蕗の薹(ふきのとう)の知らせ

 今朝早く正月を迎える最後の仕事として落ち葉の掃き取りをしていると、庭の片隅の枯葉の下に緑色のボールのようなものを見つけた。何だろうと思い落ち葉を祓ってみると何と丸々と太った「蕗の薹」であった。こんなに早い時期に季節を間違えたのか、それとも、一刻も早く私に知らせたいことがあったのか・・?ビックリ!ポンです。

このところ世界中がコロナ禍の騒ぎが長引いており、お正月どころではないようでストレスが一杯の人が多い様です。朝の新聞記事にも新規感染者数という見慣れたグラフが表示されておりチエックが毎日の日課になっております。そんな中、季節外れの私への知らせは何の話だろう耳をダンボにして地面を見つめて考えているところです。

フキは、一つの株から花と葉柄が別々に育つ、少し変わった植物です。フキとして食用にしているのは葉柄の部分で、長く伸びているので茎のように見えますが実際は葉の一部にあたり、円形に広がる葉と地下茎を結ぶ通路の役割があるんだそうです。そして花蕾が、蕗の薹(フキノトウ)と呼ばれてる部分です。食べ頃は開花前のつぼみの時で那須地方では2月~3月頃に 出て春の到来を感じさせます。

蕗の薹が花をつけた後に葉が伸び出し葉柄が長く育って、食用のフキ(フキの煮びたしやキャラブキ)が4月~6月頃になります。 蕗の薹の知らせに期待をして一年の締め括りにしたいと思います。ご愛顧の皆さんにとって来年が良い御年でありますようにお祈り申し上げます。

 令和3年 師走・大晦日      八 大

認知症の話

 認知症とは厄介な生き物だ! 

私の知人に軽い認知症の先輩がおられました。この頃は病気の患者さんが急激に増えているそうで時々トンチンカンなことを言い出しますが回りの皆さんは、心得ていて「そうだよそうだよ、そうだったよね」と否定することなく事を収めることが大切と云われています。認知症の半数近くがアルツハイマー型認知症であるとも云われています。

アルツハイマー博士
アルツハイマーという病気はドイツ生まれの医学者で精神科医の、アロイジウス・アルツハイマー氏1864年生まれ)が 嫉妬妄想・記憶力低下などを訴えた女性患者の症例を精神医学会に発表したことから、この症例が後にアルツハイマー病と呼ばれるようになったと云われます。多くの医学・薬学研究者の生涯の研究テーマとして現在も研究が続けられている。

認知症は、脳の病気や障害など様々な原因により、認知機能が低下し、日常生活全般に支障が出てくる状態を云います。認知症にはいくつかの種類があります。アルツハイマー型認知症は、認知症の中で最も多く、脳神経が変性して脳の一部が萎縮していく過程でおきる認知症です。症状は「もの忘れ」で発症することが多く、ゆっくりと進行していくそうです。

次いで多いのが脳梗塞や脳出血などの脳血管障害による血管性認知症です。障害された脳の部位によって症状が異なるため、             一部の認知機能は保たれている「まだら認知症」が特徴です。症状はゆっくり進行することもあれば、階段状に急速に進む場合もあるそうです。現在でもその原因が判らないので治療方法もなく脳が萎縮して小さくなり死に至る病気である。

年を取るほど認知症になりやすいと云われていますが、日本においては65歳以上の人の数は2020年度現在で約600万人と推計され5年後には約700万人(高齢者の5人に一人)が認知症になると予測されているそうです。  

認知症を重症化させない為には、物忘れの兆候を感じたらそのサインを見逃さない事だ!                    最近では高齢化・核家族化が進み、ワイワイがやがや状態の現象が大幅に減っていることも大きな原因の一つではないかと思っています。認知症の予兆を知っておくことが大切です。物忘れの初期の出来事を知って、自分に言い聞かせる事が大切。「下段にメモを」                                           

物忘れ(記憶障害) 同じことを何回も聞く、身近なものをしまい忘れる、約束を忘れる、    人の名前が出てこない、同じものを何個も買ってしまう等                時間・場所が分からなくなる 日付や場所が分からなくなる、慣れてる道で迷うこともある、出来事の前後関係が分らないことあり等                           判断力が低下する 銀行カードの出し入れに戸惑う、車の運転ミスが多くなる、人の説明を聞いても分からない時がある等                            身の回りのことで 身だしなみに構わなくなる、食べこぼしが多くなる、入浴の仕方に躊躇する、失禁が起こる、スケジュール表が混乱する等

後期高齢者となった私達も近い将来必ず心配される事なので今から対応を考えておくことです。多くの人が認知症の心配があるのなら希望を持って日常生活を過ごせる「共生の社会」を創っていく事が重要なんでしょうね。 

 令和3年  師走        八 大











木枯らし

 木枯らし

秩父での木枯らし
このところ寒い日が続きましたがいつまで木枯らしが吹くんだろうかと手元の手帳で調べてみると「日本の太平洋地域において晩秋から初冬の間に吹く風速8ⅿ/s以上の北寄りの風」のことで冬型の気圧配置になったことを示す現象を云い「凩(こがらし)」とも表示する。

気象庁では東京においての木枯らしの条件として「10月半ばから11月末までに限る」「気圧配置が西高東低の冬型で季節風が吹くこと」「東京における西北西~北の風である」「東京における最大風速がおおむね8ⅿ/s以上であること」です。それより遅れて師走のころに吹く北風は単に北風と云うそうです。

春日部の木枯らし
大阪においての木枯らしの条件は「霜降(10月23日頃)から~冬至(12月23日頃)まで」「気圧配置が西高東低の冬型」「北よりの風で最大風速が8ⅿ/s以上である」。以上の条件を満たした風を「木枯らし」と認定するといいます。                 毎年秋に木枯らし1号が発表されていますが1951年からの記録がありますが全国的ではなく、関東地方と近畿地方でしか発表はありません。 1991年にこの基準が認定されて採用されていますが発生しなかった年もありました。

木枯らしは年中行事のように廻って来ますがそのメカニズムが面白いですね。それはユーラシア大陸から日本に向かって吹いて来る冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含む、そして一般に日本列島の中央部には連山があるために日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失う。その結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となりこれが吹き抜けることによって乾いた木枯らしとなるという。

 令和3年 師走         八 大







嵯峨野路その10

 嵯峨野路を歩いてから一か月が過ぎてしまいました。この際だからとして意気込んでみたものの心中の火種に心残りはありますが雑事に追い回されていっこうに進みません。元来の遅筆が災いして季節に追いつけなくなってしまい申し訳なく思っています。        嵯峨野路編はこの辺で一区切りにしたいと思います。                 

空也上人
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は平安時代の歴史書「扶桑略記」によれば、踊念仏で知られる市聖(いちのひじり)「空也上人(くうやしょうにん)」が十一面観音を造立し疫病の蔓延する京都でこの観音像を車に乗せて引きながら歩き、
念仏を唱え病人にお茶をふるまって多くの人達を救ったと云われています。その頃鴨川岸では遺体の捨て場であって葬送の場所になっていたと云います。 空也上人の口元から仏様が出て来る挿絵を見たことがあるでしょう。

平安時代の末期には近くに阿弥陀堂が立ち平清盛によって京都を守護するための六波羅探題と云う館も出来てその周辺一帯が平家に有らずんば人にあらずと云われた時代がありましたが、寿永2年(1183年)平家が都落ちした際に炎上しこのお寺も類焼してしまったという事です。その後鎌倉・室町を経て江戸時代までは大伽藍を連ねていたが明治維新の廃仏毀釈を受け現在の寺域は大幅に縮小されている。

八坂神社 

八坂神社
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする神社(約2,300社)の総本社と云われており通称祇園さんと呼ばれており祇園祭の胴元としても知られています。元の祭神であっ牛頭天王が祇園精舎の守護神であることから祇園神社または祇園社と呼ばれていたものが慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。隣接して丸山公園があることから地元の氏神(産土神)としての信仰を集めています。

社伝によれば斉明天皇2年(656年)高句麗から来た伊利之使主(いりしおみ)の創建と云われる。牛頭天皇は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、韓国において信仰された形跡はなく日本独自の神といわれる。山城国愛宕郡八坂郷に祀られ「八坂造(やさかのみやつこ)」の姓を賜ったことに始まるそうです。

をけら
「をけら詣り」 京都の年末の風物詩として12月31日の午後7時半頃から元旦の早朝5時ごろ迄執り行われる「をけら詣り」があります。本殿にて一年を締めくくる除夜祭の後神職により灯籠に火がともされ、白朮(をけら)灯籠に灯された吉兆縄に点火し一年間の無病息災を祈願した火を消さないように縄をくるくる回しながら自宅に持ち帰ります。神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種とする新年の習わしが「をけら詣り」である。一年の締めくくりをお世話になった竈の神様迄にも感謝をするこころ・・風情がありますよね。


 令和3年 師走        八 大
















嵯峨野路その9 (知恩院と増上寺)

 正面の石段を登ろうとすると目の前に覆い被さるように山門が迫り、これぞ圧巻です。

知恩院三門
知恩院 法然上人が開山した浄土宗総本山の寺院で正式な名称は「華頂山知恩教院大谷寺」と云います。法然上人が後半生を過ごし没した地に建てられた寺で現在あるような大規模な伽藍が建てられたのは江戸時代以降であります。徳川将軍家から一般の庶民まで広く信仰を集め今でも京都の人達から「ちおいんさん」と呼ばれています。

知恩院の歴史を細かく述べるのは長くなるので省略しますが、江戸時代以降に浄土宗の門徒であった徳川家康が慶長13年(1608年)から寺地の拡大を進めたのは二条城と共に京都における徳川家の拠点とすることで威勢を誇示し京都御所を見下ろし朝廷を牽制するといった、政治的な背景もあったとも云われています

増上寺三門
同じ浄土宗の大本山増上寺(東京都港区芝公園四丁目)がありますが山号を「三縁山広度院増上寺」と称し徳川家とゆかりの深い寺があります。室町時代明徳2年(1393年)浄土宗第八祖、酉誉聖聰(ゆうよそうしょう)の時に真言宗から浄土宗に改宗し寺号も増上寺と改めた。中世以降徳川家の菩提寺になる前、天正18年徳川家康が江戸入府の際たまたま通りかかった寺の住職(源誉上人)との対面が菩提寺になるきっかけだったと云われています。     (江戸城の裏鬼門との説も)

増上寺大殿本堂
徳川家威光のもとに権勢を誇った増上寺でしたが明治維新後神道国教化政策の下、半官半民の大教院神殿がおかれ参道には通常神社に建てられる鳥居が置かれたことも。また排仏主義者によって放火されたり徳川幕府の崩壊により神仏分離の影響によってその規模は大きく縮小された。また太平洋戦争の空襲によって徳川家霊廟や歌川広重の名所江戸百景にある五重の塔などが焼失し大きな被害を受けたのはご存知の通りです。(東京タワーはその代りではない)

三門とは 元来は門の形式で中央の大きな門と左右の小さな門との三つの門を連ねて一門としたものです。仏教寺院に用いられた結果、お寺の仏殿前の門を形式に関わらず三門と呼びます。三解脱門とも云われ、三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)を解脱する門と云う意味だそうです。山門という呼ばれ方もありますが古い時代には山林の中に建てられていたので山門と呼ばれていたものです。また三門には一般の人が仏門に入ることを拒まない仏の慈悲心を表わすもので扉を設けないものであったそうです。

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嵯峨野路その8

 南禅寺と琵琶湖疎水

南禅寺三門
南禅寺の正式名称は太平興国南禅寺と号し臨済宗南禅寺派の大本山のお寺で、開山は大明国師で開基は亀山法皇である。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で日本の禅寺の中で最も高い格式を持つ。南禅寺建立以前にこの地に亀山天皇が離宮として「禅林寺殿」を建立しそれから持仏堂を立て南禅院と名付けたのが始まりでその後に南禅寺と云う寺号に改めたのが正安年間(1299年~1302年)のことである。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが足利義満が1385年に自分が建立した相国寺を五山の第一とするため南禅寺を別格として五山の上に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭寺院(たっちゅうじいん)を60カ寺を要する大寺院となったため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなった。その後2度目の火災の後に応仁の乱が勃発、市街戦も広がり後の復興には多くの時間が掛かったが徳川家康の側近として「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が臨済宗寺院を統括する役職を務め復興に努めた。
疎水トンネル

琵琶湖の水を京都へ引くことは、昔から京都の人々の願いでした。長いトンネルや正確な図面を作る技術はありませんでした。そんな中その計画を実現させたのは第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。幕末の戦災と明治維新による東京遷都により衰退した京都の復興には「琵琶湖疎水」を建設することだ。

無鄰菴

当初の目的は田畑の灌漑、精米水車、運輸、防火、水道・・等が予定されていたが途中から水力発電が加えられ困難を極めた長期に渡る難工事でした。そんな中工事の途中でも古都の景観を破壊するとして反対の声も上がって南禅寺の三門に見物人が殺到する騒ぎもあった。また明治維新直後には上地(あげち)(民間から政府に召し上げられた土地)に遭い寺領の多くを失った為廃絶に追い込まれた塔頭寺院も少なくなかった。

對龍山荘
蹴上浄水場の完成を持って京都市の水道事業が明治45年に誕生しました。豊富な水は多様な用途と新たな価値を生み出しました。その一つが大きな庭園への引水でした。山県有朋公の別荘、無鄰菴を皮切りに南禅寺周辺には清流亭、碧雲荘などの広大な別荘ができ、疎水の水が流れる回遊式庭園が造られ貴重な空間を見せている。その多くに精魂込めて作られたのが庭園造りの名人「植治」こと小川治兵衛の存在を忘れることは出来ません。

南禅寺から山門をでて
天授庵・金地院・料亭八千代・對龍山荘の辺りは現在でも大きな区画で疎水を引き入れた池泉回遊式庭園はほとんどそのまま形を残しております。40年程前に伺った流饗院(龍村美術館)のお庭を拝見した時には紅葉の鮮やかさにこんな空間を独り占めできたことは今でも忘れられない思い出として印象に残っています。現在は真如苑が所有されています。現在15区画のお屋敷(別荘)の庭園となっていますが拝観できる処もいくつかありますので是非とご覧になる事をお勧め致します。

 令和3年 師走        八 大












嵯峨野路その7

禅林寺(永観堂) 
禅林寺 は当初真言宗の道場として貞観5年(863年)清和天皇により禅林寺の寺号を賜り浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺である。その後中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師の時に阿弥陀仏の熱心な信者になり念仏の寺として浄土宗のお寺に変わった。阿弥陀仏像を安置し病人救済や慈善事業なども行った。この永観律師が住したことにより永観堂と呼ばれるようになった。紅葉の名所としても知られ「秋はもみじの永観堂」と云われて今賑わいを見せております。

永観堂の本尊阿弥陀如来立像は顔を左に曲げた特異な姿「見返り阿弥陀」とも云われている。何故そんな姿かと云うと当時50歳の永観が日課の念仏を唱えていたところに阿弥陀如来が須弥壇から降りてきて一緒に念仏を始めたといいます。びっくりした永観が歩みを止めていると阿弥陀如来が振り返って一言「永観、遅し」と言ったという。それ以来阿弥陀如来の首の向きが元に戻らずそのままの姿にあると云われている。

晶子の歌碑
左を振り返った阿弥陀如来の姿は「思いやり深く周囲を見つめる姿」「愛や情けを掛ける姿勢」「遅れた者たちを待つ姿勢」といった解釈がされているようですが、実際に「見返り阿弥陀」を間近かに見ると、そのささやきが聞こえてきそうでな感じを覚えます。

この時期の紅葉は何処へ行っても赤のグラデーションで美しい、この一枚も圧巻です。背後に映った多宝塔に別れを告げ急斜面のもみじのトンネルをくぐり抜けると足元に与謝野晶子の歌碑を見つけた。「みだれ髪」の中にある一節ですが、与謝野晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われてこの永観堂の紅葉を愛でていた、その心の中の思いは・・・  

『秋を三人椎の実なげし鯉やいずこ 池の朝かぜ手と手つめたき』 詠みながら南禅寺へ

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嵯峨野路その6

今日も金閣寺は輝いていますネ・・・』と云っていた初老のご夫婦がおられた。

金閣寺
金閣寺の正式名称は北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)と云い臨済宗相国寺派の塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から金閣寺として知られています。寺の名前は室町幕府3代将軍、足利義満の法号である鹿苑院殿から名付けられました。その歴史を紐解くと600年以上も昔に遡ります。京都の北山にある西園寺家(さいおんじ)の邸宅と庭園を譲り受けた足利義満は1397年に山荘である北山殿(きたやまどの)の造営に着手し翌年に舎利殿が完成し51歳でこの世を去るまで住処としていました。

鏡湖池
金閣の目の前に広がる「鏡湖池(きょうこち)」は大小の島々との背景が美しく水面に金閣が反射し鏡の中に足を踏み入れた気分を味わえます。鹿苑寺庭園として特別名称指定地となっており池泉回遊式庭園の代表的なお庭とされています。

金閣寺は建立されて以来、さまざまな時代の流れの影響や災難を受けていますが1467年の応仁の乱では多くの建物が焼失しましたが、奇跡的に金閣などいくつかの建物は消失は免れました。第二次世界大戦終了後いよいよ戦後の復興の動きが見えたころ金閣寺放火事件がありました。

「金閣寺放火事件」金閣寺が燃えちゃった・・と小学2年生の時に祖父から聞かされたことがあった。それはお寺の坊さんが金閣寺に放火して丸焼けになっちゃったよ、残念としか言いようがないよと独り言のようにつぶやいていたことを覚えています。

昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の学僧によって放火炎上し焼失しました。その学僧は寺の裏山で自殺を図ったが一命は取り留めた、その動機は「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。しかし母親は警察の事情事情聴取のために京都に呼ばれその帰り道に保津峡で投身自殺をして命を絶ったそうです。

この事件から6年後になって三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求していく事になったと云われています。その時に出版されたベストセラー作品が小説「金閣寺」であります

その当時の住職は、いち早く再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が自ら進んで浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復がなされ焼失前より創建時の姿に近くなったと言われています。1944年には世界文化遺産に登録され海外からの観光客の人気も高く世界的な観光名所となっています。

 令和3年 霜月          八 大