コキア

 今、国営ひたち海浜公園に真紅に紅葉したコキアが見ごろとなりましたネ。コキアは、ユーラシア大陸に広く分布する植物です。日本へはアジアから中国経由で渡来し1,000年以上前から栽培されていたという記録が残っているそうです。江戸時代にはホウキの材料として広く栽培されおり、和名の箒草はホウキとして利用していたことに由来しているそうです。

写真にあるような紅色は圧巻と云う言葉がありますがその言葉が当てはまりますね。夏を過ぎた頃からふっくらと緑色から鮮やかな紅色に変化し公園の見晴らしの丘を染め上げております。その丘を登るとその向こうには太平洋が大きく広がり表示の看板に目をやるとその先にはアラスカやロスアンゼルスにに繋がるという。海のないところに育った自分でしたので大海原は何となく憧れのイメージがあります。

子供の頃玄関の片隅を柄の短くなった箒を持って毎朝のように掃除担当だった私がさせられたことが思い起こされます。確かホウキ草と呼ばれていましたが茎の部分を乾燥させ水糸かなんかで縛ってあっただけの単純なものでしたが使い勝手の良いものでした。

また、乾燥させた小さなつぶつぶの実はより分けて良く洗ってから煮つけにしたり、大根おろしと混ぜて食べていましたが、プチュプチュして歯触り良かったのを覚えています。中国より伝わったころには食用として渡来したもので、その頃から「とんぶり」と呼ばれており私たちの育ったころは畑のキャビアと呼ばれていましたね。


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きぬかつぎ

 里芋の皮をそのまま蒸し,その皮を剥いで食べる料理を「きぬかつぎ」(衣被き)と云う。

泥だらけでお世辞にもきれいとはいえない姿の里芋ですが、その独特のねっとり感とやわらかさは、和食のメニューには欠かせない野菜です。子供の頃「おやつ」として、小腹の空いたころに食べた塩味は今でも口元に残っていましたが、何できぬかつぎと云うんだろうと思っていましたが、本当に変な名前として頭に残っていました。

これは平安時代以降に登場しました女性が外出時に頭から被った布のことだそうです。その時代には婦女子が衣もしくは薄衣を頭から被るようになり、脱ぐことが簡単であることから衣被かづきになぞらえてそう呼ばれたようです。その背景として風や埃を防ぐ目的と共に、顔を人前に晒すのを恥とする意識があったとみられています。衣服には単に手で前方をつぼめるものと腰のあたりで帯を結ぶものがありました。

里芋のぬめりは胃の粘膜や腸の働きを活発にし、血糖値や血中コレステロールを抑える働きがあると云われています。そのほか塩分の取りすぎを抑える効果や、足のむくみの防止にも効果があるそうです。しかも他の芋類に比べると低カロリーで女性にはお勧めの野菜であると云われています。料理の主役ではありませんが煮物には欠かせない一品すね

また里芋は親芋のまわりに子芋がついて、更に子芋のまわりに孫芋が連なるところから、子孫繁栄の縁起物とされています。そのため、里芋の煮物はおせち料理やお祝いの膳の定番となっていて重箱の中では欠かせない一品でもあります。


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金木犀


毎年この時期、秋を告げるよう金木犀の花は芳香を届けてくれますが、誰にでもわかる贈り物ですね。ああ又この季節がやって来たんだ、そうするとこの後は大きな三本立ての菊の花の出番です、季節は迷うことなく順序良く訪れてくれます。微かな風の動きの中でも脂粉のかおりは子供の頃、三角ベースで草野球をやった思い出が懐かしさを思い起こさせます。隣の家の金木犀はそこそこの香りを出してくれますので秋を感じますが朝、一瞬にしてオレンジの絨毯が現れるのには何とも勿体ない気分になります・

原産地は中国西南部、今回コロナ騒ぎの震源地である武漢市辺りで近くの桂林は金木犀の名所として名高いところです。モクセイ科の常緑樹で一般には桂花と呼ばれているそうですが、和名で金木犀と書くと花の名前が何でこんな字になるのと思いますよね。そうですその由来はこの樹皮が犀(サイ)の足に似ているために中国で「木犀」と名付けられたそうで、ギンモクセイ(銀桂)の白い花に対して橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイ(金桂)と云われています。

日本には江戸時代初期の頃中国から渡来したが、花を見ることしか考えなかったため雄株しか入ってこなかったが挿し木で簡単に増やすことが出来たので多く庭木として採用され増えて行ったようです。雌株は冬にクコの実程の小さな実を付け、熟すと紫色になる。そんなことから中国まで行かないと実を見ることは出来ないようです。

この季節に良く降る「桂花雨」の合間を縫って地上に白い布を敷いて竹竿で木の枝を叩き花を集め、その花を使って「桂花茶」「桂花酒」が加工されこの時期に食べる桂花入りのお菓子を作られたと云われています。                           木犀や障子閉めたる仏の間   正岡子規


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中秋の名月


旧暦八月十五日の満月は中秋の名月と云われ里芋の収穫時期にあたり芋名月とも呼ばれ、農村を中心に庶民の間の間で行われていた収穫祭と結びついて豊作への感謝を込めて芋をお供えする習わしがあった。                    

満月の前後の呼び名は、十三夜、子望月(こもちずき)十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月、更待月と、一夜一夜の月に名前を付けるほど月が身近に、愛でたい存在としてあったのでしょう。また十五夜が雲に隠れて見えないことを無月、雨で見えないことを雨月と雲の向こうの満月を言い表しました。

昔の日本は太陰暦で、月の満ち欠けと太陽の動きを基にして作られた暦で農業中心でその暮らしに役立てておりました。旧暦の7,8,9月を秋としておりその真ん中の日の8月の15日を「中秋」と呼び、その晩に上がる月を「中秋の月」と云いました。旧暦と新暦では1か月~2か月のズレがあるため現在の中秋は9月だったり10月だったりします。


日本では十五夜の月見が盛んになったのは平安時代に貴族の人達が、空を見上げて月を眺めるのではなく、水面や盃の酒に映った月を愛でたという事が書かれております。月が美しいから感激して眺めていたんでなくて、水面に映し出されたその月を愛でていたとは何と奥ゆかしいことか言葉が出ません。

また本場、中国の中秋の名月は、中華三大節の一つ中秋節として、家族や親しい友人を招き月餅を食べ月を見るという風習があり、現在の月餅はその時期の贈答品として定着したものだそうです。

                               



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社日 とは


社日と云う言葉は知らない人が多くなっていると思います、前後にある祝日に埋もれてしまって、最近ではその影がますます薄くなっており昭和の時代が益々遠くなっていることを実感してます。春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃に最も近い戊(つちのえ)の日を「社日」と云います。令和2年春の社日は3月16日で秋の社日は9月22日になります。その土地の神様を祀る日とされております。

 社日(しゃにち・しゃじつ)



その由来ですが春の社日の頃は種まきの頃であり、秋の社日の頃は収穫の頃にあたります。そんなことから社日は重要な節目と考えられ、春は五穀の種子を供えて豊作を祈り、秋には初穂を供えて収穫を感謝するようになりました。

社日を祝う習慣は元来中国にあり「土」と云う意味がある「戊(つちのえ)」の日に豊作を祈願するするもので「社」とは土地の産土神(生まれた土地の守護神)のことを表しています。この風習が日本に伝えられると、土地の神様を信仰する日本の風土に溶け込み、重要な農耕儀礼として全国に広がったと云われています。

社日は「土の神」を祀るので、この日は農作業など土をいじることを忌む風習が各地にみられます。信州・上田平の地を訪ねた時には「お社日様は」春は神迎え、秋には神送りとして餅をついて祝っていることが現在でも行われております。そういう昔からの風習が残っているところを訪ねると改めて日本人としての歴史や民族の誇りを感じますね。

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SDGs とは

以前から胸に少し大きめの丸いバッジに気づいていた方も居られるたとは思いますが、最近特に政治家や一般の企業人の中にも多く見られるようになって来ておりますのでチョットだけ触りの部分を描き留めました。

SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称であり(エスディージーズと読みます)、2015年9月に国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標です。17の大きな目標と、それを達成するための具体的な169のターゲットで構成されています。

SDGsの17の目標とは

1 貧困をなくそう あらゆる場所であらゆろ形態の貧困に終止符を打つ。
2 飢餓をゼロに 飢餓に終止符を打ち食糧の安定確保と栄養状態の改善を達成するとと
  もに持続可能な農業を推進する
3 すべての人に健康と福祉を
  あらゆる年齢の人に健康的な生活を確保し福祉を推進する
4 質の高い教育をみんなに
5 ジェンダー平等を実現しよう
  ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る
6 安全な水とトイレを世界中に
  すべての人に水と衛生へのアクセツと持続可能な管理を確保する
7 エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
  すべての人々に手ごろで信頼でき、持続可能かつ近代的なエネルギーへのアクセツを
8 働きがいも経済成長も  
  全ての人の為の持続的、包摂的かつ持続可能な経済成長、生産的な完全雇用及び、働き
  甲斐のある人間らしい仕事を推進する
9 産業と技術革新の基盤を創ろう
  強靭なインフラを整備し、包摂的で持続可能な産業化を推進するとともに、技術開発の
  拡大を図る
10 人や国の不平等を無くそう
  国内および国家間の格差を是正する
11 住み続けられる街づくりを
  都市と人間の居住地を包摂的、安全、強靭かつ持続可能にする
12 つくる責任、つかう責任
  持続可能な消費と生産のパターンを確保する
13 気候変動に具体的な対策を
  気候変動とその影響に立ち向かうために、緊急対策を取る
14 海の豊かさを守ろう
  海洋と海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する
15 陸の豊かさを守ろう
  陸上生態系の保護、回復及び持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化へ
  の対処、土地劣化の阻止及び逆転、ならびに生物多様性損失の阻止を図る
16 平和と公正をすべての人に
  持続可能な開発に向けて平和で包摂的な社会を推進し、すべての人に司法へのアクセツ
  を提供するとともに、あらゆるレベルにおいて効果的で責任ある包摂的な制度の構築
17 パートナーシップで目標を達成しよう
  持続可能な開発に向けて実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップの活性化を

この上段6つの目標を見ると、貧困や飢餓、健康や教育、さらには安全な水など開発途上国
に対する支援に見えますが、日本でも子供の貧困やジェンダー平等に関して当てはまることです。中段のエネルギーや経済成長の話になると先進国である日本にも密接に関係していることです。また後段では気候の変動の話、海や陸上の話になって開発途上国だけでなくもっと大きな包括的な広がりとなってきますね。(国連広報から参照)

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鶺鴒

 鶺鴒(せきれい) 


古利根川の人道橋付近は川幅も広くゆったりとした流れは釣り人も多く、何となく人の心も穏やかになっていくようで楽しいスポットですね。いつものように水面を眺めていると朽ちた釣り船に留まって尻尾を上下させている鶺鴒を見つけました。その細めの体と長い尾が特徴的な鶺鴒はその長い尾でちょんちょんとリズムをとるようにして、歩き回り水生植物や昆虫をあさっているようです。その長い尾を上下に振る習性から地方によっては「石たたき」「庭たたき」などとも言われています。

日本書紀には日本神話の国生みの伝承として「恋かぞえ鳥」「恋知り鳥」という異名もあるそうですが、これは神話の中にあるエピソードが由来だそうです。それは日本の国を創ったイザナギノミコトとイザナミノミコトは結婚したものの、子供の作り方が全くわかりませんでした。そこへ鶺鴒が飛んできて盛んに尾を上下に動かす動作見せると納得し二人の神は性交の仕方をすぐに覚えたのです。

神様のやることは早いです、直ぐにイザナミは大八嶋(日本列島)を産み落としたのでした。今の日本列島があるのは鶺鴒のお陰かもしれませんね。そんな伝説からか鶺鴒は結婚にゆかりの深い鳥になっており皇室での成婚時には、新床の飾りとして鶺鴒が置かれていたとも言われております。

また鶺鴒は盛岡市や喜多方市、水戸市、あきる野市、板橋市、岡崎市など全国各地の自治体で愛される鳥として指定の鳥として選ばれているようです。一般にみられているセキレイは日本ではセグロセキれレイ、ハクセキレイ、キセキレイが主であるが中国地方にいるイワミセキレイと云う種は長い尾を左右に振る習性があるそうで見られると面白いですね。


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にわか雨


 今日は変な天気で朝から何度も「にわか雨」というものが降りますね。天気予報でも降るとは言いましたが晴れのち雨、のち晴れのち雨が4回も断続的に続いていて私の経験では新記録と思われます。何でこんなことになるのか天気予報氏の説明を聞きました。

今現在9号台風が長崎県の西方沖を通過中で関東地方にまで影響しているらしく、一方で南方海上の遠くであるが暖かい湿った空気を伴った10号台風が北上中とのことです。間にある日本列島が息を吸ったり吐いたりしているらしく、その為かアコーデオンの風琴のように息をしている感じであり私達にとっては出ることも入ることも出来ずいい迷惑である。そんな状況をにわか雨と云われていますが、都合の良い話ですよね。国語辞典によると「にわか」の意味は、物事が急に起こるさま。病気が急変するさま。一時的であるさま、かりそめであるさまの意味がある。にわか雨には「にわかファン」の意味もあります。

江戸から明治にかけて宴席や路上などで行われた即興芝居を指す言葉が語源であったと云います。俄狂言(にわかきょうげん)を略したもので俄=素人が演じたことからこう呼ばれたようです。この俄が各地で起こり、大阪俄は現在一般的な漫才などのお笑い文化の源流になっており職業化されだし道頓堀相合橋には俄専門の舞台が作られたと云います。

これらが新喜劇に繋がり、松竹新喜劇の旗揚げで初代渋谷天外なども俄から出て楽天会を主催していたと云います。それからは横山エンタツ・花菱アチャコと続き現在のお笑い界に続いております。地域は違いますが九州俄の系統があり博多俄・肥後俄・佐賀俄・・と広がりを見せており、そんな中では半面目かづら)を付けて演じる博多銘菓「二〇加煎餅(にわかせんべい)」なども今に残っています。午後になってから俄が通り過ぎたようです。      令和2年    長月    八 大   




出穂水

 出穂水(でほみず)って言葉を聞いたことありますか? あまり聞いたことがない言葉ですが、昨日古利根川沿いの小さな田んぼにポンプで水を汲み上げていた農家のお百姓さんがいました。連日酷暑日が続いていますが「この時季一番大変なことは水の管理なんです」朝夕の水の管理の良しあしによってお米の味が変わるんですと云って話をしてくれました。此の田んぼも今ではスイッチを入れれば水が上がってくるが、昔は水車(みずぐるま)を足で漕いで水を確保していた頃が昭和の初めごろまであったんです。


その水車を踏車
(とうしゃ・ふみぐるま)と呼んでいて、日本においては江戸時代中期以降に普及しておりました。この古利根川の付近でも足踏み揚水機は古くからの農家や古民具の展示場などで見られます。人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるからくりで使われており、田んぼに入るにも、舟(サッパ舟)で移動していたそうです。今でもその風景は遠くは東南アジアの稲作地域にも見うけられます。    


私達日本の稲作農家にとって一番大切なことは水の管理だそうで、日照りの頃の水争いはその地域の中でも大変な騒動になったことが語り継がれて来ておりました。またお米の品種がコシヒカリをはじめひとめぼれササニシキなど評判の種類が品種改良されて美味しいご飯が食べられますが、何と云っても田んぼの水の管理によって愛情をかけて出来たお米が美味しいと古利根の古老が熱く語ってくれました。水の管理(加減)は一番大切であるとのことです。



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虫の音

 此のところ暫らく暑い日が続いており寝床にスズムシの籠を置きクーラーのお世話になっていましたが、昨夜は久しぶりに気温が少し控えめに感じたので、網戸にして眠りに入りました。 だが、しかし快い感じを予想していたにもかかわらず五月蠅いほどの虫達の奏でる大合奏となってしまいました。

スズムシの優雅な音色に合せるように、ギイッチョン、ガチャガチャ、ジ~ジ~っと・・・一晩中秋の虫たちの競演が続き夢のようなナイトタイムを過ごすことが出来ました。勿論その夜の主役はコンサートマスターである我が家のスズムシ君でありました。こんな夜が来るとは思いませんでした、草むらの演奏者の皆さん有難うございました。都会でのマンション暮らしの人達には恐らく味わえない程の極楽気分でした。

草むらや地上に鳴いている虫の声を文字で表現するのは非常に難しいのですが、鳴き声から察するに、キリギリスがギィ―チョン、カンタンがルルルルッ、ウマオイがスィチョンン クツワムシがガシャガシャ、エンマコオロギがコロ・コロ・コロ、マツムシがピリッ・ピリリッツ、と続きます。聞くところによるとこのカネタタキという虫がいるそうでがチン・チン・チン、と鉦の音に聞こえるそうで、お寺に居るように感じるとか?。

日本人が虫の音を愛でて秋を感じるようになったのは、平安時代だそうです。この頃すでに虫の音を愛でる風習があったことが記録に残されています。鳴き声を楽しむことが貴族の間で流行していたそうです。清少納言の「枕草子」の中には「スズムシ、松虫、キリギリス、はたおり」が登場していますし、紫式部の「源氏物語」のなかにもスズムシや松虫が描かれております。


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地獄の釜の蓋が開く

 私たちが子供の頃「藪入りという言葉が残っており前日の15日はお盆と云う重要な祭日でし

た。そこで奉公先や嫁入り先の用事を済ませ、その翌日の16日が実家の行事に参加ができるように休みが与えられたようです。現在のように定休日がなかった時代に、正月と盆の藪入りは奉公人たちにとっては大変貴重で待ち遠しい日でした。また親元に帰れない者も芝居見物などに出掛け年に二回だけのお休みを楽しんでいた。嬉しいことが重なったとき「盆と正月が一緒に来たよう」と云いますが、昔の奉公人にはこの2つの藪入りは本当に楽しみだったに違いありません。

 今日8月16日には決まって茗荷の葉でくるんだ炭酸饅頭をおやつに食べさせてもらったことを思いだいました、遠くなった昔の話です。何でこんなお呪い(おまじない)のようなことをして・・?と思いながらも食べることの方が先だった。この地方の風習で酷暑に負けないお呪いと疫病除けの意味もあり有難がって食べていましたね。

戦後世の中の労働スタイルが大きく変わって日曜日などの定休日が出来ると藪入りは遠く忘れられて行きましたが藪入りの伝統は正月休みや盆休みの規制として残っていて、最近では大型連休や最近ではコロナ禍と相まってGO-TOキャンペーンと云う言葉まで臨時に拡大して来ていますね。

また「地獄の窯の蓋が開く」云われるこの日は、お盆の時期、霊が里帰りして地獄にいないので地獄番の鬼も休みです。その頃に畑の土に耳をつけると、ゴーッという地熱の沸くような音がするそうで、地獄の窯の蓋が開いて霊が飛び出してくるので、仕事をしてはいけない日とされたそうです。仏教では藪入りの日を「閻魔の賽日」といい「地獄の蓋が開き亡者も責め苦を逃れる日」であり「罪人を責めていた地獄の鬼たちさえもこの日は休むから、人も仕事も休む」と考えられたのでしょう。

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 火焔型土器 なんだコレは」

新潟県の山奥であった現在の十日町市の笹山遺跡から1,980年~1,986年にかけて火焔型土器

の発掘調査が行われ教科書に出て来るような形の土器が出て来て、大きく立ち上がる突起が燃え盛る炎のように見えることから命名されました。

日本一の大河である信濃川の流域は、8000年前に大きな気候変動があり一転して雪国となったと云われています。遡る事5,000年程前に何とも奇抜なかっこうの「火焔型土器」が出現したそうです。鶏の頭のような4つの突起があり、縄文土器を代表するものです「なんだコレは!」と叫んだのは岡本太郎でした。火焔型土器の芸術性を発見したその後世界的な評価を得て新潟県では初の国宝に指定されました。

「火焔型土器 6つの秘密」

1 ニワトリだと思ったら実は魚だった?

 いちばんの特徴は4つの大きな「鶏頭冠突起(けいとうかんとっき)」鶏のトサカに似ていますが、この時代・地域に鶏がいた記録がなく、「水面を跳ねる魚」か「4本足の動物」を象ったと云われています。突起には左向きと右向きがあります。

2 逆さまに埋まっていました

 1982年に新潟県十日町市の笹山遺跡から出土。鶏頭冠突起を下にした逆さまの状態で発見され、突起も尻尾も完ぺきな状態だったそうです。

3 人類初の化学製品?

 粘土に鉱物や繊維を混ぜ、低温で焼いて固い器にする。縄文土器は人類が初めて化学変化を応用して作ったものでした。石や骨を削るのと違い、成形途中で形の修正が出来る点も画期的。個性的な造形を産みました。

4 ギザギザの秘密は?

 口縁にノコギリの歯のようなギザギザがあるもの、火焔型土器の特徴。このギザギザが「火焔」の語源となりました。その特徴的なデザインを強調するように、年度のひもで縁取りされている点も見どころです。

5 「縄文」じゃないんです

 縄文土器ですが、縄で文様をつける「縄文」はナシ。胴体の表面は年度のひもを張り付けたような隆線や隆帯と渦巻き文で埋め尽くされています。「トサカとノコギリはあるが縄目がない」のが火焔型土器のスタイルです。

6 実際に煮炊きしてました

 器の内側にオコゲ(炭化物)や変色が見られることから、食物の煮炊きやアク取に使われたことが分かりました。縄文人の主食は木の実。どんぐりやクルミと動物性食材を合わせた料理も作られていたようです。

信濃川は日本で最も長い河川になり長さは367キロメートルです。新潟県と長野県東部を流れる一級河川であり信濃川水系の本流になります。新潟市で日本海に注ぎますが信濃川と呼ばれているのは新潟県のみで長野県の部分は千曲川と呼ばれています。信濃川と呼ばれている部分より千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと60キロメートルほど千曲川の方が長いですが河川法上、千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定してます。


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ナツツバキ(シャラの木)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」

平家物語の冒頭の部分ですが、猫の額のような私の庭にも植えてあるシャラの木のことだよと教えられていましたが、チョット違うんじゃないかと兼ねがね思っていましたので調査をしてみました。

沙羅双樹とは、二本の沙羅樹という意味で、お釈迦様が最期を迎えるときに選んで横たわった場所が、二本の対になった沙羅樹の下だったことから「沙羅双樹」と呼ばれています。
因みに仏教において三大聖樹と呼ばれているものがありますが、お釈迦様が生まれた場所であった「無憂樹(ムユウジュ)」、お釈迦様が悟りを開いたところにあった「印度菩提樹(インドボダイジュ)」、それにお釈迦様が亡くなったところにあった「沙羅樹(サラジュ、シャラの木)」だそうです。

平家物語に出て来る沙羅双樹は、日本原産で沙羅樹によく似た「ナツツバキ」を代用して読んだものだそうです。そのことから全国各地のお寺の境内にナツツバキが植えられており、シャラの木という名も別名として残っていると云います。

ナツツバキはその名のように夏にツバキに似た真っ白な花を咲かせる樹木で、樹齢を重ねると樹皮が剥がれ落ちて表面がつるつるになりモザイク模様になるのでこれはナツツバキだと分かります。葉と花を見れば花が白いだけでまったく冬に咲く椿と親戚のようですが、決定的な違いがありますそれは、秋にはキレイに紅葉もするから落葉もします。
四季を通じて観賞価値が高く庭木として人気があります。



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宵待草と月見草

 

「待てど暮らせど 来ぬ人を  宵待草の やるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」

    「暮れて河原に 星一つ 宵待草の 花の露 更けては風も 泣くそうな」


竹久夢二は数多くの美人画を書いているがその抒情的な作品は大正ロマンを色濃く残しており児童雑誌や詩文の挿絵などにも残っています。また宵待草で思い起こすのは新しもの好きな私の叔父が手廻しで聞かせてくれた蓄音機で聞いた大正浪漫溢れるメロディー私たち世代では今でも頭の奥底に残っているのではないでしょうか。

黄色に咲いているのは「待宵草(まつよいぐさ)」 で原産地は南北アメリカで元々はなかった植物でしたが、戦後~昭和の30年代に繁殖力が強く日本中の空き地に大群落を作ってしまったものです。けれどもその待宵草も今ではご存知の通りセイタカアワダチソウに取って代わられてしまっているのが現状ですすね。

月見草っていう名前は誰でも聞いたことがあると思いますが宵草、宵待草は何だか分かりずらいですよね。花に興味のない人でも、すぐに竹下夢二を思い起こす人がいるでしょう。この月見草という花はマツヨイグサ属に属するメキシコ原産の一年生草本で、江戸時代の末頃に観賞用として日本に入ってきました。ところで、月見草の花は黄色だと思っている人が多いことにビックリですが白なんです。月見草っていうくらいだから、夕方から咲き始めて翌朝には萎んでしまうんだけど、萎む頃には花びらは薄ピンク色に染

まっている。




夢二の「宵待草(よいまちぐさ)」っていう詩は、最初は「待宵草(まつよいぐさ)」と本人の自筆で書かれていたようだけど、語感の良さから夢二本人が途中から「宵待草(よいまちぐさ)」と書き換えたらしいです。でも、それにメロディーがついて大ヒットしたもんだから、「宵待草」という呼び名も大正~昭和の始め頃までは、メジャーになってしまったようです。でも、最近は聞かれなくなりましたが懐かしいですね。

さて、マツヨイグサの仲間には昼咲きのものもあって、その代表格がヒルザキツキミソウと呼ばれるピンクの花を咲かせる宿根草です。一度植えておけば、大した世話をしなくても、初夏から夏にかけて爽やかなピンクの大きな花を咲かせ続けるので、先の園芸ブームの頃から結構人気がありましたから、皆さんの中にも庭に植えている人がおられるでしょう。

名前の由来 夕方を待って咲き始めることから来ているそうです。

花言葉〉 打ち明けられない打ち明けられない恋・無言の恋・自由な心・美人
      うつろな愛・移り気な人・浴後の美人

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桐の話


  春日部市の名産品としてその名を誇れるものとしては、「高級桐ダンス」があります。その言われとして日光東照宮を造った各職人達の中に指物屋と云う人たちが居ました。東照宮を完成させた職人たちが江戸へ戻る途中に立ち寄ってひと稼ぎをしてから江戸へ帰ろうとしてそのまま居ついてしまったのが処が当時の粕壁だったとも言われています。


つい三十年ほど前には西口の踏み切りの近くには数件の桐ダンス屋さんが軒を連ねていたことを思い出しますが、また市内のあちこちに箱屋さんと称しては小細工を商売に成り立っていたことも聞きましたが当時の粕壁は押しも押されない桐ダンスの町でありました。
桐ダンスは湿度が高いと膨張して気密性が高まり湿気を防いでくれることで日本の気候にはぴったりの材木だったと言えますよね。

また昔は嫁入り道具に桐のタンスを持たせるため「女の子が出来たら桐を植える」という習慣がありまして、桐は成長が早く二十年たてば高さ十メートル程度の成木になり加工できるので理にかなっているようです。しかし立派な桐ダンスも
軽量で安価な桐材も瞬くにプラスチック製品にその場を奪われているのが現状です。

五百円玉を手に取ってみれば表に描かれているのは桐の葉と花でありますが、これは内閣総理大臣の紋章としてデザインされた桐であることは皆さんご承知のことと思います。
三本木公園の一角にポケットパークがありますが今は小さな桐の樹ですが成長の早い木ですので、やがて大木になって私たちを見下ろすようになることでしょう。楽しみにしており
ます、頑張ってくださいよ!

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 オキシトシン

 最近、雑誌やテレビなどで取り上げられるようになりました「オキシトシン」という脳内ホルモンの働きについてNHKあさイチでも取り上げられていました。脳の視床下部という場所で産生されるホルモンで「お母さんホルモン」や「愛のホルモン」として知られてきたそうです。オキシトシンとはギリシャ語の語源で「早く生まれる」という意味のことが語源のようで古くから女性の出産や子育てに関連するホルモンとして広く知られるようになったそうです。

新型コロナウイルスの影響で、「ストレスがたまって、もう疲れた!」という人も多いですよね。そこで、“幸せホルモン”や“愛情ホルモン”とも呼ばれる「オキシトシン」に注目!オキシトシンは、ストレスや痛みを和らげたり、血圧を下げたり、ダイエットや美肌にも効果が期待できるそうなんです。ハグやキスなどスキンシップによって分泌されるホルモンとして知られていますが、実はたった一人でも、簡単にオキシトシンを出すことが出来ると云います。

「飼い犬と触れ合うことで、お互いにオキシトシンが分泌される」ことで幸せな気分になり癒され、ストレスが緩和されるという研究論文もあるそうで世界的にも話題になったホルモンです。
その効果は「幸せな気分になる」「脳が癒されストレスが緩和される」「不安や恐怖心が減少する」「他者への信頼の気持ちが増す」「社交的となり人と関わりたいという好奇心が強まる」「学習意欲と記憶力の向上」「感染症予防につながる」・・・とオキシトシンを分泌されることでメチャメチャ幸せな気分を味わせてくれるホルモンです。

オキシトシンはどうやったら出て来るのか? その方法を知れば家族や夫婦関係、他者とのスキンシップや信頼関係に深く関係するそうです。その方法は「スキンシップ、マッサージ、見つめ合う、ハグする、キス、愛撫、性交渉・・?となんてことはないラブラブ&いちゃいちゃな時間を過ごせば、それだけでオキシトシンがどんどん湧き出て来るそうです。

コロナ・コロナで多くの皆さんが気分的に落ち込んでおられる人がいるようですが、オキシトシンを出すことによって自分から気分を変えましょう。感染症が悪いのはそのとおりですがここは一つ自分から進んで自分を変えていくことが最も重要なこと思います。

 令和2年  文月        八 大









 風のテラス


 今年の初め頃、古利根川の八幡橋右岸橋詰めから300ⅿ間ぐらいが住民の提案により「自然観察・親水型遊歩道」として河川敷地内に設けられてきました。まだ手作りの作業が始まったばかりなのでその大部分は背の高い雑草が覆いかぶさっていますが、その空間は子供たちの夢を育むものとなりそうで楽しみが一つ増えました。

スタートラインの近くには「風のテラス」という手作りの看板が目に付いていたが何となく見過ごしていました。改めてじっくりと見つめていると、洋々と流れる古利根川が頼りがいのあるものに見えて来ました。

そこには「子供と家族のための川15か条」の印刷物が「川から学ぶ地域社会づくり指針」として、国土交通省が平成18年に「多自然川づくり」基本方針を示し「河川全体の自然の営みを視野に入れ、地域の暮らしや歴史、文化との調和にも配慮した河川管理」の必要性を提唱している。そんな中で、埼玉県では川の面積の割合が日本一という特性を生かし「水辺再生100プラン」の事業が平成20年から始められていたそうです。

この話を準備しているときに、九州球磨川の大水害ニュ=スが飛び込んできました。毎年のように繰り返される水の
恐ろしさに愕然としています。平常時にはここ古利根川のよ
うな穏やかな流れが、地域に潤いをもたらしていることに感
謝しています。いつまでも「健康で安全な川」である事を願いたいものです。



令和2年  文月        八 大
























 半夏生  (はんげしょう)


 半夏生は農事暦で七十二候であるとともに雑節の一つに数えられています。夏至から数えて11日目にあたる日、もしくはその日から5日間を云います。月日でいうと7月2日頃から7日七夕の頃になります。夏至は毎年同じではありませんので半夏生の期間もそれに合わせて変わります。

 「半夏」とはサトイモ科の「烏柄杓(からすびしゃく)」の別名で、この頃、山道や畑などで生え始めます。烏柄杓は「狐のロウソク」、「蛇の枕」とも呼ばれ名前の通りひょろっとして不思議な形をしています。


どうして半夏生と呼んだのでしょう。
半夏生の半夏は「烏柄杓」という薬草の漢名からきているそうです。ちょうど半夏の生える時期にあたることから半夏生と呼ばれるようになりました。その他に半夏生の花が咲く時期だからというものです。

半夏生は半夏とは全く別な植物で「方白草」と云われている毒草です。7月の初旬から花を咲かせ葉の数枚の一部が表側だけ白くなります。それが、半分化粧しているように見えるところから半化粧と呼ばれるようになった、その後に転じて「半夏生」となったと云われています。

農業が中心だったころの日本において、半夏生は大切な節目の日でもありました。半夏半作とも言われて半夏生の日迄には田植えを済ませその後は田植えをしないと云う風習がありました。それ以降になると秋の収穫が減少すると云われており季節の目安になる日でもありました。作業に一段落つけてから数日間の農休みをとり,餅をついたり,だんご,麦こがし,まんじゅうなどを作って食べる所が多いそうで,ヤマノイモやサバ(鯖)を食べる処もありました。

半夏と半夏生は混同されるが、写真を見ると一目同然です。
 半夏(烏柄杓)とは 半夏に生える頃の植物。
 半夏生は、ドクダミ科の多年草で水辺に生え、臭気があ
 る茎は高さ約80㎝位。葉は長卵形で夏に花穂をつけ、白色
 の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色と
 なり目立つ。片白草(かたしろぐさ)ともいう。 




 令和2年   文月        八 大














ホウオウボク(鳳凰木)

 初夏~秋にかけて鮮かな朱赤色の五弁花を咲かせる マメ科「ホウオウボク(鳳凰木)」の熱帯性落葉高木です。 整った笠形の自然樹形で大きな葉が多数出るので、 樹の下は夏でも涼しく熱帯地方では憩の場になります。 葉はシダに似て涼しげで緑色の葉と、真っ赤な花色との対比が美しい。 花は大きく開花し雄しべと雌しべを突出させ、最盛期には樹冠が鮮緋色で一斉に染まります。 花が散った後に枝からぶら下るように、青く大きな剣状の莢(サヤ、豆果)
がなります。

原産地はマダガスカル島と云われていますが今では台湾やハワイでも多く見られますが、沖縄の石垣島や那覇の国際通りの街路樹として見事に咲いてくれています。成木の樹高は
15Mにもなりシャガランダ、アフリカン・チュウリップ(火炎木)と共に、熱帯三大花木と云われておりその容貌は立派でありますが、そんな大木でも夜になると眠ってしまうという不思議な習性を持った花でもあります。

緋紅色の蝶形な花が印象的な「ホウオウボク」も全てが全てオレンジ色の花を咲かせるわけではなく、その年によって咲くか否か変わりますし、咲くタイミングもバラバラでしかも樹木の大半がオレンジ色に色づくものがあるかと思えば、全くオレンジ色の花が咲かないものもあったりするそうです。でも梅雨時期の那覇市街なら咲いている可能性がとても高く、いろいろ散策すれば必ず鮮やかなオレンジ色の花が見つかります。

花言葉は「臆病な愛」 「内気」「同情」「柔和」「永遠」
「私は恋を疑う」「しめやかな愛」「気品」
大阪では、「咲くやこの花館」の温室で、この木を見る事が出来たかと思います。

  令和2年   文月        八 大  

































 こうもり傘   

     あめあめ♪ふれふれ♪かあさんが♪    じゃのめで♪おむかえ♪うれしいな♪   
                          ぴちぴち♪じゃぶじゃぶ♪    ランランラン♪
蛇の目傘

  童謡「あめふり」で、お母さんが蛇の目傘で迎えに来てくれる様子ですが、私が70年前の小学生時代は当時番傘という時代で紙製で竹の骨で作られたものでした。梅雨の時季どうしても厄介にならなければならないのが傘であります。それでも和傘に対して金属の骨組みの黒い洋傘を「コウモリ傘」という事は子供のころから知っていました。
私達が育った時代、母親が雨の中で迎えに来るようなことはなく濡れ鼠で帰った覚えがありました。



傘とは何ぞや
昔の番傘
「傘」とは雨、雪、などが降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使うことが多い。日光などが体に当たらないように、頭上に広げ差しかざすもので柄をすえて開閉が出来るようにした「さしがさ」に対して「笠」は頭部に直接被って使う用具である。またガーデンパラソルやマーケットパラソルなど携行を目的としない特殊な傘もあり、これらは地面に立てたり吊ったりして用いている。  

日本書紀には百済の聖明王の使者が552年に欽明天皇へ憧幡(旗・天蓋)を献上したことが掛けれている。当初は主に日射を避ける「日傘」として用いていたが、その後日本独自の構造的進化も見られ降水に対して使うことが多くなっていった。中国は古くから天蓋式の傘が発達し日本へは百済を通じて伝来したようです。
蝙蝠
その後江戸時代に竹細工や製紙技術の進歩と共に紙製で竹の骨、竹の柄の和傘が作られ、日傘も同じ時期から一般的になった。ヨーロッパでは傘の使用が一般化したのは 17世紀ごろと云われている

洋傘を「こうもり傘」ともいうが、こうもり傘の語源に関しては、「傘をかぶる」が「こうむる」となり、これを語源とするなどの説もあるが、幕末にペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから生まれたという説が最も有力である。


洋傘の話


貴婦人の日傘
傘が使われ出したのは約4000年ほど前と言われ、エジプトやペルシャなどの彫刻画や壁画に残っている。ギリシャでは祭礼のときに神の威光を表すしるしとして神像の上にかざしていたと云われ天蓋から傘は発達したと云われておりますそのころの傘は開いたままですぼめることはできなかったようで傘が一般的に使われ出したのはギリシャ時代に貴婦人たちが日傘を従者に持たせて歩いている絵が残っているようです。


フランスでは1533年にフィレンツェのメディチ家のカトリーヌ王女がアンリ王子に嫁いだ時に伝えられたと云われています。また17世紀のフランスでは、街中で2階から投げ捨てられる汚物(糞尿)を避けるために女性には傘が必需品だったことが史実と
して云われています。

コウモリ傘
イギリスでは18世紀の頃に現在のものが開発されましたが、当初は太陽から肌を守るために日傘として開発され、雨の日は傘をさす習慣がなく濡れることは苦にしなかったそうです。(当時のイギリスの気候は霧雨程度が多かったようで、紳士が雨の日に傘をさして笑われたととも言われています)けれども今ではその紳士のマネをするようになり次第に雨の日のアイテムになっています。

 雨降りお月さん

「雨降りお月さん雲の影  お嫁に行くときゃ誰とゆく 
   一人で唐傘さしてゆく  唐笠ないときゃ誰と行く
      シャラシャラシャンシャン鈴付けた
         お馬にゆられて  ぬれて行く 」
婦人用雨傘

子供の頃はカラかさ(唐笠)あるいは番傘、和傘でしたが唱歌にも歌われていましたね。


  


  令和2年   水無月       八 大