「白内障」の話

江戸紫の鉢巻き

「目病み女に風邪ひき男」                             

と云う言葉がありますが昔から目を患っている女性はその潤んだ目つきが男心をそそり、風邪を引いている男は鼻にかかった風邪声が女心をくすぐる。いかにも江戸好みの諺で当時は目病み女なら眼帯の紅布(もみ)(紅花を揉んで染めることから)、風邪引き男はには江戸紫(えどむらさき)の鉢巻きと道具立ても揃っていました。男女とも病人を挙げたのは色恋も流行りの病の一種という皮肉な見方も感じさせますね。そう言う小生も「目病み男」になり下がってしまい江戸紫の鉢巻きを着けることになってしまいました。 

眼帯姿
最近、春日部駅周辺ではコロナ禍のお陰でマスク姿になりましたが同じく片目か隠れた眼帯姿の色っぽい高齢者も多く見受けられるようになりました・・? そうです白内障の患者さんなんです。日本人の健康寿命がどんどん伸びており男性が72歳女性は何と75歳を超えたそうです。(平均寿命は男82歳・女87歳)依って杖を持ったお爺さんやお婆さんが駅周辺に多く見かけられます。白内障症状は?物が見えにくい、目がかすむ、眩しい、物が二重・三重にだぶってみえる、といったものが主な症状で眼が痛いとか、赤くなるという症状は伴わないそうです。

白内障とは、水晶体が年齢とともに白く濁って視力が低下する病気です。水晶体とは、目の中でカメラのレンズのようなはたらきをする組織で、外からの光を集めてピントを合わせるはたらきを持っています。通常は透明な組織ですが、白内障では白く濁ってしまうため、集めた光がうまく眼底に届かなくなるもので、進行するにつれて、目がかすむ、ぼやけて見えにくい、ものが二重三重に見える、光がまぶしく感じるなどの症状が現れます。 晴れた日の屋外がとてもまぶしく感じたり車の対向車のライトがまぶしく感じたりします。 また、遠くが見えにくく感じるために、近視が進んだように感じる場合もあるようです。

私達は皆が高齢になればなるほど目の中の水晶体が濁ってくることによって視力が低下することは分かって来ていることですので不自由の限度に気ずいたら医者にお願いすることで無理して我慢をしないで部品の交換をする事です。私達の臓器の中にも消味期限消費期限ががあるよう適切に対応することも大切であると思います。

令和4年  睦月          八 大


























寒雀

 寒雀(かんすずめ)

寒 雀
新型コロナウイルスの騒ぎから早2年を過ぎようとしておりますが季節は大寒を迎えようとしています。我が家の山法師の樹の下には毎朝10羽ぐらいの雀たちが飛んで来て蒔いた稗や五穀米に寄って来て賑やかな朝食会を楽しんでいます。木の枝に刺したミカンにはメジロやヒヨドリも加わって上も下も賑やかで楽しい時間でもあります。

雀は 田んぼに餌がなくなる冬季は、人家近くに餌を求めて集まるので親しみやすい。私が子供の頃大人に混じって雀を焼き鳥にして食べていました。もともとは食鳥としてのスズメを「寒雀」と呼んだそうです。大人に混じって子供たちも餌を播いて罠を仕掛け(ザルを使って)雀を捕獲し火であぶり焼き鳥の味は忘れられない程味は美味しかったですね。(その頃の雀は田んぼの稲を食べるので害鳥とされていましたネ。)

メジロ
私達は寒いと服を着込んだり火などで暖をとって凌ぎますが、野鳥           たちは羽を膨らませ空気の層を作り、自らの体温で温め寒さを凌い           でいます。その姿は外観的にまんまるで可愛らしいです。その姿を           可愛いと云っていますが当の雀たちは自衛のためなんでしょう。           膨らんだその姿は「ふくら雀」とも云われてやっぱり可愛いですね。

 「脇へ行くな鬼が見るぞよ寒雀」 小林一茶                      

 晩冬の季語にもなっている寒雀です

 令和4年 如月        八 大

                        





寅年の話

 朝護孫子寺「ちょうごそんしじ」

今年の絵馬
新年早々であるが今年の干支「寅・虎」を探しに出かけた先は、春日部市にある藤塚香取神社である。八丁目町内のペンキ屋さんが創作した「今年の絵馬」を揚げたことを聞き初参りを兼ねて来てみると見上げる程の大きさ、近寄って見上げるとなんと迫力のある勇猛な虎であること、拍手喝采です。

虎と寅の違い 十二支の3番目は「寅」であります。「とら」「虎」とも書きますが、これは動物の「タイガー=」を指しています。十二支の上ではあくまでも「寅」です。このため年賀状や挨拶文のデザインに虎のイラストは入れますが多くの場合「虎」は使いません。

奈良県(大和国)と大阪府(河内国)の境に生駒山地の南端に位置する「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」があります。信貴山真言宗の総本山のお寺で山上のお寺からは時折、読経の声が流れて来ます。古代インドのヒンズー教の神である「毘沙門天」をお祀りしており地元では毘沙門さんと呼ばれています。毘沙門天は七福神の中の一人に入っていますが7人の神様は「清廉、有福、威光、敬愛、人望、寿命、大量」の七つの福を、地域の人々にもたらすために集まった神様達です。

朝護孫子寺と虎
当寺の創建についての伝承では、敏達天皇11年(582年)寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に四天王の一つである毘沙門天聖徳太子が感得し、後にその加護によって物部守屋に勝利したという。用明天皇2年(587年)7月3日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として当寺を創建し、「ずべきぶべき信貴山)」と名付けたとする。これに因んで「虎」が神使(しんし)としての扱いを受けたと云われる。また寺の至る所に張り子の虎が置かれているのは、その逸話に由来している。

毘沙門天とは古代インドのヒンズー教の神様で仏教に帰依してから、仏法を守護する四天王の一尊で東西南北の方角に分かれて護衛に当たって「北の守護」を担当しており福徳や財宝を司る戦勝祈願の神でもあります。四天王の一員として呼ばれるときには多聞天と呼ばれますが、何故かと云うとお釈迦様の教えを一番多く聞いたという逸話からきているようです。また戦勝の武神として名を挙げていた上杉謙信が「毘」を旗印にするほど毘沙門天を信仰したのは有名な話である。

日本三毘沙門の寺として、京都の鞍馬寺・奈良の朝護孫子寺・栃木の大岩山多聞院最勝寺が良く知られております。その姿は甲冑を身に着け足元には邪気を踏みつけ、荒々しい岩場に立った武将の姿で宝塔というお釈迦様のお骨を入れる容器を掲げています。

4年 睦月          八 大