雨水の頃 草木萌え動く

  日本には昔から、太陽や月のめぐりを季節や月日などを知る手掛かりにしてきました。地球が太陽のまわりを一周する時間の長さを一年とするのが太陽暦です。
一方旧暦では新月から次の新月になるまでを一か月とするのが太陰暦です。明治五年に改暦の詔が出されるまで長い間したしまれてきた昔ながらの日本の暮らしの暦です。

季節には太陽暦の一年を四等分した春夏秋冬の他に二十四等分した、二十四節気と、七十二等分した七十二候という、細やかな季節を感じ取り、農業を中心とした生活を営んできました。七十二候の中には「桜始開く(さくらはじめてひらく)」や「雪下出麦(ゆきわたりてむぎいずる)」「熊籠穴(くまあなにこもる)」など、自然現象をそのまま名前にしたものが多く、生命を身近に感じることが出来るものです。

二十四節気、七十二候のその先に私は自分の言葉として雑記を加えたい。あちこちに芽吹く草花、春に先立って芽吹く庭木、初物をつまむ香気、その時の気分で記す雑記を書き留めることこれも又楽しい。

次第に和らぐ陽光の下、草木が芽吹きだすころに冬の間に蓄えられていた生命の息吹が外に現れ始めるころが暦でいう雨水の頃ですね。
気が付けば菜花の黄がそろそろ目に付くころ、花開く前のつぼみはほろ苦くその瑞瑞しさは春の走りを感じさせます。

この時期仏壇には毎年恒例のまだか細い桃の花が申し訳なさそうに活けられており隣にお雛様の来るのを待っておられる感じです。
ひな祭りには欠かせない蛤のお吸い物もこの時期食材の名脇役である、菜花との組み合わせは何処からも異論をはさむ余地はないだろう。

雨水のこの時期降る雨を、木の芽お越しと云って植物が花を咲かせるための大切な雨で木の芽が膨らむのを助けるように降るからその名で呼ばれたという。植物にとっては一雨ごとに春が来ることを感じます。こんな時にも私が日本人に生まれて良かったなあと思える季節です。


 令和2年  弥生       八 大 
















 沈丁花(じんちょうげ)

 この時期何処からともなく沈丁花の香りが漂ってきていましたが、今年は何と多くの皆さんがマスク姿が目につきますので匂いを感じない人もおられるかとも思われます。そうですコロナウイルスの話題で世の中持ちきりですね。けれども微かではありますが香って来ておりますよ。沈丁花が咲けば、いよいよ花の季節のスタートです。

高浜虚子の句に
「娘(こ)の庭を 仮の住まいや 沈丁花」があ
ります、親と子の関係が読み取れていて私が昔から好きな句の一つです。その虚子の実子の娘さんが星野立子でやはり沈丁花の句を詠んでおります。
「一歩行き 一歩戻りて 沈丁の香」
「沈丁花 どこに春かと 足を止め」 

沈丁花は中国南部からヒマラヤを原産とするジンチョウゲ科、常緑性の低木で室町時代の中ごろに日本へと渡ってきたようです。2~3月にピンクや白の花を咲かせることから春の季語としてよく詠われています。葉は先端がとがった楕円形をしておりつぼみは濃紅色であるが、開いた花は淡紅色でおしべは黄色で強い芳香を放つ。

金木犀(キンモクセイ)や梔子(クチナシ)と共に、三大香木として古くから親しまれて来たように花が咲くと甘い香りは香水としても利用されており、気分を落ち着かせる効果もあるそうです。

名前の由来 
調べてみると沈丁花と云う名前は、香木の「沈香」のような香りがしてクローブというスパイスで知られる「丁子(ちょうじ)」に似た花をつけることに由来するそうです。

 令和2年  如月      八 大
















 お水取り

 古都奈良に春の訪れを告げる東大寺二月堂のお水取りが間近かに迫りました。東大寺お水取り修二会は天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚が創始された。以来,一度も切れることなく今年で1269回目を数えるそうです。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)法要と云いますが、十一面悔過とは、私たちが日常に犯している様々な過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味します。 

修二会が創始された古代では、国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民豊楽など、人々の幸福を願う行事とされた。
この法会は現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もともとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会と云う意味を込めて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。

お水取りでは本行を行う練行衆の道明かりとして、大松明を持った童子(どうじ)が練行衆に付きます。その為お水取りはお松明(たいまつ)とも言われています。お松明は本行が行われる3月1日から14日まで行われ、12日・14日以外は19:00に大鐘が撞かれ、それを合図に行われます。ちなみにお水取りのお松明は通常10本だが、12日は11本になります。12日は通常の松明(長さ約6~8メートル・重さ約40キロ)よりも大きな籠松明(長さ約8メートル・重さ約70キロ)が用いられるそうです。

また12日の夜、お水取りの井戸は閼伽井屋と云う建物の中にあり二月堂との間を三往復してお香水が内陣に納められるもので、そのことからお水取りと呼ばれています。大松明から飛び散る火の粉によって映し出された光景は寒い中でしたが30年以上もたった今でも鮮明に思い起こすことが出来ます。

 令和二年  如月         八 大












 八幡平の冬ごもり

 東北の名峰岩手山の麓に抱かれた八幡平(はちまんたい)の地は、小生が還暦を過ぎたころから仲間と連れ立ってこの時期恒例になっている冬ごもりの地でもあります。今年の冬は異常気象の暖冬と云われますがその中でも最たるもので雪の量が少なく道路の地肌が見えるという嘗てない異常であります。

この周辺には八幡平リゾートスキー場をはじめ安比・雫石・網張などの大型のスキー場があり毎年冬ごもりと称して温泉とスキーを楽しんでいました。この時期の一週間ほどは下界との交流を離れⅠ年間を振り返るというリセットの時でもあります。

今は町村合併で八幡平市となっておりますが、この地、松尾村は明治の初めに硫黄鉱山として発展したのが始まりで嘗ては雲上の楽園として東洋一の硫黄鉱山として短い期間ではありましたがその名を馳せたことがありました。

硫黄はその昔、火薬や肥料、マッチなどの製品として使われておりその生産高は国内の三分の一を誇り「東洋一の硫黄鉱山」と呼ばれていました。鉱山の発展と共に陸奥の荒野と呼ばれたこの地は明治の終わりから昭和の中ごろにかけては従業員15,000人余りが暮らす一大鉱山都市になって、こんな山の中ににも関わらず学校や病院、映画館を備えており鉄筋コンクリートのアパートも立てられ急激に発展したそうです。

しかし鉱山から流出する強制酸性水が公害問題となり対策として早急に中和処理施設を造って対応したが硫黄製品の需要低下により昭和の47年には閉山に追い込まれて急激な過疎化が進みました。その後今度は冬季オリンピックの開催等で急激なスキーブームの到来があり追い風を受けてはいたが長く続かず過疎化に拍車がかかっているようです。
その地に建てられた不似合いなアパートの建物は現状を残したまま廃墟となってその姿を残しています。

こんな話を聞きかじって纏めてみると何処かの国の話かと思いたいが、現実に晒されているこの地の人達を近くに見ていると何かに翻弄されているようで何とも言えない気持ちになってしまいます。一区切りついた今年で冬ごもりも卒業しようと考えている我が身です。

令和2年   如月        八 大











 リビングウィル とは

 先週ある仲間の集まりでリビングウィルと云う大変貴重な話を聞く機会がありました。
回復の見込みがなく、すぐにでも命の灯が消え去ろうとしているときでも、現代の医療ではあなたを生かし続けることは可能です。人工呼吸器をつけて体内に酸素を送り込み、胃に穴をあける胃ろうを装着し栄養を摂取させます。ひとたびこれらの延命措置を始めたら、はずすことは容易でない。生命維持装置をはずせば死に至ることが明らかですから、医師が外したがらないことになります。「あらゆる手段を使って生きたい」と思っている多くの方々の意思も、尊重されるべきことです。

一方でチューブや機械につながれて、なお辛い闘病を強いられ、「回復の見込みがないのなら、安らかにその時を迎えたい」と思っている方々も多数いるそうです。「平穏死」「自然死」を望む方々が、自分の意思を元気なうちに説明・理解・同意)を書面にしておくこと必要です、それがリビングウイルです。「生前意思」とでも訳すのでしょうか。

いわば「いのちの遺言状」です。「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、記しておくのです。延命措置を控えてもらい、苦痛を取り除く緩和に重点を置いた医療に最善を尽くしてもらうことを望みます。もし、意に沿わなくなった場合、いつでも解約することが出来るそうです。
最近あまり聞かれなくなった言葉に尊厳死と安楽死がありますが非常にデリケートな問題なので法制化は難しく、いずれも日本国では認められてはおりません。日本でもリビングウィルと云う制度を確立して行こうとの機運が高まって来ているそうです。


 尊厳死とは 人間が人間としての尊厳 を保ちながら死に臨むことであり、インフォームド・コンセント(医師と患者との十分な情報を伝えられた上での合意)のひとつとされる末期ガン患者など治癒の見込みのない人々が、どれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生の幸福感を味わいながら迎えることである。
日本では事前に本人による指示書が準備されていても、治療を止めたことで、親族などが
ら殺人だと訴えられる可能性がある。尊厳死のための法律がないため、当事者本人が尊厳死を事前に希望しても人工呼吸器を取り外すことはできないという声が延命治療の現場では圧倒的に多いそうです。
 安楽死とは 死期が迫っている患者に耐え難い肉体的苦痛があり、患者が「早く逝かせてほしい」との意思を持っていることが明らかな場合、医師が積極的な医療行為で患者を死なせることを安楽死と呼びます。延命措置を行わないこととは、明らかに異なります。日本では患者を安楽死させた事件が有りますが、いずれの場合でも医師の有罪判決が確定しています。欧米などでは、この安楽死を合法的に認めている国・州がありますが、日本尊厳死協会は安楽死を支持していないそうです。

 令和二年  如月        八 大










春日部にも剣豪がいた



春日部に剣豪がいた

春日部市有形文化財の楼門(仁王門) 時は幕末、武州多摩出身の近藤勇や土方歳三が新選組で活躍していた頃、春日部にも剣豪がいました。その名は逸見思道軒(へんみしどうけん)と云い甲州武田氏の末裔で武士から帰農して現在の春日部市藤塚で代々名主を務めていました。

思道軒は幼少のころから剣術を好み、真似事をして遊んでいたと云われていますが、長じて越谷の新道無念流中村道場、次いで久喜の同流宗家戸賀崎道場で本格的に剣術を学んでいたと言われています。免許皆伝を得た後、関東各地で武者修行に励み、郷里である藤塚に道場を構えました。農事に精を出すかたわら近在の商家や農家の子弟に剣術を指導し、一時は門弟の数は三百人を超えて隆盛を極めたと伝えられています。

その頃に小淵観音院に「逸見思道軒の奉納額」が二十年ぐらい前までは飾られていたことを記憶していますが、雨風による損傷が激しく音読不良のようでした。その後に
調査したところ内容が分かったということです。

江戸時代の後半には、打ち続く飢饉などの影響で無宿
物や博徒などが横行するようになり社会不安が広がり
ました。特に天領や旗本知行地が散在する関東では、大名領に比べて統治が緩く治安が悪化していました。武蔵の国では大名領はごく限られており、大半は天領と旗本知行地で、春日部の区域では天領、岩槻藩領、寺領、旗本知行地が複雑に入り込んでいたそうです。
こうした社会情勢を反映して、十八世紀後半ごろから冨農層の間で自衛手段として剣術に対する関心が高まっていたそうです。

しばらく前から旧家の古老から三本木公園の近くに思道軒の碑があることは聞いていましたが市道の際に堂々とした顕彰碑が建っているのを見つけました。家並みを改めて見返ると通りの向こうから竹刀の響きが
聞こえてくるようにも感じた。の地にも立派な偉
人が居られたことに考えを新たにしました。

令和二年   睦月          八 大












チバニアン ?

 チバニアンの地を訪ねて千葉県の養老川渓谷に行ったのは昨年の春であった。もみじの頃には多くの観光客が紅葉狩りを楽しむ観光客が多いそうですがこの時期は看板はあるものの静かな山里でした。近くの看板に 養老川流域田淵の地磁気逆転地層 (国指定天然記念物)があった。

今朝(1/17)のニュースで国際地質科学連合の理事会で約77万4千年前~約12万6千年前の地層「千葉セクション」が示す地質時代の名称が「チバニアン」に決定したとの発表があった。地質時代の区分を決める「国際標準模式地」(GSSP)日本の地名が認定されたのは初めてである。チバニアンとは「千葉の時代」を意味する。
今後は世界で72カ所目のGSSPとして、「ジュラ紀」「白亜紀」などと同様、地球の地質時代の名称として使用されるという。


地層のでき方 この一帯の地層は、水深数百メートルで形成された海底堆積物が大規模な地殻変動によって隆起して陸地となり、それが養老川の浸食によって露頭地層として現れたもので泥や砂が固まって岩石化したもので比較的柔らかいものです。
地質年代区分の境界線にあたる 地球の歴史46億年のうち比較的新しい約77万年の更新世前紀と中期の地質年代境界にあたるそうです。この年代の海底堆積層が陸上でみられるのは世界的にも極めて珍しいことだそうです。
地磁気逆転の証拠 地磁気は過去に何度も逆転を繰り返しているそうでこの地層中の鉱物を分析した結果、およそ77万年前に最後に逆転した痕跡が確認できている。地磁気逆転のメカニズムや逆転によって自然環境に与える影響など、まだ分かってないことが多いためこの地層には、将来の科学研究の重要な鍵が含まれているようです。
白尾火山灰層 養老川沿いの露頭には、約77万年前の古期御嶽山が噴火した時の火山灰が見られます。露頭付近の地名にちなんで白尾火山灰層と呼ばれています。堆積の厚さは2~3cmですが、上下の砂泥質の地層とは容易に識別でき、地質年代区分境界を視覚的に分かりやすく示す指標となっています。
海と陸の化石 この地層中には、海中の有孔虫化石・貝化石(軟体動物などが海底を這った跡)・生痕化石・陸上の花粉化石、などたくさん含まれているため、それらを分析することで当時の自然環境の移り変わりを知ることが出来るそうです。

写真でもわかる通り岩盤は滑りやすく手すりにつかまって降りていくと不安定この上ない。地質調査段階の痕跡が残っており、ここで77万年前に地球の南北の磁場(地磁気)が逆転した時期があり地球史上最後に逆転した時代とされている。
世の中には不思議なことがあるんですね、南北の磁気が逆転したことも不思議ですがそんなことが今の時代に証明が出来るなんて考えると目が回りそうですね。これからはこの地が世界のチバニアンとして賑わいが増すでしょう。

 令和二年  睦月         八 大  









 
 
 





















 新国立競技場 レガシーの裏に見えないものあり

 新しくできた国立競技場の周りをうろついてきました。改めて見ると大きいですね6万人が収容できると云うが欲を言うともう少し競技場周囲に余裕が取れなかったのかなと私は思った。当日はラグビーの試合があったので新設なった会場を一目見ようと、お客さんの姿で大変な賑わいを見せていた。


先日テレビのニュースで東京オリンピックの開催が200日を切ったと報道されていたので国民の目からもその注目度の高さが伺えるようだった。中でもチケットの予約に対する人気状況の一位はサッカーでその後は、開会式、体操競技、陸上競技、野球、水泳の順に続くらしい。そんな中でマラソンの会場が急遽北海道に行ってしまったのには、賛否両論があるとはいえ小池知事の言動にも注目が集まってもいた。

ここでオリンピックに水を差すつもりはないが掛かる費用について一言苦言を表したい。先月の暮れに大会組織委員会からの開催経費の総額が発表されました。「一兆3900億円」が事実上の上限となっていたその額は何と「3兆円超」となり余りにも大きな開きがあったことにびっくり仰天しました。一瞬耳を疑った人が多いと思います。
親方日の丸でこの際イケイケドンドンで後は知らないと云うことにならないことを危惧するのは私の老化現象なのでしょうか。

組織委員会の話や新聞等の話を聞くと、オリンピックのレガシー(遺産)の確保であると言うが、オリンピックのレガシーとは何ぞやと・・・?
オリンピックは、単に競技大会を開催し成功することだけが目的ではなく、開催によって、次世代に何を残すか、何が残せるのか、という理念と戦略が求められる事は充分に分かりますが・・・。

けれども当初予算を2倍以上も膨らんでしまうということについての説明は年末のどさくさに紛れ込ませてその声は途中で霞んでしまっている。政府は常にプライマリーバランスが大切だ、国債の赤字は1200兆円を超えている現状については何の手も打つことが出来ない事はあまりにも無責任ではないかと思いますが皆さんは如何思いますか。2012年に開催されたロンドンオリンピックの事例に見習うべきではないかと思う。

 令和二年  睦月         八 大














 生死一如 (キッチンとトイレ)

 昔からよく「生と死」は台所と便所のようなものと例えられていたのを聞いたことがありました。 台所は一家が集まって楽しい食事をし団欒をする楽しいところで陽の場すが、便所は一人で寂しく居る陰の場所です。一軒の家に台所と便所があることでいつも安心して生活が出来ることは当たり前のことと思っており、多くの人達はどうすれば明るく楽しく生きていけるかと云うことだけを考えています。


 一方では死ぬのは苦しくて暗くて恐ろしい事だから見ないように考えないようにしている人たちが多いように思います。ましてや便所の有難さなんては考えたこともなかったですよね。しかし私たちも生まれたからには必ず死ななければならないことは宿命です。どんなに死にたくないと云ってもそれを避けることは出来ません。

 人は一日一日間違いなく死に向かっています、100%確実に死ななければならないのに死んだらどうなるか分からず真っ暗な闇の状態では明るい生き方は出来ないでしょう。どれだけ死を忘れていたとしても、死を自覚するようになると「自分の一生は何だったんだろう」と思うようになりスピリチアルペインに襲われます。それは人生最大の問題を解決していなかったからであります。

「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。死を見つめることが生を見つめることでいつ死んでも我が人生に悔いなしと云うような身になって初めて大安心大満足の明るい人生がを送ることが出来るというのが生死一如というそうです。明るく楽しく今を生きるには、必ずやってくる死の問題を解決してこそ今が輝くと云われます。仏教では死を見ないようにしてゴマカス必要はないと云っております。

 令和二年    睦月       八 大



 出雲大社 雲太・和二・京三」

 出雲大社は正式名称を「いずものおおやしろ」と言い、ご祭神は大国主の大神と云います。式内社(名神大社)で出雲国一之宮で旧社格は官幣大社、神社本庁の別表神社である。
また明治維新に伴う近代社格制度下においては唯一の「大社」を名乗る神社であった。

『日本書紀』には、国譲りの代償として、高天原の側が大国主命に対し、壮大な宮殿を造って与えた事が書いてありますが、これが出雲大社の始まりと記されている。いわゆる国譲りの神話ですが、その創建についての年代については明らかではありません。
 けれども、『出雲国風土記』には杵築大社(きつきたいしゃ)が載っていまして、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築いたという伝えがありますので、少なくとも8世紀には、大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたことが伺えます。

 平安時代中ごろの言い伝えでは、「雲太、和二、京三」という大きな社がありますが、その中でも出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、その次が京都御所大極殿の順でありますと。出雲大社本殿の高さは、16丈(48,48m)と云う壮大な建物であったろうと考えられます。更に遡ること上古の神代には32丈(おおよ96ḿ)であったと云う伝承があり、それを裏付ける金輪造営図の他、平成12年の調査の際3本一組の巨大な柱根(宇豆柱)が発掘され、巨大な神殿の存在が裏付けされました。これが現在と同じ8丈(24,24m)の高さに縮小されたのは、鎌倉時代の中頃からであるといわれています。現在の本殿(国宝)は延享元年(1,744)造営されたもので
あると言う。
 本殿は大社造りの代表で、屋根は切妻造り、妻入りで、内部は心御柱(しんのみはしら)を中心に田の字型に仕切られ、神座は向かって右から左へ向いている。屋根にそびえる千木(ちぎ)は外削(そとそぎ)で、3本の勝男木(かつおぎ)の長さは5,4mと巨大なものであります。

 出雲大社には、多くの祭礼がありますが中でも神在祭(かみありさい)は御忌祭(おいみまつり)ともいわれ、旧暦10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に参集され、会議をされるとの伝承に基づいた祭りが今でも受け継がれております。その前日の10日の夜、海の彼方から来る神々を迎えるため、稲佐(いなさ)の浜で神迎(かみむか)えの神事が行われ、神の使いである龍蛇(りゅうじゃ)を曲物(まげもの)に載せて本殿に納める。神々は境内左右にある十九社に宿り、上宮(かみのみや)において神議されるのであります。出雲大社を出発した神々は、佐太神社に移って再び会議をされることになる。従ってこの時期には全国各地におられていた神様は不在になっているのですよ・・。
出雲大社はその壮大な建物や、伝統的な神事等はやはり神話の国出雲の代表的存在であります。

 令和2年  睦月         八 大  




 







 太田南畝(蜀山人)狂歌師

この当時の狂歌や洒落本などは、読んでいくと風刺とその薬味が効いており楽しくて愉快になりますね。40年もの昔に出会った「ノミの狂歌」は何度読み返しても、軽妙洒脱と云うか滑稽でつい思い返して一人でにっこり頷いてしまいます。

蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた自作の
 朝もよし昼もなほよし晩もよしその合ひ合ひにチョイチョイとよし
を口ずさみながらご機嫌。そのときノミが一匹盃に飛び込んだ。そこで一首
 盃に飛び込むノミも飲み仲間酒飲みなれば殺されもせず
の即吟となる。盃の中のノミがすかさず返し歌としゃれて
 飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩にきてさす
と詠んだことに作家で精神科医のなだいなだ氏は狂歌に魅せられたという。

太田南畝
太田南畝(おおたなんぼ)寛延2年(1749年)~文政6年(1823年)の天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人でありました
当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなって行きました。
松平定信により田沼政治の重商主義の否定と緊縮財政、風紀取締りにより幕府財政の安定化を目指し、寛政の改革が始まると田沼寄りの幕臣たちは賄賂政治の下手人として粛清されていった。幸いに南畝は咎められなかったものの風評が絶えなかった。そんな時に政治を批判する庶民の文化として狂歌が大流行しました

「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」
上野公園の「蜀山人の碑}
が庶民に受け、その作者は南畝であると疑われましたが南畝はこれを否定します。事実であれば、幕臣として取り返しのつかないことになるところでした。
その後、享和元年(1801年)には大坂銅座出役として大坂に赴き、銅を「蜀山居士」とも呼んだことから、「蜀山人の号を使い始めています。
 
文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で南畝は75歳で世を去る。
辞世の句は、
「今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」とも 
「生き過ぎて七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」ともいわれます。
 当時を代表する文人でありながら、幕臣としてもきちんと務めを果たした南畝でした。

気になった狂歌
欲深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を和するる
白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりし田沼恋しき
上からは明治だなどというけれど 治明(おさまるめい)と下からは読む
わが禁酒破れ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう
世の中は色ととがなり どうぞ敵にめぐりあいたい
世の中はいつも月夜にのめし さてまた申し金のほしさよ
今さらに何か惜しまむ神武より 二千年来暮れてゆく年

令和元年   12月末        八 大









 ジャネーの法則 年をとるほど1年が短く感じる理由

 この時期の挨拶に、いやぁ一年って早いね。あっという間だね。と云うセリフをあちこちで聞かれます。年を取るほど時間が早く経つように感じている人、言われてみればなんとなくそう感じている人が多くおられます。少し時間はかかりましたが纏めてみました。こう云った現象を「ジャネーの法則」と呼ぶそうです。

ジャネーの法則は、19世紀のフランスの哲学者、ポール・ジャネが考案し、甥の心理学者ピエール・ジャネーが著作して紹介した法則で「主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象」を心理学的に解明した。
易しく言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する。(年齢に反比例する)。例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとってのⅠ年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。単純に言うと、50歳の1年は50年分の1年 < 5歳の1年は5年分の1年であります。
そんなことがウィキペディの中に書いてありました。

「時間の長さは、思い出や記憶の濃さによって変わる。」
個人差はあるけれど、5歳の子供の頃と言えば毎日が新鮮であった。見るもの、触るもの、やること、成すこと、すべてが初めての経験や出来事の連続である。
それらの1つ1つが、強烈な思い出や記憶となって心に刻まれる年頃です。
一方、50歳の大人はどうかというと、社会というものを一通り経験、理解し、新鮮さや驚きに出会う機会は一般的には目減りしてしまう。
思い出や記憶に残る出来事が少ないうえに、過去の類似体験と混同、上書きされてしまう。
もちろん、その際には個人差は5歳の子供以上に大きいとは思います。

ここで、ジャネーの法則を振り返ると…
50歳の1年は50年分の1年 < 5歳の1年は5年分の1年と考えましたが、「現在進行形で」考えると少しばかり見方が変わってきます。
  今日、5歳になったばかりの子供。
  今日、50歳になったばかりの大人。

普段、1日を長く感じがちなのは、何気に後者の男性のような気がしますよね。
子供がよく言う「もっと遊びたい」や「もう帰らなきゃいけないの?」と。
この時、子供は、時間の経過を早いと感じているはずです。
大人がよく言う「まだこんな時間かよ」や「この会議なげ~な」みたいな。
この時、大人は、時間の経過を遅いと感じているはず。

要するに、その場の時間の経過自体は、単調だったり退屈な生活を送っている人の方が遅くも長くも感じるはずですね。

改めて言うと、ジャネーの法則は、「主観的に記憶される年月の長さ」を指したものだ。
いやぁ1年って早いね、あっという間だね。とは言っても、いやぁ今年も一年早そうだな、とは言いませんからね。ただ、このセリフは言わずものがである・・・。
今年も単調だったな~、今年も退屈だったな~、と云う心理的側面が隠れているとも取れますのであまり人前で連発しない方がいいかもしれませんね。

50歳になっても70歳になっても毎日が新鮮で、毎年一年を振り返った際に充実感や満足感をしっかりした実感を持つこと。また常に新しい経験を持つことで感動不足にならないよう心がけること。そんな生活を送っていれば年齢に関係なく、時間は平等に流れています。自戒の念を込めて言うとそんな大人になりたいものです。
〔ジャネーの法則 参考〕              

令和元年  12月         八 大









 神明貝塚と牡蠣

 春日部市の西親野井にある縄文時代後期の神明貝塚(馬蹄形貝塚)が2020年に国の史跡に指定されることを聞いていました。先日、神明貝塚に関するシンポジュウムがあり覗いてみると「3800年前の縄文人の食文化」と題しての話でしたが興味あることもありました。発掘された中には魚類としては、イワシ、クロダイ、スズキ、フグ、ドジョウ、コイなどがありましたが陸上の動物の骨として鹿、猪、野兎なども発見されていました。何としても驚きは縄文人の人骨が3体発見されておりましので今後の研究成果が待たれます。

 貝塚ですから大量の貝殻を調べていくとその大部分はシジミです。今から6000年~5500年前には地球規模の温暖化により海面が3~4m上昇し春日部のこの地は奥東京湾と呼ばれる海だったそうです。やがて海面は徐々に下がりその海岸線は草加市付近まで南下したと推定されています。その頃この地に縄文人が住み着いて生活が始まり結果的に神明貝塚が出来上がったと考えらるそうです。

 神明貝塚付近は海水と淡水がまじりあう吃水域が広がっていた為、定住する人たちが多かったらしい、積みあがった貝殻の大部分はヤマトシジミでしたが、ハマグリ、バイガイ、牡蠣などが採取されていたようです。

 季節は今、牡蠣のシーズンです海のミルクと云われ称される牡蠣が美味しい季節になりました。鍋で良し焼いて良しフライで良し、生牡蛎でなおさらOKです。
 Rの付かない五月から八月にかけて牡蠣の産卵期にあたるので食用には適しないとも云われていますが、美味しい牡蠣のシーズンに入りました、さあ食べに行きましょう。

  令和元年 12月         八大















 錦 鯉 (泳ぐ宝石)

 先日、錦鯉の里と云われる十日町を訪れました。越後平野でも稲刈りが終わり農家の皆さんも一段落し、これから村の仲間と連れ立って湯治に行くような話をしてました。この地方の人達もこの時期が一年中で一番リラックスした楽しい日々が送れるということで多くの村人たちが寄り添って近くの湯治場に出掛けたそうです。最近はライフスタイルが変わって湯治という言葉もあまり聞かれなくなりましたね。

 錦鯉とは色や班紋があり観賞用に飼育している鯉の総称ですが、平成16年9月の新潟県中越地震のでは大変な災害を受けました。マスコミを通じてご存知の通り牛を救助するためヘリコプターで吊り上げたり、養殖場が崩壊したため大量の錦鯉を避難させたり大変なことがありました。その後は新潟県復興のシンボルとして観賞用の錦鯉が見直されているそいうです。

 錦鯉が初めて出現したのは江戸時代の文化文政の時代、現在の新潟県の山間部(主に小千谷・山古志・魚沼周辺)において食用として飼われていた鯉の中に突然変異で色のついた変わり鯉が現れたのが始まりだそうです。その後何代も交配が加えられ現在のような美しい錦鯉へと移り変わったそうです。でも一説には原産地はペルシャ地方と考えられて、今から一千年も前に中国から日本に渡来したとも云われています。

 色については当初は「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などと呼ばれていたが第二次世界大戦中の時局にそぐわないということで「錦鯉」となったと云われています。今では日本だけでなく世界中での評価も高く愛好家も多くNisikigoi>としの地位を確立いているそうです。

 鯉の愛好家は今では世界中に広がっており、その美しい錦鯉は体形、色彩、斑紋の三つが基本に評価されますが人気のある物には一匹で数百万円を超える物もあるそうです。
愛鯉家の皆さんからはその姿を見て「泳ぐ宝石」とも評価されています。 

 令和元年  11月          八 大






インディアン・サマー?


インディアンとサマーの組み合わせなんて、私はあまり聞いたことはなかったけれど、どんな意味があったんでしょう?

 北米(ニューイングランド)における晩秋から初冬にかけて風が弱く穏やかで暖かい日が続く、11月から12月の初め頃の時期を云うそうで現在では英語を話す各国でも用いられ英和辞典でも、日本の「小春日和(こはるびより)」として引用されています
 
 人の人生や時代が落ち着いてきた晩年の頃、穏やかで落ち着いた生活の続く時期と云ことですネ。ネイティブアメリカン(先住民)たちは冬に向けて秋に狩りをして暖かい日が続くと動物たちは活発になるので苦労せずして狩りが出来、収穫物を貯蔵する作業もあり何かと忙しい時期でもあります。また植民者間では植民地をめぐる争いが行われており、奪われて土地を取り返すために襲撃が多くなった時期に当てはめて、インデアン・サマーとよ呼ぶようになったとも云われていたそうです。

 日本では古くから冬の季語にもなっていますが、おおよそ11月ごろより12月の初旬ごろの時期で晩秋から初冬にかけての頃に見られる暖かな晴天を小春日和と云って愛される季節です。田んぼの稲刈りも終わり神様に捧げる新嘗祭も済んでから、疲れをとるため仲間や家族同士が一年の疲れをとるためにのんびりと近くの湯治場に行く人たちも多くおりました。自分に対する癒しであり年に一度の贅沢な日々であります。

 こんな話になると私が子供の頃、近所のおばあちゃんたちが縁側に出てお茶をすすりながら世間話を楽しみ漬物を自慢している姿が思い起こされます。そばには猫がけだるそうに欠伸をくりかえしている貧しいけれど平和な暮らしが蘇ってくるように感じられますよね。

 令和元年   11月        八 








        


















 天使の梯子

太陽への梯子
今月のよく晴れた空の下、古利根川の岸辺に遊んでいる水鳥を眺めているとき、まぶしいほどの光を感じた。見上げると太陽に繋がるように太陽への梯子が掛かっているように見えた。

 私が一瞬思えたことは、我が日本国の太陽神である天照大御神が登り階段を降ろして、光の階段を登って来なさいと私を招いているように感じた。圧倒され呆然として佇むことしかできなかった。

 これは日本の神話に出てくる皇室の祖神・日本国の総氏神・太陽の神格化した神、天照が光の梯子を降ろして何かを告げようとしたのか・・・自問自答するも、全くその先には進むことが出来なかった。その間思考が止まって何ともスピリチアルな現象に包まれた不思議な時間でした。

天使の梯子・東京
 天使の梯子とは画家レンブラントが旧約聖書創世期に由来する。この名称はヤコブが夢の中で雲の切れ間からさす光のような様子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。

 そのことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになったもので、この光りの光線を好んで描いたことからレンブラント光線というそうです。 宗教的な神々しさを表現したものでその後の多くの画家にも好まれて描かれていることはご承知の通りです。





 令和元年  11月    八 大












 大嘗祭

 大嘗祭とは天皇が即位後初めて行う新嘗祭を云う。その年に新たに収穫された稲の初穂を天皇自ら祖神天照大神をはじめ天地のよろずの神々に差し上げる一代一度の大礼であります。祭りに用いられる新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)された悠紀、主基の国から奉られ祭りの日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿(東方の祭場)、主基殿(西方の祭場)で、これを神に供え、自らも食する。即位後必ず行われるから践祚大嘗祭といい、一世一度の新嘗祭であるから大新嘗祭とも云う。儀式は即位の礼が七月以前ならその年で、八月以後ならば翌年で大嘗祭の日に行う。
 天武天皇の2年(673年)から後土御門天皇の即位(1467年)後に起こった応仁の乱の以後しばらく中絶していたが、東山天皇の時(1683年)から再興された。その後、中御門天皇の時(1710年)大嘗祭は行われず中止となり、桜町天皇の時(1738年)復興がなされ現在に至っている。大嘗祭を、おおにえのまつりとも云われる。


大嘗宮の造営中
 大嘗宮とは大嘗祭を行う祭祀の場所をいう。この場所は大嘗祭のたびに造営され、斎行された後は壊され奉焼される。古くから造営場所は朝堂院の前庭であった。祭りの10日前にに木材と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭りの3日前に竣工していたという。後に大嘗祭宮の規模は大正、昭和、の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数か月かけて造営しているそうです。古来から茅葺の屋根も諸事情もあり見た目にも簡素になっております。
大嘗宮(11月8日)

 令和元年  11月    八 大