春日部にも剣豪がいた



春日部に剣豪がいた

春日部市有形文化財の楼門(仁王門) 時は幕末、武州多摩出身の近藤勇や土方歳三が新選組で活躍していた頃、春日部にも剣豪がいました。その名は逸見思道軒(へんみしどうけん)と云い甲州武田氏の末裔で武士から帰農して現在の春日部市藤塚で代々名主を務めていました。

思道軒は幼少のころから剣術を好み、真似事をして遊んでいたと云われていますが、長じて越谷の新道無念流中村道場、次いで久喜の同流宗家戸賀崎道場で本格的に剣術を学んでいたと言われています。免許皆伝を得た後、関東各地で武者修行に励み、郷里である藤塚に道場を構えました。農事に精を出すかたわら近在の商家や農家の子弟に剣術を指導し、一時は門弟の数は三百人を超えて隆盛を極めたと伝えられています。

その頃に小淵観音院に「逸見思道軒の奉納額」が二十年ぐらい前までは飾られていたことを記憶していますが、雨風による損傷が激しく音読不良のようでした。その後に
調査したところ内容が分かったということです。

江戸時代の後半には、打ち続く飢饉などの影響で無宿
物や博徒などが横行するようになり社会不安が広がり
ました。特に天領や旗本知行地が散在する関東では、大名領に比べて統治が緩く治安が悪化していました。武蔵の国では大名領はごく限られており、大半は天領と旗本知行地で、春日部の区域では天領、岩槻藩領、寺領、旗本知行地が複雑に入り込んでいたそうです。
こうした社会情勢を反映して、十八世紀後半ごろから冨農層の間で自衛手段として剣術に対する関心が高まっていたそうです。

しばらく前から旧家の古老から三本木公園の近くに思道軒の碑があることは聞いていましたが市道の際に堂々とした顕彰碑が建っているのを見つけました。家並みを改めて見返ると通りの向こうから竹刀の響きが
聞こえてくるようにも感じた。の地にも立派な偉
人が居られたことに考えを新たにしました。

令和二年   睦月          八 大












チバニアン ?

 チバニアンの地を訪ねて千葉県の養老川渓谷に行ったのは昨年の春であった。もみじの頃には多くの観光客が紅葉狩りを楽しむ観光客が多いそうですがこの時期は看板はあるものの静かな山里でした。近くの看板に 養老川流域田淵の地磁気逆転地層 (国指定天然記念物)があった。

今朝(1/17)のニュースで国際地質科学連合の理事会で約77万4千年前~約12万6千年前の地層「千葉セクション」が示す地質時代の名称が「チバニアン」に決定したとの発表があった。地質時代の区分を決める「国際標準模式地」(GSSP)日本の地名が認定されたのは初めてである。チバニアンとは「千葉の時代」を意味する。
今後は世界で72カ所目のGSSPとして、「ジュラ紀」「白亜紀」などと同様、地球の地質時代の名称として使用されるという。


地層のでき方 この一帯の地層は、水深数百メートルで形成された海底堆積物が大規模な地殻変動によって隆起して陸地となり、それが養老川の浸食によって露頭地層として現れたもので泥や砂が固まって岩石化したもので比較的柔らかいものです。
地質年代区分の境界線にあたる 地球の歴史46億年のうち比較的新しい約77万年の更新世前紀と中期の地質年代境界にあたるそうです。この年代の海底堆積層が陸上でみられるのは世界的にも極めて珍しいことだそうです。
地磁気逆転の証拠 地磁気は過去に何度も逆転を繰り返しているそうでこの地層中の鉱物を分析した結果、およそ77万年前に最後に逆転した痕跡が確認できている。地磁気逆転のメカニズムや逆転によって自然環境に与える影響など、まだ分かってないことが多いためこの地層には、将来の科学研究の重要な鍵が含まれているようです。
白尾火山灰層 養老川沿いの露頭には、約77万年前の古期御嶽山が噴火した時の火山灰が見られます。露頭付近の地名にちなんで白尾火山灰層と呼ばれています。堆積の厚さは2~3cmですが、上下の砂泥質の地層とは容易に識別でき、地質年代区分境界を視覚的に分かりやすく示す指標となっています。
海と陸の化石 この地層中には、海中の有孔虫化石・貝化石(軟体動物などが海底を這った跡)・生痕化石・陸上の花粉化石、などたくさん含まれているため、それらを分析することで当時の自然環境の移り変わりを知ることが出来るそうです。

写真でもわかる通り岩盤は滑りやすく手すりにつかまって降りていくと不安定この上ない。地質調査段階の痕跡が残っており、ここで77万年前に地球の南北の磁場(地磁気)が逆転した時期があり地球史上最後に逆転した時代とされている。
世の中には不思議なことがあるんですね、南北の磁気が逆転したことも不思議ですがそんなことが今の時代に証明が出来るなんて考えると目が回りそうですね。これからはこの地が世界のチバニアンとして賑わいが増すでしょう。

 令和二年  睦月         八 大  









 
 
 





















 新国立競技場 レガシーの裏に見えないものあり

 新しくできた国立競技場の周りをうろついてきました。改めて見ると大きいですね6万人が収容できると云うが欲を言うともう少し競技場周囲に余裕が取れなかったのかなと私は思った。当日はラグビーの試合があったので新設なった会場を一目見ようと、お客さんの姿で大変な賑わいを見せていた。


先日テレビのニュースで東京オリンピックの開催が200日を切ったと報道されていたので国民の目からもその注目度の高さが伺えるようだった。中でもチケットの予約に対する人気状況の一位はサッカーでその後は、開会式、体操競技、陸上競技、野球、水泳の順に続くらしい。そんな中でマラソンの会場が急遽北海道に行ってしまったのには、賛否両論があるとはいえ小池知事の言動にも注目が集まってもいた。

ここでオリンピックに水を差すつもりはないが掛かる費用について一言苦言を表したい。先月の暮れに大会組織委員会からの開催経費の総額が発表されました。「一兆3900億円」が事実上の上限となっていたその額は何と「3兆円超」となり余りにも大きな開きがあったことにびっくり仰天しました。一瞬耳を疑った人が多いと思います。
親方日の丸でこの際イケイケドンドンで後は知らないと云うことにならないことを危惧するのは私の老化現象なのでしょうか。

組織委員会の話や新聞等の話を聞くと、オリンピックのレガシー(遺産)の確保であると言うが、オリンピックのレガシーとは何ぞやと・・・?
オリンピックは、単に競技大会を開催し成功することだけが目的ではなく、開催によって、次世代に何を残すか、何が残せるのか、という理念と戦略が求められる事は充分に分かりますが・・・。

けれども当初予算を2倍以上も膨らんでしまうということについての説明は年末のどさくさに紛れ込ませてその声は途中で霞んでしまっている。政府は常にプライマリーバランスが大切だ、国債の赤字は1200兆円を超えている現状については何の手も打つことが出来ない事はあまりにも無責任ではないかと思いますが皆さんは如何思いますか。2012年に開催されたロンドンオリンピックの事例に見習うべきではないかと思う。

 令和二年  睦月         八 大














 生死一如 (キッチンとトイレ)

 昔からよく「生と死」は台所と便所のようなものと例えられていたのを聞いたことがありました。 台所は一家が集まって楽しい食事をし団欒をする楽しいところで陽の場すが、便所は一人で寂しく居る陰の場所です。一軒の家に台所と便所があることでいつも安心して生活が出来ることは当たり前のことと思っており、多くの人達はどうすれば明るく楽しく生きていけるかと云うことだけを考えています。


 一方では死ぬのは苦しくて暗くて恐ろしい事だから見ないように考えないようにしている人たちが多いように思います。ましてや便所の有難さなんては考えたこともなかったですよね。しかし私たちも生まれたからには必ず死ななければならないことは宿命です。どんなに死にたくないと云ってもそれを避けることは出来ません。

 人は一日一日間違いなく死に向かっています、100%確実に死ななければならないのに死んだらどうなるか分からず真っ暗な闇の状態では明るい生き方は出来ないでしょう。どれだけ死を忘れていたとしても、死を自覚するようになると「自分の一生は何だったんだろう」と思うようになりスピリチアルペインに襲われます。それは人生最大の問題を解決していなかったからであります。

「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。死を見つめることが生を見つめることでいつ死んでも我が人生に悔いなしと云うような身になって初めて大安心大満足の明るい人生がを送ることが出来るというのが生死一如というそうです。明るく楽しく今を生きるには、必ずやってくる死の問題を解決してこそ今が輝くと云われます。仏教では死を見ないようにしてゴマカス必要はないと云っております。

 令和二年    睦月       八 大



 出雲大社 雲太・和二・京三」

 出雲大社は正式名称を「いずものおおやしろ」と言い、ご祭神は大国主の大神と云います。式内社(名神大社)で出雲国一之宮で旧社格は官幣大社、神社本庁の別表神社である。
また明治維新に伴う近代社格制度下においては唯一の「大社」を名乗る神社であった。

『日本書紀』には、国譲りの代償として、高天原の側が大国主命に対し、壮大な宮殿を造って与えた事が書いてありますが、これが出雲大社の始まりと記されている。いわゆる国譲りの神話ですが、その創建についての年代については明らかではありません。
 けれども、『出雲国風土記』には杵築大社(きつきたいしゃ)が載っていまして、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築いたという伝えがありますので、少なくとも8世紀には、大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたことが伺えます。

 平安時代中ごろの言い伝えでは、「雲太、和二、京三」という大きな社がありますが、その中でも出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、その次が京都御所大極殿の順でありますと。出雲大社本殿の高さは、16丈(48,48m)と云う壮大な建物であったろうと考えられます。更に遡ること上古の神代には32丈(おおよ96ḿ)であったと云う伝承があり、それを裏付ける金輪造営図の他、平成12年の調査の際3本一組の巨大な柱根(宇豆柱)が発掘され、巨大な神殿の存在が裏付けされました。これが現在と同じ8丈(24,24m)の高さに縮小されたのは、鎌倉時代の中頃からであるといわれています。現在の本殿(国宝)は延享元年(1,744)造営されたもので
あると言う。
 本殿は大社造りの代表で、屋根は切妻造り、妻入りで、内部は心御柱(しんのみはしら)を中心に田の字型に仕切られ、神座は向かって右から左へ向いている。屋根にそびえる千木(ちぎ)は外削(そとそぎ)で、3本の勝男木(かつおぎ)の長さは5,4mと巨大なものであります。

 出雲大社には、多くの祭礼がありますが中でも神在祭(かみありさい)は御忌祭(おいみまつり)ともいわれ、旧暦10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に参集され、会議をされるとの伝承に基づいた祭りが今でも受け継がれております。その前日の10日の夜、海の彼方から来る神々を迎えるため、稲佐(いなさ)の浜で神迎(かみむか)えの神事が行われ、神の使いである龍蛇(りゅうじゃ)を曲物(まげもの)に載せて本殿に納める。神々は境内左右にある十九社に宿り、上宮(かみのみや)において神議されるのであります。出雲大社を出発した神々は、佐太神社に移って再び会議をされることになる。従ってこの時期には全国各地におられていた神様は不在になっているのですよ・・。
出雲大社はその壮大な建物や、伝統的な神事等はやはり神話の国出雲の代表的存在であります。

 令和2年  睦月         八 大