すずめ

 

すずめ
私が子供の頃近くに下駄屋さんの工場があって、荒削りの下駄を乾燥させる為に積み上げられた一つの風景が目に浮かんで来ます。うず高く積み上げられた工程で、乾燥させる段階がありまして下駄の薫りが何とも言えませんでした。

下駄の香りが漂っている地面に羽をバタバタさせたスズメが、足をくじいたらしいので保護してあげました。一時的に鳥かごの中で保護して摺り餌を作って与えると仲間の雀たちがバタバタと近寄ってきて様子をうかがっているようでした。餌を運んできた姿が見られて感動を覚えました。そんな姿を見て一刻も早く外の世界に返してやらねばいけないと思い摺り餌を作って保護してあげました。

翌日には仲間の雀が籠につかまって他から餌を運んできた姿を見られた。籠の周りで口移しで餌を上げている姿を見た時には、、、一刻も早く外の世界に返してやらねばならない一心で摺り餌を作って看病をし3日後には飛び立つことが出来ました。その後も籠の周りに現れてチュンチュンと近くの枝にとまって仲間たちと戯れているように思えました。 

雀と桜と蜂
スズメは不思議な小鳥です。世界中に分布しているにかかわらず、人間の住む集落に住み、人間がいなくなるとスズメもいなくなるそうです。鳥や鳩と同じように私たちが最も身近に感じる鳥ですネ。地面を歩くとき飛び跳ねるようにしてチュンチュンと歩く姿と鳴き声が特徴的、雑食性で何でも食べますが田んぼで実ったお米が好物なのは迷惑な限り。この時期に巣造りの為に稲を咥えて飛んでいる姿が見られます。人間の傍にいないと暮らせない雀ですが、飼うのは大変に難しいようです。

鳥の図鑑を見るとスズメは全長約15㎝位 、体重約18~30ℊの小型の野鳥で、日本全国に生息しており人家の近くで暮らす留鳥で、さえずりや地鳴きなど鳴き声が特徴の野鳥。

留鳥(りゅうちょう)とは スズメ・ハシブトガラス・キジバト・カワセミ・ライチョウ、など一年中同一地域内に定住する鳥のことを云うそうです。


 弥 生           八 大
















山笑う

季節の案内人

「山笑う」とは、春の山の草木が一斉に芽吹き始め、動物たちも動きだして華やかになった山の様子を表した言葉で, 春の山の明るい様子を表したもの。この時季、俳句の世界では春の季語として一般的に使われていますね。寒いこの時期の季節に案内人として忘れてはいけない山野草に蕗の薹(ふきのとう)を忘れてはイケません。

同じように夏の山は「山滴る(やましたたる)青葉が瑞々しくなってくる様子、秋の山は「山装う」、冬の山は「山眠る」と云いますよね。春になり一斉の木々が芽吹いた山々を覆い、緑の力強さを得たさまが、「山笑う」と云うそうですが見事な表現力で、毎年訪れてくれる新緑の山々に感謝・感謝の連続です。

原典は中国北宋の画家、郭煕の四時山と呼ばれる次の詩よりきているそうです。「春山淡冶笑うが如く 夏山蒼翆として滴るがごとし 秋山明浄ににし装うが如く 冬山惨たんとして眠るがごとし」とあります。何か格好が良すぎて講釈師になった気分がします。

夏の季語が山滴るで、山水訓の「夏山は蒼翆にして滴るが如し」が由来で、草木の葉で覆われて緑が滴るように見える夏の山をたとえた言葉で夏の季語として使われています。


 弥 生            八 大




忠臣蔵

いざ討ち入りに出陣
 テレビドラマや映画で良く取り上げられる歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、私達日本人の心意気を良く描いていると云われています。

策略に落ちて罪を着せられた若殿を切腹させられた恨みを晴らすべく、家老以下四十七人が元赤穂藩士たちが、にっくき吉良上野介の屋敷に討ち入りに行く物語は、日本三大仇討物の筆頭として、私たちの心の中に刷り込まれているかのようです。

その原因となった若き赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介にいじめられた末に、堪忍袋の緒が切れて江戸城の松の廊下で一太刀浴びせたことから、罪を言い渡されます。その後のお話の続きは皆さん後存じのとおりです。


そして旧暦三月十四日、浅野内匠頭は辞世の句を残して切腹します。

      風さそう 花よりもなお 我はまた                                                        

                春の名残を いかにとやせん

                           浅野内匠頭     

弥 生            八 大                   

                                                                                                                                                                    


春日祭

春日大社
奈良県の神社で多くの参拝者が訪れる春日大社は、全国に約1000社ある春日神社の総本社で1200年以上の歴史ある神社で毎年伝統の「春日祭」が行われています。春日大社は勅祭社と呼ばれ例祭である春日祭には天皇による勅使が遣わされます。勅祭社は全国に16社あり祭事の規模が大きい春日祭、加茂神社葵祭、石清水八幡宮の石清水祭の3つを日本三勅祭と呼びます。

平安時代に入り、藤原氏の隆盛と共に850年に春日祭が創始され、一族の権力拡大と共に規模は盛大な祭りとして執り行われるようになりました。しかし、藤原氏は戦国時代には没落したため春日祭も規模を縮小を余儀なくされ、江戸時代には更に簡素化されたそうです。明治時代になって天皇の意向で1885年に復活し現在に至っているそうです。、

神前の守護神
奈良県の春日大社における例祭は3月13日に於ける例祭で、春日祭(かすがまつり)とも云われており明治13年からは固定されてこの日に行われています。宮中から天皇の名代である勅使が参向して儀式を執り行い、国家の安泰と国民の安泰を祈ります。

天皇の勅使が派遣されて行う祭事を「勅祭」と呼びます、その中でも旧儀保存の観点から古式に則り行われるものを特に「三勅祭り」と呼ぶそうです。春日祭はそのうちのひとつで、残りの二つは加茂神社の加茂祭(葵祭)、石清水八                    幡宮の石清水祭です。今年も例祭の時期です。

 弥 生              八 大

 


鹿鳴館

 昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。 

鹿 鳴 館 
英国人j・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となる。館内には宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳士達を招待して連日のように園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれたそうです。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称されその外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれております。

舞 踏 会 の浮世絵
鹿鳴館と聞くと明治16年時の外務大臣、井上馨が賓客接待の社交場として日比谷に開設したものです。洋風の鹿鳴館は欧化主義の最先端をゆく鹿鳴館時代を演出したことが思い出されますね。この鹿鳴館の名は元々は中国に由来があり中国最古の詩集と云われている「詩経」の中に「鹿その食を得れば相呼びて取る」という、鹿の習性に                  ちなんだ一節があります。

詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。

この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。

 如 月            八 大