氷川神社行幸(王城鎮護の社)

 明治天皇は慶応4年(1868)に江戸が東京に改称されると、すぐに東幸が決まり3,300人のお供を従えて京都を9月20日に出発し10月13日に江戸城に入る。その時すぐに東京城(とうけいじょう)と改称されました、いわゆる東京遷都です。この行列の様子についてはいくつもの錦絵などでご存知のことと思います。
 その後直ちにやったことは明治維新の祭政一致の方針として氷川神社を武蔵国の総鎮守として勅祭社と定める詔を発しさらに10月28日には氷川神社に天皇自らが参拝された。
 その行列も古式豊かに行われましたので展示されている絵巻物によって10M超える長さで1,000人以上の人々が参加されたことが分かります。東京城を発った明治天皇は中山道を進み戸田の渡しを「船橋」で渡り蕨で休憩し浦和宿本陣で宿泊し翌日に氷川神社に行幸しました。
 もちろん氷川神社が勅祭社に決められたのは武蔵国一之宮だったことでありましたが、奈良の平城京から平安遷都の際に桓武天皇が王城鎮護の神として賀茂神社に行幸したことに倣ったものと云われています。
幕末維新の歴史の中に突如として氷川神社が登場することになりました。
 その結果明治4年(1871)には氷川神社は伊勢神宮に次ぐ社格である官幣大社として国が祀る神社となりました。もちろん官選の宮司が派遣され今日に至っておりますが、こうして氷川神社は地域の神社から国の神社へと形を変えてくことになりました。
 その結果今までの例祭から勅祭になったため勅使が派遣され現在でも8月1日の氷川神社の例大祭には勅使が派遣され天皇からの幣帛が献じられ「東遊びの舞」が奉納されております。
 今年は通算すると明治150年にあたるそうです、大宮の氷川神社なんてとは云わないで武蔵国(埼玉県)の総鎮守であり東京城(皇居)の守護神であることを考えて散策してみるのも温故知新に繋がるのではないですか。
                           平成30年2月    八大













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