嵯峨野路その5

「きぬかけの道」                                 
仁和寺を出て龍安寺に向かって歩いて行くと「きぬかけの道」の標識が出てきた、衣笠山の裾野ではあるけれど きれいな名前だ思った。裾野を見上げると色づいたモミジが彩りを添えて散歩をするには楽しいところですね。以前は観光道路と呼ばれていた気がする。後日調べてみるとなんと平成3年(1997年)に愛称を公募して命名されていたことを知りました。

道の途中・天授庵
宇多天皇が真夏に雪見をするために衣笠山に絹を掛けたと伝えられる故事にちなみ「きぬかけの道」と名前を付けられたと云います。地図を広げてみると周辺には多くの社寺が数多く点在しており平安から鎌倉、室町時代にかけて隆盛を誇った皇族貴族の歴史を今に伝える観光地域になっています。

歴史と伝統を誇る古都の道路名などは簡単に変えられるものではないと思いましたが、道路の愛称が30年前に変えられた事があったとは不思議に思えた。よく考えて見るとこれは京都の先取性にあるのではと思われます。角倉了以を始め京セラ、島津製作所、ワコール、日本電産等々の創業者達は古い土地柄に合っても新しいものを取り込んで行く姿勢は素晴らしいものですね。これぞ温故知新の心だと思います。

「龍安寺」                                    坂道を上がっていくと左手に池を望み方丈が見えて来る。明応8年(1499年)の造営と云われますが白砂の上に15個の石が配置された枯山水庭園で、虎が子供を連れているように見えることから虎の子渡しの庭とも云われます。一般的には虎の子渡しの庭あるいは、七五三の庭と云われている。春夏秋冬いつ来てみてもこの庭は変わっていないのに受ける自分の感じ方は違っていることが多い、正面に見える油土塀の落ち着きに自分が惑わされてしまうのかもしれない。

寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配されており、75坪程の枯山水庭園は虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも云われている。平成6年(1996年)に世界文化遺産に登録された

この石庭の作庭意図には”禅の精神”心の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく今だ謎のままである。けれどもこの謎こそがこの庭の解釈をめぐり人々を引き付けてやまない理由と思います。

昔の話になってしまいますが昭和50年にイギリスのエリザベス女王が日本を訪れた際、石庭を見学されました。当時の新聞には女王が絶賛したことが書かれており、海外のマスコミでも報道され石庭の名前は瞬く間に世界に広がったと云われます。現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となっています。


 令和3年 霜月         八 大

⦿ 拝観停止の話 石庭・油土塀の屋根の杮葺替え工事の為                          令和3年12月6日~翌年3月18日まで拝観を停止するそうです












嵯峨野路その4

 仁和寺の歴史 

五重の塔
仁和寺は創建から1100年を超える、京都を代表する名跡で真言宗御室派の総本山です。国宝の金堂や阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像の他多くの文化財を有し境内の一部も国の史跡に指定されています。また中門一帯に植えられた「御室桜」は背が低い事で知られて、当時の姿を今に伝える名勝地として数多くの歌人や俳人にも詠まれています。「私しゃお多福御室のサクラ 背は低くとも花は咲く」

寺の歴史は仁和2年に「西山御願寺」として建立を発願されましたが、先帝が崩御されたため第59代宇多天皇が遺志を継がれ仁和4年(888年)に完成したもので、寺号も元号から仁和寺となりました。それ以降皇室の出身者が代々の住職(門跡)を務めた為、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保持しました。

しかし応仁元年(1467年)からに始まった「応仁の乱」で一山のほとんどを兵火で焼失しましたが、阿弥陀三尊や多くの宝物などは近くの塔頭寺院の真光院に移されていた為に法灯と共に今に伝えられております。応仁の乱から160年後、寛永11年(1634年)徳川3代将軍家光によって仁和寺の再興が承諾され正保3年(1646年)再建が完了し創建当時の姿に戻ることが出来ました。

御殿と庭園
慶応3年(1867年)第30世純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史が終わりました。昭和の時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994年)古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録されて新たな歴史を刻んでいます。 ⦿ 還俗 (げんぞく)とは 僧が僧籍を離れて、俗人になること。

仁和の教え 「 は慈しみ、思いやり  は和やか、平和の和 」 

仏教詩人「坂村真民」さんが言った言葉に「人間は年を取って体の機能や動きは衰えますが気持ちや心まで落ち込ませてはいけません。老いることをあきらめるのではなく「念ずれば花開く」という言葉を胸に私達は、幾つになっても常に前向きにしっかりと生きることを忘れないで下さい・・と。」単なる長生きでは意味がない、本当の長生き=名が生きを目指して豊かな人生を送りたいものです。 


 令和3年  霜月         八 大 









嵯峨野路その3

百人一首の話(藤原定家と蓮生)

 祇王寺から清凉寺釈迦堂に向かう道を歩くと、道端の看板に目が留まった。「中院山荘跡」とありよく見ると「新古今和歌集」などの選者の一人であり「小倉百人一首」を編纂した藤原定家がここの小倉山の麓で作歌活動をしていたところであり、思わず目を閉じて想像を膨らませてしまいました。

「小倉百人一首」は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した藤原定家の息子の妻が、下野の国の城主だった宇都宮頼綱(法名・蓮生)の懇望によって作られたものである。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び年代順に色紙にまとめたもので、当時は小倉色紙などと呼ばれたていたが後になって定家が中院山荘(小倉山荘)で編纂されたことから「小倉百人一首」という通称に定着したそうです。

当時は神社・仏閣・貴族の邸宅などの襖や障子に色紙を貼ることが行われており、特に定家のような当代一の大歌人であり選者の書いた色紙ならば別邸の誉れとなると蓮生は思い、襖の色紙を定家に懇望しました。高齢の定家は中風を患いながらもこれを承諾し古来からの歌、各一首を天智天皇より順徳院までの秀歌百首を選んでいます。和歌を愛した蓮生の懇望がなかったら「百人一首」の誕生はなかったのではとも思います。

私の古くからの同級生が宇都宮市周辺に住んでおりますが、その仲間が故郷の街興しのテーマを考えたところ下野の国の五代目城主‣宇都宮頼綱公と「小倉百人一首」に繋がったという事でした。歌留多での街興しは毎年順調にすそ野が広がり、令和元年には第25回を数え参加者が700人を超え会場の体育館が満員だったそうです。

 私の推薦三句

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」持統天皇

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」藤原定家


 令和3年  霜月        八 大




 
















嵯峨野路 その2

                                                                                  

北野天満宮
 北野天満宮  通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、楼門と拝殿の間に建つ中門は三光門と呼ばれ壮麗な造りと上部に掲げられた後西天皇宸筆の『天満宮』の勅額は神社のシンボル的な建築である。三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として神社の七不思議に数えられている。 社殿と同じく桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。


おかめ像

千本釈迦堂
千本釈迦堂 12月の風物詩である大根炊きで知られる大報恩寺ですが本尊の釈迦如来坐像があります。文永年間(1270年頃)「徒然草」に「千本の釈迦念仏如輪上人これを始められけり」と書かれていたので通称でそう呼ばれています。徒然草228段には文永の頃「千本の釈迦念仏は如輪上人これを始められけり」と当寺に記されています。またこの本堂は応仁の乱にも焼けることなく創建当時の物で洛中では最古の現存構造物で国宝になっています。その他にも本堂の建立に関して大工の妻「おかめ」さんに関する厄除け信仰の伝説が伝えられている。


平野神社
平野神社 平安京の北方の平野の地に鎮座する神社で、桓武天皇の生母、高野新笠の祖神として平城京に祀られていた渡来系の神様であったが平安京遷都にに伴って大内裏に移し祀られたことに始まる。延喜式に記されている古くからの神社で平安時代には例祭 (平野祭)において皇太子自らにより奉幣が行われていました。多くの降下氏族から氏族として歴史的に崇敬された神社でありました。ご祭神は「今木神」「久度神」「古開神」「比売神」の四神で源氏‣平氏・高階氏・大江氏の他、中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており「八姓の祖神」と称されたと云います。


わら天神
わら天神宮 地元京都人が親しみを込めて「わら天神」と呼ばれておりますが正式には「敷地神社(しきちじんじゃ)」です。その名が有名過ぎて本当の名称を知る京都人は多くないと云われています。                    古くから安産にご利益あるとされており、戌の日の安産祈願には参拝客が大勢だそうです。主祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」で一夜にして懐妊し次々と3人の子を出産したという逸話から全国に広がったと云われています。安産のお守りとして藁が授与されることからその通称があり、藁に節があれば男児、節がなければ女児が誕生すると言われている。

次回に続く


 令和3年 霜月         八 大




























嵯峨野路散策

                     

渡月橋
久しぶりに時間を遣り繰りして紅葉の嵯峨野路に出掛けることにしました。先ずはこの時期、最も人気のある橋と云ったら「渡月橋」ですね。ここから足の向くまま気の向くまま昔の思い出を浮かべながら、行き当たりばったりの旅のスタートです。               こちら嵯峨野と対岸の嵐山を隔てて流れる桂川に架かる橋ですが、第90代天皇だった亀山上皇(南朝・大覚寺統の祖)が橋の上を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似たる」との感想を述べたことから渡月橋と名
天龍寺
付けられたと言われて
います。

桂川沿いを右に折れると京都五山で第一の寺格を誇る「天龍寺」の門前にでる。度々の火災に遭ったため現在の堂宇の多くは明治期の再建であるが夢窓国師のによる池泉回遊式庭園は国の史跡・特別名勝第一号に指定されています。平成6年には世界文化遺産に登録されています。大方丈の正面から眺める曹源池の眺めは小さな島国から大海原への広がりを見
せており世界への広がりを思い浮かばせる
野宮神社
ものだ。

人の流れについて歩くと山陰本線踏切の手前
に黒木鳥居の宮神社(ののみやじんじゃ)がある。豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向かう前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であります。天皇が代替わりすると未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され一年間嵯峨野の清らかな
場所を選び造営された野宮に入り潔斎して伊勢神宮に臨む。その様子は源氏物語賢木(さ
落柿舎
かき)の巻の舞台とされ、謡曲「野宮」の題
材にもなっております。現在の鳥居は樹脂加
工されており、樹皮の付いたままのクヌギの原木を使用し作られた貴重な「黒木の鳥居」で形としては日本最古の鳥居形式を伝えてい
るそうです。

竹林の道を抜けると藁ぶきの屋根が見える「落柿舎」の出迎えあり、暖簾を分けると生憎と先客あり・・・向井去来の墳に手を合わせまたの機会に逢いましょう。坂道を上ること12分行き止まりの拝観受付「祇王寺」のおばちゃんの笑
祇王寺
顔が迎えてくれた。平清盛の寵愛を受け、後に
捨てられて出家した白拍子の祇王と祇女と若い
仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われ母
親と共に尼となった。往生院の庵で後にいつか我が身も同じ運命と悟った仏御前が旧縁を捨てた祇王母娘に加わり四人で念仏三昧の余生を送ったと云う物語あります。


次回に続きます


 令和3年 霜月         八 大

















牛島公園のコスモス

春日部市の 古利根川沿いに「牛島第二公園」があります。今コスモスの花が見ごろを迎えています。近くの幼稚園の園児や介護施設の皆さん達がたくさん訪れて最近にはなかった賑わいを見せています。公園内には一段と高い「見晴らし台」も設置されており高台からの眺めも一見の趣があります。

又この公園は小さいながらも季節ごとに「ポピー」や「向日葵」「コスモス」と霜の降りる12月頃まで楽しめるように準備がなされており、ぞれぞれの花の咲くころには多くの人                     達が訪れて賑わいを見せております。

隣接した児童公園は「クレヨンしんちゃん」で有名になった遊具もあり子供たちにとっても絶好の遊び場となっています。目の前の古利根川には「ポケットパーク」と呼ばれる公園もあり散歩コースともなっております。水辺には「鴨」や「シラサギ」を始め野鳥たちが羽を休めていますが、時にはあの美しい姿の「カワセミ」を見ることもあり楽しさ一杯の人気スポットです。

水と緑とコスモスの花が溢れる公園ですよ!

「コスモス」と云う言葉を最初に用いたのは!、あの有名な哲学者ピタゴラスがギリシャ神話の中で秩序・整然・調和ある世界、すなわち「宇宙」と云ったものからコスモスと云う言葉が生まれたと言われています。つい花を見てコスモスと云ってしまいますが、あの当時の空を見上げてコスモスと云う言葉を発したそうですよ。

 令和3年 霜月        八 大