外郎(ういろう)

小田原城と外郎(ういろう)

久し振りの晴れた日に小田原城を訪ねた。急な階段を一気に天守閣まで駆け上がってみると家並みの向こうに大海原が広がり素晴らしい眺望であります。この相模灘を越えると伊豆諸島に繋がりその先の大海原の向こうに北アメリカ大陸に繋がっている。黒船来航もこのルートを通って来たことを思うと何となく親しみを感じる。

15世紀頃に大森氏が城郭とし、北条早雲の攻略以降、北条氏の本拠となった。北条氏は城を逐次改修し、上杉謙信や武田信玄の侵攻をも退けた難攻不落の城となり、関東を制覇した。そのころ豊臣秀吉が天下統一を目指し、4代氏政に降伏を勧告したが、これを拒み、1589年(天正17)から城の防御力を高めるべく、土塁や堀で城下町を含む総延長9kmにおよぶ総構えを構築したが、城は1590(天正18年)年秀吉軍率いる20万の大軍に包囲され、3ヶ月余の籠城戦のうえ開城され、徳川の譜代大名大久保忠世・忠隣によって近世城郭として整備された。

小田原の名物に「外郎」(ういろう)というお菓子があります。中国元の時代に王様が汗臭さを打ち消すために仁丹によく似た形状で口中清涼・消臭薬として使用された大衆薬がありました。応安年間(1,370年ごろ)陳宗敬という医者が日本に渡来し、以後代々医を業として「外郎家」(ういろうけ)と呼ばれ「透頂香」などの薬を製造していましたが、この透頂香が外郎(ういろう)と通称されて普及したと云われています。

九州の博多で創製したものが京都を経由して小田原に伝わったもので去痰(きょたん)の丸薬として売り出したものである。ういろうは蒸し和菓子の名で、もち米粉、うるち米粉、黒砂糖、くず粉などを練り合わせ蒸したもので白砂糖、抹茶、ワラビ粉、ニッケイなどで風味をつけたものであります。

外郎(ういろう)と切っても切れない物に「外郎売」(ういろううり)と云うものがあります。享保3年(1718年)正月、江戸森田座の『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の演目の一つである。その劇中に出て来る外郎売の長台詞が有名で俳優や声優などの養成所、或いはアナウンサーの研修等で暗唱、発声練習や滑舌の練習に使われています。それを演ずると8分程の時間がかかるそうですが、それを見てファンの皆様は待ってましたとばかり大喝采となります。

小田原外郎とは元来、小田原の外郎家が製造・販売する薬を指していましたが、和菓子の「ういろう」はその口上の口直しの為に出されたものと伝えられたいます。最近は美味しい和菓子も多くありますが時には、お茶うけに「ういろう」などは如何ですか。

 令和3年 神無月         八 大













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