春蘭(しゅんらん)

春 蘭
 春まだ浅い厳冬の雑木林の中、目覚めたばかりの野生の春蘭が小さな花を沢山に咲かせ私を迎えてくれいます。この時季毎年のように春蘭に会いに栃木の山の中に出会いを求めて歩いていました。

春蘭は何時もの様に私を迎えてくれているようで暫くぶりみんな元気でしたかと声を掛けます。身を寄せ合うようにしてひっそりと咲くその姿は絨毯を敷き詰めたように咲いてくれる。目立たないように身を寄せ合いながら存在感なく咲き始めます。

シュンランは昔から、山野でごく普通にみられていたため、生活にも取り入れられていた身近な植物です。そのため、地域によってさまざまな呼び名があるようで、よく言われているのが「ジジババ」「ホクロ」などで、花びらにある斑点が老人の顔にあるシミに見立てて名付けられたと云われていますね。

大きな蘭ではありませんが、葉の陰に隠れて                 可愛らしく咲くところが魅力であります。                 「花言葉は飾らない心」「控えめな美」「気品」「清純など、どちらかというと 立たない花です。そんな中で、見た目が地味な姿には「控えめな美」という花言葉                もつけられています。


 睦 月              八 大





玉子 の話

昨年の夏ごろに玉子の値段が急騰して新聞紙上で大騒ぎになりましたね。その以前の卵は物価の優等生と云われて持て囃されていましたのに何で・・と叩かれました。その原因の一つは鶏インフルエンザが大流行毎日のように何十万羽或いは百万羽が殺処分となり卵の値段が上昇し大きな社会問題になりましたね。

田舎の親戚の 玉子
その昔、日本では殺生を禁ずる仏教の影響から西暦の670年頃、牛・馬・犬・猿・鶏などを食べることを禁じられたと云いました。その中には鶏の卵も含まれており日本におけるニワトリの立ち位置は長い間、愛玩動物だったと云われていたそうです

けれども、江戸時代になって無精卵が孵化しないことが分ってくると、卵を食べることは殺生に当たらないと解釈されるようになった。そのころから身近な卵料理が多数誕生したと云われています。それと同時に身近な養鶏も盛んになり急速に各地に広まったと云われています。

鶏は採卵のために品種改良され頻繁に卵を産みますが、今では毎日ではなく数日連続で産んで一日休むと云うサイクルをとっているそうです。なお、鶏は日が長い夏場に産卵が活発化するため、冬場の養鶏場では日没後に電気をつけて夏場だと錯覚させて産卵を安定させているとのこと。そんな裏話は知りませんでした。

 睦 月              八 大

早春の思い出

 栃木県の北部地方ではこの時期に小さな川のほとりで芽吹いている、ネコヤナギのことを「ちんころたんころ」と呼んで早春の生け花にも添えられていましたね。何とも可愛らしい姿は早春の先駆けとして各家々でも玄関先に早春の知らせとして飾っていました。何とも可愛らしいその姿は誰もが愛でておりました。

川の中の「ちんころたんころ」
春まだ浅いその頃は、二年に一度は大雪に見舞われ、中学校迄では雪の中をスキーを履いて1時間以上の雪道を歩いたことがありましたね。雪は膝ぐらいの深さでしたがバスも雪掻きが間に合わず学校に着いた頃には休校になった事もありました。

学校の先生が折角来たんだから良~く温まって(ぬくまって)餅でも食べて行きなさいと云われ、黄な粉餅ちをご馳走になった事がありました。帰りには道路の雪が踏みつけられ、所々が砂利道となりスキーを担いでの雪中での行軍となりました。スキー板と勉強カバンとを背負って帰るのが夕方になり疲れましたね。

ちんころたんころ
翌朝午前中は道路がアイスバーンになって歩きでさえ滑ってしまう程で学校は休みになったとを覚えています。路線バスはチエーンを巻いてノロノロ運転で交通はマヒ状態そんな記憶が頭に残っています。そんな大雪はそれ以来出会うことはありませんでしたが。

それから六十有余年あの頃の記憶は不思議なことに明確に残っています。何故なぜなんだろう・・・? 今、記憶を手繰り寄せてみると辿り着くことが出来た。それは流れる川の冷たさでしたね。長靴を履き慎重に足元を確認しながら「ちんころたんころ」の枝を手繰り寄せて持ち帰った。

お隣さんに3本を届け、我が家の仏様にも3本を供える・・「春はそこまで来てるよ」と 母からの一言あり!

 睦 月            八 大




















懸魚(げぎょ)の話

懸魚(梅鉢)
 懸魚とは主に神社仏閣の屋根に取り付けられた妻飾りです。水に強い魚の飾りを屋根に施して木造建築を火災から守るために日よけのマジナイとして取り付けられています。魚の身代わりを屋根に懸ける事の意として用いられました。同じように鯱(しゃち)や、氏尾(しびが)同類のものです。他にも似たものでは、魔よけを祈願する鬼瓦などがあります。 また、土蔵などの妻壁に水と書かれたものも同じ火伏せのマジナイです。

懸魚は取り付ける位置によって呼び方が変わります。中央にあるものを拝懸魚(おがみげぎょ)左右の下側にあるもの下側懸魚(くだりげぎょ)と呼びます。その他に唐破風につけられる兎の毛通(うのけとうし)と呼んでいます。

機能的には、屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということ、木造建築の場合には棟木や桁の端部を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味からも、建物を火災から守るために火伏の呪いとして取り付けられたということです。

猪の目懸魚
日本各地のお城や神社お寺等に見られるものは、その形状により猪の目懸魚(いのめけぎょ)蕪懸魚(かぶらけぎょ)梅鉢懸魚(うめばちけぎょ)三花懸魚(みつはなけぎょ)の名前で呼ばれています。

その機能としては屋根の両端の瓦のない部分を風雨から守るということと木造建築の場合には棟木や桁の端を隠すと云う意味があるのですが、その起源は水と縁の深い魚を屋根に懸ける=「水をかける」と云う意味から、建物を火災から守るために「火伏の呪い」の意味が込められていると云います。

 睦 月           八 大










アメ横の話

年末の「上野アメヤ横丁」は毎年のことながら大混雑である。終戦後の闇市の名残りで終戦直後には東京も新橋、新宿、上野と三大闇市場が建ち、その他も渋谷、池袋と国電沿線の各処に闇市がありました。世の中が平静になるに伴い淘汰されて、東京上野のアメや横丁、大阪の鶴橋市場などに面影が残っている程度になりました。

先ごろアメ横を探訪して見てきましたが昔のような穴場ではなく、二、三級品の雑然とした雑貨物を売る店になっています。ただ、アメ横と云う人気だけで商いをしているだけに見える上野の闇市は、田舎から運んできた米、麦,芋などの物々交換の「路上市場」が国電のガード下に群がっていたのが始まりと云われています。

アメ横入り口
そのうちに進駐軍の闇物資を扱うのが主になり何回も「MP警察」の手入れを受け、ガード下の外に生鮮乾物魚店や菓子店として出るようになった。アメ横の元祖は今でもガード下の中にある舶来屋さんである。その界隈にあるゴルフショップが多いのはその名残であろう。アメリカにない物は上野のアメ横に行けばあるよと云われたことも。アメヨコの名称を飴屋横丁と誤解する人も多いが、元はアメリカ横丁であって、アメヨコはその略称である。

JR上野駅の不忍口(しのばずぐち)を出ると、交差点の向こうに「アメヤ横丁」という看板が見えます。ここから御徒町駅まで線路沿いに続いているのが「上野アメ横」。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。アメ横のエリアには400軒もの店があると云う。

『アメ横』は元々は”アメヤ横丁”と呼ばれていました。戦後の闇市があった場所で飴を売る店がたくさんあったことが名前の由来となっています。昭和25年以降になると、朝鮮戦争の勃発の影響もあって駐留米軍などからアメリカ物資がマーケットに大量に流れ込んできたと云う。アメリカ屋(実際にある)等のジーンズや革ジャンなどの舶来品を販売する店が多いからと思っていた方も多いと思いますが、その歴史は大変に古いんですね。

 睦 月             八 大