越谷市フステバル

 2/25は越谷市60周年記念の生涯学習フェスティバルがあり野次馬として参加してきました。多くの催し物会場がありまして特に午前中の混雑は大変なもの。私たちの仲間である皆さん達も裏方として活躍されていました。
 越谷市も江戸時代のころは今よりはもっと活性化しており時代の先端を行っていたことを嘆くお年寄りがおりました。
 聞くところによるとお煎餅の始まりは草加よりも越谷の方が早かったとか、越谷だるま、越谷ひな人形、越谷桐箱、浴衣の籠染め技法、果物屋で有名な千疋屋さんは越谷から出たそうで今でも地名が残っているとのこと。
 伝統工芸の技が消え掛かっていることを心配しているお年寄りに、少しずつですが若者が街興しに係わって来ているそうで明るい希望の灯が見えてきているとのこと・・素晴らしいことですね。
 また最近の健康志向を考えた、血管年齢の測定や体脂肪バランス分析などの結果を出して頂きましたが、意外にも良好な数字で自信が持てました。丈夫な体に生かしてくれた両親に改めて感謝してます。
 帰り道、会場で出会った飲み友達と体調管理についての自慢を肴にお清めをやってから帰宅となりました。季節は雨水を越えたとはいえ寒い中ではありましたが有意義な一日を過ごすことが出来ました。感謝!

                    平成30年2月25日   八大   








現状維持とは(冬籠りの中で)

 今年の冬籠りも例年通り八幡平の豪雪の中、昨夜の最低気温は氷点下17,4℃、積雪量2,4ⅿ正に極寒の世界でありますが下界からは遮断された自然環境の中、自分ではどうにもならない雑念を忘れる時を過ごしてきました。
 雫石スキー場のゲレンデは毎年滑っており何ら変わる事ではなかったが今になって思うと若い頃はスピードと急斜面に対する挑戦が湧いていたが、何故か御身大切を思うのか楽しく滑れればそれで良しと思えてきた。そんな思いは何処から生まれるのか・・・?分からないが、昨年までの現状を維持することは決して負け惜しみで言っているのではないけれどそれが今の自分である。
 若いスノーボーダーがすぐ近くをすり抜けていくあの身軽さには今でも魅力を感じるが「俺はこれでいいんだ!」と納得している自分がここにいる。
 吹雪の中ゴーグルの曇りを取りながらこの齢になって現状を維持できることに誇りをもって挑むこと、それも自分の進歩なのではないか感じる。
 論語の中に「七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず」とあったがこんな心境を言うのかもしれない。
                         平成30年2月   八大












仁和寺展 (葛井寺の千手観音菩薩)

 「私しゃお多福お室の桜 鼻は低くとも人が好く」ずい分に昔になりますが京都双ヶ岡近くの仁和寺に遅咲きの花見に伺ったことがありました。結構なピンク色が印象に残っていました。
今回その仁和寺がお寺全体の大改修に伴い、国宝を含めて多くの仏像や秘宝の数々が東博で見られます。その中でも門外不出と云われていた真言宗御室派の寺院である葛井寺からの国宝「千手観音菩薩像」は圧巻です。
 観音菩薩は救済する衆生にふさわしい姿に変えて現れる仏で、三十三の姿に変化して出現すると云われておりその由縁で三十三観音霊場巡りなどに繋がりが現れております。その変化観音の中でも千手観音とはよく耳にすると思います、その姿のは多くは42本の手の姿であり1本の手が25の世界を救ってくれるとあり、あらゆることに対応してくれると云われています。
 今回、葛井寺の千手観音菩薩は実際に千本以上(1043本)あります。多方面での救済の為とはいえ一本一本丁寧に作られており信心と云うか、布教活動と云うか今の私たちには思いもつかないことではないかと思われます。奈良時代の昔にどうしてここまで造ることが出来たのか実際に近くで拝見して手の込んだ造作に感銘を受けました。

                                                                 平成30年2月    八大












氷川神社行幸(王城鎮護の社)

 明治天皇は慶応4年(1868)に江戸が東京に改称されると、すぐに東幸が決まり3,300人のお供を従えて京都を9月20日に出発し10月13日に江戸城に入る。その時すぐに東京城(とうけいじょう)と改称されました、いわゆる東京遷都です。この行列の様子についてはいくつもの錦絵などでご存知のことと思います。
 その後直ちにやったことは明治維新の祭政一致の方針として氷川神社を武蔵国の総鎮守として勅祭社と定める詔を発しさらに10月28日には氷川神社に天皇自らが参拝された。
 その行列も古式豊かに行われましたので展示されている絵巻物によって10M超える長さで1,000人以上の人々が参加されたことが分かります。東京城を発った明治天皇は中山道を進み戸田の渡しを「船橋」で渡り蕨で休憩し浦和宿本陣で宿泊し翌日に氷川神社に行幸しました。
 もちろん氷川神社が勅祭社に決められたのは武蔵国一之宮だったことでありましたが、奈良の平城京から平安遷都の際に桓武天皇が王城鎮護の神として賀茂神社に行幸したことに倣ったものと云われています。
幕末維新の歴史の中に突如として氷川神社が登場することになりました。
 その結果明治4年(1871)には氷川神社は伊勢神宮に次ぐ社格である官幣大社として国が祀る神社となりました。もちろん官選の宮司が派遣され今日に至っておりますが、こうして氷川神社は地域の神社から国の神社へと形を変えてくことになりました。
 その結果今までの例祭から勅祭になったため勅使が派遣され現在でも8月1日の氷川神社の例大祭には勅使が派遣され天皇からの幣帛が献じられ「東遊びの舞」が奉納されております。
 今年は通算すると明治150年にあたるそうです、大宮の氷川神社なんてとは云わないで武蔵国(埼玉県)の総鎮守であり東京城(皇居)の守護神であることを考えて散策してみるのも温故知新に繋がるのではないですか。
                           平成30年2月    八大













節 分 柊(ヒイラギ)の木

こんな寒い時期に咲くあまり目立たない花に柊があります。我が家でも隣との境に泥棒除けのためだったと思いますが,無味乾燥の気候の中、触ると痛い棘があり白色で小さな花がありました。目立たない花でしたが近寄って香りを嗅ぐとかすかなキンモクセイの香りが漂って何とも言えない小さな幸せを感じました。それは柊モクセイと名がありモクセイ科の木で葉の縁に棘があり触れるとヒリヒリと痛いので今は抜いてしまいました。
 花言葉には「用心深さ」「保護」「先見の明」とありますが、葉に棘がある事から寄せ付けない「用心深さ」、さらには魔除けになるということで「保護」という花言葉につながったと言われています。「先見の明」とは何でと思いましたら年を追うごとに葉の棘がなくなって丸い葉になるそうで「最初は危ないと思ってもそうではないというような変化」に繋がったといわれています。
私の育った田舎に限りませんが節分のときに柊の小枝に焼いた鰯の頭を刺して、玄関の外に飾る「柊鰯(ヒイラギイワシ)」がありますが、これはまさに「魔除け、保護」の役割で生まれた文化ですね。鰯の頭も信心からなんて今でも言われておりますね。


ちなみに、クリスマスに飾られる赤い実のついたリースも「ヒイラギ」の葉と聞きましたがこちらはモチノキ科の「西洋ヒイラギ」と云うそうで、名前は似ていますが別の植物だそうです。キリスト教では、キリストの足元から初めて生えた植物とされトゲトゲの葉や赤い実はキリストの流した血と苦悩を表しそこから別名「聖なる木」とも呼ばれているそうです。また、西洋ヒイラギは魔力があると信じられていて、キリスト教にもそのことが取り入れられ、同じく魔力を持つと信じられていたアイビーとともにクリスマスの飾り付けに用いられていますね。

                        平成30年2月3日    八大

  














笠森寺(四方懸崖造り)

 坂東三十一番札所は千葉県の長南町に日本でも現存する唯一の珍しい四方懸崖造りの建物が国の重要文化財に指定されている。由緒書によると延暦三年(784)に伝教大師が創立し長元(1028)元年に後一条天皇が飛騨の匠に作らせたといわれているが、なんと山のてっぺんにこんな御堂を立てたのか不思議な建築物であります。七十余段の階段を上がって廻縁に出れば四方の眺望は素晴らしく眼下に房総の山々が広がる。
 一般的に懸崖造りと云えば清水寺に代表的されるように一面は山側に寄り添っているように見えるので安定感も感じるが、四方が懸崖となるとお城の天守閣が山のテッペンにあるようで雨風のことを思うと居心地が良いものではなさそうな気分です。降り際に下部の構造を覗いて見ると十分な仕組みが出来ていることを確認して不安は一掃された。

 階段を降り境内の休憩所に立ち寄ると何やら有難い文句がいろいろとありました。

 ◦ 若木の花のみずみずしさ、老木の花の気品
 ◦ 今が幸せと思わないと、一生幸せになれないよ
 ◦ 楽しい人は何でも楽しむ、苦しむ人は何でも苦しむ
 ◦ 悩むことは悩みなさい、しかし朝が来たらやめなさい
 ◦ 水は低い処に溜まるように、背を低くすれば人は自ずから集まる

気ぜわしさの中で忘れていたことを思い知らされた一服の涼風が通り過ぎて行った。

                                                          平成30年1月     八大


















一源三流(いちげんさんる)

 行田市の生んだ当代一と云われた武道家、吉川栄先生の顕彰碑がさきたま古墳公園の隅にひっそりと建っておりました。二十年以上前に遭遇した時にあまりにも感動したことを覚えましたので昨年懐かしさもあって尋ねたところいくら探しても見つからなかった。
 この度近くの民家にお聞きしてやっと尋ねることが出来た。二十年経つと以前訪れた所在地が思い出せなくて、記憶の薄れてきたことを実感しつつ改めて顕彰碑を見つめるとあの時の感動が思い起こされました。吉川栄氏の銅像裏に回って黒御影石の碑文を見ると昔日の思いが込み上げてきた、それは「一源三流」の言葉であった。

 『 友のために涙を流し 家のために汗を流し 国のために血を流す 』

 たったこれだけの言葉でありましたがその時の自分の思いと合致した文で今でも忘れずに心の奥にしまっております。この三流の源は自分自身が出来ることであり人間としての誠の心であると思え、言葉だけではなく行動に移せるかどうかが本物の男としての了見であると思っています。
 今でも飲み仲間と人生を語りあうときには、「友人や家族は勿論であるが日本という国の為に血を流す覚悟はできている」と公言しておりますがその気持ちに偽りはありません。あの太平洋戦争後から平和な世の中が長く続くとつい先人の苦労を忘れている輩を見るにつけ改めて気持ちを入れ直しを入れてあげたい思いです。
 吉川先生はこの一源三流の精神を折あるごとに弟子たちに説かれていたと云われます。
                          平成30年1月    八大




















前玉神社(さきたまじんじゃ)

 蝋梅と早咲きの梅に出会いながら久し振りにさきたま古墳公園の周りを歩きました。翌日には大雪の注意報が出ておりましたが穏やかな日和で一段と梅のつぼみが膨らんできたようです。明治から昭和にかけては前方後円墳や円墳の大小合わせると二十数基の古墳が確認されていましたが田畑の開拓などがなされ現在では国宝になった金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳をはじめ大型の古墳9基が整理保存されているようです。
 その東側の端に円墳とみられる浅間塚古墳があります。その墳上には延喜式(927年)の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座しておりますが、墳丘部がやせ細り石積みで補強されてはいますがあまりにも粗末で見るに忍びなかった。
 由緒書きを見ると前玉とは武蔵国前玉郡の表記であり前玉の中心であったことで700年代の半ばに漢字の変更があり前玉から埼玉になり県名発祥の神社であるとのこと。
 歴史ある大切な遺跡の保存が現在の人たちで出来ていないと云うことは後世の人たちに申し訳なく残念に思います。階段入り口には形の良い灯篭があって竿の部分に万葉集にある歌 「埼玉の津に居る船の風を疾み綱は絶ゆとも言な絶えそね」 が刻まれており当時の風景が思い起こされます。 また平安の歌人西行法師が奥州途上に詠んだ歌碑もあり
さきたまの宮の地名が刻まれておりました。
                                平成30年1月20日     八大

















大 寒 (椿の花)

 ご存知の通り大寒は一年中で一番寒い季節です。この時季から三寒四温があり待望の春がやってくると云われてますが、その七日間が繰り返されるのは中国や朝鮮半島であって実際の日本では言葉としてはあるが1~2回ある程度だそうです。
 椿はこの時期に花盛りを迎える植物で冬枯れの中でも艶やかな葉と鮮やかな花を見せる生命力の強さから、我が国では神話の時代から愛好されています。和風の花のイメージが強い椿ですが東アジアから東南アジア一帯に生息する東洋的な花ですね。
 どこかの宣教師によってヨーロッパにもたらされ上流階級の間で一大椿ブームが起きたことがあった時代、作曲家ベルディのオペラ「椿姫」が誕生しました。パリの裏社交界で常に椿の花を持った高級娼婦と純真な青年との一途な愛は、商売抜きの愛に発展したが一度道を踏み外した女心の蹉跌・・・また娼婦家業に戻ってしまうが、最後は涙を誘う場面で終わりますが、現在でもオペラの代表作として世界中で上演されていますね。
 謎 一か月のうち25日は白い椿で5日は赤い椿を持っていたとも云われている?
 話は変わりますが数十年前に四国の二十四番札所・最御崎寺から、ついでに足摺岬灯台まで足を運びましたが見事な藪椿の林の中を歩いた記憶が残っており異次元の境地を感じました。暖流の上を噴き上げてくる生暖い風が椿の花をポトン・ポトンと落としてゆく様を見た時に世の無常を強く感じた。「椿の花は綺麗だけど仏様には上げてはいけないよ」と、、普段からよく祖母は言っていましたが今でもそのことを守っています。

 最御崎寺(ほつみさきじ) 弘法大師は虚空蔵求聞持法を成就し、また悟りを開かれた
              寺であるとも言われています。
                   
                        平成30年1月20日     八大

 
















                                 
寒の入り 古利根川の散歩

 一年で最も寒いこの時期を「寒」といいますが約一か月間皆さんにはあまり好まれる季節ではありませんが、意外と寒にまつわる言葉は沢山あります。寒稽古・寒気団・寒葵・寒梅・寒雀・寒星・寒風・寒餅・寒夜・寒晒し・寒の戻り・・少し寒くなりましたね。
けれどもよく考えてみるとこの厳しい寒さを超えると躍動の春がやってくるので、何の苦も無くいきなり光の春が来るとすれば感動が薄くなるので贔屓目に見て戴きたい。
 久し振りに古利根川に足を運びましたが予期はしていたが鴨の飛び交う川面をなでる風は冷たい。そんな中でも土手沿いの道端には、スイセン・冬バラ・キンカン・レモン・ピラカンサス・山茶花たちが私を迎えてくれました。こんなにも寒さに負けずに頑張っている木々たちを見ていると「俺もチジコマッテはいられないな~」とは、思いつつ自問自答を繰り返していました。
 気象の用語として「山茶花散らし」という言葉があります。冬の花の代表格である山茶花を散らしてしまうのがこの時季に降る冷たい雨。季節の洗礼を受け花びらがバラバラに散って花のじゅうたんになってしまう姿は無一文の哀れを感じます。
 花言葉がいいですね「困難に打ち勝つひたむきさ」だそうです。
 寒の入りのこの日から季節の挨拶としては寒中見舞いになりますね。

                                                                   平成30年1月5日    八大



























セネカの一言

「幸せになりたいなら持っているものを増やすことでなく欲望を減らしなさい」

今、幸せの手段として集めた自分の宝物をこれ以上増やすな! この期に及んでは寧ろ自分の我欲を捨てなさいと云われる。                     
最近は人生の終末に向けては身の回りの断捨離を進めておりますが2,000年前、既にセネカは私たちに助言しています。そう言えばもっと以前に仏教の開祖お釈迦さまも「」を教えていましたね。

 セネカとはあの有名なローマ帝国第5代皇帝で暴君と云われたネロの幼少時の家庭教師で、同国皇帝即位後はバックボーンとして相談役や演説の起草者を務め善政5年の立役者でありました。その後政治の世界から引退をし文筆業に力を入れ哲学者として活躍した。
 しかし晩年にネロ皇帝退位説の陰謀に巻き込まれた結果、皇帝ネロから自殺を命じられドクニンジンを飲み死に至りました。

セネカの名言 (数ある名言の中から)

 「自分が不幸だと考えない限り、この世に不幸なことは何一つない」

   「カネによってもたらされし忠実さはカネによりて裏切られる」

       「人生は短いというが、実はその多くを浪費している」
 
            「愛の反対は憎しみではなく無関心である」

                           平成30年1月    八大








表参道・年の暮れ

 年の暮れの散歩に突然思い立ってここ表参道に足を運んだ。何処からこんなに人が集まってくるんだろう、ここ表参道はブランド・ストリート。まばゆいばかりのイルミネーションと洗練されたデザインの建物群が立ち並ぶ姿はテレビで映し出されるニューヨークやパリを思い出させる。若者たちに混ざって言葉を聞いてみると日本語でない私には意味不明な言葉を多く聞こえた、それは地域でくくるんではなく世代で纏められるのではないか。それが若者の街青山~表参道~原宿を流れる底流かも知れない。

 そのほぼ中央に表参道ヒルズが構えているがその前身は同潤会青山アパートの跡地である。大正12年に発生した関東大震災の復興支援のために設立された当時としては近代的な鉄筋コンクリート構造で、当時としては先進的な設計や装備がなされていた。
10年ほど前に表参道ヒルズとして商業、住宅、駐車場の複合施設としてオープンされたもので賑わいの中心になっている。
                        平成29年12月31日    八大
表参道のブランド・ストリート群(雰囲気をお裾分け)




















年齢ではない(心に保湿剤を)

「老いる」も「老ける」も「年をとる」という意味がありますが、一字違うだけで大きな違いがあります。
80歳の加山雄三
「老いる」は実際に年を取ることで、世の中の人だれもが通る道でありあたりまえのことです。一方「老ける」とは年齢にまったく関係なく見た目の風貌が衰えて見える姿を言っていると思います。
 容姿に限らず生きる意欲を失っている姿、何かをしようとする目的がない姿、気力がなくなっている姿などが、老けて見える要因になっていると思います。
この頃特に若者でも老け込む人をたくさん見ることがあります。また中年になっても老け込まずに颯爽として目を輝かせて生活をしている人たちもいます。人は年齢ではなく気持ちの持ちようで表情や雰囲気が変わるもので、心の状態が容姿に現れるのです。
また自分だけと思いながらもその姿は近くの他人に大きく影響を与えているものです。
 時に困難にも見舞われる人生ですが日々の生活に目的を持ち、生きる意欲や気力を呼び起こして明るく、若々しく年齢を重ねたいものです。
                          平成29年12月   八大









声明(しょうみょう) ー仏教と音楽ー

 キリスト教に讃美歌があり聖歌隊があるように、仏教にも仏教を賛美してお経に節をつけて歌う専門の僧侶がいた。2年ほど前に声明を聞く機会がありました、地の底から湧きあがって来る感動を覚えたことがありました。
薬師寺の散華
 お釈迦様がおられる時から説法を記憶するため言葉に節を付けていることがあった。日本には仏教伝来と同時に声明と雅楽が入ってきた。天平勝宝4年4月9日(AD‐752年)東大寺盧舎那仏の開眼供養会でインドの僧である菩提僊那が朗々とした声明がその場の雰囲気を包んだといわれる。平安時代初期には唐から帰った空海、最澄がそれぞれの真言声明・天台声明の基礎を作ったと云うことで1,200年の歴史があるということです。民謡・浄瑠璃・謡曲・浪花節などに広く発展していって、日本音楽の源流となっています。
 多勢のお坊さんが堂内を回りながら声明を唱え散華を撒くとキラキラキラと散らされていく様子を見ていると、人それぞれにいろいろな思いが違って感じられることでしょう。
 声明とは五明(ごみょう)の一つであるそうです。五明とは仏教の学における声明(言語学・文学)因明(論理学)工巧明(工芸技術・算法暦法)医法明(医学)内明(哲学・仏教学)の五つの領域を言い、明とは「究明」であり今の言葉で云うと「学」である。
声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの楽譜に相当するものが当初はなかった。そのために伝授は困難を極めたそうで、後世になってから楽譜にあたる墨譜(ぼくふ)が考案され今に至っているそうです。声明は五明の第一とされており「一切の教えは皆文字や文法が無ければ前に進めない」と云うことからとのことです。

 「散華」とは
 仏教の経典には仏が説法をする時には天から花が降ってくると説かれていますが、天人が仏を讃美することを示すもので、古くは蓮の花弁や樒(しきび)の葉を撒いていたそうですが、現在では蓮の花弁を形どった和紙を使用しています。
仏を讃美し供養するために仏のまわりを巡りながら花を地にまき散らすのが散華であります。

                          平成29年12月   八大



サトーココノカドー

 先週の土曜日駅西口をうろついていて空を見上げたらヨーカドーの看板が目に入った、よく見たら鳩のマークが塗りつぶされて、コウモリのデザインを製作中・・・ハハ~これは二匹目のどじょうを狙っているのではと直感した。
今年の4月に特別企画「クレヨンしんちゃん25周年記念企画 オラのマチ・春日部にくれば~」の一環で「サトーココノカドー春日部店」に衣替えして営業したことは近隣に大きな話題となったことはご承知のことです。
 クレヨンしんちゃんに登場する商品名や企業名は実在するものに似せており、「サトーココノカドー」もその一つです。春日部の「イトーヨーカドー」はそのモデルで伊藤を佐藤、八日を九日、ハトのマークをコウモリに変えたパロディーは、子供たちに大受けし売り上げにも大きく貢献したようです。
 お店に聞くと年末15日から年明け8日にかけて『クレヨンしんちゃん展』を企画しているそうです。二匹目のドジョウを狙って商機タクマシク再挑戦する姿も、地盤沈下が心配される春日部市にとっては活気を与えてくれる楽しいカンフル剤になりそうです。
ここはひとつ、批判ばかりしてないで大きな心で見守りましょうよ!
                  平成27年12月12日    八大









可哀そうな皇帝ダリア

古利根の皇帝ダリア
  昨日久し振りに古利根川の散歩に出かけたところ皇帝ダリアが皇帝らしくない寂しい姿で咲いていました。その姿は痛々しいもので、歩道の手すりに紐で縛られており皇帝とは名ばかりそれはそれは悲しい姿を見せていました。じっと見つめる私は胸が痛くなり涙さえも滲んできました。こんな年もあるんだ・・・来年また頑張ろうと声をかけてきました。
 私もここ6~7年程前から毎年皇帝ダリアを育てていますが、その居丈だかに立っている姿は皇帝の名に恥じない堂々とした姿は頼もしい限りでした。今年も二株が春先から順調に背丈を伸ばしお盆過ぎのころには隣のお宅の二階の窓下ぐらいに育っておりました。
ところが今年は9月、10月の異常気象の長雨と台風・大風によって3度の損傷に遭遇しま
した1,2度目は倒れ掛かって枝が何本か折れましたが、3回目は根こそぎ倒れてしまい
直径8㎝位に育った幹の中ほどで折れてしまいました。
 それでも翌日に気づければ良かったけれど、あいにくと旅に出ており救急手当てが出来なかったので枝は可哀そうにバラバラ、根は天井を向いて乾燥してる・・・やむなく私が介錯人となったため、今の時期例年のような威厳のある皇帝ダリアを見上げることができず残念であります。
昨年の我が家の皇帝ダリア

 育成のための一言
皇帝ダリアはメキシコから中米に分布しており、茎が木質化して太くなり背丈が7~8ⅿぐらいになります。日が短くならないと花芽ができないので開花の時期が遅く11月の下旬頃から咲きます。また近くに街灯や電灯があると日が長いと勘違いして花芽をつけないことがあるので育てるには注意が必要です。      平成27年12月   八大




皇室の彩(こうしつのいろどり)



 先ごろ久し振りに東京芸術大学美術館に足を運びました。大正から昭和への時代の変化の時に、皇室の方々の御成婚や御即位などのお祝いのために、当代一の美術工芸家たちが技術の粋を尽くして献上品を制作されました。それらの献上品は宮殿などに飾られていましたが、その役目を終えて三の丸尚蔵館に静かに眠っていました。
 今回百年前の文化プロジェクトとして特別展示されたということです。各分野の美術工芸家130人余りが力を結集してた80点の、絵画・木彫・陶器・蒔絵・螺鈿細工・・などどれをとっても伝統技術を受け継いだものが展示されており最高水準の室内に飾る美術工芸品であります。


 その中で私の目に一際異彩を放ったものがあります。
それは[御飾棚]鳳凰菊紋様蒔絵(おんかざりだな、きくもんようまきえ)であります。
5年もの歳月をかけて作られた縦横一間(1,8ⅿ)ぐらいの大きさで見事な文様の蒔絵と螺鈿細工であります。絵柄に近づいて覗き込むと皇室を表す菊の紋章の中を鳳凰が嘴に小枝をはさんで飛んでいる様子が見えます。これぞ新しい家庭を築くことを表していることであり皇太子ご成婚を意味するもので螺鈿細工の輝きが美しいものであります。この飾り棚の上に更にどんなものが載せられたんだろうと想像すると別世界を感じます。


鳳凰とは
 中国神話での伝説の鳥、霊鳥である。日本や韓国など東南アジア全域にわたって装飾やシンボル、物語などに登場しています。
前漢時代に成立された類語辞典によれば頭は鶏、顎は燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚であり
色は黒、白、赤、青、黄の五色で背丈は六尺ほどであると書いてある。
 春秋戦国時代の論語には「聖天子の出現を待って、この世に現れる」と云われる瑞獣の一つとされ、またその生態を「鳳凰は梧桐にあらざれば棲まず、竹実にあらざれば食わず」あります。その意は霊泉(甘い水)を飲み60年に一度実を結ぶ竹の実を食べ青桐の林に棲んでいると
云います。
 平等院鳳凰堂の屋根の飾りは有名ですが日本国政府の紋章となってい
る五七の桐はそこから来ていると言われています。
              
                   平成27年12月     八大





イチョウ(銀杏・公孫樹・鴨脚樹)

 今年もカレンダーが最後の一枚になりました。朝一番で八幡様に詣でたところ、イチョウの落葉が敷き詰められなんとも贅沢な雰囲気を味わいました。
この時期鎌倉八幡宮や神宮外苑のイチョウの落葉は有名ですが、そんなに遠くに行かなくてもこんな身近なところでも初冬の雰囲気を味わうことができますよ。


 神前の大木は今から約800年くらい前の鎌倉時代「春日部治部少輔時賢」という人物が鶴岡八幡宮を信仰・崇敬しており、その八幡宮を遥拝するために造営されたのが春日部八幡宮の始まりという。参道中央のイチョウの御神木は鶴岡八幡宮の一枝が一夜のうちに飛んできて育ったと伝えられる大木で春日部の総鎮守として崇敬を集められています。
 イチョウの原産地は中国で日本には室町時代に伝来したとされ各地の神社や寺院に植えられたが、江戸時代の中頃に日本からオランダやイギリスに伝わりその後はヨーロッパ各地に広がっていったようです。
詩人のゲーテも「銀杏の葉」と名付けた恋愛詩を作っているそうです。

イチョウあれこれ
〇 燃えにくい木材であるため火事の延焼を防ぐという意味で神社や寺院にも多く植えら
  れているが、物の本によると火を浴びると幹から水分を発生させるというが?
〇 公孫樹とは中国で公は祖父の尊称で、祖父が種をまいても実がなるのは孫の代になる
  ことからその名がついた。

〇 鴨脚樹とは葉の形が水鳥である鴨の脚の水掻きの
  形に似ているからとか
〇 東京都のシンボルマークはイチョウの葉と思って
  ましたが、都では「T」の字から由来としていると
  云いイチョウを否定していますよ。
〇 雌雄異種の樹で春の新葉とともに生じた雄の花粉
  から精子を生じて受粉が行われるが、風媒花でそ
  の範囲は周囲1㎞の雌株に影響を与えるとのこと
  です。
〇 木材としての活用は碁盤や将棋盤としての他、木
  魚やまな板に加工されて日常活用されています。
〇 街路樹としても各地で多く植えられていますが、
  最近では果実のならない雄株のみを選んで植樹さ
  れているところも多いそうです。
〇 大相撲の関取になると大銀杏という髷が結えます
  が、その語源は形がイチョウの葉に似ているから
  ということはご存じのとおりです。

短歌を一首
  金色のちいさき鳥のかたちして 銀杏散るなり夕日の岡に  与謝野晶子

                        平成27年12月1日    八大