越谷市フステバル

 2/25は越谷市60周年記念の生涯学習フェスティバルがあり野次馬として参加してきました。多くの催し物会場がありまして特に午前中の混雑は大変なもの。私たちの仲間である皆さん達も裏方として活躍されていました。
 越谷市も江戸時代のころは今よりはもっと活性化しており時代の先端を行っていたことを嘆くお年寄りがおりました。
 聞くところによるとお煎餅の始まりは草加よりも越谷の方が早かったとか、越谷だるま、越谷ひな人形、越谷桐箱、浴衣の籠染め技法、果物屋で有名な千疋屋さんは越谷から出たそうで今でも地名が残っているとのこと。
 伝統工芸の技が消え掛かっていることを心配しているお年寄りに、少しずつですが若者が街興しに係わって来ているそうで明るい希望の灯が見えてきているとのこと・・素晴らしいことですね。
 また最近の健康志向を考えた、血管年齢の測定や体脂肪バランス分析などの結果を出して頂きましたが、意外にも良好な数字で自信が持てました。丈夫な体に生かしてくれた両親に改めて感謝してます。
 帰り道、会場で出会った飲み友達と体調管理についての自慢を肴にお清めをやってから帰宅となりました。季節は雨水を越えたとはいえ寒い中ではありましたが有意義な一日を過ごすことが出来ました。感謝!

                    平成30年2月25日   八大   








現状維持とは(冬籠りの中で)

 今年の冬籠りも例年通り八幡平の豪雪の中、昨夜の最低気温は氷点下17,4℃、積雪量2,4ⅿ正に極寒の世界でありますが下界からは遮断された自然環境の中、自分ではどうにもならない雑念を忘れる時を過ごしてきました。
 雫石スキー場のゲレンデは毎年滑っており何ら変わる事ではなかったが今になって思うと若い頃はスピードと急斜面に対する挑戦が湧いていたが、何故か御身大切を思うのか楽しく滑れればそれで良しと思えてきた。そんな思いは何処から生まれるのか・・・?分からないが、昨年までの現状を維持することは決して負け惜しみで言っているのではないけれどそれが今の自分である。
 若いスノーボーダーがすぐ近くをすり抜けていくあの身軽さには今でも魅力を感じるが「俺はこれでいいんだ!」と納得している自分がここにいる。
 吹雪の中ゴーグルの曇りを取りながらこの齢になって現状を維持できることに誇りをもって挑むこと、それも自分の進歩なのではないか感じる。
 論語の中に「七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず」とあったがこんな心境を言うのかもしれない。
                         平成30年2月   八大












仁和寺展 (葛井寺の千手観音菩薩)

 「私しゃお多福お室の桜 鼻は低くとも人が好く」ずい分に昔になりますが京都双ヶ岡近くの仁和寺に遅咲きの花見に伺ったことがありました。結構なピンク色が印象に残っていました。
今回その仁和寺がお寺全体の大改修に伴い、国宝を含めて多くの仏像や秘宝の数々が東博で見られます。その中でも門外不出と云われていた真言宗御室派の寺院である葛井寺からの国宝「千手観音菩薩像」は圧巻です。
 観音菩薩は救済する衆生にふさわしい姿に変えて現れる仏で、三十三の姿に変化して出現すると云われておりその由縁で三十三観音霊場巡りなどに繋がりが現れております。その変化観音の中でも千手観音とはよく耳にすると思います、その姿のは多くは42本の手の姿であり1本の手が25の世界を救ってくれるとあり、あらゆることに対応してくれると云われています。
 今回、葛井寺の千手観音菩薩は実際に千本以上(1043本)あります。多方面での救済の為とはいえ一本一本丁寧に作られており信心と云うか、布教活動と云うか今の私たちには思いもつかないことではないかと思われます。奈良時代の昔にどうしてここまで造ることが出来たのか実際に近くで拝見して手の込んだ造作に感銘を受けました。

                                                                 平成30年2月    八大












氷川神社行幸(王城鎮護の社)

 明治天皇は慶応4年(1868)に江戸が東京に改称されると、すぐに東幸が決まり3,300人のお供を従えて京都を9月20日に出発し10月13日に江戸城に入る。その時すぐに東京城(とうけいじょう)と改称されました、いわゆる東京遷都です。この行列の様子についてはいくつもの錦絵などでご存知のことと思います。
 その後直ちにやったことは明治維新の祭政一致の方針として氷川神社を武蔵国の総鎮守として勅祭社と定める詔を発しさらに10月28日には氷川神社に天皇自らが参拝された。
 その行列も古式豊かに行われましたので展示されている絵巻物によって10M超える長さで1,000人以上の人々が参加されたことが分かります。東京城を発った明治天皇は中山道を進み戸田の渡しを「船橋」で渡り蕨で休憩し浦和宿本陣で宿泊し翌日に氷川神社に行幸しました。
 もちろん氷川神社が勅祭社に決められたのは武蔵国一之宮だったことでありましたが、奈良の平城京から平安遷都の際に桓武天皇が王城鎮護の神として賀茂神社に行幸したことに倣ったものと云われています。
幕末維新の歴史の中に突如として氷川神社が登場することになりました。
 その結果明治4年(1871)には氷川神社は伊勢神宮に次ぐ社格である官幣大社として国が祀る神社となりました。もちろん官選の宮司が派遣され今日に至っておりますが、こうして氷川神社は地域の神社から国の神社へと形を変えてくことになりました。
 その結果今までの例祭から勅祭になったため勅使が派遣され現在でも8月1日の氷川神社の例大祭には勅使が派遣され天皇からの幣帛が献じられ「東遊びの舞」が奉納されております。
 今年は通算すると明治150年にあたるそうです、大宮の氷川神社なんてとは云わないで武蔵国(埼玉県)の総鎮守であり東京城(皇居)の守護神であることを考えて散策してみるのも温故知新に繋がるのではないですか。
                           平成30年2月    八大













節 分 柊(ヒイラギ)の木

こんな寒い時期に咲くあまり目立たない花に柊があります。我が家でも隣との境に泥棒除けのためだったと思いますが,無味乾燥の気候の中、触ると痛い棘があり白色で小さな花がありました。目立たない花でしたが近寄って香りを嗅ぐとかすかなキンモクセイの香りが漂って何とも言えない小さな幸せを感じました。それは柊モクセイと名がありモクセイ科の木で葉の縁に棘があり触れるとヒリヒリと痛いので今は抜いてしまいました。
 花言葉には「用心深さ」「保護」「先見の明」とありますが、葉に棘がある事から寄せ付けない「用心深さ」、さらには魔除けになるということで「保護」という花言葉につながったと言われています。「先見の明」とは何でと思いましたら年を追うごとに葉の棘がなくなって丸い葉になるそうで「最初は危ないと思ってもそうではないというような変化」に繋がったといわれています。
私の育った田舎に限りませんが節分のときに柊の小枝に焼いた鰯の頭を刺して、玄関の外に飾る「柊鰯(ヒイラギイワシ)」がありますが、これはまさに「魔除け、保護」の役割で生まれた文化ですね。鰯の頭も信心からなんて今でも言われておりますね。


ちなみに、クリスマスに飾られる赤い実のついたリースも「ヒイラギ」の葉と聞きましたがこちらはモチノキ科の「西洋ヒイラギ」と云うそうで、名前は似ていますが別の植物だそうです。キリスト教では、キリストの足元から初めて生えた植物とされトゲトゲの葉や赤い実はキリストの流した血と苦悩を表しそこから別名「聖なる木」とも呼ばれているそうです。また、西洋ヒイラギは魔力があると信じられていて、キリスト教にもそのことが取り入れられ、同じく魔力を持つと信じられていたアイビーとともにクリスマスの飾り付けに用いられていますね。

                        平成30年2月3日    八大