の季節に案内人として忘れてはいけない山野草に蕗の薹(ふきのとう)を忘れてはイケません。

同じように夏の山は「山滴る(やましたたる)青葉が瑞々しくなってくる様子、秋の山は「山装う」、冬の山は「山眠る」と云いますよね。春になり一斉の木々が芽吹いた山々を覆い、緑の力強さを得たさまが、「山笑う」と云うそうですが見事な表現力で、毎年訪れてくれる新緑の山々に感謝・感謝の連続です。

原典は中国北宋の画家、郭煕の四時山と呼ばれる次の詩よりきているそうです。「春山淡冶笑うが如く 夏山蒼翆として滴るがごとし 秋山明浄ににし装うが如く 冬山惨たんとして眠るがごとし」とあります。何か格好が良すぎて講釈師になった気分がします。

夏の季語が山滴るで、山水訓の「夏山は蒼翆にして滴るが如し」が由来で、草木の葉で覆われて緑が滴るように見える夏の山をたとえた言葉で夏の季語として使われています。


 弥 生            八 大




忠臣蔵

いざ討ち入りに出陣
 テレビドラマや映画で良く取り上げられる歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、私達日本人の心意気を良く描いていると云われています。

策略に落ちて罪を着せられた若殿を切腹させられた恨みを晴らすべく、家老以下四十七人が元赤穂藩士たちが、にっくき吉良上野介の屋敷に討ち入りに行く物語は、日本三大仇討物の筆頭として、私たちの心の中に刷り込まれているかのようです。

その原因となった若き赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介にいじめられた末に、堪忍袋の緒が切れて江戸城の松の廊下で一太刀浴びせたことから、罪を言い渡されます。その後のお話の続きは皆さん後存じのとおりです。


そして旧暦三月十四日、浅野内匠頭は辞世の句を残して切腹します。

      風さそう 花よりもなお 我はまた                                                        

                春の名残を いかにとやせん

                           浅野内匠頭     

弥 生            八 大                   

                                                                                                                                                                    


春日祭

春日大社
奈良県の神社で多くの参拝者が訪れる春日大社は、全国に約1000社ある春日神社の総本社で1200年以上の歴史ある神社で毎年伝統の「春日祭」が行われています。春日大社は勅祭社と呼ばれ例祭である春日祭には天皇による勅使が遣わされます。勅祭社は全国に16社あり祭事の規模が大きい春日祭、加茂神社葵祭、石清水八幡宮の石清水祭の3つを日本三勅祭と呼びます。

平安時代に入り、藤原氏の隆盛と共に850年に春日祭が創始され、一族の権力拡大と共に規模は盛大な祭りとして執り行われるようになりました。しかし、藤原氏は戦国時代には没落したため春日祭も規模を縮小を余儀なくされ、江戸時代には更に簡素化されたそうです。明治時代になって天皇の意向で1885年に復活し現在に至っているそうです。、

神前の守護神
奈良県の春日大社における例祭は3月13日に於ける例祭で、春日祭(かすがまつり)とも云われており明治13年からは固定されてこの日に行われています。宮中から天皇の名代である勅使が参向して儀式を執り行い、国家の安泰と国民の安泰を祈ります。

天皇の勅使が派遣されて行う祭事を「勅祭」と呼びます、その中でも旧儀保存の観点から古式に則り行われるものを特に「三勅祭り」と呼ぶそうです。春日祭はそのうちのひとつで、残りの二つは加茂神社の加茂祭(葵祭)、石清水八                    幡宮の石清水祭です。今年も例祭の時期です。

 弥 生              八 大

 


鹿鳴館

 昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。 

鹿 鳴 館 
英国人j・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となる。館内には宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳士達を招待して連日のように園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれたそうです。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称されその外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれております。

舞 踏 会 の浮世絵
鹿鳴館と聞くと明治16年時の外務大臣、井上馨が賓客接待の社交場として日比谷に開設したものです。洋風の鹿鳴館は欧化主義の最先端をゆく鹿鳴館時代を演出したことが思い出されますね。この鹿鳴館の名は元々は中国に由来があり中国最古の詩集と云われている「詩経」の中に「鹿その食を得れば相呼びて取る」という、鹿の習性に                  ちなんだ一節があります。

詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。

この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。

 如 月            八 大


薩摩芋の話

焼いも
 昔の話 先日スーパーの帰りに「焼き芋」の売り場を見つけた。面白半分に大ぶりの温かい薩摩芋を買い込み当時を思い起こしながら夕食後にデザート気分で食べたけれど・・・? ホクホクして美味しいよね。薩摩芋なんて見向きもしなかったけれど、こんなに美味しかったの・・・?。食べてみると思ったより柔らかくてホクホクして美味しい、子供のころ味わっていたあの頃の味と全く違うね。戦後の私たちが食べてた物とは全く違うようだ。あの頃は薩摩芋って豚の餌だって云われていたよ。

戦後の食糧難の時代を超えてきた私たちの時代では、こんな不味い物はないと思っていた。不味い薩摩芋の味は今でも覚えています「農林2号」とか「太白?」とか云ってビチャビチャして不味い。後で聞いたことがありましたが農家の人たちは牛や豚の餌にしていたようでした。「代用食」(ご飯の代わりに食べさせられた)なんて言って食べさせられていましたね。只々一時的に腹を膨らせるだけの食事で贅沢なんては言えないけれど母親には悪いけど残してしまった思い出があった。

今時の薩摩芋とは形は似ても非なり、デザートの上等なケーキのようなもので品種改良の成果とだけでは言い表せない美味しさ。

さつまいもは昔から食されていたと思っていましたが意外や意外、17世紀の初めに唐芋と呼ばれ中国から琉球にもたらされ、鹿児島(薩摩)へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ 広まり定着したと云います。西日本の大飢饉のときに餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込め餓死者を出さなかった事から江戸時代にには救荒作物として栽培されていたと云う。

江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、1735年、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がったという。20世紀の第二次世界大戦(太平洋戦争)中は、軍事統制下の深刻な食糧難からサツマイモ栽培が大いに奨励されたといいます。そんな時代もあったそうです。

今では「紅あずま」「鳴門金時(なるときんとき)などの人気は高いそうです。そうこう言っているうちにお米の値段がこのところ急騰して大変な騒ぎになっていることはご存じの通りで、国民は怒っていますよ。

 如 月          八 大

初午祭(はつうままつり)


伏見稲荷大社
 初午祭は春の訪れを祝う稲荷神社のお祭りのこと。稲荷大神が京都・伏見にある稲荷山に降りてきたのが和銅四年(711年)の二月、初午の日だったと云われています。稲荷神社に祀られている穀物の神様が初午に降臨したとされることから初午に稲荷神社を参り、五穀豊穣を祈るようになったと云われています。

二月の初午の日は全国各地の稲荷神社で「初午祭」が行われ五穀豊穣を祈る特別な日となりました。稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされ「おいなりさん」と親しみを持って呼ばれています。

稲荷神社の総本社である伏見稲荷神社では前日の巳の日から商売繁盛や家内安全をお祈りする参詣者でにぎわい、京洛初春第一の祭事と云われています。本来は旧暦二月の最初の午の日だったため春先の行事でしたが、新暦では寒さが一番厳しい時季のお祭りになっています。

稲荷神社と云えばキツネを思い浮かべる人が多いのではと思いますが、キツネは稲荷神の使いであって神様を守る存在です。豊作を願い稲荷神を祀る風習と稲荷神の使いであるキツネが家を守ってくれると云う考えから稲荷信仰が広がりました。稲荷神はもともと五穀豊穣の神様ですが、今では商売繁盛、家内安全、交通安全などの守護神として信仰されています。そのため、「初午祭」では、五穀豊穣だけではなく様々なご利益を祈願するために多くの人が稲荷神社を訪れています。

鬼おろし
私の故郷、栃木県から北関東周辺に伝わる郷土料理に、「しもつかれ」があります。鬼おろしですった大根と人参に、鮭の頭や油揚げ、大豆、酒粕などを入れて煮込んだ料理です。「宇治拾遺物語」「古事談」などに登場する「酢むつかり」を起源とする説もあります。子供の頃隣近所のしもつかれを食べると風邪を引かないと言われ、お互いを褒めあい食べさせられましたよ


 如 月            八 大



花弁餅(はなびらもち)

花弁餅
 お正月を迎えると思い出すのは「花弁餅(はなびらもち)です。牛蒡と味噌餡を牛皮(ぎゅうひ)で巻いたお菓子ですが、もともとは梅の花弁に見立てて薄く丸い形にしたもので、皇室での鏡餅の一部に用いられた物だそうです。ほの甘く苦い濃茶との相性は抜群です。

花弁餅の由来は、平安時代に宮中で行われていた「歯固めの儀式」に由来する「菱葩餅(ひしはなびらもち)」です。歯の健康が長寿につながると信じられていた時代で、鏡餅や大根、押鮎、かち栗、猪肉など、固いものを食べていたそうです。

それぞれの和菓子屋さんが腕を競い合い店先をのぞけば季節が分るほどだったそうです。それは茶会や茶稽古が常に季節を意識して行われているのと関係していると云います。

今年もこの時期に駅前の餅菓子屋「青柳」にて買い求め、新春の色合いとその味を確かめ春の訪れを感じることが出来ました。


 如 月          八 大









飛鳥大仏


飛鳥大仏
歴史好きの人には飛鳥大仏を知らない人はいない。蘇我馬子が建立した日本初の本格的仏教寺院には、創建当初のからの「飛鳥大仏」が残されています。大仏の襟元をよく見ると胸元に結びひもを覗かせ肌着のように見えたので学者先生に問う。

605年(推古13年)に推古天皇が造らせ、609年に完成したものと云い、朝鮮半島では寒さ凌ぎの肌着ではないかと学者先生に問う。中国の北魏様式をうけ面長で杏仁形の目、アルカイックスマイルをたたえた唇など独特の神秘性の漂う格調高い仏像であるとの返答がありまし た。

538年(欽明7年) 仏教が百済から伝来するや、蘇我氏と物部氏の間で崇物・俳物の争いが長く続いた。飛鳥寺は、蘇我馬子がその戦勝を記念して創建した、日本最初の本格的仏教寺院で、法興寺、元興寺とも呼ばれた。588年(崇峻1年)に百済から寺工、路盤博士、瓦博士らの来朝を得て建立に着手し596年(推古4年)に完成したと伝えられる。

その後、609年(推古17年)銅・縫の丈六の仏像を造立したが、その丈六金銅仏が今の本尊の釈迦如来像と云われる。平城遷都にともない新都に元興寺を建てたあとも、本元興寺として栄えた。だが、1196年(建久7)の雷火災で伽藍を焼失してからは衰退の一途をたどる。

室町時代の記録によれば唯一残された丈六釈迦像が仮に建てられた茅葺の小屋で雨露を凌いでいたと云う。現在の本堂は江戸時代に建てられたものである。1956年から発掘調査で当初は一つの塔を3つの金堂が囲む特異な伽藍配置であったと。これは高句麗の清岩里廃寺と同形式で朝鮮半島の強い影響を示していると云う。

 如 月           八 大






春蘭(しゅんらん)

春 蘭
 春まだ浅い厳冬の雑木林の中、目覚めたばかりの野生の春蘭が小さな花を沢山に咲かせ私を迎えてくれいます。この時季毎年のように春蘭に会いに栃木の山の中に出会いを求めて歩いていました。

春蘭は何時もの様に私を迎えてくれているようで暫くぶりみんな元気でしたかと声を掛けます。身を寄せ合うようにしてひっそりと咲くその姿は絨毯を敷き詰めたように咲いてくれる。目立たないように身を寄せ合いながら存在感なく咲き始めます。

シュンランは昔から、山野でごく普通にみられていたため、生活にも取り入れられていた身近な植物です。そのため、地域によってさまざまな呼び名があるようで、よく言われているのが「ジジババ」「ホクロ」などで、花びらにある斑点が老人の顔にあるシミに見立てて名付けられたと云われていますね。

大きな蘭ではありませんが、葉の陰に隠れて                 可愛らしく咲くところが魅力であります。                 「花言葉は飾らない心」「控えめな美」「気品」「清純など、どちらかというと 立たない花です。そんな中で、見た目が地味な姿には「控えめな美」という花言葉                もつけられています。


 睦 月              八 大





玉子 の話

昨年の夏ごろに玉子の値段が急騰して新聞紙上で大騒ぎになりましたね。その以前の卵は物価の優等生と云われて持て囃されていましたのに何で・・と叩かれました。その原因の一つは鶏インフルエンザが大流行毎日のように何十万羽或いは百万羽が殺処分となり卵の値段が上昇し大きな社会問題になりましたね。

田舎の親戚の 玉子
その昔、日本では殺生を禁ずる仏教の影響から西暦の670年頃、牛・馬・犬・猿・鶏などを食べることを禁じられたと云いました。その中には鶏の卵も含まれており日本におけるニワトリの立ち位置は長い間、愛玩動物だったと云われていたそうです

けれども、江戸時代になって無精卵が孵化しないことが分ってくると、卵を食べることは殺生に当たらないと解釈されるようになった。そのころから身近な卵料理が多数誕生したと云われています。それと同時に身近な養鶏も盛んになり急速に各地に広まったと云われています。

鶏は採卵のために品種改良され頻繁に卵を産みますが、今では毎日ではなく数日連続で産んで一日休むと云うサイクルをとっているそうです。なお、鶏は日が長い夏場に産卵が活発化するため、冬場の養鶏場では日没後に電気をつけて夏場だと錯覚させて産卵を安定させているとのこと。そんな裏話は知りませんでした。

 睦 月              八 大

早春の思い出

 栃木県の北部地方ではこの時期に小さな川のほとりで芽吹いている、ネコヤナギのことを「ちんころたんころ」と呼んで早春の生け花にも添えられていましたね。何とも可愛らしい姿は早春の先駆けとして各家々でも玄関先に早春の知らせとして飾っていました。何とも可愛らしいその姿は誰もが愛でておりました。

川の中の「ちんころたんころ」
春まだ浅いその頃は、二年に一度は大雪に見舞われ、中学校迄では雪の中をスキーを履いて1時間以上の雪道を歩いたことがありましたね。雪は膝ぐらいの深さでしたがバスも雪掻きが間に合わず学校に着いた頃には休校になった事もありました。

学校の先生が折角来たんだから良~く温まって(ぬくまって)餅でも食べて行きなさいと云われ、黄な粉餅ちをご馳走になった事がありました。帰りには道路の雪が踏みつけられ、所々が砂利道となりスキーを担いでの雪中での行軍となりました。スキー板と勉強カバンとを背負って帰るのが夕方になり疲れましたね。

ちんころたんころ
翌朝午前中は道路がアイスバーンになって歩きでさえ滑ってしまう程で学校は休みになったとを覚えています。路線バスはチエーンを巻いてノロノロ運転で交通はマヒ状態そんな記憶が頭に残っています。そんな大雪はそれ以来出会うことはありませんでしたが。

それから六十有余年あの頃の記憶は不思議なことに明確に残っています。何故なぜなんだろう・・・? 今、記憶を手繰り寄せてみると辿り着くことが出来た。それは流れる川の冷たさでしたね。長靴を履き慎重に足元を確認しながら「ちんころたんころ」の枝を手繰り寄せて持ち帰った。

お隣さんに3本を届け、我が家の仏様にも3本を供える・・「春はそこまで来てるよ」と 母からの一言あり!

 睦 月            八 大




















懸魚(げぎょ)の話

懸魚(梅鉢)
 懸魚とは主に神社仏閣の屋根に取り付けられた妻飾りです。水に強い魚の飾りを屋根に施して木造建築を火災から守るために日よけのマジナイとして取り付けられています。魚の身代わりを屋根に懸ける事の意として用いられました。同じように鯱(しゃち)や、氏尾(しびが)同類のものです。他にも似たものでは、魔よけを祈願する鬼瓦などがあります。 また、土蔵などの妻壁に水と書かれたものも同じ火伏せのマジナイです。

懸魚は取り付ける位置によって呼び方が変わります。中央にあるものを拝懸魚(おがみげぎょ)左右の下側にあるもの下側懸魚(くだりげぎょ)と呼びます。その他に唐破風につけられる兎の毛通(うのけとうし)と呼んでいます。

機能的には、屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということ、木造建築の場合には棟木や桁の端部を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味からも、建物を火災から守るために火伏の呪いとして取り付けられたということです。

猪の目懸魚
日本各地のお城や神社お寺等に見られるものは、その形状により猪の目懸魚(いのめけぎょ)蕪懸魚(かぶらけぎょ)梅鉢懸魚(うめばちけぎょ)三花懸魚(みつはなけぎょ)の名前で呼ばれています。

その機能としては屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということと木造建築の場合には棟木や桁の端を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味から、建物を火災から守るために「火伏の呪い」の意味が込められていると云います。

 睦 月           八 大










アメ横の話

年末の「上野アメヤ横丁」は毎年のことながら大混雑である。終戦後の闇市の名残りで終戦直後には東京も新橋、新宿、上野と三大闇市場が建ち、その他も渋谷、池袋と国電沿線の各処に闇市がありました。世の中が平静になるに伴い淘汰されて、東京上野のアメや横丁、大阪の鶴橋市場などに面影が残っている程度になりました。

先ごろアメ横を探訪して見てきましたが昔のような穴場ではなく、二、三級品の雑然とした雑貨物を売る店になっています。ただ、アメ横と云う人気だけで商いをしているだけに見える上野の闇市は、田舎から運んできた米、麦,芋などの物々交換の「路上市場」が国電のガード下に群がっていたのが始まりと云われています。

アメ横入り口
そのうちに進駐軍の闇物資を扱うのが主になり何回も「MP警察」の手入れを受け、ガード下の外に生鮮乾物魚店や菓子店として出るようになった。アメ横の元祖は今でもガード下の中にある舶来屋さんである。その界隈にあるゴルフショップが多いのはその名残であろう。アメリカにない物は上野のアメ横に行けばあるよと云われたことも。アメヨコの名称を飴屋横丁と誤解する人も多いが、元はアメリカ横丁であって、アメヨコはその略称である。

JR上野駅の不忍口(しのばずぐち)を出ると、交差点の向こうに「アメヤ横丁」という看板が見えます。ここから御徒町駅まで線路沿いに続いているのが「上野アメ横」。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。アメ横のエリアには400軒もの店があると云う。

『アメ横』は元々は”アメヤ横丁”と呼ばれていました。戦後の闇市があった場所で飴を売る店がたくさんあったことが名前の由来となっています。昭和25年以降になると、朝鮮戦争の勃発の影響もあって駐留米軍などからアメリカ物資がマーケットに大量に流れ込んできたと云う。アメリカ屋(実際にある)等のジーンズや革ジャンなどの舶来品を販売する店が多いからと思っていた方も多いと思いますが、その歴史は大変に古いんですね。

 睦 月             八 大



















生姜の効用

生姜の話 「生姜科・多年草植物」

生 姜

中国では、紀元前から栽培され、香辛料、薬として重用されてきた。漢方の生薬のひとつで、生薑【ショウキョウ】と読む。生姜はそれを略したものだそうだ。渡来時期は定かでないが、和名を【くれのはじかみ】といい、平安時代の「延喜式」に、その栽培方法、保存法も記されているそうです。

江戸初期の本草書「本朝食鑑」には、(近ごろ新しい根を生梅とシソの葉を一緒に塩づけにして年を経たり、あるいは味噌漬け・粕漬・蜜漬けにしたりする。また老薑は、日に乾かして貯蔵しておき、薬として服する。旅の具としている)とある。江戸時代の人たちは、梅干に漬けて日々愛用し、乾生姜をもって旅をしたというのだ。

    生姜の畑
    「生姜の効果」
  • 血行促進や体を温める効果がある
  • 胃腸の働きを助ける
  • 食欲を増進する
  • お腹の調子を整える
  • 殺菌作用がある
  • 抗がん効果があると考えられている
血行の促進のためには生の生姜に多く含まれる辛み成分のジンゲロールが作用し一時的に発汗を促す作用があります。夏のむくみ対策や体に熱のこもり易い人にはお勧めとのことです。また冷えが気になる場合には温かいスープやカレーなどの煮込み料理に刻んだ生姜を加えると発汗作用も働き良いことづくめです。また日本最古の医学書と云われる医心方(いしんぼう)では生姜はカゼの薬としても紹介されています。
 師 走           八 大














「熊」の話

青森県下北半島の地で熊に出会ったことがありました。それは下北原発(しもきたげんぱつ)の真向かいにある山裾をノロノロと走っているときに、藪の中から何と熊が出てきた。よく見ると体長が50㎝ほどの子供の熊でヨチヨチ歩く程度で歩き出しました。仲間の一人が、早く逃げろ!と声をかけてくれたのを合図に速度を上げると、親熊が現れジッと睨みつけていました。小熊がいる時の熊は特に注意が必要だと云われました。

 日本に生息する熊が今年は何かと話題になりましたね。民家の物置に入って3日間も捕獲できず住民の人は新聞沙汰になり大騒ぎでした。北海道では「ヒグマ」本州などでは「ツキノワグマ」がよく知られております。雑食性で動物の肉や果実、木の実などを食べ、寿命は二十年から三十年ぐらいと云われております。

古来より漢方薬として熊の胆のうを原料にした「熊胆(ゆうたん)」が強壮剤や解熱剤として、熊の手のひらが高級食材として、熊の掌が珍重されてきました。また昔話の「金太郎に登場したり」、年老いた熊は鬼熊に変化すると云う言い伝えがあったりと、日本人になじみの深い動物として知られています。

近年では山間部と人間の居住域を分ける里山が失われているため、冬ごもりの食料を得ようとした熊が人里で人間と接触したり、農作物を食い荒らしたりしたりする問題が深刻化していますね。野生の熊たちにとっては云いたいことは一杯あるでしょう。これからは自然保護と日本社会に根差した問題として取り組まなければならない問題であります。

 師 走             八 大              





18歳と81歳の違い

以前から 気になる言葉」がありましたが小生80代を進行中です。先輩の皆さんからの的切なるお言葉を有難うございます。


 恋に溺れるのが18歳、風呂に溺れるのが81歳。  

 道路を爆走するのが18歳、逆走するのが81歳。                

 心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳。                 

 ドキドキが止まらないのが18歳、動機が止まらないのが81歳。         

 恋で胸詰まらせるのが81歳、偏差値が気になるの18歳。            

 血圧・血糖値が気になるのが81歳、まだ何も知らないのが18歳。        

 まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていない18歳。          

 自分を探している81歳、皆が自分を探している18歳。

笑っていられない自分も此処におります。

師 走            八 大









ピンからキリ

古利根川の一本桐
「花札」の世界では、一月の松から始まって二月は梅、三月は櫻、四月は藤と進んで12月は桐となります。古利根川沿いの児童公園際には一本の「桐の木」が寒そうな姿で精気なく春を待っているようで可哀そう。手入れもされず野放図に扱われている姿は余りにも可哀そうです。あの夏の暑い日光を浴びていた頃の生き生きとしていた姿は何処へ行ったの?

俳句で「桐の花」は初夏であり桐一葉は秋であります。それ以来だと思われますが「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」一葉とか、一葉落つと云っても桐の事だとわかります。それなのに季語から外れた桐が何故12月なのか不思議に思っていました。

それを見つけました。言語学者の金田一春彦先生の話によると、これは天承カルタに由来すると云う。このカルタはではⅠの札をピンと云った。サイコロの目と同じ名で、第一、はじめの事であり、そして10をキリと呼んだ。キリは「クルス(十字架)」なまりで、或いは「切り」の意と云われる。

始めから終わりまで、最上等から良くないものまでを指す「ピンからキリまで」はここから出たと云う。その語源はポルトガル語で 「ピン」は1,「キリ」は10の意味から転じて優劣を表す使い方に 「ピン」はポルトガル語のpinta (点)の意から、「キリ」は、ポルトガル語の cruz(クルス「十字架・十字形」の意)からだと言われています。 日本語ではなかったのですね。

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白菜とキムチ鍋

 季節が寒くなってきたこの頃、スーパーの店先には鍋料理には欠かすことが出来ない冬野菜の白菜です。今年も大きな白菜が並ぶ季節になってきました。「鍋の季節」がやってきましたね。スーパーの店先に大きな白菜が店先の目立つところに並んできましたが 

白菜 食物繊維やミネラルが豊富で鍋料理以外にも浅漬けやキムチにも利用されていますね。日本では漬物以外ではあまり生で食することはありませんが、アメリカやヨーロッパなどではサラダとしてそのまま利用されているそうです。生のままではそれなりの量があっても、鍋で煮込んでしまうと量も少なくなりますし、カロリーも低いので野菜をたくさん食べたい人やダイエットしたい人にはうってつけの野菜と云います。 

白菜の原産地は中国だそうです。江戸時代前には日本にも伝わっていたと云いますが、野菜として普及するようになったのは昭和時代になってからと云われています。以外にも最近の事と云われていますが・・・そうなんですかね?

キムチ
キムチ鍋 元々朝鮮半島の厳寒期に備えた保存食であり、野菜を塩漬けしたものから始まったものと云われています。これに香辛料としてニンニクや山椒などを加えるようになったのが、キムチの原型であるそうです。1,700年代に日本から朝鮮半島に唐辛子が伝えられると、栽培や加工が容易な唐辛子が山椒に代わって用いられるようになったと云われています。この時季食卓には欠かせない物になっていますね。


 師走                八 大

帰り花

小春日和は初冬の季語、晩秋から初冬にかけての、冬に暖かい日が続くと草木が時ならぬ花を咲かせることがよくあります。そんな小春日和が続くと、草木も「春が来た来た!」と勘違いして、花を咲かせることがありますね。これを「帰り花」あるいは「忘れ花」とも云いますよね。11月の中頃の小春日和に、梅、桜、躑躅、梨などの草木にも見られます、チョット楽しいネ。

帰り花(さくら)
帰り花の解釈は、人によってさまざまあるのではないでしょうか。「うっかり季節を間違えて咲いちゃった花」と捉えるとひょうきんなようにも思えますし、「寒さが本格化する直前に数輪咲く花」とすれば儚い美しさに見えますよね。

この場合はもっと小さな草花のほうがその名前には似合いそうなきがしますが、冬の薄暗い日には、何故か神々しい雰囲気を感じさせます。人が忘れたころに咲くので「二度咲」狂い咲」とも云われていますが、これを何と言っていいのか。 「帰り花」の解釈は人によって違いがあるようです。

「うっかり季節を間違えて咲いちゃった花」と捉えるとひょうきんなようにも思えますし、「寒さが本格化する直前に数輪咲く花」とすれば儚い美しさににも見えてきますが如何でしょうか。 

調べてみるとビックリする事があります。                  「帰り花」と云う言葉には悲しいことに、遊女が再び遊郭に勤めに出ると云う意味もあるそうです・・。

 霜 月             八 大






















落穂拾い

 近くの田んぼでは刈り入れが終わり、コンバインの姿は見えなくなりました。子供の頃、稲刈りの作業は農家にとっては家族総出の一大年中行事だったようで小学校が休校になったことも思い出しました。その後時間を置いて刈り取った稲の間に飛び回っているイナゴを捕まえ布袋に取り込むころが懐かしく思い起こされ・・そんな時期があったな~と今でも思い起こします。

小学校の教壇の前には「ミレーの落穂ひろい」の額があり、何か老婆達が腰を曲げて落穂を拾っている様子がありました。何をしているのかなんて考えることもなくそのまま受け入れていたように思っていました。そんな事より母親に縫ってもらった布袋に如何にしてイナゴを沢山捕まえる事だけが私にとっての仕事だったように思っていました。

ミレーの落穂ひろい
落穂拾い(おちぼひろい)は穀物の収穫後に、または収穫に加えるために、田畑に散らばる穂を拾い集めること。

旧約聖書の中に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」とあります。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。 

収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい」。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」とある。これは近代の農村社会でも貧者の権利として一部に残っていた慣習であると云います。貧しいながら力強く生きる生命力を感じさせるミレーの巧みな技法によって評価される作品と云われます。

 

 霜 月           八 大   





法華寺の話

 小生、まだ駆け出しの頃土日と休暇を合わせて3日間程プライベートの旅に出ました。東京駅を22時発の夜行寝台列車「瀬戸号」?に飛び乗り車掌さんにお願いしてすぐに熟睡。京都到着20分前肩を叩かれ飛び起きて身支度を確認、駅改札を出てトイレ洗面を済ませ何気ない顔で八条口側にある、うどん屋で今日の予定表の再確認となる。

一人旅の気安さもあり観光案内の地図を片手に歩きだした先に「法華寺」のご本尊十一面観世音菩薩の姿でした。対面してビックリ・・なんと腕の長い仏様なのだろう・・忘れられない第一印象でした。法華寺は聖武天皇御願になる日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后の発願によって日本総国分尼寺として創建されたのが法華滅罪の寺であります。藤原不比等公の邸宅だったのを、皇后が先帝に並び老婢のおんために改めて伽藍となし給うもので以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かったい皇后の御精神を伝え、同心堅固に守られてきた女人道場「法華寺御所」であります。

法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の妃・光明皇后の発願によって始まりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子供のころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮寺に改められたのが法華寺です。正式には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺と云い、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑽を勧め、女人成仏の規範を意召されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提を祈られたのです。

法華寺石標

伽藍の完成は延暦元年、(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門に立つなど広大な寺地を有し東西両塔、金堂、講堂、食堂など壮大な伽藍を誇りました。

「光明皇后」は仏教を厚く信仰された慈悲深い方で社会福祉に大変貢献されました。施薬院、悲田院を開設されたことは当時としては画期的な事でありました。光明皇后は聡明なうえ、光明子と云われるくらいの光輝く美貌だったらしく夫の聖武天皇は皇族の女性以外は皇后になれないのに臣下出身の光明子を皇后に取り立てられました。民間出身の皇后の第一号でありました。しかし、臣下出身の皇后には皇族側の代表である長屋王の反対が予想され、起きましたのが有名な「長屋王の変」であります。また、娘の阿倍皇女は女性皇太子の第一号ありました。


 霜 月             八 大                 












           十一面観音菩薩



















ドジャースとセロトニン効果

31日の米国大リーグ「ドジャース」と「ヤンキース」の決戦は大谷選手のいるドジャースが大逆転で文字通り世界一となりました。流石に大リーグの戦いであったな~と改めて実感しました。頭の中でアドレナリンやドーパミンが出動し心身ともに安定させ久しぶりに幸せな気分を感じることが出来ました。

アドレナリンは生命の危機に瀕したときに分泌されるホルモンで、心拍数や血圧を上昇させ、体のパフォーマンスを高める作用があると云われております。

またドーパミンはやる気や集中力、モチベーションに関与しており、前向きな気持ちになれたり、目標に向かって頑張れたりするそうです。           デコピンちゃん

楽しいことをしているときや目標を達成したときに分泌されるホルモンです。 セロトニンと云われる神経伝達物質は、分泌されると幸せな気分を感じやすくなるため「幸せホルモン」と呼ばれています。 セロトニンは脳の興奮を抑え、心身をリラックスさせる効果があるが、不足するとイライラや不安などのストレスを感じやすくなると云います。

ドジャースの優勝パレードに参加した大谷翔平投手(30)の愛犬デコピンの写真が投稿された。デコピンは大谷選手と真美子夫人が、2階建てのバスに乗った。大谷選手がデコピンを抱きかかえてファンの声援に応えると「デコピンコール」!が発生した。デコピンはご主人に抱きかかえられ、お祭り騒ぎのファンにお披露目されパレードは続いた。

 神無月          八 大




松尾芭蕉の名言

「松の事は 松に習え、竹の事は竹に習え。」 これは江戸の俳人松尾芭蕉の言葉です。教科書にも載っているお馴染みの「奥の細道」は皆さん後存じの松尾芭蕉の紀行文です。東北や北陸など2400KMの道のりを旅をしながら俳句を詠んだ旅の俳人の言葉です。

松尾芭蕉の名言
そんな芭蕉が残した言葉の中に「そのものをしっかりと見なさい」そして「じっくりと観察をしなさい」と云う意味が入っていると云います。 素直な気持ちで物事をよく見て感じると云うことが、良い俳句をつくるコツにも繋がるんだと言っています。

これは俳諧における自然観察について述べた言葉で、調べまわったり人に聞いたりするよりも直接「対象そのもの」にじっくり向き合った方が、その本質が見えてくると云っています。人間関係や仕事の上にもにも通じる言葉ですね。まずは「じっくり              と向き合うこと」から始めるそうです。


「 月日は 百代の過客にして 行きかう年も また旅人なり 」 

     月日は永遠に旅をする旅人のようなものである。             

        去ったと思えばまたやってくる旅人のようである。 と 


 神無月             八 大  








自分の人生は自分で

 「自分の人生は自分で決める」これが自分の幸福感に直結すると思います!        長野県・諏訪中央病院の名誉院長である鎌田先生がおっしゃる言葉はいつも心に響きます。[幸福感に密接に関係するものは何ですか?」と云うアンケート調査がありました。

先生のアンケート調査によりますと一位から順に「健康、良い人間関係、自己決定、収入、学歴」へと続くと云います。物事がうまくいかなくても自分で決めたんだから諦めがつく、でも他人に強制されて失敗したとしたら心理的ダメージは大きい。収入・学歴以上に自己決定が幸福感に大きく影響を与えると云います。

自分のことは自分で決めると云うことを決めておくことは大切です。何時も他人に同調することなく「これで良い!」と自分で決める事が大切であると思います。その結果で出会った景色やその光景に出会えたことに満足すると幸福感が増すことになります。

恵比寿神 神不在の留守居役


自己決定を貫いたことには少しの迷いはあったにしても、そこで良い景色やそこで出会えた光景を受け止められれば幸福感は益々増すばかりだと思います。自分の人生を決めるのは自分自身の人生なのだから、他者の何者かを生きる必要は無い、最後まで「自分らしく生き抜く」ことです。

 

 神無月            八 大


 



 







物忘れから認知症

「あのテレビに出ている人の名前は・・・誰だっけ?」「顔は判っているのにどうしても名前が浮かんでこない・・?」 こんなやり取りを最近度々起こるので困ったもんですね。このように人の名前を度忘れしたり約束をうっかり忘れてしまったりする「物忘れ」は誰にでも起こる老化現象の一つですね。

しかし「赤の他人ではなく、家族など身近な人の名前が出てこない」「予定表を見ても、何の約束もなく思い出せない」と云った症状になると認知症のまえぶれと考えられているそうです。最近こんなやり取りを 仲間うちで多く耳にしますが、そう云えば人の名前を忘れしまったりする度忘れと云うか物忘れすること多くなりました。

誰にでもある事ですがこれが老化現象なんですね。認知症の前触れで、いやもうすでにその仲間入りしているのは確実です。物忘れの原因は「老化?」の性ですか? それとも「認知症かな?」微妙なところですが気になるところす。

「老化によるもの」物忘れ 

「体験の一部を忘れる」 旅行に行ったことは覚えているが、旅先での夕食でのメニューまでは思い出せない。                                                                                                                   「忘れたことを自覚している」買い物から帰った後、買い忘れがあったことに気が付く  「生活に支障はない」日付や曜日、場所を間違えることがあるが間違いに気が付く。物をなくしても探して見つけることが出来る。

「認知症による」物忘れ       

「体験そのものを忘れる」 旅行に行ったにもかかわらず旅行したことや旅先でのことを全く思い出せない。                                    「忘れたことを理解できない」買い物に行ったことを忘れ再び同じものを買いに行く。     「生活に支障をきたす」物をなくすと、パニックになったり誰かのせいにしたりする。 

認知症の前触れにご注意を!。 協和発酵からの参照

 神無月              八 大




 

清津峡の水鏡

トンネルからの眺め
「清津峡渓谷トンネル」は、黒部渓谷・大杉谷と共に日本三大峡谷の一つとして知られており渓谷の美しさを安全に楽しむために作られたトンネルです。1988年から雪崩やその後の落石事故が発生したため、遊歩道の通行が禁止されましたが地元や観光客の要望を受け、1996年に歩行者専用のトンネルが建設されました。

川を挟んで切り立つ巨大な岩壁は全国に誇るV字形の大峡谷をつくり、国の名勝・天然記念物にも指定されています。トンネルに入り少し進んでチケットを買い舗装された通路を何と片道で750㎡もありますが長いなあと思うだけで道幅も余裕あり安全な道路です。

柱状節理
進んでいくと3か所の休憩所がありそれぞれの奇岩と谷川の流れを楽しみながらしながら進み左に折れると景色は一変する。トンネルの下半分は水鏡となり水面に立ち入った人の動きとなり、顔を上げると遥か遠くに越後の山々が望めると云う。この嘗て味わったことのない異様と思える空間は何だろう暫く言葉を失う。

清津峡の特徴でもある柱状節理(ちゅうじょうせつり)について一言。柱状節理は、地表に出てきたマグマが冷却・固結する際に体積が収縮するためにできる割れ目のことです。冷却面に垂直に六角柱状ができます。峡谷の断崖に連続して発達する柱状飾理は、その長軸方向が南東方向に 40 度~ 60 度の角度で傾いています。

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