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薩摩芋の話

焼いも
 昔の話 先日スーパーの帰りに「焼き芋」の売り場を見つけた。面白半分に大ぶりの温かい薩摩芋を買い込み当時を思い起こしながら夕食後にデザート気分で食べたけれど・・・? ホクホクして美味しいよね。薩摩芋なんて見向きもしなかったけれど、こんなに美味しかったの・・・?。食べてみると思ったより柔らかくてホクホクして美味しい、子供のころ味わっていたあの頃の味と全く違うね。戦後の私たちが食べてた物とは全く違うようだ。あの頃は薩摩芋って豚の餌だって云われていたよ。

戦後の食糧難の時代を超えてきた私たちの時代では、こんな不味い物はないと思っていた。不味い薩摩芋の味は今でも覚えています「農林2号」とか「太白?」とか云ってビチャビチャして不味い。後で聞いたことがありましたが農家の人たちは牛や豚の餌にしていたようでした。「代用食」(ご飯の代わりに食べさせられた)なんて言って食べさせられていましたね。只々一時的に腹を膨らせるだけの食事で贅沢なんては言えないけれど母親には悪いけど残してしまった思い出があった。

今時の薩摩芋とは形は似ても非なり、デザートの上等なケーキのようなもので品種改良の成果とだけでは言い表せない美味しさ。

さつまいもは昔から食されていたと思っていましたが意外や意外、17世紀の初めに唐芋と呼ばれ中国から琉球にもたらされ、鹿児島(薩摩)へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ 広まり定着したと云います。西日本の大飢饉のときに餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込め餓死者を出さなかった事から江戸時代にには救荒作物として栽培されていたと云う。

江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、1735年、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がったという。20世紀の第二次世界大戦(太平洋戦争)中は、軍事統制下の深刻な食糧難からサツマイモ栽培が大いに奨励されたといいます。そんな時代もあったそうです。

今では「紅あずま」「鳴門金時(なるときんとき)などの人気は高いそうです。そうこう言っているうちにお米の値段がこのところ急騰して大変な騒ぎになっていることはご存じの通りで、国民は怒っていますよ。

 如 月          八 大

「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










遠藤さんちの庭園

突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!

 この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。  心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。

 令和5年 皐月         八 大








他の



翡翠(カワセミ))

 あっ・・ 水際の高い枝に飛び移ったから、これから水中に飛び込むぞ! と大きなレンズの望遠鏡を抱えたおじさんが私に知らせてくれた。見つめているまに水面めがけて突き刺さるように潜り込む姿は水泳の高飛び込みの選手の様だ。見事に10㎝ほどの小魚を嘴に咥えると下段の小枝に移り何やら首を振っているところを見ると小魚を枝に打ち当てて飲み込もうとしているカワセミだった。

その姿と色彩は紛れもなく翡翠であるグリーンの濡れ羽いろの背中はその昔中国故宮博物館で見たヒスイ(翡翠)の色であり、茶いろの腹とのコンストラストは小さいながらも存在感がある。どうしてこんな色の取り合わせが出来るんだろう、この美しい外見から一部の愛好家から「渓流の宝石」とも呼ばれているそうです、不思議でならないね。

その姿はスズメより少し大きく長い嘴は、500系新幹線のノースデザインにそっくりに思えます。餌をとるときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込み魚類やエビやカエルなどを捕食します。ときには水中ホバーリングしながらでも飛び込むこともあります。隣のおじさんの解説を聞くと水中に潜るときには目からゴーグル状の(瞬膜)を出し水中でも確実に獲物を捕らえることが出来るそうです。

こんな話を聞いたことがありますが本当ですかね。黒田清子さん(紀宮清子内親王)が山科鳥類研究所で熱心に研究しているテーマは「カワセミ」だそうで思い入れが深いそうです。宮内庁職員の文化祭に「川瀬美子」(かわせ・みこ)の名前で手芸作品を出品したことがあったそうです。

先月初めからときどき庄和公園の周りを巡回しておりカワセミのウオッチングしております。残念なことにカワセミの姿は確認してシャッターを押すことは出来ますが、私のスマホでは限界があり見せられるようなものにはなりませんので隣のおじさんのを戴いてお見せします。この時期鳥類の動きが活発で眺めていて楽しいです。シラサギ、アヒル、カモ、アオサギの巣作りとそれぞれが春の生産活動に精を出している様子は・・・頑張って~とエールを送りたい!

 令和3年 弥生          八 大






久伊豆神社

 狛犬の足止め
 

今年はコロナの騒ぎがあり、恒例の七福神巡りも出来ませんでしたが緊急事態宣言が出ているため全くの「巣ごもり」状態のため不自由な生活を強いられておりますね。政府から行動を制限されることなんてありませんでしたので、心身ともに不自由を目の当たりにして改めて自由という意味の有難さを感じております。

先日は突然春のような陽気が訪れたのを幸いに久伊豆神社にお参りに行きました。人影はまばらでしたが年が改まっての初参りはいつもの光景でした、拝殿の手前では昨年の古いお札を受け付けており有害と思われる付属の飾りを取り分け、お焚き上げを行っておりました。最近では環境に配慮した行動の義務ずけが徹底しているようで結構なことですね。

拝殿前にはよく見ると麻紐で両足を括りつけられた狛犬が居りますが何で麻で縛ってあるのかと思いませんか・・?。それには江戸時代から伝えられている願掛けの方法で、「走人(はしりびと)足止め」と云われる祈願で家出人が帰ってくると云われていました。迷い人や家庭を顧みない家族との絆をしっかりと結びなおしたいという願いを込めて結んだものと云われています。

そうすると必ずや居所が見つかると云います。足が止まりますようにとの願いや、子供たちが神隠しに遭わないようにと狛犬の足を麻紐で結んでいました。最近では商売をされている方や、恋人の心が離れないようにと固く結んで祈願されている方もいるそうですよ・・?  

 令和3年 正月           八 大














櫻木神社

 こんな処に(失礼します)立派な神社があったとは知らなかったですね。野田市駅近くにあるキッコーマン工場から梅郷寄りに桜台という地名があります。住宅街が広がっており何の変哲もないと思えた反対側に回ってみると大きな鳥居がありその向こうにこんもりとした林が見え、掃き清められ手入れの行き届いた神社があり、可憐な十月桜が咲いていました。

野田市桜台にある櫻木神社は、社記によると平安朝の仁寿元年(西暦851年)に、大化の改新で活躍した藤原鎌足から5代後の藤原冬嗣の息子がこの地に居を構えた時、此処に美しい桜の大木があったので倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりであると伝えています。この地は古くには櫻木村と呼ばれ、後に桜台村となり桜が咲き誇る美しい里であったと考えられています。現在の社家はその継承から28代目で初代からは31代目に当たるそうです。

倉稲魂命は伊勢神宮外宮の祭神である豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と同一の神様と云われ、穀霊として食物全般の神様でもあります。また人々の生命を守り育て、家を富裕にしてくれる祖神であり、生活の衰運に関わる大切な神様です。

平成4年の神社再建御造営に伴い、御殿地(宮司宅地内裏山)の発掘調査が行われ、日本列島の旧石器時代の有舌尖頭器や縄文時代の土器・石器類、古墳時代の住居跡などの遺跡のほか、古代祭祀に関係する遺物としてヒスイ勾玉管玉・台形様石製品・剣先様装飾品・半円状石製品・玉杖なども多数出土たそうです。

大鳥居脇のシダレザクラや正門の手前にあるミヤビザクラは3月中に満開を迎えると云われます、その時期に仲間の皆さんと是非行ってみたいと思います。


 令和2年  神無月        八 大 






 出雲大社 雲太・和二・京三」

 出雲大社は正式名称を「いずものおおやしろ」と言い、ご祭神は大国主の大神と云います。式内社(名神大社)で出雲国一之宮で旧社格は官幣大社、神社本庁の別表神社である。
また明治維新に伴う近代社格制度下においては唯一の「大社」を名乗る神社であった。

『日本書紀』には、国譲りの代償として、高天原の側が大国主命に対し、壮大な宮殿を造って与えた事が書いてありますが、これが出雲大社の始まりと記されている。いわゆる国譲りの神話ですが、その創建についての年代については明らかではありません。
 けれども、『出雲国風土記』には杵築大社(きつきたいしゃ)が載っていまして、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築いたという伝えがありますので、少なくとも8世紀には、大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたことが伺えます。

 平安時代中ごろの言い伝えでは、「雲太、和二、京三」という大きな社がありますが、その中でも出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、その次が京都御所大極殿の順でありますと。出雲大社本殿の高さは、16丈(48,48m)と云う壮大な建物であったろうと考えられます。更に遡ること上古の神代には32丈(おおよ96ḿ)であったと云う伝承があり、それを裏付ける金輪造営図の他、平成12年の調査の際3本一組の巨大な柱根(宇豆柱)が発掘され、巨大な神殿の存在が裏付けされました。これが現在と同じ8丈(24,24m)の高さに縮小されたのは、鎌倉時代の中頃からであるといわれています。現在の本殿(国宝)は延享元年(1,744)造営されたもので
あると言う。
 本殿は大社造りの代表で、屋根は切妻造り、妻入りで、内部は心御柱(しんのみはしら)を中心に田の字型に仕切られ、神座は向かって右から左へ向いている。屋根にそびえる千木(ちぎ)は外削(そとそぎ)で、3本の勝男木(かつおぎ)の長さは5,4mと巨大なものであります。

 出雲大社には、多くの祭礼がありますが中でも神在祭(かみありさい)は御忌祭(おいみまつり)ともいわれ、旧暦10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に参集され、会議をされるとの伝承に基づいた祭りが今でも受け継がれております。その前日の10日の夜、海の彼方から来る神々を迎えるため、稲佐(いなさ)の浜で神迎(かみむか)えの神事が行われ、神の使いである龍蛇(りゅうじゃ)を曲物(まげもの)に載せて本殿に納める。神々は境内左右にある十九社に宿り、上宮(かみのみや)において神議されるのであります。出雲大社を出発した神々は、佐太神社に移って再び会議をされることになる。従ってこの時期には全国各地におられていた神様は不在になっているのですよ・・。
出雲大社はその壮大な建物や、伝統的な神事等はやはり神話の国出雲の代表的存在であります。

 令和2年  睦月         八 大  




 







 大嘗祭

 大嘗祭とは天皇が即位後初めて行う新嘗祭を云う。その年に新たに収穫された稲の初穂を天皇自ら祖神天照大神をはじめ天地のよろずの神々に差し上げる一代一度の大礼であります。祭りに用いられる新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)された悠紀、主基の国から奉られ祭りの日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿(東方の祭場)、主基殿(西方の祭場)で、これを神に供え、自らも食する。即位後必ず行われるから践祚大嘗祭といい、一世一度の新嘗祭であるから大新嘗祭とも云う。儀式は即位の礼が七月以前ならその年で、八月以後ならば翌年で大嘗祭の日に行う。
 天武天皇の2年(673年)から後土御門天皇の即位(1467年)後に起こった応仁の乱の以後しばらく中絶していたが、東山天皇の時(1683年)から再興された。その後、中御門天皇の時(1710年)大嘗祭は行われず中止となり、桜町天皇の時(1738年)復興がなされ現在に至っている。大嘗祭を、おおにえのまつりとも云われる。


大嘗宮の造営中
 大嘗宮とは大嘗祭を行う祭祀の場所をいう。この場所は大嘗祭のたびに造営され、斎行された後は壊され奉焼される。古くから造営場所は朝堂院の前庭であった。祭りの10日前にに木材と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭りの3日前に竣工していたという。後に大嘗祭宮の規模は大正、昭和、の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数か月かけて造営しているそうです。古来から茅葺の屋根も諸事情もあり見た目にも簡素になっております。
大嘗宮(11月8日)

 令和元年  11月    八 大 

















水神信仰 全国各地に

七月上旬から降り続いた西日本大水害は平成に入って以来の大災害となったことは、改めて水による災害の恐ろしさを思い知らされました。アマゾン河のポロロッカで知られているような、河の本流から支流に向かって逆流していく様は日本では考えられなかった異常現象でありました。

古来日本人の自然崇拝の考え方は太陽神をはじめとして風、火、水・・の神様に対しての畏敬の念が表れていたものがありますが、特に身近な信仰としての水神様は人間が生きていくうえで最も大切な事であったと思います。

兵頭神社の水龍頭
以前、水道の蛇口はなぜ蛇の口と書くのかということを調べていると全国各地に龍神或は水神伝説が残っていました。それぞれの水源から集められた水は水道管を通して各家庭の端末の蛇口に届けられます。現在では当然のように思われていますが、各部落毎に水路の掃除や水争いなどもあり大変な時代がありました。末端の口を蛇口と云うようにそこには龍神さんが居ていつも綺麗にしておくものだと親から言われたものでした神社やお寺などでは蛇ではなく龍の口から水が出るようになっているところも多くありますが、中国では水龍頭というそうです。

どうして「蛇口」と云う言葉がつけられたのか?また「蛇口をひねる」ではなく「蛇口のハンドルをひねる」が正しいのでは?蛇口とは・・水道管の先端に取り付け、水の量の調節や開閉するための金属製の道具であり、明治20年頃の横浜で、近代水道が給水を開始したのが始まりだそうです。道路の脇に設けられた共用栓から水を出す英国式は、ヨーロッパで水の守護神が「ライオン」だったため水道の口に取り付けられていたようです。日本で共用栓を作るようになるが日本や中国では水の守護神と言えば「龍」であり空想上の生き物で、その元になったのは「へび」である。それを「蛇体鉄柱式共用栓」と呼んだそうです。時代は流れ共用栓が専用栓へと変わりその後、蛇体鉄柱式共用栓の先端部分を子供(龍の子)という意味で「蛇口」と云った。その蛇口は守護神として侵してはいけない領域で人が生きていくために守るべき大切なものであるといった意味がのせられていたようです。そういえば神社の手水は龍の口から水が出ています。あれが大元と考えられるわけですね。そんなわけでヘビのようだから蛇口と云う言葉ではなく水をひねり出す道具全般に使われるようになりました。忘れてはいけないのは、毎日守護神様のおかげで有り難く水が頂戴できるという感謝の気持ちを持つことですね。              

ここで一言  蛇足と云う言葉について 昔、中国の楚()の国で、蛇の絵を早く描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい余裕に任せて足まで描いてしまい龍になってしまい負けとなってしまった。付け加える必要のないものを足したことで「蛇足」、無用の長物と云われる。 

                      平成307月        八大 































氷川神社行幸(王城鎮護の社)

 明治天皇は慶応4年(1868)に江戸が東京に改称されると、すぐに東幸が決まり3,300人のお供を従えて京都を9月20日に出発し10月13日に江戸城に入る。その時すぐに東京城(とうけいじょう)と改称されました、いわゆる東京遷都です。この行列の様子についてはいくつもの錦絵などでご存知のことと思います。
 その後直ちにやったことは明治維新の祭政一致の方針として氷川神社を武蔵国の総鎮守として勅祭社と定める詔を発しさらに10月28日には氷川神社に天皇自らが参拝された。
 その行列も古式豊かに行われましたので展示されている絵巻物によって10M超える長さで1,000人以上の人々が参加されたことが分かります。東京城を発った明治天皇は中山道を進み戸田の渡しを「船橋」で渡り蕨で休憩し浦和宿本陣で宿泊し翌日に氷川神社に行幸しました。
 もちろん氷川神社が勅祭社に決められたのは武蔵国一之宮だったことでありましたが、奈良の平城京から平安遷都の際に桓武天皇が王城鎮護の神として賀茂神社に行幸したことに倣ったものと云われています。
幕末維新の歴史の中に突如として氷川神社が登場することになりました。
 その結果明治4年(1871)には氷川神社は伊勢神宮に次ぐ社格である官幣大社として国が祀る神社となりました。もちろん官選の宮司が派遣され今日に至っておりますが、こうして氷川神社は地域の神社から国の神社へと形を変えてくことになりました。
 その結果今までの例祭から勅祭になったため勅使が派遣され現在でも8月1日の氷川神社の例大祭には勅使が派遣され天皇からの幣帛が献じられ「東遊びの舞」が奉納されております。
 今年は通算すると明治150年にあたるそうです、大宮の氷川神社なんてとは云わないで武蔵国(埼玉県)の総鎮守であり東京城(皇居)の守護神であることを考えて散策してみるのも温故知新に繋がるのではないですか。
                           平成30年2月    八大













前玉神社(さきたまじんじゃ)

 蝋梅と早咲きの梅に出会いながら久し振りにさきたま古墳公園の周りを歩きました。翌日には大雪の注意報が出ておりましたが穏やかな日和で一段と梅のつぼみが膨らんできたようです。明治から昭和にかけては前方後円墳や円墳の大小合わせると二十数基の古墳が確認されていましたが田畑の開拓などがなされ現在では国宝になった金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳をはじめ大型の古墳9基が整理保存されているようです。
 その東側の端に円墳とみられる浅間塚古墳があります。その墳上には延喜式(927年)の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座しておりますが、墳丘部がやせ細り石積みで補強されてはいますがあまりにも粗末で見るに忍びなかった。
 由緒書きを見ると前玉とは武蔵国前玉郡の表記であり前玉の中心であったことで700年代の半ばに漢字の変更があり前玉から埼玉になり県名発祥の神社であるとのこと。
 歴史ある大切な遺跡の保存が現在の人たちで出来ていないと云うことは後世の人たちに申し訳なく残念に思います。階段入り口には形の良い灯篭があって竿の部分に万葉集にある歌 「埼玉の津に居る船の風を疾み綱は絶ゆとも言な絶えそね」 が刻まれており当時の風景が思い起こされます。 また平安の歌人西行法師が奥州途上に詠んだ歌碑もあり
さきたまの宮の地名が刻まれておりました。
                                平成30年1月20日     八大

















近江神宮の復権

 近江神宮は第38代天智天皇をお祀りしておりまして、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる全国16社の勅祭社の一社であります。
 ここは昭和15年11月7日の鎮座であり神社としての歴史は新しいですが、この地域の発展は大津宮に都を置いたことによって今に繋げてきました。
 古くから湖国では天智天皇に対する宗敬が厚く1350年の歴史に立脚するとして創建運動が高まり昭和天皇の御代に創建されたものです。 
 我が国の法律の源をなす「近江令」がここ大津宮で制定されたが、その中でも庚午年籍(戸籍の制定)と班田収授(土地制度の改革)については今の世にも寄与されている。
 特筆は2つ、社会生活の基本である時報を始めたことで知られる水時計は良く知られており、6月10日の時の記念日には漏刻祭として毎年斎行されている。
 もう一つは、天智天皇御製
「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」は小倉百人一首の巻頭歌として国民に親しまれ、歌かるたの祖神として仰がれており正月のかるた名人位、クイーン位決定戦が行われていることは良く知られています。
 ここ大津宮は壬申の乱の悲劇に逢って5年半で崩壊しその後は歴史の中に埋もれて幻の大津宮となってしまったが今、眼下に琵琶湖を眺め思いを巡らせるとき、歴史とは勝者による物語と云われるがこんな事実があることも多くの人に知って頂きたいと思いました。
                                          平成29年6月  八大