尾関宋園 師

大安心
 京都、大徳寺の大仙院を訪れた時、住職であった尾関宋園和尚にお会いでき仏教講話を聴くことがありました。それは「大安心」というテーマで「ビクビクしても始まらないよ」との言葉から始まるお説教はわが身に納得感を覚えた。「心の中のガラクタなんて捨てなさい!」この一言は今でも頭の中に強く残っています。 

講話の一節 ある時に壁に向かってひたすら坐り続けたと云う有名な「達磨大師」のところへ「神光」と名乗る中年の男がやってきて弟子入りをしたいという。この男は四十を過ぎた今迄にさまざまな学問を積んだ人である。しかし大師は振り向こうとさえはしない。季節は二月、一晩中雪が降り積もりとうとう神光の体半分が雪に埋もれる。

大師が、やおら口を開いた。「いったい何しに来たのだ」・・と。このとき神光は携えていた山刀で自分の腕を斬り落とし、血の滴る腕を達磨大師に差し出し弟子入りをしたいと己の決意のほどを告げた。ようやく願いのかなった神光が大師に問うた。

「私は自分がとても不安で仕方がないのです。どうか私を安心させてください」               「ほほう、では不安だというその心を持ってこい、そうしたらお前を安心させてやろう」           「実は、これまでいろいろ学んできましたが、不安な心を持ってくる訳にには参りません」          「そうか・・。それでお前をもう安心させてやったぞ」                                       

神光はその瞬間に、はっと悟ったと云ったそうです。                         彼はやがて禅宗の二祖「慧可」となり、禅の発展に尽力したとあります。           この話は「達磨安心」として禅の公案(参禅する人に考えさせる問題)になっていると。 いったい神光は大師の言葉から何を悟ったのか? 心配するな何とかなるさ・・・とも。

帰り道に20か寺を超える塔頭寺院の中には「石田三成公御墓地」との石碑がありましたが、拝観謝絶との掲示されておりましたので入り口の前で目礼をして戻りました。他にも高名な武将の墓が多いことを聞き陰ながらご冥福を祈りして帰路につきました。

 卯 月            八 大











北帰行


 # 窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく 北へ帰る旅人一人 涙流れてやまず

 夢はむなしく消えて 今日も闇をさすらう 遠き想いはかなき希望 恩愛我を去りぬ

   今は黙して行かん 何を又語るべきか さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か


北帰行(わたり)
「北帰行」という言葉を見聞きしたことがあるでしょうか。そうです「小林旭」が歌って大ヒットした静かでセンチメンタルな旋律は暗い悲哀と愁感を淡々とロマンチックに歌いあげていたころ私も十代の多感な時期でありました。そんな時南の方は明るく、北の方は寒くて暗いという、貧相で暗いイメージを持っていましたね。それ以来大人になっても胸中には今でもこの歌の余韻が残っているような気がします。

 辞書にはあまり載っていませんが、「ほっきこう」と読んで、温暖な地域で越冬した渡り鳥が北の繁殖地に移動する姿とあります。 「鳥帰る」や「白鳥帰る」は北帰行に似た意味の言葉でこちらは春の季語にもなっています。

北帰行(ほっきこう)という歌 は、日本人の歌ですよね。元の歌は、旧制旅順高等学校の愛唱歌(寮歌)だったと云います。第二次世界大戦後、歌声運動を通じて全国の歌声喫茶に広まり(昭和36年)頃には歌謡曲として大ヒットし街中の若人が口ずさんでいましたね

北に帰る準備中
その後何かの折に「北帰行」の意味とは渡り鳥が冬越しの為に日本にいて、暖かくなった時期に北へ向かう野鳥の習性をあらわしたものとあとで知りました。つまり、生々流転する自然の生態系の世界のこと。それをなぞらえたのか。

しかし、文語体の歌詞である原曲の舞台は、大東亜戦争下、外地の満州である男性が恋愛事件で退学処分になり泣く泣く日本へ帰ることを歌ったものだそうです。
その後に編曲がされて、今に至りましたが、大陸的な個性で浪々と歌うことで大ヒットした流行歌で私も好きな歌でした

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老前整理

卯月の空
老いる前に一度身の回りを見渡し、これからの暮らしを考えて物の整理と共に頭の整理をする事をやらねばとの思いが頭の中にありました。これは老いに備え 安全で快適な暮らしの準備をする事なのです。以前からそのことを暮らしのコンサルタントの先生からの提言を聞いておりました。2000年に介護保険法が開始され住宅改修やバリアフリーの進展もあり家庭においては整理が進んでいると聞いておりますが・・我が家では困ったことになっております。その原因は身の回りに物が多すぎる事です。

解決する方法は唯一つ、物を処分することです。けれども荷物の持ち主は積年の財産を引き継いでおり、もったいない症候群の人も多く年齢も同じような高齢者です。そうならない為には老いる前に一度身の回りを見直し、これからの暮らしを考えて物の整理と共に頭の整理をすることですよね。老いに備え安全で快適な暮らしの準備をしておくことです。

生まれた時から始まりその後仕事や暮らしの中で築いたり獲得したりした有形無形の物すべて、人生の区切りをつけるときに一緒に手放すことになります。それはこれからの人生を新たな気持ちでしがらみをなく、すっきりと送るために必要な事であります。

高齢者はとかく物をたくさん持ちすぎていることが多いです。おカネを稼いでいた現役時代は古くなれば「また買えばいい」と処分も出来たけれど収入が年金などに限定される老年になると、一度捨てたらもう買い戻せないという思いが出てきてなかなか捨てられなくなってくる。その結果家の中に物がどんどん溜まっていくのです。

過去の遺物の中に埋もれていたら身動きが取れなくなってしまいます。むしろ思い切って必要のないモノをそぎ落とすことで心が整理され自分が本当は何をしたいのかと考え、新しい生き方や暮らし方が見えて来るそうです。思い切って捨てる勇気を持つ事です。

その為には思い立ったら今から整理することです。何故なら始末をすることは体力と頭がしっかりしている時に始めないと決断力が鈍ってきます。本人にとっては宝物であっても他人にとっては二束三文です。亡くなってしまえば残ったものがそれを処分しなければならない、ただのゴミなんです、遺産となればトラブルの元、身内にも被害が及びますよネ。

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花に嵐の例え・・

 「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ・・」 あまりにも有名な唐代の詩人、 干武陵の「勧酒」(酒を勧める)と云う漢詩ですが、全体を眺めないと意味が伝わって来にくいと思いますが・・?。  

君金屈巵(君に勧む金屈の巵)   このさかづきを受けてくれ                                不須辞満酌(満酌辞するを須ひず)  どうぞなみなみと注がしてくれ                         花発多風雨(花発いて風雨多し)   花に嵐の例えもあるぞ                              人生足別離(人生別離足る)     さよならだけがじんせいだ                                                                     

嵐に耐えた古利根の櫻
なみなみと注がれた杯を、心許した友と酌み交わし、語り合う至福のときにあって花が咲いたとたんに風雨で散ってしまうように、なお人の生涯には別離ばかりが多いことだ・・と。この後は読み手の人生経験で感じるところだと思いますが、井伏鱒二が書き下ろしたもので、そちらのほうが有名になってしまっていますね。 

過日の大嵐では可哀そうな三本木公園の櫻に「よう頑張ったね・・・」慰めの思いで、見回りをすると意外や意外風雨に耐えていた様子が伺えました。三分咲きごろまでの花は勢い途中であり堪える力があったのだろうか。   嵐に耐えて頑張っている姿が何とも逞しさを感じさせますよね。                   

 

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どら猫

  お魚くわえたドラ猫」                                     追っかけて素足でかけてく 陽気なサザエさん                                                           みんなが笑ってる お日さまも笑ってる、                                                            ルルルルルル 今日もいい天気 ・・・ 

お馴染みの「サザエえさん」の一節。

近所の野良猫
猫がさ迷い歩き、たぶんうろついているような後ろ姿には哀愁が漂っているよう。よく盗み食いをすると断定されているどら猫お魚くわえている咥えて毎週見られている。どら猫の立場で考えると「さまよい歩いているからと云って、盗み食いの常習犯だなんて決めつけるな!と反論したいところだ。

「どら」の項目を調べてみると、「放蕩・道楽・道楽者・のら、と接頭語として用いる」とありました。そこで思いつくのは「どうらく」が詰まって「どら」・・と。「道楽者の猫」と考えるとぴったりハマるね。どら猫をたどっていったら・・ありました。

このところ全くと云うほど野良犬は見かけなくなくなったね、けれども野良猫は相変わらず我が家の周りを闊歩している。いじめる人がいないので堂々と欠伸をしながら堂々と歩いていますね。

 野良猫(のらねこ)とは、人間の生活圏に生活するネコのうち、特定の飼い主が存在しない無主物で、屋外で生活しているネコである。野良猫の多くは間接的に人間生活に依存している。単に「野良(ノラ)」や地域によっては「どら猫」と呼ばれることもある。


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独活(うど)

山独活 good

季節は「清明」の頃に入りました。一年で一番清々しいこの時期に子供の頃、祖母に連れられて近くの山に入って「山独活」や「蕗の薹」を取りに行ったことを思い出しました。

山の独活は多年草の山菜の一種で新芽は柔らかくシャキシャキとした食感が爽やかな味がします。若芽柔らかく新鮮味があり古くから食用としてのフアンも多い。炒め物や和え物、サラダ、煮物、味噌汁の具材などとして使用されております。私は生のままで味噌を付けてビールと共にかじる食感はグッドだ!

独活の中には、天然もしくは日光に当てて栽培する緑色の「山うど」と、完全に遮蔽して栽培されている全体的に白っぽい色合いの「軟白うど」の2種類がありますよね。

「独活の大木」 日本の諺(ことわざ)に「独活の大木」と呼ばれる言葉があります。外見だけは立派に見えるが実際には中身が弱く役に立たないものや人を指す日本のことわざです。これは「独活の大木、柱にならぬ」や「独活の大木、蓮木刀」「独活の大木、杖にもならぬ」といった言い回しにも見られ、これらの言い回しは、見た目の良さと実際の価値や能力とのギャップを強調しています。「独活の大木」とは、見た目の良さだけが取り柄で実質的な価値や強さが伴わないものや人を指すことわざです。  残念では有りましたが「戦艦大和」もそうですよね!


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