法華寺の話

 小生、まだ駆け出しの頃土日と休暇を合わせて3日間程プライベートの旅に出ました。東京駅を22時発の夜行寝台列車「瀬戸号」?に飛び乗り車掌さんにお願いしてすぐに熟睡。京都到着20分前肩を叩かれ飛び起きて身支度を確認、駅改札を出てトイレ洗面を済ませ何気ない顔で八条口側にある、うどん屋で今日の予定表の再確認となる。

一人旅の気安さもあり観光案内の地図を片手に歩きだした先に「法華寺」のご本尊十一面観世音菩薩の姿でした。対面してビックリ・・なんと腕の長い仏様なのだろう・・忘れられない第一印象でした。法華寺は聖武天皇御願になる日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后の発願によって日本総国分尼寺として創建されたのが法華滅罪の寺であります。藤原不比等公の邸宅だったのを、皇后が先帝に並び老婢のおんために改めて伽藍となし給うもので以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かったい皇后の御精神を伝え、同心堅固に守られてきた女人道場「法華寺御所」であります。

法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の妃・光明皇后の発願によって始まりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子供のころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮寺に改められたのが法華寺です。正式には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺と云い、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑽を勧め、女人成仏の規範を意召されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提を祈られたのです。

法華寺石標

伽藍の完成は延暦元年、(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門に立つなど広大な寺地を有し東西両塔、金堂、講堂、食堂など壮大な伽藍を誇りました。

「光明皇后」は仏教を厚く信仰された慈悲深い方で社会福祉に大変貢献されました。施薬院、悲田院を開設されたことは当時としては画期的な事でありました。光明皇后は聡明なうえ、光明子と云われるくらいの光輝く美貌だったらしく夫の聖武天皇は皇族の女性以外は皇后になれないのに臣下出身の光明子を皇后に取り立てられました。民間出身の皇后の第一号でありました。しかし、臣下出身の皇后には皇族側の代表である長屋王の反対が予想され、起きましたのが有名な「長屋王の変」であります。また、娘の阿倍皇女は女性皇太子の第一号ありました。


 霜 月             八 大                 












           十一面観音菩薩



















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