鯨岡兵助 先生

 鯨岡兵輔 先生

「戒石名」
福島県の二本松の城址にある石碑の文であります。世に「戒石名」であります。その昔この城の武士は登城や下城の際に必ずこの碑を見たことであろう。なんじが俸、なんじが禄、と同じことを二度言っている。そして民の膏、民の脂と二度繰り返している。現在の言葉で言うならば、お前の月給は、お前の給料は、民百姓の汗だよ、あぶらだよとう意味である。百姓が働いて米を作り、その米を武士は俸禄として領主から頂いたのである。

士農工商と云って、武士は一番の上の階級に属してはいたが、生産には携わっていなかった。しかし、もし領地を侵す外敵があれば、その命を賭してそれをこれを防ぐ任務が武士にはあった。その任務を尊いものとして非生産の武士が尊ばれたのである。

しかし、武士は己が非生産のものであることを忘れず片時も忘れず、自分達は百姓の労苦によって給料を得、生かされているのだと云うことを常に考えていなくてはならない事と訓えているのである。

下民は虐げ易く、上天は欺きやすし                       武士どもよ、考え違いするなよ、百姓や町人は身分として低い者であるから、いじめたり馬鹿にしたりすることは、必ずしもできない事ではないが、そんなことをしたら、天がそのその行いを許すまい。天を欺くことは出来ないと心得よと!            


 水無月       八 大          


   





 


カマキリ

カマキリ

 最近はカマキリの姿を見かけることが少なくなりましたが日本には約11種類が生息しているそうです。私たちがよく見かけるのは大カマキリで、他にハラビロカマキリ、コカマリ、ウスバカマキリなど五種類がいるそうです。カマキリの特徴と云えばあの鎌状に変化した巨大な前足です。最大の武器となる前足を使って昆虫だけでなくカエルやトカゲと云った両生類や爬虫類を捕まえて食べる捕食昆虫です。

大カマキリは大きい物では体調が10cm程に成長して我が家にも時々顔を見せてくれます。外敵が少ないことからと思いますが比較的住宅地に近いアスファルトの道路上や、ブロック塀の上で堂々と姿を見せチョロチョロと動いているトカゲを捕えている姿を見つけることがあります。

人と向かい合っても逃げ出さず巨大な鎌状の前脚を持ち上げて威嚇する姿は、まさに昆虫界の王様にふさわしい出で立ちです。秋口になると身体の大きい雌のカマキリは泡状の麩のような形をした卵鞘(らんしょう)を草木茎に産み付けます。卵鞘の中には数百個の卵が入っており卵を外敵や気候の変化から守っていると云う。

捕食中カマキリ
雌のカマキリは交尾の後に卵を産み、栄養をつけるため・・? 雄カマキリを共食いすることが知られていますね。当時はカマキリ婦人なんて言葉が世の中を騒がしていたことがありましたね。そして一カ月ほど過ぎると、卵鞘から黄色く小さなカマキリの子供たちが生まれてくるのです。

カマキリのオスは最後にはメスに食べられ、その存在すらなくなってしまうのです。         

カマキリって凄いですね~怖いですね~。  


 水無月           八 大






紅花(べにばな)

紅 花
ベニバナ(紅花)は、キク科の植物で、古くから染料や食用油の原料として利用されてきました。花は黄色から赤色に変化し、その色素は口紅や「衣装の染料」に使われてきました。また漢方では婦人薬として利用され、血行を良くする効果があるとされています。

江戸時代中期以降は現在の山形県の最上地方や埼玉の桶川や上尾、周辺で盛んに栽培されたと云います。山形の米沢藩では江戸時代の初期に紅花を買い上げ「紅餅」として商品化し京都や大阪に送っていたそうです。9代藩主の上杉鷹山の米沢織               にも紅花が用いられ県の花でもあります。

紅花栽培風景
乾燥させた花は紅花(こうか)と呼ばれ、血行促進作用がある生薬として薬としての活用され養命酒などにも含まれているそうですまた、ベニバナから作った生薬を体のツボなどの部位に塗る紅灸(べにきゅう)というお灸の一種もあると云います。

ベニバナの原産地ははっきりとは確定されていませんが、有力な候補地として古くから栽培されていたインドやエジプトと云われます。また  アザミ類の野生が多いアフリカ・ナイル川流域                ともいわれています。

山形地方では江戸時代に最上紅花の栽培が盛んでし               た。このため,山形県の県花に指定されています。


 皐 月            八 大









 




















蚕(かいこ)の話


蚕はカイコガと云う「ガの幼虫」ですが、「お蚕様」と呼ばれるほど、農家にとっては貴重な現金収入源だったそうです。蚕はミツバチと並んで飼育される珍しい昆虫です。そのため数え方も牛や馬と同じく一頭二頭と数えていたそうです。

飼育の目的はもちろん天然繊維の絹糸の採取、蚕の作った繭から取れた高級繊維で着物の材料になるだけでなく、海外への輸出品として日本経済を支えていました。けれども、女工哀史と呼ばれていたように、絹糸の製糸工場の女工さん達に過酷な労働を強いることになっていました。

日本の絹糸は丈夫で上質であり、卵や蚕も寒さに強かったため、ヨーロッパから遠路はるばるやってきて、卵を高い値段で買いにくる商人もいたようです。取れた絹糸では繭から取れる正絹(しょうけん)が最上級で、丸繭、くず繭とランく付けられていたそうです。最上級の絹糸から作られるのが紋付きの訪問着、繭から作られるのが紬などでした。

しかしどちらにしても庶民には手の出ないもの高級品で、庶民は綿の着物を着ていました。しかし戦後になって安く強く肌触りのよい化学繊維が登場すると、養蚕業は衰退してしまいます。今では一部の着物愛好家と高級洋服の生地で使われる伝統工芸の範囲にとどまっているそうです。

また、長野県の信州地方では、蚕が作る繭の中から取れた蛹(サナギ)は貴重なタンパク源として佃煮にされた瓶詰が販売されているそうです。


お蚕さん

蛹の瓶詰







        

 皐 月         八 大










「タケノコ」 生活

 スーパーの店先に今年も「筍(タケノコ)」が並び始めましたね。この筍は広い意味ではイネ科のタケの若芽の事を指すそうです。地表に出たときには日に数センチずつしか成長していなかったものが、急に成長が早まって十日目ぐらいから急に成長が早まり数10cm~Ⅰメートルに達することもあり、成長の早い植物ですよね。

また「雨後の筍」とは良く言ったもので呼ばれるようにこの季節、雨が降ると次々とタケノコが急激に成長が早まる。雨後の筍                  とはよく言ったものですね。

この筍「古事記」にも登場することから、日本では古来から食べられて事が分ります。食物繊維が多く含まれており、ヘルシーかつ食べ応えがあり人気ある食材でした。新鮮な筍の頃は、生でも焼き物にしても美味しく食べられますね。ただし旨さを最大限に味わうためには切ってからー時間以内が目安と云われています。

・・と云うのも切った直後からえぐみが急激に増加しますね。 それを避ける為に、出来るだけ早く調理を行うのがコツだそうです。 この旬の時期、煮物は勿論ですが炊き込みご飯を食べると何故か母親に云われました。 「腹も身の内だからね」と云われたことが今になってその意味が分かったような気がする。

私は4歳まで中国・石家荘市に生活しており、その後日本に初来日した家族でいわゆる大陸からの引揚者の一員です。中国にいた頃にはそこそこの生活をしていたそうでしたが引揚者の一員となって、浮浪者同様に戦後の混乱期には物々交換の時代を経て
山法師(季節の花)
「タケノコ生活」
となった。そんな時代を超えて今に至りました。

タケノコ生活 とは、戦後初期の物々交換の時代に、筍(たけのこ)の皮を一枚ずつ剥ぐように衣類などを売って食いつなぐ生活であっ               たという。しかし、物々交換で手持ちの品物がどんどんと減っていくの見聞きした時には悲しい思いでしたね。

皐 月           八 大





































ブロッコリー

ブロッコリー
 今、旬の野菜としてブロッコリーがスーパーの店先に並んでいます。アブラナ科の緑黄色野菜として生き生きとして店先に並んでいます。花蕾を食用とするキャベツの一種がイタリアで品種改良され現在の姿になっているそうです。           原産地は地中海沿岸で食用とするのは蕾の状態の花序(かじょ)と茎であり、和名をメハナヤサイミドリハナヤサイと呼ばれています。

日本へは明治時代初期に観賞用に渡来しましたが長く普及しなかった。戦後になって本格的に栽培が始まり消費が拡大して昭和50年代になってから健康的な食生活に関心が集まり、栄養価が高いブロッコリーが注目され食用として広まった。2026年度より消費量が多く国民生活に重要な指定野菜(消費量が多い野菜や多くなることが見込まれる野菜)として適応されている。

4年ほど前には猫の額のような畑に苗を育てて、いざ食べ頃となったころ自宅に戻った時に何とムクドリの大群(10羽程)が、ほとんど食べ終わり満足した様子で休んでいた。ムクドリへの態度には怒りを覚えたが、グッと心を静めて「・・・みんなみんな友達なんだ」 と怒りを鎮めたことがあったね!

普段に私達が食べているブロッコリーは“花菜類”の野菜でその頭頂部は蕾だそうです。アブラナ科なので可食部であるつぼみが咲くと菜の花のようになり、花そのものを食べる野菜を“花菜類”(かさいるい)と呼ぶそうです。花菜類には他に、カリフラワー、菜の花、フキノトウ、ミョウガ、花ニラなどがあります。

花菜類は全般的にビタミンやミネラル、食物繊維が豊富に含まれていますが、中でもブロッコリーは特に「カロテン」が豊富です。また、ブロッコリー出荷量は過去のデータを見ると何と北海道、愛知に次いで、わが埼玉は3番目で有難いことですね。

カロテンとは、緑黄色野菜などに含まれる植物の色素で、体内でビタミンAにる物質変換される物質(プロビタミンA)のことです。代表的なカロテンはβ-カロテンで、強い抗酸化物質としても知られています。


 皐 月            八 大







鎌田 實 先生

鎌田實 先生
 「自分の人生は自分で決める!」 そんなことは当たり前でしょうと思われますが、平凡な暮らしをしている私たちにとっては、なかなか大きなテーマですよね。「自分で決めること」が幸福感に直結すると、以前に鎌田實先生のお話を聞き感動を覚えたことがありました。

「幸福感に密接に関係するものは何ですか?」というアンケート調査をしたことがあったそうです。予想通り「健康」「良い人間関係」「自己決定」の順に続き、その後に「収入」「人間関係」と続いたそうです。

その中で最も大切なことは「自分の事を自分自身で決められているかどうか」と云われます。 例えば物事がうまくいかなくても、自分で決めたことなら諦めがつく、でも他人に強制されて失敗したとしたら・・・心理的ダメージが大きいと云います。

先生は、収入や学歴以上に自己決定が幸福感に大きく影響を与えるなんて・・・と考えていたそうですが、「そうか、自分の患者さんで最後まで自己決定の姿勢を変えない人がいたな」と思い出したそうです。  最後の瞬間まで自分らしく生きる! 

 鎌田先生 東京都生まれ、  医師、作家 諏訪中央病院、名誉院長


 皐 月           八 大 

物忘れと認知症

 最近、認知症と云う言葉をよく聞きます。家族に認知症の検査を進めると拒否されることが多いそうです。自分の異変を感じても認めたくないのは当事者としては認めたくないのは共通の思いですね。

そんな時には「自分は物忘れが心配だから一緒に病院に付いて来てほしい」と頼み、ついでに診てもらうのが方法の一つと云われます。事前にその事を医者にに連絡をしておけば、認知症の専門医がうまく対応をしてくれるそうです。

脳を元気に保つための生活習慣としては食事と睡眠が最も大切なことだそうです。「高血圧症や糖尿病と云った生活習慣病が、認知症のリスクを高める可能性があると言います。栄養バランスの取れた食生活で体の健康を維持することが大切なことと云われています。

物忘れと認知症の違い 

物忘れと認知症
 物忘れ 体験の一部を忘れる 忘れたことを自覚している 生活に支障はない    

 認知症 体験その物を忘れる 忘れたことを理解できない 生活に支障をきたす

加齢による「もの忘れ」と認知症による「もの忘れ」の違い 自身や家族が物忘れをした時に「認知症なんじゃないか?」と不安に思うことはありませんか? 加齢に伴う生理的な物忘れと、認知症で見られるもの忘れには違いがあるそうです。

例えば、生理的な物忘れでは「山昨日の夕食は何を食べたっけ?」と夕飯を食べたことは覚えていますが、認知症は夕食を食べたと云う体験自体を忘れてしまうと云う特徴があるそうです。

認知症予防 には、バランスの取れた食生活、適度な運動、脳を刺激する活動、そして社会との繋がりを維持することが重要と云われます。具体的には野菜や魚を多くとり塩分や動物性脂肪を控えた食事を心がけ、ウォーキングやジョギングなどの運動習慣を身につけ趣味や学習など脳を刺激する活動を取り入れる。地域の活動や友人との交流など社会との繋がりを大切にすることが推奨されています。

具体的な予防方法としては 「食事、運動、知的活動、社会との繋がり」、等が大切であると云われています。   PCトラブルあり遅くなり御免なさい。                                         

 皐 月           八 大




                           

朧月夜

 ♯♯ 菜の花畠に入り日薄れ、見わたす山の端 霞ふかし                                 ♯    春風そよふく空を見れば、夕月かかりて 匂いあわし。

♭♭ 里わの火影(ほかげ)も森の色も、田中の小路をたどる人も、
♭    蛙(かわず)の鳴く音も鐘の音も、さながら霞める朧(おぼろ)月夜

朧月夜
日本の美しい国土を子供達に伝えるべく、この歌が小学唱歌 の六年用の教科書に初めて掲載されたのは 1914(大正3)年のことです。現在でもこの歌を知らない人はいませんよね。100年以上も歌い継がれていたのはどうしてなのか、、、不思議な事と思いませんか?
 
そのころと今では時代背景が違うはずなのに誰でも声に出して歌えるなんて国歌みたいですね。私たち日本人の心の中に染みついてしまっているもの、感性のようなものなんでしょうね。春ってみんながウキウキする季節、ヨーイドンで新年度が始まりました。

霞(かすみ)は、夜になると「朧(おぼろ)」と呼び名が変わるそうです。歌詞の1番は「かすみ」から 2番の「おぼろ」へ、風景は夕闇に包まれていきます。この歌は、夜へと流れる時間が歌われていると云われます。「匂い」は、古くは視覚を表現する言葉で「色合い」という意味と云います。耳でとらえた音さえ淡くかすんでしまうような春の宵と表現が素晴らしいですね。

「朧(おぼろ)」とは、つかみどころなくぼんやりと霞んではっきりしない様子を云いますね。「朦朧(もうろう)」という言葉はどちらも月編で神秘的です。更には朧という字には「神秘的な空想上の生き物を表します」という意味も含まれているそうです。


 卯 月            八 大    
             


すずめ

 

すずめ
私が子供の頃近くに下駄屋さんの工場があって、荒削りの下駄を乾燥させる為に積み上げられた一つの風景が目に浮かんで来ます。うず高く積み上げられた工程で、乾燥させる段階がありまして下駄の薫りが何とも言えませんでした。

下駄の香りが漂っている地面に羽をバタバタさせたスズメが、足をくじいたらしいので保護してあげました。一時的に鳥かごの中で保護して摺り餌を作って与えると仲間の雀たちがバタバタと近寄ってきて様子をうかがっているようでした。餌を運んできた姿が見られて感動を覚えました。そんな姿を見て一刻も早く外の世界に返してやらねばいけないと思い摺り餌を作って保護してあげました。

翌日には仲間の雀が籠につかまって他から餌を運んできた姿を見られた。籠の周りで口移しで餌を上げている姿を見た時には、、、一刻も早く外の世界に返してやらねばならない一心で摺り餌を作って看病をし3日後には飛び立つことが出来ました。その後も籠の周りに現れてチュンチュンと近くの枝にとまって仲間たちと戯れているように思えました。 

雀と桜と蜂
スズメは不思議な小鳥です。世界中に分布しているにかかわらず、人間の住む集落に住み、人間がいなくなるとスズメもいなくなるそうです。鳥や鳩と同じように私たちが最も身近に感じる鳥ですネ。地面を歩くとき飛び跳ねるようにしてチュンチュンと歩く姿と鳴き声が特徴的、雑食性で何でも食べますが田んぼで実ったお米が好物なのは迷惑な限り。この時期に巣造りの為に稲を咥えて飛んでいる姿が見られます。人間の傍にいないと暮らせない雀ですが、飼うのは大変に難しいようです。

鳥の図鑑を見るとスズメは全長約15㎝位 、体重約18~30ℊの小型の野鳥で、日本全国に生息しており人家の近くで暮らす留鳥で、さえずりや地鳴きなど鳴き声が特徴の野鳥。

留鳥(りゅうちょう)とは スズメ・ハシブトガラス・キジバト・カワセミ・ライチョウ、など一年中同一地域内に定住する鳥のことを云うそうです。


 弥 生           八 大
















山笑う

季節の案内人

「山笑う」とは、春の山の草木が一斉に芽吹き始め、動物たちも動きだして華やかになった山の様子を表した言葉で, 春の山の明るい様子を表したもの。この時季、俳句の世界では春の季語として一般的に使われていますね。寒いこの時期の季節に案内人として忘れてはいけない山野草に蕗の薹(ふきのとう)を忘れてはイケません。

同じように夏の山は「山滴る(やましたたる)青葉が瑞々しくなってくる様子、秋の山は「山装う」、冬の山は「山眠る」と云いますよね。春になり一斉の木々が芽吹いた山々を覆い、緑の力強さを得たさまが、「山笑う」と云うそうですが見事な表現力で、毎年訪れてくれる新緑の山々に感謝・感謝の連続です。

原典は中国北宋の画家、郭煕の四時山と呼ばれる次の詩よりきているそうです。「春山淡冶笑うが如く 夏山蒼翆として滴るがごとし 秋山明浄ににし装うが如く 冬山惨たんとして眠るがごとし」とあります。何か格好が良すぎて講釈師になった気分がします。

夏の季語が山滴るで、山水訓の「夏山は蒼翆にして滴るが如し」が由来で、草木の葉で覆われて緑が滴るように見える夏の山をたとえた言葉で夏の季語として使われています。


 弥 生            八 大




忠臣蔵

いざ討ち入りに出陣
 テレビドラマや映画で良く取り上げられる歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、私達日本人の心意気を良く描いていると云われています。

策略に落ちて罪を着せられた若殿を切腹させられた恨みを晴らすべく、家老以下四十七人が元赤穂藩士たちが、にっくき吉良上野介の屋敷に討ち入りに行く物語は、日本三大仇討物の筆頭として、私たちの心の中に刷り込まれているかのようです。

その原因となった若き赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介にいじめられた末に、堪忍袋の緒が切れて江戸城の松の廊下で一太刀浴びせたことから、罪を言い渡されます。その後のお話の続きは皆さん後存じのとおりです。


そして旧暦三月十四日、浅野内匠頭は辞世の句を残して切腹します。

      風さそう 花よりもなお 我はまた                                                        

                春の名残を いかにとやせん

                           浅野内匠頭     

弥 生            八 大                   

                                                                                                                                                                    


春日祭

春日大社
奈良県の神社で多くの参拝者が訪れる春日大社は、全国に約1000社ある春日神社の総本社で1200年以上の歴史ある神社で毎年伝統の「春日祭」が行われています。春日大社は勅祭社と呼ばれ例祭である春日祭には天皇による勅使が遣わされます。勅祭社は全国に16社あり祭事の規模が大きい春日祭、加茂神社葵祭、石清水八幡宮の石清水祭の3つを日本三勅祭と呼びます。

平安時代に入り、藤原氏の隆盛と共に850年に春日祭が創始され、一族の権力拡大と共に規模は盛大な祭りとして執り行われるようになりました。しかし、藤原氏は戦国時代には没落したため春日祭も規模を縮小を余儀なくされ、江戸時代には更に簡素化されたそうです。明治時代になって天皇の意向で1885年に復活し現在に至っているそうです。、

神前の守護神
奈良県の春日大社における例祭は3月13日に於ける例祭で、春日祭(かすがまつり)とも云われており明治13年からは固定されてこの日に行われています。宮中から天皇の名代である勅使が参向して儀式を執り行い、国家の安泰と国民の安泰を祈ります。

天皇の勅使が派遣されて行う祭事を「勅祭」と呼びます、その中でも旧儀保存の観点から古式に則り行われるものを特に「三勅祭り」と呼ぶそうです。春日祭はそのうちのひとつで、残りの二つは加茂神社の加茂祭(葵祭)、石清水八                    幡宮の石清水祭です。今年も例祭の時期です。

 弥 生              八 大

 


鹿鳴館

 昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。 

鹿 鳴 館 
英国人j・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となる。館内には宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳士達を招待して連日のように園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれたそうです。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称されその外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれております。

舞 踏 会 の浮世絵
鹿鳴館と聞くと明治16年時の外務大臣、井上馨が賓客接待の社交場として日比谷に開設したものです。洋風の鹿鳴館は欧化主義の最先端をゆく鹿鳴館時代を演出したことが思い出されますね。この鹿鳴館の名は元々は中国に由来があり中国最古の詩集と云われている「詩経」の中に「鹿その食を得れば相呼びて取る」という、鹿の習性に                  ちなんだ一節があります。

詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。

この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。

 如 月            八 大


薩摩芋の話

焼いも
 昔の話 先日スーパーの帰りに「焼き芋」の売り場を見つけた。面白半分に大ぶりの温かい薩摩芋を買い込み当時を思い起こしながら夕食後にデザート気分で食べたけれど・・・? ホクホクして美味しいよね。薩摩芋なんて見向きもしなかったけれど、こんなに美味しかったの・・・?。食べてみると思ったより柔らかくてホクホクして美味しい、子供のころ味わっていたあの頃の味と全く違うね。戦後の私たちが食べてた物とは全く違うようだ。あの頃は薩摩芋って豚の餌だって云われていたよ。

戦後の食糧難の時代を超えてきた私たちの時代では、こんな不味い物はないと思っていた。不味い薩摩芋の味は今でも覚えています「農林2号」とか「太白?」とか云ってビチャビチャして不味い。後で聞いたことがありましたが農家の人たちは牛や豚の餌にしていたようでした。「代用食」(ご飯の代わりに食べさせられた)なんて言って食べさせられていましたね。只々一時的に腹を膨らせるだけの食事で贅沢なんては言えないけれど母親には悪いけど残してしまった思い出があった。

今時の薩摩芋とは形は似ても非なり、デザートの上等なケーキのようなもので品種改良の成果とだけでは言い表せない美味しさ。

さつまいもは昔から食されていたと思っていましたが意外や意外、17世紀の初めに唐芋と呼ばれ中国から琉球にもたらされ、鹿児島(薩摩)へ伝わり、九州南部で栽培されたのが「薩摩の芋」として、全国へ 広まり定着したと云います。西日本の大飢饉のときに餓死者を出さなかったことから、凶作の年でも収穫が見込め餓死者を出さなかった事から江戸時代にには救荒作物として栽培されていたと云う。

江戸時代に飢饉を救う救荒作物として栽培が奨励された。飢饉対策に腐心していた江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の命によって、1735年、蘭学者の青木昆陽が薩摩から江戸に種芋を取り寄せて、小石川御薬園(現:小石川植物園などでサツマイモを試作し、これをきっかけに東日本各地でも栽培が広がったという。20世紀の第二次世界大戦(太平洋戦争)中は、軍事統制下の深刻な食糧難からサツマイモ栽培が大いに奨励されたといいます。そんな時代もあったそうです。

今では「紅あずま」「鳴門金時(なるときんとき)などの人気は高いそうです。そうこう言っているうちにお米の値段がこのところ急騰して大変な騒ぎになっていることはご存じの通りで、国民は怒っていますよ。

 如 月          八 大

初午祭(はつうままつり)


伏見稲荷大社
 初午祭は春の訪れを祝う稲荷神社のお祭りのこと。稲荷大神が京都・伏見にある稲荷山に降りてきたのが和銅四年(711年)の二月、初午の日だったと云われています。稲荷神社に祀られている穀物の神様が初午に降臨したとされることから初午に稲荷神社を参り、五穀豊穣を祈るようになったと云われています。

二月の初午の日は全国各地の稲荷神社で「初午祭」が行われ五穀豊穣を祈る特別な日となりました。稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされ「おいなりさん」と親しみを持って呼ばれています。

稲荷神社の総本社である伏見稲荷神社では前日の巳の日から商売繁盛や家内安全をお祈りする参詣者でにぎわい、京洛初春第一の祭事と云われています。本来は旧暦二月の最初の午の日だったため春先の行事でしたが、新暦では寒さが一番厳しい時季のお祭りになっています。

稲荷神社と云えばキツネを思い浮かべる人が多いのではと思いますが、キツネは稲荷神の使いであって神様を守る存在です。豊作を願い稲荷神を祀る風習と稲荷神の使いであるキツネが家を守ってくれると云う考えから稲荷信仰が広がりました。稲荷神はもともと五穀豊穣の神様ですが、今では商売繁盛、家内安全、交通安全などの守護神として信仰されています。そのため、「初午祭」では、五穀豊穣だけではなく様々なご利益を祈願するために多くの人が稲荷神社を訪れています。

鬼おろし
私の故郷、栃木県から北関東周辺に伝わる郷土料理に、「しもつかれ」があります。鬼おろしですった大根と人参に、鮭の頭や油揚げ、大豆、酒粕などを入れて煮込んだ料理です。「宇治拾遺物語」「古事談」などに登場する「酢むつかり」を起源とする説もあります。子供の頃隣近所のしもつかれを食べると風邪を引かないと言われ、お互いを褒めあい食べさせられましたよ


 如 月            八 大



花弁餅(はなびらもち)

花弁餅
 お正月を迎えると思い出すのは「花弁餅(はなびらもち)です。牛蒡と味噌餡を牛皮(ぎゅうひ)で巻いたお菓子ですが、もともとは梅の花弁に見立てて薄く丸い形にしたもので、皇室での鏡餅の一部に用いられた物だそうです。ほの甘く苦い濃茶との相性は抜群です。

花弁餅の由来は、平安時代に宮中で行われていた「歯固めの儀式」に由来する「菱葩餅(ひしはなびらもち)」です。歯の健康が長寿につながると信じられていた時代で、鏡餅や大根、押鮎、かち栗、猪肉など、固いものを食べていたそうです。

それぞれの和菓子屋さんが腕を競い合い店先をのぞけば季節が分るほどだったそうです。それは茶会や茶稽古が常に季節を意識して行われているのと関係していると云います。

今年もこの時期に駅前の餅菓子屋「青柳」にて買い求め、新春の色合いとその味を確かめ春の訪れを感じることが出来ました。


 如 月          八 大









飛鳥大仏


飛鳥大仏
歴史好きの人には飛鳥大仏を知らない人はいない。蘇我馬子が建立した日本初の本格的仏教寺院には、創建当初のからの「飛鳥大仏」が残されています。大仏の襟元をよく見ると胸元に結びひもを覗かせ肌着のように見えたので学者先生に問う。

605年(推古13年)に推古天皇が造らせ、609年に完成したものと云い、朝鮮半島では寒さ凌ぎの肌着ではないかと学者先生に問う。中国の北魏様式をうけ面長で杏仁形の目、アルカイックスマイルをたたえた唇など独特の神秘性の漂う格調高い仏像であるとの返答がありまし た。

538年(欽明7年) 仏教が百済から伝来するや、蘇我氏と物部氏の間で崇物・俳物の争いが長く続いた。飛鳥寺は、蘇我馬子がその戦勝を記念して創建した、日本最初の本格的仏教寺院で、法興寺、元興寺とも呼ばれた。588年(崇峻1年)に百済から寺工、路盤博士、瓦博士らの来朝を得て建立に着手し596年(推古4年)に完成したと伝えられる。

その後、609年(推古17年)銅・縫の丈六の仏像を造立したが、その丈六金銅仏が今の本尊の釈迦如来像と云われる。平城遷都にともない新都に元興寺を建てたあとも、本元興寺として栄えた。だが、1196年(建久7)の雷火災で伽藍を焼失してからは衰退の一途をたどる。

室町時代の記録によれば唯一残された丈六釈迦像が仮に建てられた茅葺の小屋で雨露を凌いでいたと云う。現在の本堂は江戸時代に建てられたものである。1956年から発掘調査で当初は一つの塔を3つの金堂が囲む特異な伽藍配置であったと。これは高句麗の清岩里廃寺と同形式で朝鮮半島の強い影響を示していると云う。

 如 月           八 大






春蘭(しゅんらん)

春 蘭
 春まだ浅い厳冬の雑木林の中、目覚めたばかりの野生の春蘭が小さな花を沢山に咲かせ私を迎えてくれいます。この時季毎年のように春蘭に会いに栃木の山の中に出会いを求めて歩いていました。

春蘭は何時もの様に私を迎えてくれているようで暫くぶりみんな元気でしたかと声を掛けます。身を寄せ合うようにしてひっそりと咲くその姿は絨毯を敷き詰めたように咲いてくれる。目立たないように身を寄せ合いながら存在感なく咲き始めます。

シュンランは昔から、山野でごく普通にみられていたため、生活にも取り入れられていた身近な植物です。そのため、地域によってさまざまな呼び名があるようで、よく言われているのが「ジジババ」「ホクロ」などで、花びらにある斑点が老人の顔にあるシミに見立てて名付けられたと云われていますね。

大きな蘭ではありませんが、葉の陰に隠れて                 可愛らしく咲くところが魅力であります。                 「花言葉は飾らない心」「控えめな美」「気品」「清純など、どちらかというと 立たない花です。そんな中で、見た目が地味な姿には「控えめな美」という花言葉                もつけられています。


 睦 月              八 大





玉子 の話

昨年の夏ごろに玉子の値段が急騰して新聞紙上で大騒ぎになりましたね。その以前の卵は物価の優等生と云われて持て囃されていましたのに何で・・と叩かれました。その原因の一つは鶏インフルエンザが大流行毎日のように何十万羽或いは百万羽が殺処分となり卵の値段が上昇し大きな社会問題になりましたね。

田舎の親戚の 玉子
その昔、日本では殺生を禁ずる仏教の影響から西暦の670年頃、牛・馬・犬・猿・鶏などを食べることを禁じられたと云いました。その中には鶏の卵も含まれており日本におけるニワトリの立ち位置は長い間、愛玩動物だったと云われていたそうです

けれども、江戸時代になって無精卵が孵化しないことが分ってくると、卵を食べることは殺生に当たらないと解釈されるようになった。そのころから身近な卵料理が多数誕生したと云われています。それと同時に身近な養鶏も盛んになり急速に各地に広まったと云われています。

鶏は採卵のために品種改良され頻繁に卵を産みますが、今では毎日ではなく数日連続で産んで一日休むと云うサイクルをとっているそうです。なお、鶏は日が長い夏場に産卵が活発化するため、冬場の養鶏場では日没後に電気をつけて夏場だと錯覚させて産卵を安定させているとのこと。そんな裏話は知りませんでした。

 睦 月              八 大

早春の思い出

 栃木県の北部地方ではこの時期に小さな川のほとりで芽吹いている、ネコヤナギのことを「ちんころたんころ」と呼んで早春の生け花にも添えられていましたね。何とも可愛らしい姿は早春の先駆けとして各家々でも玄関先に早春の知らせとして飾っていました。何とも可愛らしいその姿は誰もが愛でておりました。

川の中の「ちんころたんころ」
春まだ浅いその頃は、二年に一度は大雪に見舞われ、中学校迄では雪の中をスキーを履いて1時間以上の雪道を歩いたことがありましたね。雪は膝ぐらいの深さでしたがバスも雪掻きが間に合わず学校に着いた頃には休校になった事もありました。

学校の先生が折角来たんだから良~く温まって(ぬくまって)餅でも食べて行きなさいと云われ、黄な粉餅ちをご馳走になった事がありました。帰りには道路の雪が踏みつけられ、所々が砂利道となりスキーを担いでの雪中での行軍となりました。スキー板と勉強カバンとを背負って帰るのが夕方になり疲れましたね。

ちんころたんころ
翌朝午前中は道路がアイスバーンになって歩きでさえ滑ってしまう程で学校は休みになったとを覚えています。路線バスはチエーンを巻いてノロノロ運転で交通はマヒ状態そんな記憶が頭に残っています。そんな大雪はそれ以来出会うことはありませんでしたが。

それから六十有余年あの頃の記憶は不思議なことに明確に残っています。何故なぜなんだろう・・・? 今、記憶を手繰り寄せてみると辿り着くことが出来た。それは流れる川の冷たさでしたね。長靴を履き慎重に足元を確認しながら「ちんころたんころ」の枝を手繰り寄せて持ち帰った。

お隣さんに3本を届け、我が家の仏様にも3本を供える・・「春はそこまで来てるよ」と 母からの一言あり!

 睦 月            八 大




















懸魚(げぎょ)の話

懸魚(梅鉢)
 懸魚とは主に神社仏閣の屋根に取り付けられた妻飾りです。水に強い魚の飾りを屋根に施して木造建築を火災から守るために日よけのマジナイとして取り付けられています。魚の身代わりを屋根に懸ける事の意として用いられました。同じように鯱(しゃち)や、氏尾(しびが)同類のものです。他にも似たものでは、魔よけを祈願する鬼瓦などがあります。 また、土蔵などの妻壁に水と書かれたものも同じ火伏せのマジナイです。

懸魚は取り付ける位置によって呼び方が変わります。中央にあるものを拝懸魚(おがみげぎょ)左右の下側にあるもの下側懸魚(くだりげぎょ)と呼びます。その他に唐破風につけられる兎の毛通(うのけとうし)と呼んでいます。

機能的には、屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということ、木造建築の場合には棟木や桁の端部を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味からも、建物を火災から守るために火伏の呪いとして取り付けられたということです。

猪の目懸魚
日本各地のお城や神社お寺等に見られるものは、その形状により猪の目懸魚(いのめけぎょ)蕪懸魚(かぶらけぎょ)梅鉢懸魚(うめばちけぎょ)三花懸魚(みつはなけぎょ)の名前で呼ばれています。

その機能としては屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということと木造建築の場合には棟木や桁の端を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味から、建物を火災から守るために「火伏の呪い」の意味が込められていると云います。

 睦 月           八 大










アメ横の話

年末の「上野アメヤ横丁」は毎年のことながら大混雑である。終戦後の闇市の名残りで終戦直後には東京も新橋、新宿、上野と三大闇市場が建ち、その他も渋谷、池袋と国電沿線の各処に闇市がありました。世の中が平静になるに伴い淘汰されて、東京上野のアメや横丁、大阪の鶴橋市場などに面影が残っている程度になりました。

先ごろアメ横を探訪して見てきましたが昔のような穴場ではなく、二、三級品の雑然とした雑貨物を売る店になっています。ただ、アメ横と云う人気だけで商いをしているだけに見える上野の闇市は、田舎から運んできた米、麦,芋などの物々交換の「路上市場」が国電のガード下に群がっていたのが始まりと云われています。

アメ横入り口
そのうちに進駐軍の闇物資を扱うのが主になり何回も「MP警察」の手入れを受け、ガード下の外に生鮮乾物魚店や菓子店として出るようになった。アメ横の元祖は今でもガード下の中にある舶来屋さんである。その界隈にあるゴルフショップが多いのはその名残であろう。アメリカにない物は上野のアメ横に行けばあるよと云われたことも。アメヨコの名称を飴屋横丁と誤解する人も多いが、元はアメリカ横丁であって、アメヨコはその略称である。

JR上野駅の不忍口(しのばずぐち)を出ると、交差点の向こうに「アメヤ横丁」という看板が見えます。ここから御徒町駅まで線路沿いに続いているのが「上野アメ横」。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。アメ横のエリアには400軒もの店があると云う。

『アメ横』は元々は”アメヤ横丁”と呼ばれていました。戦後の闇市があった場所で飴を売る店がたくさんあったことが名前の由来となっています。昭和25年以降になると、朝鮮戦争の勃発の影響もあって駐留米軍などからアメリカ物資がマーケットに大量に流れ込んできたと云う。アメリカ屋(実際にある)等のジーンズや革ジャンなどの舶来品を販売する店が多いからと思っていた方も多いと思いますが、その歴史は大変に古いんですね。

 睦 月             八 大