越谷の梅林公園

白梅
今日2月23日は 、富士山の日ですよ。寒さは相かわらず冷たい北寄りの風が吹いて少し寒いですが、どうやら週末からは冬から春へのとバトンタッチが行われそうですね。今朝も近所のスズメたちが8羽ヤマホウシの小枝に乗ってピーチク・パーチクと朝食をねだって囀りに来ております。その騒ぎを聞いてかメジロの番(つがい)が、昨日の残り物のミカンの輪切りを突いていたので差し入れを上げました。

空が晴れると気分がイイですね。チョットそこまで足を延ばして梅林公園を訪ねると何かいつもと様子が違う。コロナ禍騒ぎなので梅まつりは無いだろうと予測はしておりましたが咲いている筈の梅林に香りはありませんでした。わずかに早咲きの紅梅が開いていておりますが香り豊かな白加賀が僅かに0,5部咲です、今年はどうしたんでしょう?

紅梅
歩いている古老に尋ねると「去年の2月2日に来た時には満開の梅を見たよ」と話してくれましたが、今年は記録的な寒波襲来の影響で一か月ほど季節が遅れているようです。その遅れを取り戻そうと地面の下では野の草や花たちは出番を待つ蠢きが感じられますね。そんなことを考えるとこの2月の呼び名は春が待ち遠しい「春待ち月」でも良いのではとも思えます。

「八年前の想い出」 梅林公園で恒例の梅まつりの話を聞いて出かけてみると会場は大入り満員でした。偶然にも同じ2班の遠藤繁男さんが甘酒売り場にひょっこり出て来て「一杯飲んでいきな」と声を掛けられたことがありました。後になって聞いたところでは袋山地区では顔役で農協の役員をやっており「ダルマ屋の繁ちゃん」で通っていたそうで、祭りの責任者でもあったそうです。穏やかな笑顔が今でも忘れられません、良い男でしたね。

 令和4年 如月         八 大




そこらへんの草


そこらへんの草

朝から上天気、新町橋の右岸の十文橋を超え古利根川の土手道を歩く。今日のお目当てはあの苦みが何とも言えない早春の香り「蕗の薹」です。土手道を16号線の下から柔らかな草の感覚を感じながら小渕橋辺りを進むとお目当ての薹の膨らみが私を迎えてくれます。水位の下がった水辺りには5~6人の釣り人が思い思いの場所で糸を垂れていました。

蕗の薹は5つほど収穫できましたがこれからが楽しみです。夏ごろには雑草の丈が伸びてしまい踏み入ることが出来ませんがこの時期は足の裏に春の知らせを感じることが出来ます。この辺りは字名を「小渕」と云いますが、江戸時代の頃は「巨淵」と云って大きな池の状態になっていたそうで今の小渕の名が付いたそうです。時代によって地名も変わるんですね。

最近「食べられる草」と云う本が出版され人気を呼んでいるそうですが、私が知っているだけでも「三つ葉、ヨモギ、タンポポ、オオバコ、野蒜、カラスノエンドウ、ハコベ、ユキノシタ、ナズナ、からし菜・・・など」子供の頃には川の縁や土手道には多く見られましたね。野草と云うと上品に聞こえますが雑草と云われる草でも子供の頃食べていましたね。今ではスーパーで売っているもの以外は食べようとはしない、時代は変わりましたね。

「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」という、人気漫画「翔んで埼玉」に登場したこともあった為「そこらへんの草天丼」を、春日部市内のスーパーが商品化したそうです。「ご当地グルメにしたい」と庄和地区の人達の発想がが当たり一時は連日完売の人気を発したことが評判になりましたね。埼玉を痛烈にこき下ろした作品だったがそのユニークな発想が大当たりし、連日完売するほどの人気だったという事でした。

 令和4年 如月          八 大



楽応寺の虎

 楽応寺の虎

漆喰作りの虎2匹
春日部の内牧小学校近くに「楽応寺」と云う小さなお寺があります。昔の奥州街道沿いと云われますが古くから薬師様の寺として地元民から尊敬されており、毎月8日の薬師如来の縁日には賑わいを見せるそうです。現在は無住の寺であり近くの内牧小学校隣接の香林寺の管理下にありますが、平日は全くその様相からは往時をしのぶことは出来ません。

ここの薬師如来の御開帳は12年に一度の寅年に行われていました。今年令和4年2月16日が御開帳の予定でしたがコロナ禍のお陰で残念な事に中止になりました。地元の人の話によれば「私が生まれてこの方75歳を越えましたが中止は一度もありませんでしたよ」と、薬師様にどのように言い訳をしていいのか、香林寺の総代さんに相談に行ったそうですが・・・。

楽応寺由来
この寺の始まりは平安時代の天元3年(980)藤原大納言公任が父母供養のため、薬師如来を堂宇に祀ったと伝えられている。公任はこの時15歳で正5位下に叙せられて侍従に任ぜられている。この薬師如来像を崇敬していた岩槻の渋江大和の守、楽応が天正13年(1583)薬師堂を建立したとあります。

寺の境内の石仏や石碑から安土桃山時代から~江戸時代~現代へと伝承されて来ていることが伺えます。現在の楽応寺は江戸時代の元禄年間の1702年(赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした年)に建立された記録が残っています。

前庭
現在の寺は良く見ると寄棟づくりの建物の軒の上に漆喰で作った可愛いらしい二匹の虎が、狛犬のように向かい合っています。近くの人の話では大正の始め頃左官職人が一匹作って奉納し、その十年後位に二匹目を作り向かい合わせとして奉納したと云われています。(寅年に合せて奉納したのではないかと思われる)

普段は戸が閉まっていて見られないがお寺の気配りで?、戸に穴があけてあり右手に明り取りの窓がある。覗けば薄明かりの中に拝めるようになっているようで「そっとのぞいてみてごらん」と誘っているようにも思えます。薬師如来は古来より眼を守る神様として信仰されております。寺は無住なので維持管理は近所の人たちの支えで今に伝えているそうです。

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春は名のみ

「早春賦 

    春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯歌は歌えど  

            時にあらずと 声も立てず 時にあらずと声も立てず 

大正の初期に長野県安曇野を訪れた作詞家の吉丸一昌が穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて、この早春賦の詩を書き上げたとされています。日本の唱歌で長く愛されてきた名曲の一つです。「春は名のみ」と暦の上で”春”になったばかりの季節を歌うこの曲の一番はとても有名ですが三番の歌詞までご存知の方は少ないのではないかなと思います。

    春と聞かねば 知らでありしを 聴けばせかるる 

               胸のおもいを いかにせよとの この頃か 

                        いかにせよとの この頃か 

春だと聞かなかったら気付かなかったけれど聞いてしまったからには心がはやる。このそわそわして落ち着かないこの気持ちをどうしたらいいのか・・・。春を待つこの季節の微妙な心理を見事に表現したこの三番の歌詞から「早春賦」の魅力を再発見したのです。

春爛漫の季節も確かにいいのですが「春の訪れ」をひとつひとつ感じられる早春ならではの楽しみを見つけてみては如何ですか。

 令和4年  如月      八 大      

                 

ポンペイ展

ヴェスピオ山
久しぶりに自粛ムードの中、春日部を離れて上野国立博物館で開催されている「ポンペイ展」を覗いてみました。公園周辺はコロナ禍でもあり人出も少ないため、時間を気にすることなく楽しめました。2,000年も前にこんな生活が営まれていたことを目の当りにすると一級の美術工芸品その物はもちろん周りの景色までもが現在と重なって来て時間軸が合わなくなります。

西暦79年イタリアのナポリ近郊のヴェスピオ山で大規模な噴火が発生しローマ帝国の都市ポンペイが火山の噴出物に飲み込まれました。その後にも大規模の噴火が度々起こったことが記録から分かっております危険な山であることで手が付けられていませんでした。ようやく埋没してしまったポンペイの発掘は18世紀になって始まり、現在にまでも続いております。この展覧会では、壁画、彫像、工芸品の傑作から調理器具と云った日用品に至るまでを展示されておりスマホに納めることも出来ました。

ポンペイレッドの壁画
2000年前のローマ時代の遺品が残っていることが出来たのか不思議ですよね? 物の本を読んでみると噴火した灰は一瞬にしてその地域に火砕流堆積物として覆いかぶさった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたとあります。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・
売春宿
レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになったようです。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっており男女の交わりを描いた絵も有名で、これらは市民広場や浴場や多くの家や別荘で良い状態で保存され続けていたそうです。


噴火時に発生した火砕流の速度は時速 100km以上で、市民は到底逃げることはできず一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げ惑う

石膏によって蘇った遺骨
市民の最期の瞬間を再現した。顔までは再現できなかったが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現された。この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の調査は長らく滞っていたが、近くの商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラな54体の(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)遺骨が発見されたそうです。彼らは火砕流からは難を逃れたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていたと云います。

「ナポリを見てから死ね!」という言葉がありますが、40年程前ぐらいだったと思いますがナポリ湾の景色を見に行った事がありました。着いてすぐにポンペイから見て廻ろうとしたものの、そのポンペイに憑りつかれてしまって時間が空転してしまった事を思い出しました。強烈なポンペイへの想いは未だに脳裏をよぎります。

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蠟梅(ロウバイ)

蠟梅の花
今日は八幡神社のお詣りの帰りに古隅田川と古利根川の合流付近を歩いてみました。現在の川幅は渇水期である為10M位でありますが堤防敷きの幅は40M位かと思います。道沿いにある古碑を見るとこの辺は川幅が広く大きな橋が架かって十文橋と云う渡しがあり、何と料金を取っていたそうです。その名残りで十文橋の名が付いていたそうです。今では考えられない程川幅が細くなっていますね。その先の梅田の地の女体神社に廻ると何やら昔何処かで出逢ったような匂いが聞こえてきました。

この大寒の中で思わぬところから蠟梅の香が何とも言えない甘~い香りを漂わせて来ます。その所在を確かめると歩みを止め改めて深呼吸をしてしまいます。香りの主は半透明でにぶいツヤのある黄色い花を添えて存在感を表わしているようです。花径が2㎝ほどで葉芽は卵形で花芽は球形をしており、小さな花をうつむき加減に咲かせるので華やかさはありませんが蝋細工のような花がとても愛らしい。

蝋梅(ロウバイ)は4~5ⅿ程になるロウバイ科の落葉低木で、その名前は蝋細工のような花を咲かせることから付けられたそうです。寒い12月から2月にかけてあの独特な香りをのする花を咲かせます。 別名の(カラウメ)とも呼ばれその名前の通り中国原産の樹で我が国へは江戸時代の終りごろに渡来したものです。

中国の語源で「雪中四友(せっちゅうのしゆう)」と云う言葉があります。中国で文人(学問を修め文章に優れた人)が描いた絵を、精神性が表われたものと高く評価するという考え方があると云われ、雪中四友は文人画に好んで描かれいます。早春に咲く梅、蠟梅、水仙、山茶花の四つの花を指す言葉で多くの日本人にも愛されている花ですね。(一言)近くの山茶花には香りはなかったが、品種によってはあるのでしょう。

こんなに厳寒の季節にその美しさと共に早春の香りを届けてくれる花たちを何と称えて上げたら良いのかお礼の言葉が見つかりません、ただただ有難うさんだけです。

 令和4年 如月          八 大