鹿鳴館

 昨年の夏ごろ、日比谷公園の周辺をぶらぶらして帝国ホテルをのぞき込んでいた時、確かこの辺が鹿鳴館があった処だったことを思い出しました。そこには鹿鳴館の跡地を示す小さな額がポツンとありました。今は再開発の工事が行われており往時を忍べる物は全くありませんでした。 

鹿 鳴 館 
英国人j・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となる。館内には宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳士達を招待して連日のように園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれたそうです。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称されその外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれております。

舞 踏 会 の浮世絵
鹿鳴館と聞くと明治16年時の外務大臣、井上馨が賓客接待の社交場として日比谷に開設したものです。洋風の鹿鳴館は欧化主義の最先端をゆく鹿鳴館時代を演出したことが思い出されますね。この鹿鳴館の名は元々は中国に由来があり中国最古の詩集と云われている「詩経」の中に「鹿その食を得れば相呼びて取る」という、鹿の習性に                  ちなんだ一節があります。

詩の大意は、鹿は群れをなして山に棲息する動物であり冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の山中に餌を求めて彷徨い歩く日々が続く。雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達し、そんな折たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つける。その瞬間に鹿は貪りつくかと思うとそうはせず峰に駆け上がって悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べると云う。

この鹿鳴の詩は喜びを分かち合う鹿の習性を讃えた歌であり、野生の動物から学んだ教訓を言い表している。飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやリのない独善的な風潮が蔓延しつつある中、こうした自己中心的な社会からは真の幸福を求めることは出来ません。鹿鳴の声は我々に強く自戒を訴えているかに思える。

 如 月            八 大






        八 大     


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