ラベル 古学の寺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 古学の寺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










遠藤さんちの庭園

突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!

 この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。  心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。

 令和5年 皐月         八 大








他の



浄源寺の春

 浄源寺に春がやって来ましたよ~~~

         お寺のあちこちで待ちわびた春のお花が咲き誇っていますよ!

裾摺りの櫻
見上げる櫻




馬酔木





クリスマスローズ

ゆきやなぎ
椿
枝垂れ桜
岩槻・浄源寺の山門

令和4年 弥生            八大    











楽応寺の虎

 楽応寺の虎

漆喰作りの虎2匹
春日部の内牧小学校近くに「楽応寺」と云う小さなお寺があります。昔の奥州街道沿いと云われますが古くから薬師様の寺として地元民から尊敬されており、毎月8日の薬師如来の縁日には賑わいを見せるそうです。現在は無住の寺であり近くの内牧小学校隣接の香林寺の管理下にありますが、平日は全くその様相からは往時をしのぶことは出来ません。

ここの薬師如来の御開帳は12年に一度の寅年に行われていました。今年令和4年2月16日が御開帳の予定でしたがコロナ禍のお陰で残念な事に中止になりました。地元の人の話によれば「私が生まれてこの方75歳を越えましたが中止は一度もありませんでしたよ」と、薬師様にどのように言い訳をしていいのか、香林寺の総代さんに相談に行ったそうですが・・・。

楽応寺由来
この寺の始まりは平安時代の天元3年(980)藤原大納言公任が父母供養のため、薬師如来を堂宇に祀ったと伝えられている。公任はこの時15歳で正5位下に叙せられて侍従に任ぜられている。この薬師如来像を崇敬していた岩槻の渋江大和の守、楽応が天正13年(1583)薬師堂を建立したとあります。

寺の境内の石仏や石碑から安土桃山時代から~江戸時代~現代へと伝承されて来ていることが伺えます。現在の楽応寺は江戸時代の元禄年間の1702年(赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした年)に建立された記録が残っています。

前庭
現在の寺は良く見ると寄棟づくりの建物の軒の上に漆喰で作った可愛いらしい二匹の虎が、狛犬のように向かい合っています。近くの人の話では大正の始め頃左官職人が一匹作って奉納し、その十年後位に二匹目を作り向かい合わせとして奉納したと云われています。(寅年に合せて奉納したのではないかと思われる)

普段は戸が閉まっていて見られないがお寺の気配りで?、戸に穴があけてあり右手に明り取りの窓がある。覗けば薄明かりの中に拝めるようになっているようで「そっとのぞいてみてごらん」と誘っているようにも思えます。薬師如来は古来より眼を守る神様として信仰されております。寺は無住なので維持管理は近所の人たちの支えで今に伝えているそうです。

 令和4年 如月        八 大




 



寅年の話

 朝護孫子寺「ちょうごそんしじ」

今年の絵馬
新年早々であるが今年の干支「寅・虎」を探しに出かけた先は、春日部市にある藤塚香取神社である。八丁目町内のペンキ屋さんが創作した「今年の絵馬」を揚げたことを聞き初参りを兼ねて来てみると見上げる程の大きさ、近寄って見上げるとなんと迫力のある勇猛な虎であること、拍手喝采です。

虎と寅の違い 十二支の3番目は「寅」であります。「とら」「虎」とも書きますが、これは動物の「タイガー=」を指しています。十二支の上ではあくまでも「寅」です。このため年賀状や挨拶文のデザインに虎のイラストは入れますが多くの場合「虎」は使いません。

奈良県(大和国)と大阪府(河内国)の境に生駒山地の南端に位置する「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」があります。信貴山真言宗の総本山のお寺で山上のお寺からは時折、読経の声が流れて来ます。古代インドのヒンズー教の神である「毘沙門天」をお祀りしており地元では毘沙門さんと呼ばれています。毘沙門天は七福神の中の一人に入っていますが7人の神様は「清廉、有福、威光、敬愛、人望、寿命、大量」の七つの福を、地域の人々にもたらすために集まった神様達です。

朝護孫子寺と虎
当寺の創建についての伝承では、敏達天皇11年(582年)寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に四天王の一つである毘沙門天聖徳太子が感得し、後にその加護によって物部守屋に勝利したという。用明天皇2年(587年)7月3日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として当寺を創建し、「ずべきぶべき信貴山)」と名付けたとする。これに因んで「虎」が神使(しんし)としての扱いを受けたと云われる。また寺の至る所に張り子の虎が置かれているのは、その逸話に由来している。

毘沙門天とは古代インドのヒンズー教の神様で仏教に帰依してから、仏法を守護する四天王の一尊で東西南北の方角に分かれて護衛に当たって「北の守護」を担当しており福徳や財宝を司る戦勝祈願の神でもあります。四天王の一員として呼ばれるときには多聞天と呼ばれますが、何故かと云うとお釈迦様の教えを一番多く聞いたという逸話からきているようです。また戦勝の武神として名を挙げていた上杉謙信が「毘」を旗印にするほど毘沙門天を信仰したのは有名な話である。

日本三毘沙門の寺として、京都の鞍馬寺・奈良の朝護孫子寺・栃木の大岩山多聞院最勝寺が良く知られております。その姿は甲冑を身に着け足元には邪気を踏みつけ、荒々しい岩場に立った武将の姿で宝塔というお釈迦様のお骨を入れる容器を掲げています。

4年 睦月          八 大













東寺 (教王護国寺)





 東寺展(教王護国寺)

 今上野の東京国立博物館で開催されている空海ゆかりの国宝展は重みのある展示で見ごたえがあります。東寺は平安京鎮護のために官寺として建立が始められが後に、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。

 21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。現在は国の史跡に指定されておりましたが、平成6年には世界遺産に登録されております。
 その昔に東寺があるなら西寺があるだろうと地図を見ながら探したことがありましたがその遺構は小学校の敷地でありましたが建造物は何もありませんでしたよ。

 8世紀の末頃平安京の正門にあたる羅城門(らじょうもん)の東西に「東寺」と「西寺という2つの寺院の建立が計画されており、これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であったそうで東寺は「空海」、西寺は「守敏」に下賜されたとあります。


 空海のもたらした密教美術品は極めて高い質を誇りその多彩さや豊かさは我が国の仏教美術の中d背も群を抜いております。空海が作り上げた曼陀羅の世界を講堂安置の21体の立体曼陀羅がありますが今回は国宝と重文合わせて15体がされており、見る人を驚嘆させます。

 仏像なんてあまり興味はないよと思う人も京都までいかないで上野で見られますので是非ともこの際覗いてみては如何ですか。

  

  平成31年4月                  八 大




 

「深大寺白鳳仏」の画像検索結果深大寺
 私達多くの人が一度は訪れたことがあると云われる奈良時代の白鳳仏で知られる深大寺ですが意外と思われるのが昨年の三月に国宝に指定されたことであるりますが国宝の指定までにはそれなりの経緯があったそうです。
 こんなに素晴らしいお釈迦仏が何で今頃になってから「国宝」になったとは、お釈迦様でも知らなかったでしょう。
 よくお姿を鑑賞するとお顔に微笑みを浮かべたお顔は法
隆寺の夢違観音や鶴林寺の聖観音像に共通するものがあり、今までの時の流れをまったく感じさせない。
当、釈迦如来像は飛鳥時代の後期(白鳳期)7世紀の作品で高さが60㎝の関東地方では数少ない古代の仏像です。

お顔は童顔で眉から鼻に連なる線と並行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは厳しいお顔の飛鳥寺大仏に
比べると何とも癒される親しみやすい仏様でこの時代の特
色を表していると云われている。
 釈迦如来のお姿の多くは「立像」や「座像」が主流
ですが椅子に座った形の「椅像(いぞう)」であります。

 また江戸時代より名物の深大寺蕎麦は評判でありますが、蕎麦は勿論ですが何と云っても深大寺湧水からの贈りでしょう。
喉ごし爽やかお店の水車が自慢の呼び込みにも一役買っているようですね。

                 平成30年10月              八大





 
夏安吾(げあんご)

 三十年ほど前になると思います、小雨の降る法隆寺を訪れた時の事でした。法隆寺西室の入り口で留守居番らしき老人と傘を差しながらの立ち話をしていると今、立松和平さんが来ているよと云われて西院の講堂を覗きました。衣を着た二十人ほどの若いお坊さんが講義を受けていたので、隅の方で私も耳を傾けて聞いてみると難しい熟語をやさしく解説をされていたのが印象に残っていました。黒板には夏安吾の文字があった。

法隆寺
 インドでは6月~9月頃が雨期になるそうです。雨期には川が氾濫したり交通が困難になりますがこの頃には草や木や虫が良く成長する時でもあります。この頃には外に出ることは控えて農作物の新芽を痛めたり可愛い虫たちを踏み潰さないようにあまり出歩いて踏み潰さないようにしない為に出歩かないことが良いと教えられます。
 そんなときにはお寺や洞窟にこもって修行に専念するそうで、その事を安吾と云いますが安居中の食事や身の回りのことは在家の信者が世話をしてくれ、修行者から説法を聞くことを習いとしました。この安居のための居場所が、お寺の始まりとも云われています。


 日本にも安居は伝えられましたが形が変わり、夏安居のほかに秋安居や冬安居などが生まれ、国土安穏や無病息災を祈る形式が多くなりました。その期間は宗派により異なり、一定していませんが、夏安居は旧暦の4/16~7/15日の三ヶ月間が基本とされています。
 日本の安居は天武天皇12年(683年)宮中で行われたのが最初といわれています。延暦25年(806年)には桓武天皇の命により、15大寺と諸国の国分寺で安居が行われ、官寺の恒例行事となっていたそうです。

          平成30年6月                八大


   

笠森寺(四方懸崖造り)

 坂東三十一番札所は千葉県の長南町に日本でも現存する唯一の珍しい四方懸崖造りの建物が国の重要文化財に指定されている。由緒書によると延暦三年(784)に伝教大師が創立し長元(1028)元年に後一条天皇が飛騨の匠に作らせたといわれているが、なんと山のてっぺんにこんな御堂を立てたのか不思議な建築物であります。七十余段の階段を上がって廻縁に出れば四方の眺望は素晴らしく眼下に房総の山々が広がる。
 一般的に懸崖造りと云えば清水寺に代表的されるように一面は山側に寄り添っているように見えるので安定感も感じるが、四方が懸崖となるとお城の天守閣が山のテッペンにあるようで雨風のことを思うと居心地が良いものではなさそうな気分です。降り際に下部の構造を覗いて見ると十分な仕組みが出来ていることを確認して不安は一掃された。

 階段を降り境内の休憩所に立ち寄ると何やら有難い文句がいろいろとありました。

 ◦ 若木の花のみずみずしさ、老木の花の気品
 ◦ 今が幸せと思わないと、一生幸せになれないよ
 ◦ 楽しい人は何でも楽しむ、苦しむ人は何でも苦しむ
 ◦ 悩むことは悩みなさい、しかし朝が来たらやめなさい
 ◦ 水は低い処に溜まるように、背を低くすれば人は自ずから集まる

気ぜわしさの中で忘れていたことを思い知らされた一服の涼風が通り過ぎて行った。

                                                          平成30年1月     八大


















浄土寺・阿弥陀堂

兵庫県小野市にある浄土寺・阿弥陀堂は大仏様建築のお堂と阿弥陀三尊像は仏師快慶の見事な大作であり共に国宝であり圧巻であります。

浄土寺は、奈良時代の僧・行基の建てた寺院があったとも言われるが、実質的な開山は東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再建費用の募金活動の拠点として、伊賀(三重県)、周防(山口県)など日本の七か所に東大寺の別所を造ったが元々この地が東大寺領であったため「播磨別所」として造られたのが浄土寺である。

私はこの境内の配置を見て、その後建てられた本堂(薬師堂)との間に池を配し西に阿弥陀堂・東に薬師堂が建っていたと想像しました。この配置は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味しており此岸から彼岸へであると思います。

人づてに聞いては居りましたが重源は三度も宋に渡りましたが最新の建築技法も学んでおりどっしりとした大仏様という様式を取り入れ、何と云っても東向きに立っている阿弥陀三尊が西の彼方の極楽浄土から、たなびく雲に乗って衆生を迎えに来た来迎の姿がそのまま表れていることです。特に春秋の夕暮れ時の西日は堂内に差し込み朱塗りの堂内に乱反射して金色の阿弥陀が浮かび上がってくるように見えるそうです。



 今、夕日の射し込む門限まで阿弥陀様の正面の床に座って時代を遡って仏にすがったであろう人々の思いを感じながら瞑想にふけりました。それは自分にとって誠に素晴らしい時間でありました。 合掌
                                        平成29年9月   八大






唐招提寺の障壁画
 先日、茨城県近代美術館で唐招提寺障壁画展が開かれていたので偕楽園の梅見を兼ねて拝観に行って来ました。
 ご存知の唐招提寺は多くの苦難を乗り越えて来日した鑑真和上が開基したと云われるお寺ですが平成27年から大改修工事に入っており、その間に障壁画が全国に行脚しておりまして現在水戸の美術館に来られているということです。
 唐招提寺は鑑真和上の御心を慰めるためその苦悩の旅を御影堂の障壁画に描くことを東山魁夷画伯にお願いしたもので日本と中国各地を巡ってスケッチを重ね自分の生涯のすべてをかける気持ちで取り組んだと云われており作品は圧巻であります。
 5年ほど前に唐招提寺の年中行事になっている「団扇まき」の行事に参加した時に御影堂での障壁画を拝観をしていらいですが感動を覚えたことを思い出しました。
「山雲」と「濤声」は青や緑を基調にした日本の自然を描く一方、鑑真の故郷である唐の風景を題材にした水墨画も楊に風の表現が中国らしくて素晴らしい作品でした。
                         平成29/2/24 八大


鎌倉瑞泉寺の庭園

昨日、節分明けの瑞泉寺庭園を訪れ春を迎えに行きました。花の寺としても有名な瑞泉寺は朝早かったので身震いのしそうな空気の締まりを感じながら静かな山門を入り本堂前の貴重な「黄梅」にスマホを向けましたが残念ながら3分咲というところでした。
皆さんご存知のことと思いますが鎌倉市指定の天然記念物に指定されていまして満開の時の黄色は鮮やかで見事ですよね。
傍の立て看板に牧野富太郎博士が「オウバイ」と名付けたことが書いてありました。
近くには破天荒の歌人、山崎方代さんの歌碑に「手の中に豆腐を載せていそいそと、いつもの角を曲がって帰る」が目につきます。


瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺として鎌倉五山につぐ関東十刹に列せられた格式のある寺院であります。開山の無窓国師は鎌倉時代後期から南北朝期に臨済宗の僧として活躍しておりますが、作庭の名人としても知られておりましてスケールの大きな日本庭園の基本とも言われる多くの有名な庭園を造りました。本堂裏にある空間も国の名勝に指定されており鎌倉の地形に手を加え、やぐらと云われる岩山に掘り込みを入れ借景とした趣のある庭園であります。向かい合って目を瞑り雑念を払うその時はまさに至福の時でもあります。

私は夢窓国師の庭園を訪ねたことがありまして、この他にも京の天竜寺・甲斐の恵林寺、美濃の永保寺、苔寺の名で知られる西芳寺などがありいずれも国の特別名勝に指定されておりまして素晴らしいの一言です。特に永保寺の庭園とは岩山を取り入れたところに趣が似ており同一の作者が作られたのが良く分かります
                                    八大






日向薬師(宝城坊)

  丹沢山系、伊勢原の地に日本三大薬師として親しまれている日向薬師がある。かつては修行僧や山伏の修業拠点としてその名をとどろかせ12の坊を持つ大寺院でありました。昨年夏、久し振りに訪れたところ本堂には大きな仮設の足場が築かれていて入れませんでしたが隣の宝物殿に仮安置された仏像が狭い空間に所狭しと展示されておりました。ご本尊の薬師如来は鎌倉時代には病気平癒を願って源頼朝や夫人の政子が参拝したと云われております。明治時代に入ると神仏
分離の波が押し寄せ多くの坊が消滅したが奇跡的に宝城坊の
みが残ったものです。
 お寺に話を聞くと宝城坊本堂は江戸時代、万治3年(1660)に再建されたものでその後数度の修理は行われたが大規模な修理は行われなかった。
 平成22年から全解体の改修を開始6年かけて昨年11月20日に改修が終わり落慶式が行われました。その偉容は国内最大級と云われる本堂のかやぶき屋根が堂々として見えま
す。屋根の面積は1000㎡もあり,かや材の重量は約50tも
要したとの事。そのかやを確保するため御殿場のかや場で3
年もかけて集めたそうです。
 またここの薬師三尊像は鉈彫りと云う独特な技法で彫られておりその柔らかなお姿は仏像ファンにとっては正に垂涎の的になっております。今年のお正月は6年ぶりのご開帳と云
うこともあり地域の信者さんはもとより仏像ファンの参拝で久し振りの賑わいだったそうです。
 ただし薬師三尊像は秘仏になっており残念なことに拝観が出来るのは特別ご開帳のある1/1,2,3,1/8と4/15に限られております。     
                 平29/3/7  八大

             










鈴虫さん有難う

鈴虫さん有難う


11月の15日今年最後の2匹がお亡くなりになりましたので、早速に野辺の送りを致しました。引き続き来年の転生を願っております。今年もあの暑い夏の夜によう泣いてくれまた。

このところ私は耳鳴りの為蝉の声が聞こえておりましたが、それをカバーするようにリーンリーンと一生懸命に奏でてくれ幾度となく夜中にコンサートを聞く機会を得ました。

 この春は例年よりも遅く6月に入っての孵化でした。それはそれは三つの入れ物のプラスチックケースの地中から、出てくるは出てくるは・・・・その数ざっと3,000匹以上、その蠢きは網の佃煮の如きなり。
粉餌とナスを厚さ7~8ミリに輪切りにして与えると翌日には表皮部だけが円形に残り法華の太鼓のようになっていました。

 京都嵐山の渡月橋を渡った先に西芳寺(苔寺)がありますがその手前に臨済宗の華厳寺と云うより鈴虫寺という寺があります。皆さんご存知でしょうがこの寺では、一年中、りーんりーんと鈴虫の鳴き声が聞こえることで有名です。
その為冬の時期は少し減りますが観光客の数は絶えることが無いそうです。
そうすると季節は常に夏なんですね・・常夏?
 どんな育て方をしたらそんなことが出来るのかと思っていましたが・・・・・・どうやら長い年月をかけて次々と時期をずらせて生やしておられるとの事。いろいろと苦労もおありでしょうけれど面白いことですね。
 我が家では今の時期を終わると手厚い養生をして来年の春に再度生まれ変わって来られることを楽しみにしております。
                         八大