水角神社の富士塚

水角神社
春日部市の旧庄和町地区の国道四号線バイパス沿いの目立たない処に「水角(すいかく)神社」があります。水角なんて聞いたことがないと云われる人があるかと思いますが郡村誌によると当地は寛永年間(1624~44)から開墾され正保年間(1644~48)に水角村と称したと云われます。覆い屋の中には一間社造りの本殿には二社あり八坂神社とその後合併された八幡神社があり、その後にも稲荷神社も合併されたとあります。それから後に病人が相次いだことがあり祟りを恐れ合併を機に、社号を「三霊神社」と改めましたが更に大正六年に「水角神社」と改めたそうです。(このころは全国的に小神社の統廃合が行われたそうで、私の八丁目地内の香取神社も「香取・八坂・稲荷合社」とあります。)

水角神社の額
神社の裏手にある富士塚は万延元年(1860)に築かれたもので北葛飾地区では同じ町内にある宝珠花神社の浅間塚に継ぐ古いものだそうで、周りには沢山の石碑が建てられており往時は信仰が盛んだったことが伺えられます。またその中でも「丸岩講」と云う組織が当時盛んだったようであちこちに石碑が建てられていたようです。                           また富士塚(浅間塚)の始まりは安永9年(1780年)に江戸の高田藤四郎と云う人が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています

富士塚
先日、民家の裏手に居られた老女に伺ったところ、30年程前に国道のバイパスが出来ることで移転となりましたが目の前が浅間塚でしたので有難いと思っていました。当初は組内の人も手入れをしてくれましたが、年を取って来て儘ならなくなったので市役所にお願いして管理ををしてもらっていますが・・・・長年の風雪に耐えて、忘れられているような状態になっており悲しく何とも寂しい思いをしているそうです。

富士塚の説明
富士講(ふじこう)は浅間講とも云われ江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に                     を中心とした関東地方で流行したもので、                     修験道の行者であった男は常陸の国での修行                     を終え陸奥の国で岩窟で修行中、役行者より                     お告げを受けて富士山麓の人穴に辿り着く。                     そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立                     ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年                    (1560年)「角行」という行名を与えられた                 と云われる。

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。修行の地である人穴に接する「人穴神社」は主祭神を角行としている。その後盛んに石碑が建てられて現在でも230基の石碑塔群が残っており「人穴富士講遺跡」として知られています。

 令和4年 卯月         八 大







 














シバザクラ(芝桜)

シバザクラ(芝桜)は、春に小さな花を咲かせる多年草です。1つ1つの花は小さいですが、満開になると絨毯のように花が広がります。その美しい姿から、開花時期になると全国の名所にはたくさんの人が訪れますよ。先日、栃木県の市貝町の芝桜公園に足を延ばしてみましたが、この時期コロナ禍に飽きた家族ずれで大賑わいでした。

芝桜は北アメリカが原産で、地面を覆うように広がって育つハナシノブ科の多年草です。茎が立ち上がらないことから寒暑や乾燥にも強く常緑である為、芝生代わりに植えられているところもあります。白やピンクの小さな花を、4月~5月にかけて赤、薄紫、白の花を密集して咲かせます。桜と同時期に桜に似た花を咲かせることから「シバザクラ」と名付けられたと云われます。西洋では別名ハナツメグ(花詰草)とも云われています。

芝桜(シバザクラ)の花言葉は「合意」「一致」「臆病な心」で、小さな花を密集して咲かせる様子に因んでいますが、「忍耐」「協調」と云う言葉もあり小さいながらも沢山の花を咲かせる生命力に由来しています。

この広いシバザクラの絨毯の中を歩くと、意外にも今まで気づかなかった心地よい香りが漂ってきました。この匂い?この香りです!自然は季節を忘れず知らせてくれているのに気がつかなかった自分に恥じてしまいます、シバザクラの香りがあったんですね。残念だったことに初めての発見でした。そう言えば先ごろの音楽会でビオリラの音を聞いて忘れていた音の響きを感じることが出来ました。

ここで私事になりますが、自分で五感を刺激することで脳の疲れを取ることがイイらしいと聞いたことがありました。五感とは、ご存知の視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚のことで、それを意識して感じることで脳を鍛えることになるそうです。今年になって白内障での治療により視覚が回復しました。今回はシバザクラの香りで臭覚を堪能しました。味覚と触覚は日頃から身近に鍛えております。気になるのが聴覚の衰えが心配ですので意識して耳をダンボにしております。五感を意識していくと第六感(インスピレーション)も自然と身についてくるとらしく小さなことですが、時々予感を感じることがあります。

実業家・思想家でヨーガの修行者でもあった中村天風は霊感について五感を越えていることから「第六感」とも呼んだ。身近な例としては「虫の知らせ」と云うものがあると云います。もともと人間として生命を得たからには誰にでもこの感覚を持っているのだが、文明人になるにしたがってこの働きが弱くなってしまう。この霊感を磨けば無念無想になれると述べています。

 令和4年 卯月          八 大





















初鰹

しぶりに晴天が続いて気分が良いので散歩の帰りにスーパーへ立ち寄ると初鰹の表示あり。すぐに飛びついて大き目の柵を買い込んで包丁裁きはお手の物山椒の新芽を添えました。夕餉の席へ持ち込んで一献傾ける風情は自画自賛である。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」とはこの事なりと納得し岩手の地酒を手元にする。

この句は江戸中期の俳人山口素堂の有名な句がありますがチョット気になる事に気がつきました。プレバトの夏井いつき先生に云わせると季重なり(きがさなり)でボツになりそうですよね。こんな時はどんな受け答えをするのか興味がありネットで調べると答えがありました。俳句の中に明らかに「強い季語」と「弱い季語」があり、どちらが主役かハッキリしている場合は季重なりでもOKとなります。この場合には季語同士がお互いを邪魔しません? との答えでした。

鰹には旬(しゅん)が二度あります。「初鰹」「戻り鰹」の2種類があるのですが、初鰹は「春のかつお」として知られており、サッパリしているのが特徴です。初鰹は、南から北上する途中の3月頃から獲ることが出来るため、脂の乗りがイマイチでサッパリしているのが特徴です。

北上して行く鰹は8月頃に宮城県沖に移動して折り返し11月頃にかけて鹿児島に向かって南下して行くのが戻り鰹で、南下する途中で沢山の脂分を蓄えて行く為そのままでも美味しく食べられます。けれども高知のグルメと云えば表面だけ藁で香ばしくあぶり焼いた「藁焼きタタキ」の料理は豪快に食べられ本当に旨いです。ご存知の高知発祥の食べ方と云われています。

昨夕に食べた初鰹は旬に違いはないけれど残念ながら戻り鰹とは比べ物にならないもので「江戸っ子の心意気」を示しただけでした。

 令和4年 卯月        八大






 櫻 (日本人の心)

吉野の櫻
満開の桜に語りかけると「この処の寒の戻りで気分が引き締まります」と桜の精が答えてくれたようで引き締まった気分が味わえました。コロナ禍のお陰で世の中肩身の狭い思いが続いておりますがキリッとした感じも良いもんですね。さくらは美しいだけではなく日本人の心の中に住み着いているように感じられます。

私の紺珠の中にあります桜のメモを開いてみます。平安時代から現代まで、桜に魅了され続けて来た日本人の心を和歌で迫りたいと思いまして・・・・。

「世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平 世の中に桜などなければ、春は心のどかに過ごせるだろうにと云う反語的な表現で詠まれています。桜のことで落ち着かない心持ちを見事に表現していますね。

「久かたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」紀友則 陽がのどかに射している春の日に桜が咲いている美しい光景が目に浮かぶ、その桜の花は「しず心なく」散って行く。自分は、のんびりと静かに桜を見ていたいのに、そんな気持ちを理解せず、桜の方はなぜ散り急ぐのでしょうか。と云う口惜しい心持ちを詠んでいます。長閑(のどか)な陽の光の中に咲き、あっという間に散ってしまう櫻は日本人にとって人間の生と死の象徴を表わしているように思われますね。

「願わくば花の下にてわれ死なんこの如月の望月の頃」西行法師の有名な歌です。釈迦が入滅した旧暦2月15日の満月の頃に」という意味であります。西行法師は桜を愛し230首もの櫻を詠った歌を詠んでいます。その桜の下で死にたいという望みを果たすかのように、実際に旧暦の2月16日桜花の下で亡くなり世の人々はその不思議に驚いたと云います。その後西行の墓の周りには多くの桜の木が植えられたと云います。日本人は昔から桜の花と共に生きてきたのです。

「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花の在りかを」一休禅師の道歌として知られていますが、春になると満開の桜をまとう吉野山も冬には枯れ木のような木々が林立するばかり、花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても桜の花は見つかりません。

 令和4年 卯月        八 大













清明祭

「清明(せいめい)」とは 清く明らかなことで「清浄明潔」と云う言葉を略したもので「すべてのものが清らかで生き生きしている」と云う意味です。二十四節気の一つで、春分から数えて十五日目の陽暦四月五日ごろで万物に清新の気がみなぎる季節です。この時期南東の方から吹く心地よい風を清明風とも云うそうです。

清明は沖縄地方での三大行事の一つで春先の清らかで生き生きとした様子を表わした「潔」という言葉を簡略したものです。また清明祭(シーミー)とも呼ばれ先祖の墓前にお重と料理を供えて宴を開き、供養と親族の親睦を深める行事です。お供えする料理は地域により異なりますが、天・地・海を象徴するもので、鶏肉、豚の三枚肉煮付け、赤い蒲鉾など日持ちのしやすい物を重箱に詰めます。気候もいい頃でピクニック感覚で楽しむそうです。

沖縄地方では一族全員が同じ墓に入る伝統があり必然的にお墓が大きくなります。そのため宴の規模が大きくなり各地で賑やかな清明祭を見ることが出来ます。この行事は十八世紀に中国から伝わったそうです。当時は農作業の始まりのこの季節に祖先の力を借りるためだったそうですが、広まるにつれて先祖祭りへと変化していったと思われます。 

また本家の中国でも「清明節(せいめいせつ)」と呼ばれる祝日であり、 このはお墓を掃除して墓参りをするため「掃墓節(そうぼせつ)」とも呼ばれています。 日本でいう「お盆」に当たるで気候もすっかり温暖となり、桃やスモモの花が咲き柳が緑にけむって清明と呼ぶにふさわしい季節です。唐時代以降,郊外に出かけて春の青草を踏んで遊んだり酒の宴を開く事を「踏青(とうせい)」とも云われ新鮮な緑へのあこが感じられます。

 令和4年 卯月          八 大