サラサモクレン(更紗木蓮)

更紗木蓮
春の花木と云えば、桜や梅を思い浮かべる人が多いとは思いますが、この時期に優雅な姿を見せてくれるのが 木蓮(モクレン)です。またまた古利根川沿いの片隅に見つけましたこれは大ぶりの更紗木蓮のようです。昔は木蘭(モクラン)と呼ばれていたそうですが、花の形が蘭に似ていたということに由来して名付けられたようですが今では蓮の花に似ていることから木蓮(モクレン)の方に定着しているようです。

この花は花の内側と外側の色が異なっています、内側は白い色をしていますが外側は薄いピンク色をしています。花の花びらは6枚あり花が咲き始めると葉が出て来て花を隠してしまうほどの大きさになります。木の高さが5m位にもなるので威厳があり丈夫で長持ちで立派です、また花は暑さ寒さににめっぽう強いそうです。

原産地は中国の雲南省や四川省の方ですが、庭木・公園樹として北米やヨーロッパ諸国でも広く栽培されておりますが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では国花として指定されております。また木蓮の花の蕾がなぜか必ず北を向くことから「コンパスプラント(方向指標植物)」とも呼ばれており、辛夷(コブシ)やネコヤナギもその仲間だそうです。春先の温かい日差しを受けて、蕾の南側が早く成長して膨れるために北を向いて来るそうです。

花言葉は「自然への愛・持続性」とありますが何かピンときませんですが実は驚きがあります。このモクレンは地球上で最古の花木と云われているのです。恐竜が生きていたとされる1億年前にも同じ姿で存在していたことが分かる化石が発見されているそうです。その姿を見て丈夫で長持ちするようには見えましたが、そこまで強い生命力が脈々と続いていたなんて想像は出来ませんでしたね。

令和3年 弥生          八 大











翡翠(カワセミ))

 あっ・・ 水際の高い枝に飛び移ったから、これから水中に飛び込むぞ! と大きなレンズの望遠鏡を抱えたおじさんが私に知らせてくれた。見つめているまに水面めがけて突き刺さるように潜り込む姿は水泳の高飛び込みの選手の様だ。見事に10㎝ほどの小魚を嘴に咥えると下段の小枝に移り何やら首を振っているところを見ると小魚を枝に打ち当てて飲み込もうとしているカワセミだった。

その姿と色彩は紛れもなく翡翠であるグリーンの濡れ羽いろの背中はその昔中国故宮博物館で見たヒスイ(翡翠)の色であり、茶いろの腹とのコンストラストは小さいながらも存在感がある。どうしてこんな色の取り合わせが出来るんだろう、この美しい外見から一部の愛好家から「渓流の宝石」とも呼ばれているそうです、不思議でならないね。

その姿はスズメより少し大きく長い嘴は、500系新幹線のノースデザインにそっくりに思えます。餌をとるときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込み魚類やエビやカエルなどを捕食します。ときには水中ホバーリングしながらでも飛び込むこともあります。隣のおじさんの解説を聞くと水中に潜るときには目からゴーグル状の(瞬膜)を出し水中でも確実に獲物を捕らえることが出来るそうです。

こんな話を聞いたことがありますが本当ですかね。黒田清子さん(紀宮清子内親王)が山科鳥類研究所で熱心に研究しているテーマは「カワセミ」だそうで思い入れが深いそうです。宮内庁職員の文化祭に「川瀬美子」(かわせ・みこ)の名前で手芸作品を出品したことがあったそうです。

先月初めからときどき庄和公園の周りを巡回しておりカワセミのウオッチングしております。残念なことにカワセミの姿は確認してシャッターを押すことは出来ますが、私のスマホでは限界があり見せられるようなものにはなりませんので隣のおじさんのを戴いてお見せします。この時期鳥類の動きが活発で眺めていて楽しいです。シラサギ、アヒル、カモ、アオサギの巣作りとそれぞれが春の生産活動に精を出している様子は・・・頑張って~とエールを送りたい!

 令和3年 弥生          八 大






遊行期

 「遊行期の生き方について」

 作家の五木寛之氏から古代インドの理想的な生き方について、四住期(学生期・家住期・林住期・游行期)があることを聞いていたが最後の遊行期について私なりの解釈を述べたいと思う。日本は長寿社会の到来を受けて100歳以上の人口も7万人を超えたと云われております、その秘訣は常に健康維持に心がけ酒タバコを加減して適度の運動と腹八分目の食事が大切と云われました。その結果として長生きが出来ることになったのではと思います。コロナ禍の現在では蔓延しているストレスを減らすことが最も重要であることを感じております。

 生涯現役と云う言葉もありますが、そこまで仕事と関わろうとは思いませんがある段階になれば老後はのんびりと過ごし出来れば仙人のように過ごせれば理想ではないかと思っています。長生きは出来ても心身の健康寿命が大切です、大病を患って闘病生活や寝たきりの老後は辛い事ですが、精神的な若さを保った上で日常生活の身の回りの事も自分で出来る『 心身ともに健康体 』が理想です。その上で自分の生命に執着している現世の欲望を減らしていく事が出来れば一歩仙人の域に近付けるのではないかと思います。

 遊行期は人生の最後を積極的に生きる事を意味しています。この世の真理を知り、物質世界の煩悩を離れた生き方になります。日常生活から解放されて自由に生き、遊びの感覚で精神的に放浪する事を意味します。例えば晩年に隠遁生活をした、兼好法師や松尾芭蕉の様に自由な生き方をする事です。

 芭蕉の生き方 「奥の細道」や「野ざらし紀行」に見られますその生涯は素晴らしい熟年を送られたに違いありません。自分の過去を変える事は出来ませんが、未来は自由に変えることが出来ます。過去の事は思い悩まずに、今日からを楽しい事をすれば良いと思います。煩悩に振り回されて生きるのでは無く、生きる喜びと有り難さを感じて、今日を楽しく精一杯生きる事だと思います。その人生は僅か五十年でしたがその足跡は林住期、遊行期に多くを残しています。

 『 感謝・思いやり・称賛 』と言った他者への表現は、良い感情であり自分が幸せになる第一歩です。更に、この世で大自然の恵みにより生かされていると思えば、心が解放されて自分を癒す事にもなります。「病は気から」という諺の通りストレスを溜めないで、幸福感や満足感があり幸せな気持ちでいると免疫系が活発に働いて病気押さえられます。この様な遊行期の生き方をすれば、心身ともに健康で長生き出来ると考えられます。

  令和3年 弥生         八 大              

啓蟄の頃


 冬ごもりをしていた虫たちが姿を現すころを
啓蟄と云いますが、我が家でも毎年のように
訪問してくれるカエルが居ります。その名は
ヒキガエルの福ちゃんです。身体の大きさは12㎝ぐらいですがのっそりとしたその姿はユーモラスで動き出すと目玉をギョロッと動かし頼もしさまで感じます。そろそろ春の気配を感じて冬眠からゆっくりと目覚めてくれるのを待っていますが、例年ですと今月の末頃ですのでもう少し先になるでしょう。昨年は3匹の仲間がいましたが今年はどうなっているのか楽しみです。

啓蟄とは二十四節気の3番目にあたるもので簡単に言うと1年を24の区分に分けたもので、太陽の動きに合わせて設定しているため季節や気候に密接な関係を持ちます。身近には春分や秋分、夏至や冬至も二十四節気の一つです、季節に合わせて分けているので、その季節が来ると「暦の上では春」などと云われますね。けれども太陽の動きに合わせているものの二十四節気は古代の中国で生まれたもので、当時の中国の気候と旧暦に合せている。現在の日本は太陽暦を使用しているので今の季節より少し早いのが現実です。考えようによっては季節を先取りしていることになり、寒さの残るこの時期では明るい希望が持ててうれしい気がしますね。今年の啓蟄は3月5日から3月20日の春分の日の前日までになります。

啓蟄には冬囲いで使用したコモ(菰)を焼く習慣があります。松原団地駅東側に松並木がありますがこの時期に巻き付けられたコモが外されコモごと燃やすことで害虫駆除の効果があるとを云われていますが最近では害虫が入り込まずクモの住処になっているのでコモを巻かないことを考えているが、景観上の風物詩として残しているとも聞きます。

 令和3年 弥生         八大







雨水の頃

 雨水とは、降る雪が雨へと変わり、氷が溶けだすころのことで、昔からこの季節は農耕の準備を始める目安とされていました。東北の地方では「雪代(ゆきしろ)」とも云われ、雪が解けて川に流れ込む水のことを雪解とも云いました。春の暖かな日差しの中まだ残っている雪の間を勢いよく流れる川の流れを見るだけでも、チョット元気になれました。

その頃には野山のあちこちに「蕗の薹、タラの芽、うど」などの山菜類が新芽を出し天婦羅や御浸し、和え物にして食べることが出来る良い季節でもあり一番楽しい季節でもあります。けれども最近スーパーで買える山菜は季節に合わせて出荷できるように育てられているようで、味が淡白で私が育ったったころの苦みが少なくなっているように感じるのが残念ですね。       

チキナー(からし菜)の話 からし菜を使った豆腐料理が美味しかったことが頭に浮かびました。それは沖縄に行ったときに辛子菜の一種である島菜(しまなー)に、島豆腐といろいろ炒めたものを戴きましたが香辛料の辛みが効いていて素朴で旨い味でした。寒いこの時期に食べると東北の田舎の山菜を思い出             しますね。

春一番 (キャンディーズ)

 雪が解けて川になって流れてゆきます

   つくしの子がはずかしげに顔を出します

     もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか

           風が吹いて暖かさを運んできました

             どこかの子が隣の子を迎えに来ました

               もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか

この時期、おなじみキャンデイーズの歌「春一番」ですが歌詞を見ただけでリズムが思い起こされつい口ずさみたくなりますね。この歌から春が始まるようで何となく浮かれ始まります。春ってみんなが待ち焦がれた季節なんですね。 

 令和3年  如月         八 大


                                                     

幌墓(ほろはか)

 春日部の市内を流れる古利根川沿のに銚子口と赤沼地区の境に、幌墓(ほろはか)と呼ばれるところがあります。この地で亡くなった侍(さむらい)を供養するため嘉永7年(1854年)に建てられた石碑があります。此の石碑が「幌墓(ほろはか)」と呼ばれるのは、亡くなった武士が幌と呼ばれる防具を身に着けていたことからと云われています。

その由来として石碑には次のような事が書いてあります。昔この地で命を落とした武者を村人が葬リ塚を築きその後、幌墓と呼ばれるようになりましたが武者の名前も古い話のために伝わらず忘れられて行きました。ところが嘉永7年ごろ、この塚の周辺で闇夜に怪しい光が出る人魂を目撃したと云う噂が広がり村人が怖がったそうで、これを聞いた銚子口の名主が武士の魂を鎮めるために石碑を立てて供養をしたと云います。

その薄い線刻をたどると石碑には「武士(さむらい)の家のしるしや雉子の声」と、武者にちなんだ俳句が刻まれております。本文に続いて、葛飾蕉門(かつしかしょうもん)という俳諧一門の人々が寄せた句が12句彫られており、18世紀中ごろから19世紀にかけて市域で盛んになった俳諧文化を示す資料としても貴重なものだそうです。

処は桃屋工場の裏手にありますが、土手を上がると浅瀬でありますが古利根川の川幅が広がりを見せ長閑な景色が何とも言えません。不思議な伝承を聞くことが出来ました、私も故人の冥福を祈って合掌!

 令和3年 如月         八 大







寒ざらし蕎麦


 寒中のこの時期にしか味わえないお蕎麦があります。その名を「寒ざらし蕎麦」と云いましてその呼び名は聞いているものの季節もので中々その時期に出会うことが出来ませんでした。昨日久しぶりに野州栃木の山中に分け入ってその寒ざらし蕎麦を食べに行ってまいりました。指折り数えると30年来の贔屓の蕎麦屋さんで処は出流山満願寺の門前に店を構える福寿屋であります。

ご存知、坂東の17番札所である満願寺は徳川家康が江戸城修築の時にここ野州の白土を使用し、その効果が良かったので幕府の御用以外には諸大名の使用を禁止したと云われている。それ以来,石灰の産地となったと云われております。山路の途中には山肌を真っ白に覆った石灰工場がそびえたっておりこの先にお寺さんがあるとは思えません。

ここ福寿屋はこの地域の玄蕎麦から自動製粉により本来の味と香りを最大限に味わえる挽ぐるみ粉を使用し、田舎手打ちで名物の盆ざるそば「一升打ち、五合打ち」の大盛りを食べることが出来ます。また季節の山菜の時期に天ぷらと共に食べると一層引き立てられ、そば通の御仁には満足この上ない境地であります。

そばは秋に収穫されますが、その頃になると店先に「新そば入りました」のチラシが張られていました。寒ざらしとは秋に収穫した玄そばをを冬の厳寒期に冷たい水につけ、これを寒風に晒すと余分なアクや渋みが抜けて、甘みと風味が増し舌触りがよくなります。この製法は江戸時代に徳川家にそばを献上するために考えられた手法と云われ旨さの違いが分かります。

 令和3年 如月        八 大

立春大吉

 昨日は立春を迎えました、今年の冬は例年になく寒い日が続きますねとの挨拶が交わされていましたが心から待ち遠しかったですね。そんな中最近ほとんど見かけなくなったものに「立春大吉」のお札があります。春先に蕾がしぜんと花開くように、天地自然の正しい神気を戴き万民に福をもたらすと云われる縁起ものです。「春が始まる節目の日」

私達の生命は正しい生命秩序を維持することにより、終わりのない連続的な生成発展を遂げて行きます。「歳」の生命は四季ごとによみがえり、草花や樹木は後の世に命を残します。人もまた親から子に継ぐことにより、命は子孫に受け継がれていきます。新春の光に新たな光を授かり、草花の息吹と共に力強く歩みを続けます。

暦の上では春になりました、今年くらい皆が待ち望んでいた歳はなかったのではないかと思います。憎きコロナめ! 東風(こち)吹かば匂起こせよ・・・と歌に詠まれる東風とは春風を云いますが何で? 春風というのは南から吹く暖かい風のはずなのになぜ東風と呼ぶのかと思いませんか?。それは元々暦の七十二候が中国から渡ってきたことの名残であります。中国で親しまれる陰陽五行の思想で、春は東を司るから東風と呼ぶそうです。

「東風吹くや 耳現るゝ うない髪」                             春風が吹き、幼い子のうなじのあたりで束ねた髪が風にそよいで耳が現れます。

 令和3年  如月          八 大  







立春大吉。。

今年の節分

 先日、近所の子供から何で今年は節分の豆まきが2日なんですか?と聞かれた。そういえば年末に新しい手帳を求め本屋 に行ったときに店員さんから一言「今年の豆まきは2日ですよ」と云われました。そんなことを聞いたことがなかったので・・・チコちゃんに聞いてみようかなと思っていました。

昨年の手帳には2月3日が節分になっています(今年の手帳には2月2日になっています),何で変わったんだろう?不思議・ふしぎ・摩訶不思議ですね。暦により天体の運行を推算し、暦象年表の発行や暦要項の発表を行っている国立天文台の暦(れき)計算室によると、節分の日が2日になるのは1,897(明治30)年以来で、124年ぶりだそうです。そうだったんですかそんなことは全く知りませんでした。(立春の前日が、節分=豆撒き)

「季節のめぐりを表す、1年とは1太陽年のことです。1年ごとでは1太陽年365.2422日と1年365日の差から約6時間ずつ遅くなる。一方うるう年には4年前より少し早くなるというパターン」。このため「しばらく2月4日の中に納まっていた立春の日が令和3年には2月3日へ移り、その前日の節分も連動して2月2日へ移った」という事だそうです。へ~・・!

節分とは雑節の一つで各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことです。節分は「季節を分ける」ことも意味していまして、江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多いです。

此のところようやく世界中でワクチンの接種が始まって来たようですが、何で我が国への対応が遅いのでしょうか一刻も早く多くの皆さんが待ち望んで居ります・・・が、もう少しです待ちましょう。今年の豆まきは例年より1日早くなります、この調子でコロナ禍をトットと早く追い出してしまいたいものですね。

 令和3年 睦月           八 大

ルピナス

今、東口の花勘の店先ではシクラメン・ストックと ルピナスの花がその色合いを競って咲き誇っています。昔々になりますが母親が目の前のやせた土地に小さな箱庭を作って野草を育てていたがその中に「のぼりふじ(昇り藤)」があった。毎年咲いてくれる母親の自慢の花でした。

そうです、現在では「のぼりふじ」なんていう人は殆どいません、ルピナスと云いましてこの時期見事に空に向かって白・赤・紫と色とりどりに楽しませてくれます。葉には長い柄がありその草丈は1mを越える物もあるそうですが我が家ではせいぜい60cm位でこの寒さの中、元気に成長してくれます。花の様子がフジに似ており花が下から咲き始めるため昇り藤と呼ばれていたと云います。

ルピナスと云う名前はラテン語でオオカミを意味するルプスという言葉に由来するそうであの植物学者の牧野富太郎博士が、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させたと云われています。またどんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させることで大地を破壊すると畏怖されて付けられたとも言われております。

花言葉 ギリシャ語では「嘆き」という意味があり、これは「涙が出るほど苦い豆」に由来しているそうです。またルピナスと云う名前はループス(オオカミ)のように、はびこることを表しており「どん欲」「空想」と云う花言葉があります。


 令和3年 睦月          八 大





 

久伊豆神社

 狛犬の足止め
 

今年はコロナの騒ぎがあり、恒例の七福神巡りも出来ませんでしたが緊急事態宣言が出ているため全くの「巣ごもり」状態のため不自由な生活を強いられておりますね。政府から行動を制限されることなんてありませんでしたので、心身ともに不自由を目の当たりにして改めて自由という意味の有難さを感じております。

先日は突然春のような陽気が訪れたのを幸いに久伊豆神社にお参りに行きました。人影はまばらでしたが年が改まっての初参りはいつもの光景でした、拝殿の手前では昨年の古いお札を受け付けており有害と思われる付属の飾りを取り分け、お焚き上げを行っておりました。最近では環境に配慮した行動の義務ずけが徹底しているようで結構なことですね。

拝殿前にはよく見ると麻紐で両足を括りつけられた狛犬が居りますが何で麻で縛ってあるのかと思いませんか・・?。それには江戸時代から伝えられている願掛けの方法で、「走人(はしりびと)足止め」と云われる祈願で家出人が帰ってくると云われていました。迷い人や家庭を顧みない家族との絆をしっかりと結びなおしたいという願いを込めて結んだものと云われています。

そうすると必ずや居所が見つかると云います。足が止まりますようにとの願いや、子供たちが神隠しに遭わないようにと狛犬の足を麻紐で結んでいました。最近では商売をされている方や、恋人の心が離れないようにと固く結んで祈願されている方もいるそうですよ・・?  

 令和3年 正月           八 大














鏡開き


鏡餅
 鏡開きとは1月11日に今年1年の一家円満を願いながら、神様に供えた鏡餅をお下がりとして戴くと云う風習です。飾っておいて固くなった餅を木槌や手で細かくしますが、鏡餅には神様が宿っているので、神様との縁を切らないように「割る」や「砕く」とは云わず「開く」と、縁起の良い表現を使います。

餅は「望月(満月)」に通じその丸い形が家庭円満の象徴とされることから、もともと正月や祝い事などの「ハレの日」のための特別な食べ物とされており、のちに縁起物としてお正月に飾られるようになりました。また鏡餅を食すことを「歯固め」といいますが、これは固いものを食べて歯を丈夫にし歳神様に長寿を願う            事からと云われます。

鏡の話

八咫鏡と云われる物
その昔、天孫降臨で天照大御神はこの鏡(八咫鏡)を私だと思って大切にしなさいと神勅を出していますが古代から日本人は鏡を神聖なものとして扱っていたと思われます。古墳時代には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の国王より銅鏡を贈られた故事があります、これは卑弥呼がシャーマン的な支配者であることを意味するとも伝えられています。

私の家の神棚にも中央の奥に天照皇大神宮のお札の前に八咫鏡と称する鏡が飾られており、毎日の日課としお参りをしてから1日が始まります。また昔の言い伝えで鏡が割れると不吉と云われましたが大切に扱ったために、今でも鏡台にはカバーをかける習慣があります。鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを示していると思われます。しかし時代の変化と共に、そういった観念も次第に薄らいでいるようにも感じますネ。


 令和3年  正月           八 








なお、鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとはの古語。つまり蛇の目)であると言われている。

橙(だいだい)

橙の話

私達が子供の頃はお正月飾りのてっぺんには必ず「橙」が乗っていました。小正月が終わると、どんど焼きがあって 繭玉を模した団子を食べました。その時橙も食べましたが、なんとそれが酸っぱい事この上ありませんでしたね。その時本家のお爺ちゃんから教えられました。正月飾りとはその年の歳神様を迎え祀るためのもので一般の家庭では、飾り付けは12月27日位から始めます。29日は「苦を待つ」につながり、31日は「一夜飾り」になる為この日に飾るのは縁起が悪いといわれました。お正月飾りを外すのは歳時記では14日と決められていたそうです。

鏡餅の上に据えられている橙は、代々とも称され、インドヒマラヤ地方が原産のカンキツであり、日本にはかなり古い時代に中国から渡来したとされている。成熟した果実ですが落果しにくく、収穫しなければ同一樹で新旧代々の果実を見られることから、子孫が代々繁栄することに通じるため、「代々」の名が生まれ正月飾りに用いられるようになったとのこと。今のように科学や医学が発達していない時代、人々は自然に対する畏敬のなかで、自然の不思議な現象に自分の願望を重ねたようです。

ダイダイはミカン科の常緑小高木で葉は楕円形で先がとがり、葉柄(ようへい)に翼がある。初夏に香りのある白い花を開きます。実は丸く冬に熟して黄色になるが、何年も木に付いたまま落ちることなく、冬には橙色に色づき暖かくなるとまた青くなり再び冬になると橙色に色づくといったように繰り返すため、ひとつの木に何代もの実が一緒になることから、繁栄の象徴として昔から縁起物とされ、正月の飾りなどに利用されてきました。また果汁は料理に果皮は漢方薬として健胃薬に用いられています。

花言葉は 相思相愛、愛への誘い、誇り、温情、寛容などがあります。


令和3年 正月          八 大   












青木別邸

 明治の森 青木別邸

明治の元勲として山形有朋や大山巌、松方正義などの名士を知らない人は少ないと思いますが、青木周蔵と云われてもすぐにわからない人がいると思います。9月の中頃千本松牧場をを訪ねた折に近くにあると聞いていて那須塩原市に現存する青木別邸に向かった。

青木周蔵は山口県長門の生まれで医学修行を経てドイツに留学したが日本の近代化には選考を分散することの必要性を説いており、本人は外務省に入省しその後駐独公使となってオーストリア=ハンガリー帝国公使をも兼任した。黒田内閣の大隈重信外相のもとでの外務次官として条約改正交渉の全権委任を受け活躍しており、山形内閣や松方内閣でも外相を務め当時の列強各国に対し対等の合意などに対して奮闘した人物である。

東京から150KMに位置する栃木県の那須野が原は広さ4万ha中央部は土砂や火山岩が厚く堆積し、真ん中を縦断する蛇尾川は水が地下に浸透してしまう地質であった。その為約10㎞にわたり水のない川になっており明治の初めまでは人の住めない不毛の原野でした。当時殖産興業政策を掲げた政府に開拓地として注目され、その実現に向けて華族階級が出資する農場が明治13年から20年にかけて次々と開設されました。

華族農場に始まる開拓事業は明治から昭和にかけて地元の開拓団へ引き継がれ、牧畜の主流も羊から乳牛に代わって行きました。今この地を訪れる人々は四季折々の自然の中に遊び大地の恵みを味わうことが出来ます。そんな中、明治21年に農場の中央にドイツ様式で白亜の青木別邸が出来上がり今でもその美しさを誇っております。彼がこの別荘を訪れるときには黒磯駅から馬車で向かったと云われています。


 令和2年 師走          八 大





クリスマス・ローズ


我が家の小さな庭にも10年ぐらい前からクリスマス・ローズが咲きます。何ともおしとやかな姿で草藪の中に、下を向いて咲くので咲いているのが分からない時もあります。植物学的には、下向きで咲く花を好むハナバチ類の訪花を誘引していると考えられているそうです。ハナバチ類は行動範囲が広く一つの花での採蜜時間が短く効率よく多くの花を訪れて受粉をします。植物にとってはありがたい存在で、このため、花首を長くし下を向くように進化したと思われます。下向きの花をどうしても上向きにしたい方は、
支柱を立てて上向きに育てている人もいます。


「 聖なる花」クリスマスローズは、冬の花が少ない時期に花を咲かせる常緑の植物でクレマチス、アネモネなどと同じキンポウゲ科の植物です。 日本ではクリスマスローズと呼びますが、本来のクリスマスローズはクリスマスの頃に開花する
「ヘレボルス」を指す名前だそうです。 クリスマスローズにはグリーンの葉を低く繁らせた中から茎を長く伸ばす有茎種と、茎の低い無茎種があります。

へレポルスは古い時代からヨーロッパで薬効のある植物として知られていました。こういった効能から花言葉は中世ヨーロッパに騎士たちが戦場に向かうときに、自分を忘れないでほしいという思いを込めて「慰め」「中傷」「私を忘れないで」「私の不安を和らげて」などを恋人に贈ったといわれています。


 令和二年  師走         八 大












 














カマキリ

  師走に入ったこの頃「カマキリ」が庭先から入ってカーテンの裾に引っかかってそのまま動かない。翌日もその形を保っているので楊枝の先でつついてやると果敢にも斧を振り回し絡んでくるのを見ると勇敢そのものである。でもヨクヨク見るとお腹が大きそうなのでお産の場所を探しているかもしれないと推察した。

子供の頃カマキリに喧嘩をさせたことがあるが絡み合ったら放さない、絡み合いが続くがそのままの状態が1時間以上続いたことを思い出す。最後にはどちらかが食べられてしまうことになる話を聞いた。日活ポルノ映画「五月みどりのカマキリ夫人の告白」という映画があり男を食い殺す悪女の象徴としてあったそうですが見る機会はありませんでした。

三日後の夜なんとカーテンの陰で産卵を見ることが出来ました、でも物音が気になったのか普通の大きさの三分の一程度の大きさで何処かへ姿を隠してしまいました。何とも申し訳ない事をしてしまったと後悔をしています。

カマキリ(螳螂)は前脚が鎌状に変化し他の小動物を捕食する肉食性の昆虫で、名前の由来は鎌切とも言われて分かるように「鎌で切る」から鎌切になったとも云われます。カマキリ類では、同じ種類でも体の小さいオスが体の大きいメスに共食いされてしまう場合がある。交尾の際も共食いが行われ、オスはメスに不用意に近づくと、交尾前に食べられてしまうので、オスは慎重にメスに近づいて交尾まで持ち込む。

昨年はラグビー人気がありましたが、五郎丸選手のようなポーズをとる姿が一躍有名になりました。日本では昔からそのカマキリの形を拝み虫(おがみむし)の姿と呼ばれた様です。一週間たった今でも我が家のカマキリさんは居心地がいいのか天井付近にへばり付いており、時には三角目玉をくるりと動かし天下の情勢を伺っているようです。


 令和2年  師走           八 大














花語らず

 花の少ないこの季節、何時ものように古利根川をぶらぶら歩いて思い出したことがありました。随分昔の話になりますが京都南禅寺9代目の柴山全慶管長さんの言葉に「こころ」打たれました。それは「花語らず」という小文でのメモがありました。

『花は黙って咲き 黙って散っていく そうして再び枝に帰らない
    けれども その一時一処に この世のすべてを託している
       一輪の花の声であり 一枝の花の真である
          永遠にほろびぬ生命のよろこびが 悔なくそこに輝いている』    

どうしてそんな事が今頃になって心に浮かんできたのだろうか・・・。それは四行目の言葉一言一句に我が身を重ね合わせて自問自答してみる。それから先の世の中に灯りと生きる喜びを与えてくれるからだろうと私は思う。小さなことのようでも私にとっては大きな収穫でありました。


 令和3年  師走       八 大

タブレット


最近 、我が物顔でタブレットを使いこなしている中年男を見かけることが多くなったことを感じます。羨ましく思いますがこの言葉って何なのと疑問を持っていました。「タブレット」とは画面にタッチして感覚的に操作できる、スマホとパソコンの中間のような端末ですが、そのルーツは歴史との深い付き合いがあったと思われます。古代メソポタミアで使われていた楔形文字で記した粘土板を指すことが多いそうです。

識字率の低かった当時、文字を書くことを仕事とする書記官たちが様々な出来事を記した粘土板が、古代社会の営みを今に伝えてくれていました。当時の書記は行政機関や神殿などに就職して活躍していましたが一人前になるまでの道のりは相当に険しかったに違いないと想像しております。

その当時の粘土板にこんな事が書いてあるのが見つかっていたようで「ぼくを朝には早く起こしてください。遅刻できないのです。僕の先生に鞭でたたかれます」と、紀元前2,000年ごろのシュメール語の文学作品「学校時代」に出て来る話であると聞きました。

現代のタブレットも教育利用が広がり、コロナ禍がそれを加速助長させているのではないかと思っています。当時の書記の卵が見たらあまりの高機能さにはビックリするに違いない。大切なのは楔形文字を正確に書くことありましたが、学び続けることでは昔も今も変わらないのではないかと思います。

 令和2年  霜月         八 大       


マスク

マスクで際立つ子供の目

 世界中がコロナ禍でマスクの着用が日常になっていますが、ここに
きてトランプさんも一度だけマスク姿が見られましたがその後はトンと見られなくなりましたね。我が国では花粉対策の為や風邪をひいたときには日常的に使用されてきましたが、あまりマスクになじみのないヨーロッパの国々では病気でもしない限り使用するもんじゃないと云われていたことが世界中の常識のようでした。コロナのお陰でサージカルマスクは世界中の家庭の必需品になってしまいました。

先日小学校の子供たちの登校の姿を見る機会がありました。無言で整列したその姿を見て頼
もしさを感じてしまいました、年をとったという事ですかね。人間は五感という感覚を持った動物であるが、コロナ禍によってマスクの使用が強制されたため表面上は唯一マスクの存在が見直されて来た感じがします。マスクを着けると顔の表面からは目だけがキラキラと輝いて見えてしまいますが、横断歩道際の交通指導員と交わす、おはようの言葉からはハキハキとした清々しさを感じます。

目は口程に物を言うと云われますが視覚という存在が改めて見直されますね。日本人は目元で、米国人は口元で感情を読み取る傾向があると云われていますがヨーロッパの人も口元重視だそうです。私達日本人は口元が隠されて
もそれほど気になりませんが、欧米人には、相手の感情を読み取るのに重要な口元が隠されたマスク姿は、不気味にうつり、なじめないそうです。日本人は目元が隠されたサングラス姿を見て「ちょっと怖い」という印象を抱くのと似た感覚だと思います

今はコロナの事で一杯ですが年が明ける頃にはスギ花粉症の季節がやって来ますね、日本ではスギやブタグサが多いようですがヨーロッパの方でもプラタナスやカエデ、ミモザなどが飛散して多くの人々が悩まされているようです。国立環境研究所の説明によると、都市部で浮遊する大気中のいろいろな化学物質が原因であると云います。これらの国が持つ共通点は何かというと、何だと思いますか? はいそれは「先進国」なのです。マスクは今では日本文化そのものであります。


 令和2年  神無月         八 大

















櫻木神社

 こんな処に(失礼します)立派な神社があったとは知らなかったですね。野田市駅近くにあるキッコーマン工場から梅郷寄りに桜台という地名があります。住宅街が広がっており何の変哲もないと思えた反対側に回ってみると大きな鳥居がありその向こうにこんもりとした林が見え、掃き清められ手入れの行き届いた神社があり、可憐な十月桜が咲いていました。

野田市桜台にある櫻木神社は、社記によると平安朝の仁寿元年(西暦851年)に、大化の改新で活躍した藤原鎌足から5代後の藤原冬嗣の息子がこの地に居を構えた時、此処に美しい桜の大木があったので倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりであると伝えています。この地は古くには櫻木村と呼ばれ、後に桜台村となり桜が咲き誇る美しい里であったと考えられています。現在の社家はその継承から28代目で初代からは31代目に当たるそうです。

倉稲魂命は伊勢神宮外宮の祭神である豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と同一の神様と云われ、穀霊として食物全般の神様でもあります。また人々の生命を守り育て、家を富裕にしてくれる祖神であり、生活の衰運に関わる大切な神様です。

平成4年の神社再建御造営に伴い、御殿地(宮司宅地内裏山)の発掘調査が行われ、日本列島の旧石器時代の有舌尖頭器や縄文時代の土器・石器類、古墳時代の住居跡などの遺跡のほか、古代祭祀に関係する遺物としてヒスイ勾玉管玉・台形様石製品・剣先様装飾品・半円状石製品・玉杖なども多数出土たそうです。

大鳥居脇のシダレザクラや正門の手前にあるミヤビザクラは3月中に満開を迎えると云われます、その時期に仲間の皆さんと是非行ってみたいと思います。


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もみじのトンネル


 今年の紅葉は台風の上陸もなく順調に紅葉前線が南下しており、何時になく色鮮やかですよと隣人に云われたのを信じて30日に日塩もみじラインへ足を運んでみました。もみじラインとは日光と塩原を結ぶ道路のことで通称バレーラインと呼ばれていますがタイミングも良かったからですが見事なグラデーションで賛嘆の声を挙げました。

塩原からの逆のコースを走りましたが、つづら折りになった紅葉の急カーブ、時々まぶしい太陽光の中を潜り抜けるとシーズン前のスキー場のゴンドラが揺れ動いていている。やがて峠に出ると一瞬にして視界が広がり会津の方向に山並みがそびえて見える、頂に近いところはやがて来る冬に備えた様子が伺えます。

街道はやがて平家の落人の集落を超え、山間の紅葉の隙間からは黄葉の木々も交じり合って高さ100Mを超える断崖を望む瀬戸合峡と川俣ダムの風景は素晴らし眺めですね。一休みするとやがて平家の落人集落の近くを超え山王林道から光徳牧場に差し掛かる頃、景色は変わって黄金色に輝く落葉松の林の中へと進みます・・・。落葉松林の黄葉もこれだけの規模があると、しばし言葉を忘れてしまいます。

戦場ヶ原の右手には「日光の貴婦人」と呼ばれる白樺の木がうっすらと見えて来てやがて中禅寺湖の水面に八丁出島の紅葉がまたまた鮮やかに映し出され日光の美しさを改めて確認することが出来ました。


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コキア

 今、国営ひたち海浜公園に真紅に紅葉したコキアが見ごろとなりましたネ。コキアは、ユーラシア大陸に広く分布する植物です。日本へはアジアから中国経由で渡来し1,000年以上前から栽培されていたという記録が残っているそうです。江戸時代にはホウキの材料として広く栽培されおり、和名の箒草はホウキとして利用していたことに由来しているそうです。

写真にあるような紅色は圧巻と云う言葉がありますがその言葉が当てはまりますね。夏を過ぎた頃からふっくらと緑色から鮮やかな紅色に変化し公園の見晴らしの丘を染め上げております。その丘を登るとその向こうには太平洋が大きく広がり表示の看板に目をやるとその先にはアラスカやロスアンゼルスにに繋がるという。海のないところに育った自分でしたので大海原は何となく憧れのイメージがあります。

子供の頃玄関の片隅を柄の短くなった箒を持って毎朝のように掃除担当だった私がさせられたことが思い起こされます。確かホウキ草と呼ばれていましたが茎の部分を乾燥させ水糸かなんかで縛ってあっただけの単純なものでしたが使い勝手の良いものでした。

また、乾燥させた小さなつぶつぶの実はより分けて良く洗ってから煮つけにしたり、大根おろしと混ぜて食べていましたが、プチュプチュして歯触り良かったのを覚えています。中国より伝わったころには食用として渡来したもので、その頃から「とんぶり」と呼ばれており私たちの育ったころは畑のキャビアと呼ばれていましたね。


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きぬかつぎ

 里芋の皮をそのまま蒸し,その皮を剥いで食べる料理を「きぬかつぎ」(衣被き)と云う。

泥だらけでお世辞にもきれいとはいえない姿の里芋ですが、その独特のねっとり感とやわらかさは、和食のメニューには欠かせない野菜です。子供の頃「おやつ」として、小腹の空いたころに食べた塩味は今でも口元に残っていましたが、何できぬかつぎと云うんだろうと思っていましたが、本当に変な名前として頭に残っていました。

これは平安時代以降に登場しました女性が外出時に頭から被った布のことだそうです。その時代には婦女子が衣もしくは薄衣を頭から被るようになり、脱ぐことが簡単であることから衣被かづきになぞらえてそう呼ばれたようです。その背景として風や埃を防ぐ目的と共に、顔を人前に晒すのを恥とする意識があったとみられています。衣服には単に手で前方をつぼめるものと腰のあたりで帯を結ぶものがありました。

里芋のぬめりは胃の粘膜や腸の働きを活発にし、血糖値や血中コレステロールを抑える働きがあると云われています。そのほか塩分の取りすぎを抑える効果や、足のむくみの防止にも効果があるそうです。しかも他の芋類に比べると低カロリーで女性にはお勧めの野菜であると云われています。料理の主役ではありませんが煮物には欠かせない一品すね

また里芋は親芋のまわりに子芋がついて、更に子芋のまわりに孫芋が連なるところから、子孫繁栄の縁起物とされています。そのため、里芋の煮物はおせち料理やお祝いの膳の定番となっていて重箱の中では欠かせない一品でもあります。


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金木犀


毎年この時期、秋を告げるよう金木犀の花は芳香を届けてくれますが、誰にでもわかる贈り物ですね。ああ又この季節がやって来たんだ、そうするとこの後は大きな三本立ての菊の花の出番です、季節は迷うことなく順序良く訪れてくれます。微かな風の動きの中でも脂粉のかおりは子供の頃、三角ベースで草野球をやった思い出が懐かしさを思い起こさせます。隣の家の金木犀はそこそこの香りを出してくれますので秋を感じますが朝、一瞬にしてオレンジの絨毯が現れるのには何とも勿体ない気分になります・

原産地は中国西南部、今回コロナ騒ぎの震源地である武漢市辺りで近くの桂林は金木犀の名所として名高いところです。モクセイ科の常緑樹で一般には桂花と呼ばれているそうですが、和名で金木犀と書くと花の名前が何でこんな字になるのと思いますよね。そうですその由来はこの樹皮が犀(サイ)の足に似ているために中国で「木犀」と名付けられたそうで、ギンモクセイ(銀桂)の白い花に対して橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイ(金桂)と云われています。

日本には江戸時代初期の頃中国から渡来したが、花を見ることしか考えなかったため雄株しか入ってこなかったが挿し木で簡単に増やすことが出来たので多く庭木として採用され増えて行ったようです。雌株は冬にクコの実程の小さな実を付け、熟すと紫色になる。そんなことから中国まで行かないと実を見ることは出来ないようです。

この季節に良く降る「桂花雨」の合間を縫って地上に白い布を敷いて竹竿で木の枝を叩き花を集め、その花を使って「桂花茶」「桂花酒」が加工されこの時期に食べる桂花入りのお菓子を作られたと云われています。                           木犀や障子閉めたる仏の間   正岡子規


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