三囲神社の三柱鳥居



 桜花爛漫の時を過ぎて、静かになった隅田公園に向かう途中久し振りに向島の三囲神社にお参りした。此処の神社は隅田川七福神めぐりでも有名で大黒天と恵比寿さんを祀っておりお正月の間は大賑わいをしております。

 ここには不思議な謎めいた形をした三柱鳥居と云うものがあります。平面的に見ると正三角形に組み合わされ隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は三本である。笠木は井桁上に組み合わせられ貫(ぬき)は柱を貫かない。中央には鳥居に囲まれるように神聖な井戸があり三井家の守護神として崇められています。
 三越は伊勢松坂の商人、三井高利が江戸本町(今の日本銀行辺り)に呉服店「越後屋」開業したことで東北の鬼門に当たる向島の地に三囲神社があり囲の文字に三井の井が入っているため「三井を守る」と考えられて守護社に定められた為繁盛を極めていたようです。
 三柱鳥居の原型は京都市太秦の広隆寺近くにある、木島神社の境内に元糺の池(もとただすのいけ)に神泉が湧き出ていましたが、そこに三柱鳥居があります。鳥居の中央に神坐を設け渡来人である秦氏一族の信仰の中で身に罪や穢れがある時には、この池で禊(みそぎ)を行って心身を清める場所だったのではないかと云われています。
 隣には日本書紀にも載っている「蚕の社」と呼ばれる蚕神社(こがいじんじゃ)も並んでおり、養蚕・機織・染色の技術をもって多くの渡来人が移住して来ていたことが分かります。
           平成29年4月15日   八大



唐招提寺の障壁画
 先日、茨城県近代美術館で唐招提寺障壁画展が開かれていたので偕楽園の梅見を兼ねて拝観に行って来ました。
 ご存知の唐招提寺は多くの苦難を乗り越えて来日した鑑真和上が開基したと云われるお寺ですが平成27年から大改修工事に入っており、その間に障壁画が全国に行脚しておりまして現在水戸の美術館に来られているということです。
 唐招提寺は鑑真和上の御心を慰めるためその苦悩の旅を御影堂の障壁画に描くことを東山魁夷画伯にお願いしたもので日本と中国各地を巡ってスケッチを重ね自分の生涯のすべてをかける気持ちで取り組んだと云われており作品は圧巻であります。
 5年ほど前に唐招提寺の年中行事になっている「団扇まき」の行事に参加した時に御影堂での障壁画を拝観をしていらいですが感動を覚えたことを思い出しました。
「山雲」と「濤声」は青や緑を基調にした日本の自然を描く一方、鑑真の故郷である唐の風景を題材にした水墨画も楊に風の表現が中国らしくて素晴らしい作品でした。
                         平成29/2/24 八大


冬ごもり (パウダースキー)



この寒い時期ではありますが、私はここ十数年一週間程度の冬ごもりと称して東北の八幡平周辺でスキーを楽しむことを恒例としてリフレッシュに心がけております。

友達の別荘にこもりパウダースノーのゲレンデを滑って、疲れた体を温泉で癒し疲れた足取りで飲む一杯のウヰスキーも例え


様のない至福の時であります。
この辺りはすぐ近くに安比高原や雫石スキー場をはじめ多くのスキー場がありますのでスキーのハシゴもできます。
全長2000Mのコースを一気に風を切って滑り下りる様はなんともいえない快感です。今年は残念ながら脚のこわばりが感じられ途中で小休止もあり・・・体力の衰えを感じま
したが体調さえよくなれば何とかなると自分
に言い聞かせています。
今日はスキー場のトップは氷点下17℃、更に吹雪のプレゼントがありゴーグルは曇って視界不良、終了時間に追いかけられるように一気に急降下しスキーハウスで待つ友のもとへ無事滑り込む。
その時「あれー 大切な髭にツララが付いているよ」そんなことってあるの?といって顎に
手をやるとなんと3㎝~5㎝のツララが確認
できた。
どうしてそうなるの・・・とアレコレ考えまするに、犯人は気象条件だとわかりました。
気温と吹雪と風(スピード)が一緒のなるとツララが出来るという新発見です。
それにしても顎髭にツララとは恥ずかしい限りでした。  以上現地からの報告です。

人それぞれリフレッシュの方法はいろいろ

なやり方があるとは思いますが極寒の中、
炬燵でみかんより、その効果は大であると
信じ継続を目指しております。   八大
              
 



越後で候(そうろう)

 こんな言葉をどこかで聞いたことありませんか?


そうです、昨年の秋に仲間の皆さんと越後の旅を訪ねた際「魚沼の里・八海山雪室」を見学して、魚沼の澄んだ空気の中でしぼりたて原酒の試飲を楽しみましたね。もう少し飲みたいと思いながら弥彦の宿に入り大宴会の後、二次会の部屋の中で誰かがお土産に買っていたと思われる「しぼりたて原酒越後で侯」を気前よく出してくれました。その酒の旨かったこと今も覚えていました。
 昨日、日本橋界隈をうろうろして昼飯を食べようと立ち寄ったところが、なんと八海山酒造
のアンテナショップでした。
不確かな言葉でしたが「なんとかでそうろう・・」なんてお酒あるの?と店員さんに聞くと二つ返事で出してくれました。
小さなグラスでしたのでひと息にグ~と・・・喉が覚えておりました、「越後で侯」は美味しかったですね。
注文した海鮮定食を待ちながら
あの雪室での試飲の味を思い
出し納得のいく至福のひと時を
味わいました。

ひと言 侯(そうろう)について


「越後で侯」とは何だろう?
侯(そうろう)とは物事の状態、それを知る
手がかり・きざしをいう。
時節、時季「春暖の候」丁寧の意味もあり。
越後の酒でござります。 と云うことですね。

ふた言 侯(こう)とは

漢字を分解すると人編に矢が書いてあり
王様や貴人の傍に仕え矢で的を狙う軍人
を意味したものと云われる。
 天候   きざし
 斥候   のぞく うかがう
 候補   ひかえる まつ
 測候所 きざしを測るところ
                      八大

鎌倉瑞泉寺の庭園

昨日、節分明けの瑞泉寺庭園を訪れ春を迎えに行きました。花の寺としても有名な瑞泉寺は朝早かったので身震いのしそうな空気の締まりを感じながら静かな山門を入り本堂前の貴重な「黄梅」にスマホを向けましたが残念ながら3分咲というところでした。
皆さんご存知のことと思いますが鎌倉市指定の天然記念物に指定されていまして満開の時の黄色は鮮やかで見事ですよね。
傍の立て看板に牧野富太郎博士が「オウバイ」と名付けたことが書いてありました。
近くには破天荒の歌人、山崎方代さんの歌碑に「手の中に豆腐を載せていそいそと、いつもの角を曲がって帰る」が目につきます。


瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺として鎌倉五山につぐ関東十刹に列せられた格式のある寺院であります。開山の無窓国師は鎌倉時代後期から南北朝期に臨済宗の僧として活躍しておりますが、作庭の名人としても知られておりましてスケールの大きな日本庭園の基本とも言われる多くの有名な庭園を造りました。本堂裏にある空間も国の名勝に指定されており鎌倉の地形に手を加え、やぐらと云われる岩山に掘り込みを入れ借景とした趣のある庭園であります。向かい合って目を瞑り雑念を払うその時はまさに至福の時でもあります。

私は夢窓国師の庭園を訪ねたことがありまして、この他にも京の天竜寺・甲斐の恵林寺、美濃の永保寺、苔寺の名で知られる西芳寺などがありいずれも国の特別名勝に指定されておりまして素晴らしいの一言です。特に永保寺の庭園とは岩山を取り入れたところに趣が似ており同一の作者が作られたのが良く分かります
                                    八大






八幡塚古墳
  群馬県高崎市のはずれ(旧群馬町)に保渡田古墳群があります。この地域には八幡塚、二子山、薬師塚の三つの古墳があり「かみつけ古墳公園」として整備され公開されております。
 昭和の50年代上越新幹線の調査工事で古代豪族の居館(三ツ寺Ⅰ遺跡)が発見され5世紀後半の出土品からは古代上毛野の有力者と、近くの古墳からの埴輪片・葺石や石棺からの出土品と同時代の繋がりが確認された。
 形状は前方後円墳、墳丘は全長96mで3段に造られ内堀・外堀・外周溝がめぐり、それらの間には内堤、外堤があり、墓域自体はなんと190m×148mにも及びます。さらに内堀の中には4つの島(中島)があるのが特徴です。埴輪は6000本ほど設置されていたと考えられており、復元に当たっても出来る限り配置したようです。また、墓は後円部に2箇所設置されており、1つが古墳を造らせた豪族本人、もう1つがその近親者であると考えられているそうです。
 古墳と云うと畿内周辺や九州方面を思い浮かべることが多いと思われますが関東地方にもさきたま古墳群やここ群馬にも立派な大型古墳があります。さらに古墳について少し調べてみると、国内の古墳としては約16万基あるそうでそのうち前方後円墳は5200基が確認されています。またその中で宮内庁の所管となっているのが893基ありこれについては、発掘調査は出来ません。理由は皇室の安寧と静謐と尊厳を守るためとなっておりますが、あの箸墓古墳などについては古代のカギを握る部分となるので是非とも調査をされ古代史の解明につながることを願うものであります。
 1500年の昔に思いを馳せ古代人の生活のたくましさ技術の素晴らしさと、埴輪から見える心の豊かさに触れてみるのも楽しいことです。
                          H29/3/13 八大
 


日向薬師(宝城坊)

  丹沢山系、伊勢原の地に日本三大薬師として親しまれている日向薬師がある。かつては修行僧や山伏の修業拠点としてその名をとどろかせ12の坊を持つ大寺院でありました。昨年夏、久し振りに訪れたところ本堂には大きな仮設の足場が築かれていて入れませんでしたが隣の宝物殿に仮安置された仏像が狭い空間に所狭しと展示されておりました。ご本尊の薬師如来は鎌倉時代には病気平癒を願って源頼朝や夫人の政子が参拝したと云われております。明治時代に入ると神仏
分離の波が押し寄せ多くの坊が消滅したが奇跡的に宝城坊の
みが残ったものです。
 お寺に話を聞くと宝城坊本堂は江戸時代、万治3年(1660)に再建されたものでその後数度の修理は行われたが大規模な修理は行われなかった。
 平成22年から全解体の改修を開始6年かけて昨年11月20日に改修が終わり落慶式が行われました。その偉容は国内最大級と云われる本堂のかやぶき屋根が堂々として見えま
す。屋根の面積は1000㎡もあり,かや材の重量は約50tも
要したとの事。そのかやを確保するため御殿場のかや場で3
年もかけて集めたそうです。
 またここの薬師三尊像は鉈彫りと云う独特な技法で彫られておりその柔らかなお姿は仏像ファンにとっては正に垂涎の的になっております。今年のお正月は6年ぶりのご開帳と云
うこともあり地域の信者さんはもとより仏像ファンの参拝で久し振りの賑わいだったそうです。
 ただし薬師三尊像は秘仏になっており残念なことに拝観が出来るのは特別ご開帳のある1/1,2,3,1/8と4/15に限られております。     
                 平29/3/7  八大

             










赤山街道
 昔越ケ谷駅の構内に赤山街道の踏切があった。確か20年ぐらい前に鉄道が高架化されて交通渋滞はなくなったが当時は開かずの踏切で事故もあって市民の皆さんには大変に不評だった。
 この辺では日光街道や御成街道・例幣使街道の名前は聞きますが、赤山街道なんてどこへ行く道なんだろう?と前から疑問を持っていましたが先ごろ暇つぶしに越ケ谷から道なりに走ってみました。
 越ケ谷西口から七左町の交差点を真っすぐに進み綾瀬川を渡ると草加市に入り程なくすると川口市安行の文字が、道なりにどんどん行くと赤山の地名が出てきた。小さな表示で赤山日枝神社とありました。細い道を右折するとすぐに小高い丘の上に日枝神社が構えている。駐車場に車を止めて表示の案内に目を凝らすと、なんとこの辺一帯が江戸時代に関東郡代として権勢を誇っていた伊奈氏の赤山陣屋(居城)跡で埼玉県の遺跡指定としての解説がありました。
 徳川家康の信頼をあった伊奈氏の業績は大変なもので利根川の東遷を始めとする河川改修、土木、橋梁、新田開発、富士山の大噴火や大地震に対する対応と村人への配慮は信頼も厚く神様・仏様・伊奈様と崇められていた。
 早速に探検散策を始めるも周りは赤い土一面の植木畑(安行植木)でした。小道を歩くと赤山城址の石碑があり、僅かに何か所か空堀の復元跡がありますが当時の建物は全くありません。
 帰って調べてみると伊奈町小室の地に築いた代官所から3代目忠治の時に赤山の地を開拓し居城として以来200年続いた関東郡代の伊奈家は12代忠尊が家中不取締の罪で改易され赤山城が破却された為全くの更地になってしまったとの事。今ではその地に植木の畑が出来ているとの事らしい。すぐ近くに大蛇のような高速道路が横たわっております。
 奈良時代の東山道や中世の鎌倉街道・日光街道と時の為政者や有力者が築いたものと並んで今でもその名前が残っていることに昔日を偲びます。
 意外と短い街道ではありましたが日光街道への繋ぎ道として当時は賑わいを持っていたことでしょう。    八大