水神信仰と魔除け


深大寺 水神信仰
 いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでしょう。
深沙大王を祀っておりますが本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話がありますが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を行っていますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
奈良時代の満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相学を学び帰郷後この地にお堂を建て深沙大王を祀りました。天平5年(733年)これが深大寺開創の言い伝えであります。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。

国宝 銅造釈迦如来倚像
 明治42年(1909年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂に安置されています。飛鳥時代後期(白鳳期)7世紀の作で像高60.6㎝、全高83.5㎝。関東地方には数少ない古代の仏像であり、童顔の面相、眉から鼻に連なる線、平行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは、時代の特色を表している。下腿部の互い違いに表された衣文、両足間の三角状の衣文、裳裾部分の衣文の処理などはいずれも法隆寺の銅造観音菩薩立像(通称夢違観音)と共通しているそうです。像は火災に遭っており、表面の鍍金はほとんど失われています。その形は倚像(いぞう)と云われ椅子に腰掛けたポーズの像です。意外なことに本像は2017915日付けでようやく国宝に指定されました。

元三大師
名前は良源といいますが、平安時代の天台宗の僧で朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている
18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。

 角大師 魔除け
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵である。伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。
「元三大師」像はいずれも礼拝像として定型化した表現を示しており、やや吊り目で厳しい表情で、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)を持つのが特色で、不動明王のイメージが重ねられている。。
 慈恵大師(良源)を祀るおもな寺院
 群馬県前橋市-龍蔵寺(青柳大師) 大祭:13
 栃木県佐野市-惣宗寺(佐野厄除け大師) 大祭:211
 茨城県坂東市-安楽寺(元三大師)
 東京都調布市-深大寺 大祭:33
 東京都台東区-輪王殿両大師堂(両大師)
 東京都墨田区-木母寺
 埼玉県川越市-喜多院(川越大師)

  令和元年 7月             八 大























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