笠森寺(四方懸崖造り)

 坂東三十一番札所は千葉県の長南町に日本でも現存する唯一の珍しい四方懸崖造りの建物が国の重要文化財に指定されている。由緒書によると延暦三年(784)に伝教大師が創立し長元(1028)元年に後一条天皇が飛騨の匠に作らせたといわれているが、なんと山のてっぺんにこんな御堂を立てたのか不思議な建築物であります。七十余段の階段を上がって廻縁に出れば四方の眺望は素晴らしく眼下に房総の山々が広がる。
 一般的に懸崖造りと云えば清水寺に代表的されるように一面は山側に寄り添っているように見えるので安定感も感じるが、四方が懸崖となるとお城の天守閣が山のテッペンにあるようで雨風のことを思うと居心地が良いものではなさそうな気分です。降り際に下部の構造を覗いて見ると十分な仕組みが出来ていることを確認して不安は一掃された。

 階段を降り境内の休憩所に立ち寄ると何やら有難い文句がいろいろとありました。

 ◦ 若木の花のみずみずしさ、老木の花の気品
 ◦ 今が幸せと思わないと、一生幸せになれないよ
 ◦ 楽しい人は何でも楽しむ、苦しむ人は何でも苦しむ
 ◦ 悩むことは悩みなさい、しかし朝が来たらやめなさい
 ◦ 水は低い処に溜まるように、背を低くすれば人は自ずから集まる

気ぜわしさの中で忘れていたことを思い知らされた一服の涼風が通り過ぎて行った。

                                                          平成30年1月     八大


















一源三流(いちげんさんる)

 行田市の生んだ当代一と云われた武道家、吉川栄先生の顕彰碑がさきたま古墳公園の隅にひっそりと建っておりました。二十年以上前に遭遇した時にあまりにも感動したことを覚えましたので昨年懐かしさもあって尋ねたところいくら探しても見つからなかった。
 この度近くの民家にお聞きしてやっと尋ねることが出来た。二十年経つと以前訪れた所在地が思い出せなくて、記憶の薄れてきたことを実感しつつ改めて顕彰碑を見つめるとあの時の感動が思い起こされました。吉川栄氏の銅像裏に回って黒御影石の碑文を見ると昔日の思いが込み上げてきた、それは「一源三流」の言葉であった。

 『 友のために涙を流し 家のために汗を流し 国のために血を流す 』

 たったこれだけの言葉でありましたがその時の自分の思いと合致した文で今でも忘れずに心の奥にしまっております。この三流の源は自分自身が出来ることであり人間としての誠の心であると思え、言葉だけではなく行動に移せるかどうかが本物の男としての了見であると思っています。
 今でも飲み仲間と人生を語りあうときには、「友人や家族は勿論であるが日本という国の為に血を流す覚悟はできている」と公言しておりますがその気持ちに偽りはありません。あの太平洋戦争後から平和な世の中が長く続くとつい先人の苦労を忘れている輩を見るにつけ改めて気持ちを入れ直しを入れてあげたい思いです。
 吉川先生はこの一源三流の精神を折あるごとに弟子たちに説かれていたと云われます。
                          平成30年1月    八大




















前玉神社(さきたまじんじゃ)

 蝋梅と早咲きの梅に出会いながら久し振りにさきたま古墳公園の周りを歩きました。翌日には大雪の注意報が出ておりましたが穏やかな日和で一段と梅のつぼみが膨らんできたようです。明治から昭和にかけては前方後円墳や円墳の大小合わせると二十数基の古墳が確認されていましたが田畑の開拓などがなされ現在では国宝になった金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳をはじめ大型の古墳9基が整理保存されているようです。
 その東側の端に円墳とみられる浅間塚古墳があります。その墳上には延喜式(927年)の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座しておりますが、墳丘部がやせ細り石積みで補強されてはいますがあまりにも粗末で見るに忍びなかった。
 由緒書きを見ると前玉とは武蔵国前玉郡の表記であり前玉の中心であったことで700年代の半ばに漢字の変更があり前玉から埼玉になり県名発祥の神社であるとのこと。
 歴史ある大切な遺跡の保存が現在の人たちで出来ていないと云うことは後世の人たちに申し訳なく残念に思います。階段入り口には形の良い灯篭があって竿の部分に万葉集にある歌 「埼玉の津に居る船の風を疾み綱は絶ゆとも言な絶えそね」 が刻まれており当時の風景が思い起こされます。 また平安の歌人西行法師が奥州途上に詠んだ歌碑もあり
さきたまの宮の地名が刻まれておりました。
                                平成30年1月20日     八大

















大 寒 (椿の花)

 ご存知の通り大寒は一年中で一番寒い季節です。この時季から三寒四温があり待望の春がやってくると云われてますが、その七日間が繰り返されるのは中国や朝鮮半島であって実際の日本では言葉としてはあるが1~2回ある程度だそうです。
 椿はこの時期に花盛りを迎える植物で冬枯れの中でも艶やかな葉と鮮やかな花を見せる生命力の強さから、我が国では神話の時代から愛好されています。和風の花のイメージが強い椿ですが東アジアから東南アジア一帯に生息する東洋的な花ですね。
 どこかの宣教師によってヨーロッパにもたらされ上流階級の間で一大椿ブームが起きたことがあった時代、作曲家ベルディのオペラ「椿姫」が誕生しました。パリの裏社交界で常に椿の花を持った高級娼婦と純真な青年との一途な愛は、商売抜きの愛に発展したが一度道を踏み外した女心の蹉跌・・・また娼婦家業に戻ってしまうが、最後は涙を誘う場面で終わりますが、現在でもオペラの代表作として世界中で上演されていますね。
 謎 一か月のうち25日は白い椿で5日は赤い椿を持っていたとも云われている?
 話は変わりますが数十年前に四国の二十四番札所・最御崎寺から、ついでに足摺岬灯台まで足を運びましたが見事な藪椿の林の中を歩いた記憶が残っており異次元の境地を感じました。暖流の上を噴き上げてくる生暖い風が椿の花をポトン・ポトンと落としてゆく様を見た時に世の無常を強く感じた。「椿の花は綺麗だけど仏様には上げてはいけないよ」と、、普段からよく祖母は言っていましたが今でもそのことを守っています。

 最御崎寺(ほつみさきじ) 弘法大師は虚空蔵求聞持法を成就し、また悟りを開かれた
              寺であるとも言われています。
                   
                        平成30年1月20日     八大

 
















                                 
寒の入り 古利根川の散歩

 一年で最も寒いこの時期を「寒」といいますが約一か月間皆さんにはあまり好まれる季節ではありませんが、意外と寒にまつわる言葉は沢山あります。寒稽古・寒気団・寒葵・寒梅・寒雀・寒星・寒風・寒餅・寒夜・寒晒し・寒の戻り・・少し寒くなりましたね。
けれどもよく考えてみるとこの厳しい寒さを超えると躍動の春がやってくるので、何の苦も無くいきなり光の春が来るとすれば感動が薄くなるので贔屓目に見て戴きたい。
 久し振りに古利根川に足を運びましたが予期はしていたが鴨の飛び交う川面をなでる風は冷たい。そんな中でも土手沿いの道端には、スイセン・冬バラ・キンカン・レモン・ピラカンサス・山茶花たちが私を迎えてくれました。こんなにも寒さに負けずに頑張っている木々たちを見ていると「俺もチジコマッテはいられないな~」とは、思いつつ自問自答を繰り返していました。
 気象の用語として「山茶花散らし」という言葉があります。冬の花の代表格である山茶花を散らしてしまうのがこの時季に降る冷たい雨。季節の洗礼を受け花びらがバラバラに散って花のじゅうたんになってしまう姿は無一文の哀れを感じます。
 花言葉がいいですね「困難に打ち勝つひたむきさ」だそうです。
 寒の入りのこの日から季節の挨拶としては寒中見舞いになりますね。

                                                                   平成30年1月5日    八大



























セネカの一言

「幸せになりたいなら持っているものを増やすことでなく欲望を減らしなさい」

今、幸せの手段として集めた自分の宝物をこれ以上増やすな! この期に及んでは寧ろ自分の我欲を捨てなさいと云われる。                     
最近は人生の終末に向けては身の回りの断捨離を進めておりますが2,000年前、既にセネカは私たちに助言しています。そう言えばもっと以前に仏教の開祖お釈迦さまも「」を教えていましたね。

 セネカとはあの有名なローマ帝国第5代皇帝で暴君と云われたネロの幼少時の家庭教師で、同国皇帝即位後はバックボーンとして相談役や演説の起草者を務め善政5年の立役者でありました。その後政治の世界から引退をし文筆業に力を入れ哲学者として活躍した。
 しかし晩年にネロ皇帝退位説の陰謀に巻き込まれた結果、皇帝ネロから自殺を命じられドクニンジンを飲み死に至りました。

セネカの名言 (数ある名言の中から)

 「自分が不幸だと考えない限り、この世に不幸なことは何一つない」

   「カネによってもたらされし忠実さはカネによりて裏切られる」

       「人生は短いというが、実はその多くを浪費している」
 
            「愛の反対は憎しみではなく無関心である」

                           平成30年1月    八大