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薩摩芋の話

焼いも
 昔の話 先日スーパーの帰りに「焼き芋」の売り場を見つけた。面白半分に大ぶりの温かい薩摩芋を買い込み当時を思い起こしながら夕食後にデザート気分で食べたけれど・・・? ホクホクして美味しいよね。薩摩芋なんて見向きもしなかったけれど、こんなに美味しかったの・・・?。食べてみると思ったより柔らかくてホクホクして美味しい、子供のころ味わっていたあの頃の味と全く違うね。戦後の私たちが食べてた物とは全く違うようだ。あの頃は薩摩芋って豚の餌だって云われていたよ。

戦後の食糧難の時代を超えてきた私たちの時代では、こんな不味い物はないと思っていた。不味い薩摩芋の味は今でも覚えています「農林2号」とか「太白?」とか云ってビチャビチャして不味い。後で聞いたことがありましたが農家の人たちは牛や豚の餌にしていたようでした。「代用食」(ご飯の代わりに食べさせられた)なんて言って食べさせられていましたね。只々一時的に腹を膨らせるだけの食事で贅沢なんては言えないけれど母親には悪いけど残してしまった思い出があった。

今時の薩摩芋とは形は似ても非なり、デザートの上等なケーキのようなもので品種改良の成果とだけでは言い表せない美味しさ。

さつまいもは昔から食されていたと思っていましたが意外や意外、17世紀の初めに唐芋と呼ばれ中国から琉球にもたらされ、鹿児島(薩摩)へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ 広まり定着したと云います。西日本の大飢饉のときに餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込め餓死者を出さなかった事から江戸時代にには救荒作物として栽培されていたと云う。

江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、1735年、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がったという。20世紀の第二次世界大戦(太平洋戦争)中は、軍事統制下の深刻な食糧難からサツマイモ栽培が大いに奨励されたといいます。そんな時代もあったそうです。

今では「紅あずま」「鳴門金時(なるときんとき)などの人気は高いそうです。そうこう言っているうちにお米の値段がこのところ急騰して大変な騒ぎになっていることはご存じの通りで、国民は怒っていますよ。

 如 月          八 大

「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










素麺の話

 「素麺の話」

今年の暑さは異常ですよね。これからも暑さが続くことが予想されますが台風の数も少し多くなりそうです。その原因は偏西風の蛇行と云われます。Bingに問い合わせると今年の台風の数は例年より多いそうですよ! この暑い時期多くの人が食欲が進まないと云い、簡単に済ませようと食べるのが「素麺」ですね。

冷やしそうめん
40年もの昔に京都の鞍馬寺を訪ねた時に炎暑を避けながら歩いたその先で一休み。川の流れに足を浸しながら食べた「流しそうめん」がありましたが、”これぞ天国”を思い起こしました。

素麺(そうめん)は、小麦粉を原料にした東アジアや日本をで流通している麺の一つで、主に乾麺として流通するため一年中どこでも入手できるが、冷やして食することが多く清涼感を求めて夏場に食するのが一般的である。素麺は中国との交流もあり広く食べられるようになりましたが日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされております。

JAS規格で「乾麺類品質表示基準」機械類が決められており機械類の場合、素麺の麺の太さが直径1.3mm未満をそうめん「素麺}とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、1.7mm以上はうどん(饂飩)と分類されるそうです。ちなみに幅が4.5mm以上、厚さ2.0mm未満だときしめんと云うそうです。

素麺の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満は以上が手延べ麺の場合は素麺も、ひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされるそうです。

京都祇園社の南北朝時代の記録によりますと麺類を指す言葉として索餅(さくべい)、索麺「さくめん」素麺(そうめん)と3つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされているそうです。平安時代には七夕に索餅を食べるとマラリヤ性の熱病にかからないという中国の故事に倣って、宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられていたといわれています。     
今晩は素麺で閉めにしましょう。

 葉月               八 大


遠藤さんちの庭園

突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!

 この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。  心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。

 令和5年 皐月         八 大








他の



水角神社の富士塚

水角神社
春日部市の旧庄和町地区の国道四号線バイパス沿いの目立たない処に「水角(すいかく)神社」があります。水角なんて聞いたことがないと云われる人があるかと思いますが郡村誌によると当地は寛永年間(1624~44)から開墾され正保年間(1644~48)に水角村と称したと云われます。覆い屋の中には一間社造りの本殿には二社あり八坂神社とその後合併された八幡神社があり、その後にも稲荷神社も合併されたとあります。それから後に病人が相次いだことがあり祟りを恐れ合併を機に、社号を「三霊神社」と改めましたが更に大正六年に「水角神社」と改めたそうです。(このころは全国的に小神社の統廃合が行われたそうで、私の八丁目地内の香取神社も「香取・八坂・稲荷合社」とあります。)

水角神社の額
神社の裏手にある富士塚は万延元年(1860)に築かれたもので北葛飾地区では同じ町内にある宝珠花神社の浅間塚に継ぐ古いものだそうで、周りには沢山の石碑が建てられており往時は信仰が盛んだったことが伺えられます。またその中でも「丸岩講」と云う組織が当時盛んだったようであちこちに石碑が建てられていたようです。                           また富士塚(浅間塚)の始まりは安永9年(1780年)に江戸の高田藤四郎と云う人が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています

富士塚
先日、民家の裏手に居られた老女に伺ったところ、30年程前に国道のバイパスが出来ることで移転となりましたが目の前が浅間塚でしたので有難いと思っていました。当初は組内の人も手入れをしてくれましたが、年を取って来て儘ならなくなったので市役所にお願いして管理ををしてもらっていますが・・・・長年の風雪に耐えて、忘れられているような状態になっており悲しく何とも寂しい思いをしているそうです。

富士塚の説明
富士講(ふじこう)は浅間講とも云われ江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に                     を中心とした関東地方で流行したもので、                     修験道の行者であった男は常陸の国での修行                     を終え陸奥の国で岩窟で修行中、役行者より                     お告げを受けて富士山麓の人穴に辿り着く。                     そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立                     ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年                    (1560年)「角行」という行名を与えられた                 と云われる。

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。修行の地である人穴に接する「人穴神社」は主祭神を角行としている。その後盛んに石碑が建てられて現在でも230基の石碑塔群が残っており「人穴富士講遺跡」として知られています。

 令和4年 卯月         八 大







 














茗荷と物忘れ

 ミョウガを食べると物忘れがひどくなるって本当なの?

庭の片隅に毎年恵みを届けてくれる氏神様から今年もミヨウガの献上がありました。大きく繁った葉の下に透き通った新芽が顔を出しています。頭の中はすぐ反応します、素麺や蕎麦の薬味・・新鮮な歯ごたえと香りを届けてくれるものが浮かびます。季節感があり田舎暮らしには欠かすことのできない一品です。

「ミョウガ」と呼ばれるものの内部には開花前の蕾が3~10個程度存在する。その為この部分を「花蕾」と呼ぶ場合もあります。一方、若芽を薄紅色に着色したものを「みょうがたけ」と呼び春の食材ですが、晩夏から初秋にかけて発生し秋を告げる風味として喜ばれるのが「花みょうが」です。独特の香りが好まれ麺類や冷奴の薬味など香辛料としての利用はご存知の通り。その他に天ぷらや酢の物、味噌汁の具など、田舎では山椒、ミツバと並んで屋敷林の木陰に丹精に育てて日常のチョットした薬味として確保しておくものでしたね。

俗説に「食べると物忘れがひどくなる」と云われておりますが、記憶への悪い影響は学術的にも根拠は全くないそうです。寧ろミョウガの香り成分には集中力を増す効果があると専門家は云うそうです。                                ここで落語の中にミョウガに関わるおもしろい噺をご紹介します。


「茗荷宿」 落語のあらすじ
東海道の神奈川宿に茗荷屋と云う代々繁盛していた料理屋があった。当代の亭主は道楽者で身上を潰してしまい仕方なく宿場のはずれに小さな宿屋を出したが、客あしらいも悪く家も汚くなり泊まるものもいなくなる有様でした。亭主夫婦は宿をたたんで江戸に出て一から出直そうと決めたある夜更けに、年配の商人風の旅の男が一晩泊めてくれと入ってくる。

男は商用の百両が入っていると云う荷物を預け、すぐにぐっすりと寝入ってしまう。百両に目がくらんだ亭主は台所から出刃包丁を取り出し客間に向かうが、女房に気ずかれ浅はかなことと思いとどまる。

だが女房も喉から手が出るほど百両が欲しい。そこで妙案が浮かんだ。宿の裏にごっそり生えているミョウガを刈って客の男に食べさせるのだ。茗荷は物忘れをさせると云う。客に茗荷ばかり食べさせ預けた荷物のことを忘れさせてしまおうという算段だ。

翌朝、ぐっすり寝て気分良く起きてきた男に、宿の女房は「今日は先祖の命日で、茗荷を食べる慣わしになっています。」と茗荷茶、茗荷の炊き込みご飯、茗荷の味噌汁、茗荷の酢の物など茗荷ずくしの膳に並べる。男は「美味い、美味い」と茗荷をたらふく、満腹、満足して預けた荷物も忘れて宿を立って行った。

宿屋の夫婦はまんまと計略が成功し百両が手に入ったと大喜びも束の間、男はすぐに戻って来て預けた荷物を持って行ってしまった。糠喜びでがっかりした夫婦は・・

 亭主 「何か忘れて行った物はないか」、暫くして女房が気ずく
 女房 「ああ、あるある」
 亭主 「何を・・」
 女房 「宿賃の払いを忘れて行っちゃったよ~・・・」

  令和3年 文月       八 大     





翡翠(カワセミ))

 あっ・・ 水際の高い枝に飛び移ったから、これから水中に飛び込むぞ! と大きなレンズの望遠鏡を抱えたおじさんが私に知らせてくれた。見つめているまに水面めがけて突き刺さるように潜り込む姿は水泳の高飛び込みの選手の様だ。見事に10㎝ほどの小魚を嘴に咥えると下段の小枝に移り何やら首を振っているところを見ると小魚を枝に打ち当てて飲み込もうとしているカワセミだった。

その姿と色彩は紛れもなく翡翠であるグリーンの濡れ羽いろの背中はその昔中国故宮博物館で見たヒスイ(翡翠)の色であり、茶いろの腹とのコンストラストは小さいながらも存在感がある。どうしてこんな色の取り合わせが出来るんだろう、この美しい外見から一部の愛好家から「渓流の宝石」とも呼ばれているそうです、不思議でならないね。

その姿はスズメより少し大きく長い嘴は、500系新幹線のノースデザインにそっくりに思えます。餌をとるときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込み魚類やエビやカエルなどを捕食します。ときには水中ホバーリングしながらでも飛び込むこともあります。隣のおじさんの解説を聞くと水中に潜るときには目からゴーグル状の(瞬膜)を出し水中でも確実に獲物を捕らえることが出来るそうです。

こんな話を聞いたことがありますが本当ですかね。黒田清子さん(紀宮清子内親王)が山科鳥類研究所で熱心に研究しているテーマは「カワセミ」だそうで思い入れが深いそうです。宮内庁職員の文化祭に「川瀬美子」(かわせ・みこ)の名前で手芸作品を出品したことがあったそうです。

先月初めからときどき庄和公園の周りを巡回しておりカワセミのウオッチングしております。残念なことにカワセミの姿は確認してシャッターを押すことは出来ますが、私のスマホでは限界があり見せられるようなものにはなりませんので隣のおじさんのを戴いてお見せします。この時期鳥類の動きが活発で眺めていて楽しいです。シラサギ、アヒル、カモ、アオサギの巣作りとそれぞれが春の生産活動に精を出している様子は・・・頑張って~とエールを送りたい!

 令和3年 弥生          八 大






幌墓(ほろはか)

 春日部の市内を流れる古利根川沿のに銚子口と赤沼地区の境に、幌墓(ほろはか)と呼ばれるところがあります。この地で亡くなった侍(さむらい)を供養するため嘉永7年(1854年)に建てられた石碑があります。此の石碑が「幌墓(ほろはか)」と呼ばれるのは、亡くなった武士が幌と呼ばれる防具を身に着けていたことからと云われています。

その由来として石碑には次のような事が書いてあります。昔この地で命を落とした武者を村人が葬リ塚を築きその後、幌墓と呼ばれるようになりましたが武者の名前も古い話のために伝わらず忘れられて行きました。ところが嘉永7年ごろ、この塚の周辺で闇夜に怪しい光が出る人魂を目撃したと云う噂が広がり村人が怖がったそうで、これを聞いた銚子口の名主が武士の魂を鎮めるために石碑を立てて供養をしたと云います。

その薄い線刻をたどると石碑には「武士(さむらい)の家のしるしや雉子の声」と、武者にちなんだ俳句が刻まれております。本文に続いて、葛飾蕉門(かつしかしょうもん)という俳諧一門の人々が寄せた句が12句彫られており、18世紀中ごろから19世紀にかけて市域で盛んになった俳諧文化を示す資料としても貴重なものだそうです。

処は桃屋工場の裏手にありますが、土手を上がると浅瀬でありますが古利根川の川幅が広がりを見せ長閑な景色が何とも言えません。不思議な伝承を聞くことが出来ました、私も故人の冥福を祈って合掌!

 令和3年 如月         八 大







 神明貝塚と牡蠣

 春日部市の西親野井にある縄文時代後期の神明貝塚(馬蹄形貝塚)が2020年に国の史跡に指定されることを聞いていました。先日、神明貝塚に関するシンポジュウムがあり覗いてみると「3800年前の縄文人の食文化」と題しての話でしたが興味あることもありました。発掘された中には魚類としては、イワシ、クロダイ、スズキ、フグ、ドジョウ、コイなどがありましたが陸上の動物の骨として鹿、猪、野兎なども発見されていました。何としても驚きは縄文人の人骨が3体発見されておりましので今後の研究成果が待たれます。

 貝塚ですから大量の貝殻を調べていくとその大部分はシジミです。今から6000年~5500年前には地球規模の温暖化により海面が3~4m上昇し春日部のこの地は奥東京湾と呼ばれる海だったそうです。やがて海面は徐々に下がりその海岸線は草加市付近まで南下したと推定されています。その頃この地に縄文人が住み着いて生活が始まり結果的に神明貝塚が出来上がったと考えらるそうです。

 神明貝塚付近は海水と淡水がまじりあう吃水域が広がっていた為、定住する人たちが多かったらしい、積みあがった貝殻の大部分はヤマトシジミでしたが、ハマグリ、バイガイ、牡蠣などが採取されていたようです。

 季節は今、牡蠣のシーズンです海のミルクと云われ称される牡蠣が美味しい季節になりました。鍋で良し焼いて良しフライで良し、生牡蛎でなおさらOKです。
 Rの付かない五月から八月にかけて牡蠣の産卵期にあたるので食用には適しないとも云われていますが、美味しい牡蠣のシーズンに入りました、さあ食べに行きましょう。

  令和元年 12月         八大















百舌鳥・古市古墳群


 仁徳天皇陵
                  世界文化遺産への登録を目指す「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について文化庁は5月14日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に登録することが内定した、正式の登録は6月の委員会で決まるとのことです。

 古墳群は大阪府南部の百舌鳥地域(堺市)と古市地域(羽曳野市、藤井寺市)にあり、現在89基の古墳のうち形がよく残っている49基が登録されるようです。それらは4世紀後半から5世紀後半に成立されたものです。

 『延喜式』では、この古墳を「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名し、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定・管理している。

 墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。明治5年(1872)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。また、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているほか、日本最大の前方後円墳にふさわしく周辺には「陪塚」(ばいちょう)と呼ばれる、小型古墳10基以上も確認されている。

 仁徳天皇陵古墳は墳丘長が486m高さが35,8mと巨大であり、エジプトのクフ王のピラミッド(350M)、中国の秦の始皇帝陵(230M)と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。

 日本全国では約16万基 の古墳があり、その内  前方後円墳は約4500基程が確認されています。
 
                     令和 元年5月       八 大
                                   












 虎ノ門の云われ 大逆事件

    江戸城の西に虎之御門と云われる立派な門がありました、当時は青龍・白虎・朱雀・玄武の四獣神が四方を守るという考えがあり、青龍は東、白虎は西、朱雀は南、玄武は北がふさわしいとされていた。 これにちなんで江戸城の西に位置していた門は、白虎の「虎ノ門」と名付けられたといわれている。その後の交通事情から明治6年に今の場所に移り現在に至っています。
文部科学省の正面脇のここ地下鉄虎ノ門駅を出たところにその由来が石碑に書いてあります。目立たない小さな像ですので見落としてしまいそうになりそうです。

 大正12年12月27日時の皇太子裕仁親王が摂政として通常議会の開院式に出席するために皇居を出て5分後虎の門前を通過中群衆の中にいた難波大助(無政府主義者)が警戒線を突破して、ステッキ仕込み式の銃で狙撃した。銃弾は皇太子には当たらなかったが車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長が軽傷を負った。
 警護の中にいた私服警察官が飛びついて押さえたそうですが民衆も加わっていた為、誰が犯人なのか大混乱したそうです。(大逆事件)



  世の中は関東大地震と云う未曾有の大災害の直後に加えて左翼人や無政府主義者の横
 行などもあり大混乱を呈しておりました。年を越した10日後新年早々に山本権平内閣
 は総辞職が認められ清浦圭吾内閣が発足しました。
  難波は逮捕された後大逆罪で起訴され大正13年11月13日に判決が確定、3日後の15
 日に死刑が執行されました。その後も親兄弟は勿論の事親類縁者は勿論の事、学校の卒
 業生に至るまで広範囲な取り調べが続いたそうす。
  
  
                     平成30年8月        八 大














 玉川上水

羽村取水堰
このところ全国的に猛暑日が続いておりますので、東京の水道について玉川上水のことを調べてみました。
 徳川家康は江戸の城下を作るにあたって水の確保を重視し、天正18年(1590年)大久保藤五郎に小石川を水源として神田方面に通水する「小石川上水」の工事を命じた。
取水口
その後江戸の人口の増加が加速したため承応元年(1652年)江戸幕府は多摩川の水を江戸に引き込むとして羽村に取水堰を計画した。庄右衛門と清右衛門の兄弟が現地調査から工事計画と設計施工を請け負うことに決まった。準備万端を整えると1653年4月に着手し羽村の取水堰から四谷大木戸まで約43㎞の区間をわずか8ヶ月で完成させた事が分かる。
小平付近
羽村の堰から四谷大木戸までの高低差は92ⅿであったから100ⅿ当たり僅か21㎝の落差を自然流加方式で到達させると云うもので当時の流技術水準の高さを示すもので当時としては画期的な大工事であった。
 現在でも玉川上水として拝島・小平・小川橋・桜橋・小金井・三鷹・井の頭公園の近くを通ったところに当時の様子を伺うことが出来ます。
 その後、水門を作り虎ノ門まで地下に水路を延長し、江戸城を始めとして四谷、赤坂、京橋方面に給水管を延長していった。
工事に尽力した兄弟には褒賞として玉川の姓を名乗らせたという。その後昭和33年には、ゆかりの玉川の地に銅像が建てられている。


井の頭水源
全体の説明会書
四ッ谷大木戸の碑














 平成30年7月         八大













一源三流(いちげんさんる)

 行田市の生んだ当代一と云われた武道家、吉川栄先生の顕彰碑がさきたま古墳公園の隅にひっそりと建っておりました。二十年以上前に遭遇した時にあまりにも感動したことを覚えましたので昨年懐かしさもあって尋ねたところいくら探しても見つからなかった。
 この度近くの民家にお聞きしてやっと尋ねることが出来た。二十年経つと以前訪れた所在地が思い出せなくて、記憶の薄れてきたことを実感しつつ改めて顕彰碑を見つめるとあの時の感動が思い起こされました。吉川栄氏の銅像裏に回って黒御影石の碑文を見ると昔日の思いが込み上げてきた、それは「一源三流」の言葉であった。

 『 友のために涙を流し 家のために汗を流し 国のために血を流す 』

 たったこれだけの言葉でありましたがその時の自分の思いと合致した文で今でも忘れずに心の奥にしまっております。この三流の源は自分自身が出来ることであり人間としての誠の心であると思え、言葉だけではなく行動に移せるかどうかが本物の男としての了見であると思っています。
 今でも飲み仲間と人生を語りあうときには、「友人や家族は勿論であるが日本という国の為に血を流す覚悟はできている」と公言しておりますがその気持ちに偽りはありません。あの太平洋戦争後から平和な世の中が長く続くとつい先人の苦労を忘れている輩を見るにつけ改めて気持ちを入れ直しを入れてあげたい思いです。
 吉川先生はこの一源三流の精神を折あるごとに弟子たちに説かれていたと云われます。
                          平成30年1月    八大




















虎塚古墳


 栃木県から茨城県にかけて流れる那珂川の河口近くには縄文時代から続いている古代人の住居跡や古墳などの遺跡が多くみられる処である。その中に虎塚古墳と云う東日本では最初に発見された装飾古墳があります。埋蔵文化財資料館には原寸大の石櫃が展示されているが原色の赤色に圧倒されます。壁の上段に連続三角文、その下に円文や太刀、鉾などの武器や武具などがベンガラ(酸化鉄の赤の顔料)で描かれている。石櫃の西壁や東壁にも9個の赤い円(鏡と思われる)や武具を思わせる道具などが描かれている。その当時も葬送を司る画家がいたのかもしれないことを感じる。

 装飾古墳は九州に多く発見されているが、そのころ関東へ人の移動があったことが覗える。
 年代的には6世紀末から7世紀初頭とみられていますが、その幾何学的な模様は今の現代アートを見ているような感覚を感じる。
虎塚? 鎌倉時代、この地に虎御前という人の屋敷があった・・と土地の古老の話を聞きましたが空を見る
古墳内は春と秋に一般公開されるとの事でした。
                平成29年5月  八大