カルミヤの花

我が家のカルミヤ
 カルミヤ アメリカシャクナゲ(石楠花)と呼ばれており明治時代に桜をアメリカに寄贈したお礼として渡来したものだそうです。別名をハナガサシャクナゲとも呼ばれ花の形を花笠に見立てたようで星形のつぼみも面白いですね。アメリカでは自生の植物でインデアンが根からスプーンを造っていたので「スプーンの木」とも呼ばれているそうです。

日本でも最近園芸用として栽培されておりましてよく見かけるようになりました。我が家でも20年ぐらい前から庭の片隅で1mほどの高さで一本だけ咲いています。ピンク色が一際目立っており、この時期だけですがお姫様のような扱いを受けておりいます。チョット見ると五角形の形は金平糖のようにも見えている時もあり懐かしさもあります。

花の形をよく見ると小さな五角形のパラソルがたくさん開いているようで何とも可愛らしいでね。花言葉は「大志を抱く」「爽やかな笑顔」「野心」とありますが、実はカルミヤの葉にはシャクナゲやツツジ科の植物にあるグラヤノトキシンと云う毒を持っており、誤って食べると下痢や嘔吐になりやすいので注意が必要です。そのためカルミヤは
安行の史跡巡りの途中で
別名「羊殺し」
という名前が付けられているそうです、それなりのご注意が必要です。

晩春の頃つぼみが膨らみこの梅雨の頃に掛けて一か月ぐらい少しずつ開いていくので色の変化もあります。長い間楽しませて戴いた上花が終わった後も散らずに少し茶色になりましたが春を見送っております。

安行の史跡巡りでは花と緑に囲まれて楽しい                     一日となり感謝の一日でした。

 令和4年 皐月          八 大




「初夏の風」川上澄生の版画

本棚を整理していたら一枚の絵ハガキが 出てきた、なんとこの清々しさは・・。

あれは確か30年ぐらい前でした、車で日光の田母沢御用邸を見に行くときに途中の鹿沼市を流れる黒川の近くを通りかかった際「川上澄生美術館」がありました。この辺りではあまり見かけることのない建物だったので美術館の中に入ってみました。薄緑色の版画が展示されており・・ なんじゃこりゃ? と思った記憶がありました。

初夏の風

 かぜになりたや 

はつなつのかぜとなりたや  
                         かのひとのまえにはだかり

かのひとのうしろよりふく

はつなつのはつなつの 
                         
かぜとなりたや 


川上澄生は父親の仕事の関係でアメリカやカナダにに滞在しその間当地の美術学校に学び、帰国してからは栃木県・宇都宮旧制中学校で英語の教師として赴任し、好きな版画や詩の制作にも打ち込んだ。大正11年に発表した「初夏の風」は版画と詩が一つの画面で響きあう独自の世界を作り出したという事で版画界で大きな反響を呼びました。

棟方志功が版画家になるきっかけとなったのは川上澄生の作品だったと云われています。


川上澄生詩と絵の世界



鹿沼市立川上澄生美術館








へっぽこ先生



波囲み南蛮船










 令和4年 皐月        八 大







「オシラ様」蚕の神様

オシラ様
オシラ様

初夏の今頃を皐月と云いますが「木の葉採りの月」という別名があり蚕のエサである桑の葉を摘む頃と云う意味です。養蚕は戦前まで日本では盛んでたくさんの桑畑が広がっており蚕は美しい糸をはいて繭を作りその繭から絹の糸が取れます。東北地方では蚕と家の守り神である「オシラ様」が広く信仰されております。


桑の葉
主に村の旧家などに祀られていて、生活に深く浸透している              であります。オシラ様は人形神で、ご神体は30センチほどの長さの桑の木で作られた二体一組の偶像です。その姿は馬頭、姫、男女、など、そのお顔は彫刻や墨書きなど様 々である。ご神体である桑の棒は、元々はオシラ様を宿らせ る道具から変化したもので、桐の箱などで大切に保管されて いたそうです。


「遠野物語」で有名な遠野市は岩手県花巻市の東側にありま
曲がり家
すが、昔から柳田国男がこの地方に伝わる逸話や伝承などを
蒐集したもので日本民俗学の先駆けとも云われており良く知
られております。この地方独特の「曲がり家造り」の旧家に
上がらせて頂いてオシラ様の話を聞いたことがありました。
ご神体を前にして老婆の語り口は何とも恐れ多い感じがして
ジッとその口元を見つめているだけでした。


絹織物の歴史 シルク素材は最も古い繊維と云われおりますが、何と紀元前の20世紀に中国で始めたと云われています。中国の皇女が当時「繭」で遊んでいた際に繭をお湯の中に落としてしまいました。しかしそれを拾い上げる時に糸を手繰ったことで絹糸つくりの最初だった事が伝わっています。また中国の甲骨文字に「桑」「蚕」「糸」「棉」などの文字が見つかっております。シルクを養蚕する技術は中国で発達しましたが国外に持ち出すことは禁じられていました。その為ヨーロッパの人達はどうにかして手に入れようとして中国との交易したそうです。その交易の道が「シルクロード」という言葉に繋がります。

シルクロード


現在では多くの布製品が化学繊維に変わっており国内で生産を続けているメーカーは生産コストが合わずに国内の養蚕家が少なくなっております。絹製品のほとんどは中国やブラジルなどにに変わっており日本のシェアは僅かに10%になっているそうです。時代の変化とは言え将来が心配ですね。


 令和4年 皐月         八 大








二十四節気の話 蚯蚓出(みみずが地上に這い出る)

蛙始鳴
「 みみず」は夏の訪れを告げ、畑の土を豊かにする上でも欠かせない生き物です。一昨日久しぶりに畑仕事でナス苗を植えようとすると早速にお目見えされたのが、あのニョロニョロとしたみみずのお出ましです。その名前の由来は手足もなく目もないその姿の「見えず」から派生したとされています。みみずは一生を土の中で過ごし細い体で這いまわり、土の中に含まれる微生物を食べます。みみずが排出する粒状の糞が植物を育ちやすい土質に作り替えるそうです。又みみずは漢方では解熱や気管支を広げることで咳を和らげる効能があるそうです。

蚯蚓出

季節を表わす言葉に春夏秋冬がありますがもう少し細分化すると「二十四節気」と云う言葉があります。春夏秋冬を更に6つに分けることで、1年を二十四に等分し、それぞれの季節に相応しい名がつけられています。季節の訪れを一歩先んじて察知することができ、農作業に従事する人には欠かすことのできない暦です。さらにその二十四節気の各一気(約15日)を約5日ごとに初候、二候、三候と3等分し、一年を七十二
に分けたものを「七十二候
竹笙生
と云います。                   

一年のスタートは立春から始まりますが、立夏の頃は二十四節気の内で最も過ごしやすい季節の夏が始まります。カエルの声が聞こえる蛙始鳴(かわずはじめてなく)、ミミズが動き出す蚯蚓出(みみずいずる)、タケノコが芽を出す竹笙生(たけのこしょうず)今がこの季節であり土の中ばかりでなく人の世界でも心をウキウキさせる季節になりましたね。

古代中国では陰暦が用いられ、日付が太陽の位置とは無関係であったので春夏秋冬の循環による暖・暑・涼・寒の訪れにズレを生じることになります。これを補うために日付とは別に季節区分法が必要になったそうで、つまり太陽の黄道上の位置、黄経三百六十度を二十四等分した位置にそれぞれの節気を配置して、一年の気候の推移を知るようにしたものだそうです。夏至、冬至、春分、秋分と立春、立夏、立秋,立冬の八節を合わせて暦と季節のズレを正しながら用いられていると云います。   (暦は難しいですね。)

 令和4年 皐月         八 大








 

遠藤さんちのバラ園

 春日部(藤塚)「遠藤さんちのバラ園」

 毎年、この時期に自宅を開放して皆さんにサービスしているそうです・





















ウクライナの近況と将来

 ウクライナと云う国

ウクライナ国旗
 ウクライナは東側をロシアに、西側をヨーロッパ連合(EU)の国々に挟まれた、人口4千万人を超える国で、面積は日本の1・6倍、耕地面積は農業国であるフランスの1・8倍もあり、小麦などの穀物や野菜などたくさんの農産物が生産されることから「欧州のパンかご」とも呼ばれます。国旗の青色は空を、黄色は小麦畑と二色で表されており、いかにも農業国であることを象徴しています。

 今の首都キエフに生まれた「キエフ公国」(キエフ・ルーシ)が10~12世紀に欧州の大国となり、同じスラブ民族からなるロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流になりました。ルーシとはロシアの古い呼び方です。13世紀の歴史で「モンゴルのくびき」については前号で述べましたので割愛しますが,その後に栄えたモスクワがロシアを名乗り、キエフ・ルーシを継ぐ国と称しました。ウクライナは東スラブ民族の本家筋ですが、分家筋のモスクワが台頭して大きくなったとも言えます。

 ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ東部で特別な軍事作戦を行うことを決めました。「兄弟国」とも呼ばれる、かつてのソビエト連邦(ソ連)の仲間を、なぜロシアは攻撃しようとするのか。その背景と経緯をまとめた。

 ウクライナは20世紀になると、世界で初めての社会主義国であるソビエト連邦(ソ連)ができ、広大な領土を持つ国となった。しかし、1991年にソ連が崩壊して多くの国に分かれた。ロシアもウクライナも、このときに独立しました。ただ、首都モスクワを含むロシアが人口の多さも領土の広さも群を抜いているため、ロシアのプーチン大統領は「ロシアが兄でウクライナなどが弟」という関係と見ていた。

ゼレンスキーとプーチン
独立して民主主義国になったウクライナは、ロシアと親しくしようという政権と西ヨーロッパの国々と親しくしようという政権の間で揺れた。2014年に親ロシアのヤヌコビッチ大統領政権が倒れるとプーチン大統領は軍隊を出して、黒海に突き出たウクライナ領のクリミア半島を占領し、強引にロシアに組み込んだ。さらにウクライナ東部(ドネツク州とルガンスク州)にいて独立を目指す親ロシア派の武装組織を支援し、ウクライナ軍との小規模な戦闘が続いてきた。今回のロシアの侵攻にはそういう伏線があったのです。

プーチン大統領が戦争をしてまでウクライナを従わせようとする大きな理由は、ウクライナがロシアとヨーロッパにはさまれた位置にあることです。ウクライナがヨーロッパの国々と親しくなり、北大西洋条約機構(NATO)に入ることになれば、プーチン大統領からすると、すぐ隣にNATO軍がいることになり心穏やかでない。プーチン大統領としては、ウクライナをNATOに入れさせないために、ロシアの言うことを聞く国にしないといけないと考えたとみられる。もちろん、ロシアの言い分が国際社会で通るわけがない。ウクライナがどの国と親しくしようが自由で、それを武力で一方的に変えさせようとするのは許されることではない。

米国、欧州の国々や日本などの多くの国は、ロシアに対して経済制裁を発動した。ロシア通貨のルーブルと外貨との交換を難しくしたり、ロシアが外国に持っている資産を差し押さえたり、ロシアの輸出品に高い関税をかけたりしてプーチン大統領の弱体化を図った。

ロシアの侵攻を通じて、浮き彫りになった問題が二つあると思います。一つは国連の弱さです、国連で平和と安全に責任を持つのは安全保障理事会だ。常任理事国は5カ国で、ロシアも入っている。実行力のあることを決めるには5カ国が一致して賛成しなければならないというルールがあるため、ロシアが反対すれば何も決められない。国連のしくみを変えて、国連の実行力をもっと発揮しやすくしなければならないと思った人は多いだろう。  もう一つは、核保有国が独裁的なリーダーのもとで戦争を始めたときの怖さです。ロシアは世界で最も多くの核弾頭を持つ国です、暴走するプーチン大統領はウクライナに対して核兵器の使用すら匂わせる発言をしています。このままでは核を持つことが自国を守ることに繋がると考える国が増えれば世界はますます危険な状態になっていく。確かに核戦争にならないことを危惧しているとは思うが、使えば使われることにもなり最後は自制心が働く事は自明の理であります。

この戦いでウクライナは多くの人命を失った事は大きな痛手であるが、長い目で見れば攻め込んだロシアの方が長期的には政治的・経済的・国際的にも孤立して行くことになるでしょう。時が経つにつれてロシアは国内の混乱が続いて行き貧しい国にななると思われ大きな代償を払う事になると思います。 ウクライナ頑張れ・ゼレンスキー頑張れ!

 令和4年 皐月         八 大






水角神社の富士塚

水角神社
春日部市の旧庄和町地区の国道四号線バイパス沿いの目立たない処に「水角(すいかく)神社」があります。水角なんて聞いたことがないと云われる人があるかと思いますが郡村誌によると当地は寛永年間(1624~44)から開墾され正保年間(1644~48)に水角村と称したと云われます。覆い屋の中には一間社造りの本殿には二社あり八坂神社とその後合併された八幡神社があり、その後にも稲荷神社も合併されたとあります。それから後に病人が相次いだことがあり祟りを恐れ合併を機に、社号を「三霊神社」と改めましたが更に大正六年に「水角神社」と改めたそうです。(このころは全国的に小神社の統廃合が行われたそうで、私の八丁目地内の香取神社も「香取・八坂・稲荷合社」とあります。)

水角神社の額
神社の裏手にある富士塚は万延元年(1860)に築かれたもので北葛飾地区では同じ町内にある宝珠花神社の浅間塚に継ぐ古いものだそうで、周りには沢山の石碑が建てられており往時は信仰が盛んだったことが伺えられます。またその中でも「丸岩講」と云う組織が当時盛んだったようであちこちに石碑が建てられていたようです。                           また富士塚(浅間塚)の始まりは安永9年(1780年)に江戸の高田藤四郎と云う人が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています

富士塚
先日、民家の裏手に居られた老女に伺ったところ、30年程前に国道のバイパスが出来ることで移転となりましたが目の前が浅間塚でしたので有難いと思っていました。当初は組内の人も手入れをしてくれましたが、年を取って来て儘ならなくなったので市役所にお願いして管理ををしてもらっていますが・・・・長年の風雪に耐えて、忘れられているような状態になっており悲しく何とも寂しい思いをしているそうです。

富士塚の説明
富士講(ふじこう)は浅間講とも云われ江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に                     を中心とした関東地方で流行したもので、                     修験道の行者であった男は常陸の国での修行                     を終え陸奥の国で岩窟で修行中、役行者より                     お告げを受けて富士山麓の人穴に辿り着く。                     そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立                     ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年                    (1560年)「角行」という行名を与えられた                 と云われる。

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。修行の地である人穴に接する「人穴神社」は主祭神を角行としている。その後盛んに石碑が建てられて現在でも230基の石碑塔群が残っており「人穴富士講遺跡」として知られています。

 令和4年 卯月         八 大







 














シバザクラ(芝桜)

シバザクラ(芝桜)は、春に小さな花を咲かせる多年草です。1つ1つの花は小さいですが、満開になると絨毯のように花が広がります。その美しい姿から、開花時期になると全国の名所にはたくさんの人が訪れますよ。先日、栃木県の市貝町の芝桜公園に足を延ばしてみましたが、この時期コロナ禍に飽きた家族ずれで大賑わいでした。

芝桜は北アメリカが原産で、地面を覆うように広がって育つハナシノブ科の多年草です。茎が立ち上がらないことから寒暑や乾燥にも強く常緑である為、芝生代わりに植えられているところもあります。白やピンクの小さな花を、4月~5月にかけて赤、薄紫、白の花を密集して咲かせます。桜と同時期に桜に似た花を咲かせることから「シバザクラ」と名付けられたと云われます。西洋では別名ハナツメグ(花詰草)とも云われています。

芝桜(シバザクラ)の花言葉は「合意」「一致」「臆病な心」で、小さな花を密集して咲かせる様子に因んでいますが、「忍耐」「協調」と云う言葉もあり小さいながらも沢山の花を咲かせる生命力に由来しています。

この広いシバザクラの絨毯の中を歩くと、意外にも今まで気づかなかった心地よい香りが漂ってきました。この匂い?この香りです!自然は季節を忘れず知らせてくれているのに気がつかなかった自分に恥じてしまいます、シバザクラの香りがあったんですね。残念だったことに初めての発見でした。そう言えば先ごろの音楽会でビオリラの音を聞いて忘れていた音の響きを感じることが出来ました。

ここで私事になりますが、自分で五感を刺激することで脳の疲れを取ることがイイらしいと聞いたことがありました。五感とは、ご存知の視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚のことで、それを意識して感じることで脳を鍛えることになるそうです。今年になって白内障での治療により視覚が回復しました。今回はシバザクラの香りで臭覚を堪能しました。味覚と触覚は日頃から身近に鍛えております。気になるのが聴覚の衰えが心配ですので意識して耳をダンボにしております。五感を意識していくと第六感(インスピレーション)も自然と身についてくるとらしく小さなことですが、時々予感を感じることがあります。

実業家・思想家でヨーガの修行者でもあった中村天風は霊感について五感を越えていることから「第六感」とも呼んだ。身近な例としては「虫の知らせ」と云うものがあると云います。もともと人間として生命を得たからには誰にでもこの感覚を持っているのだが、文明人になるにしたがってこの働きが弱くなってしまう。この霊感を磨けば無念無想になれると述べています。

 令和4年 卯月          八 大





















初鰹

しぶりに晴天が続いて気分が良いので散歩の帰りにスーパーへ立ち寄ると初鰹の表示あり。すぐに飛びついて大き目の柵を買い込んで包丁裁きはお手の物山椒の新芽を添えました。夕餉の席へ持ち込んで一献傾ける風情は自画自賛である。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」とはこの事なりと納得し岩手の地酒を手元にする。

この句は江戸中期の俳人山口素堂の有名な句がありますがチョット気になる事に気がつきました。プレバトの夏井いつき先生に云わせると季重なり(きがさなり)でボツになりそうですよね。こんな時はどんな受け答えをするのか興味がありネットで調べると答えがありました。俳句の中に明らかに「強い季語」と「弱い季語」があり、どちらが主役かハッキリしている場合は季重なりでもOKとなります。この場合には季語同士がお互いを邪魔しません? との答えでした。

鰹には旬(しゅん)が二度あります。「初鰹」「戻り鰹」の2種類があるのですが、初鰹は「春のかつお」として知られており、サッパリしているのが特徴です。初鰹は、南から北上する途中の3月頃から獲ることが出来るため、脂の乗りがイマイチでサッパリしているのが特徴です。

北上して行く鰹は8月頃に宮城県沖に移動して折り返し11月頃にかけて鹿児島に向かって南下して行くのが戻り鰹で、南下する途中で沢山の脂分を蓄えて行く為そのままでも美味しく食べられます。けれども高知のグルメと云えば表面だけ藁で香ばしくあぶり焼いた「藁焼きタタキ」の料理は豪快に食べられ本当に旨いです。ご存知の高知発祥の食べ方と云われています。

昨夕に食べた初鰹は旬に違いはないけれど残念ながら戻り鰹とは比べ物にならないもので「江戸っ子の心意気」を示しただけでした。

 令和4年 卯月        八大






 櫻 (日本人の心)

吉野の櫻
満開の桜に語りかけると「この処の寒の戻りで気分が引き締まります」と桜の精が答えてくれたようで引き締まった気分が味わえました。コロナ禍のお陰で世の中肩身の狭い思いが続いておりますがキリッとした感じも良いもんですね。さくらは美しいだけではなく日本人の心の中に住み着いているように感じられます。

私の紺珠の中にあります桜のメモを開いてみます。平安時代から現代まで、桜に魅了され続けて来た日本人の心を和歌で迫りたいと思いまして・・・・。

「世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平 世の中に桜などなければ、春は心のどかに過ごせるだろうにと云う反語的な表現で詠まれています。桜のことで落ち着かない心持ちを見事に表現していますね。

「久かたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」紀友則 陽がのどかに射している春の日に桜が咲いている美しい光景が目に浮かぶ、その桜の花は「しず心なく」散って行く。自分は、のんびりと静かに桜を見ていたいのに、そんな気持ちを理解せず、桜の方はなぜ散り急ぐのでしょうか。と云う口惜しい心持ちを詠んでいます。長閑(のどか)な陽の光の中に咲き、あっという間に散ってしまう櫻は日本人にとって人間の生と死の象徴を表わしているように思われますね。

「願わくば花の下にてわれ死なんこの如月の望月の頃」西行法師の有名な歌です。釈迦が入滅した旧暦2月15日の満月の頃に」という意味であります。西行法師は桜を愛し230首もの櫻を詠った歌を詠んでいます。その桜の下で死にたいという望みを果たすかのように、実際に旧暦の2月16日桜花の下で亡くなり世の人々はその不思議に驚いたと云います。その後西行の墓の周りには多くの桜の木が植えられたと云います。日本人は昔から桜の花と共に生きてきたのです。

「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花の在りかを」一休禅師の道歌として知られていますが、春になると満開の桜をまとう吉野山も冬には枯れ木のような木々が林立するばかり、花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても桜の花は見つかりません。

 令和4年 卯月        八 大













清明祭

「清明(せいめい)」とは 清く明らかなことで「清浄明潔」と云う言葉を略したもので「すべてのものが清らかで生き生きしている」と云う意味です。二十四節気の一つで、春分から数えて十五日目の陽暦四月五日ごろで万物に清新の気がみなぎる季節です。この時期南東の方から吹く心地よい風を清明風とも云うそうです。

清明は沖縄地方での三大行事の一つで春先の清らかで生き生きとした様子を表わした「潔」という言葉を簡略したものです。また清明祭(シーミー)とも呼ばれ先祖の墓前にお重と料理を供えて宴を開き、供養と親族の親睦を深める行事です。お供えする料理は地域により異なりますが、天・地・海を象徴するもので、鶏肉、豚の三枚肉煮付け、赤い蒲鉾など日持ちのしやすい物を重箱に詰めます。気候もいい頃でピクニック感覚で楽しむそうです。

沖縄地方では一族全員が同じ墓に入る伝統があり必然的にお墓が大きくなります。そのため宴の規模が大きくなり各地で賑やかな清明祭を見ることが出来ます。この行事は十八世紀に中国から伝わったそうです。当時は農作業の始まりのこの季節に祖先の力を借りるためだったそうですが、広まるにつれて先祖祭りへと変化していったと思われます。 

また本家の中国でも「清明節(せいめいせつ)」と呼ばれる祝日であり、 このはお墓を掃除して墓参りをするため「掃墓節(そうぼせつ)」とも呼ばれています。 日本でいう「お盆」に当たるで気候もすっかり温暖となり、桃やスモモの花が咲き柳が緑にけむって清明と呼ぶにふさわしい季節です。唐時代以降,郊外に出かけて春の青草を踏んで遊んだり酒の宴を開く事を「踏青(とうせい)」とも云われ新鮮な緑へのあこが感じられます。

 令和4年 卯月          八 大






浄源寺の春

 浄源寺に春がやって来ましたよ~~~

         お寺のあちこちで待ちわびた春のお花が咲き誇っていますよ!

裾摺りの櫻
見上げる櫻




馬酔木





クリスマスローズ

ゆきやなぎ
椿
枝垂れ桜
岩槻・浄源寺の山門

令和4年 弥生            八大    











長命寺の桜餅

<山本や>
 春の花の四番バッターは何と云っても「桜」です。日本人の心に宿している桜の花がやっと開きました。此のところ新型コロナ問題や急遽出てきたウクライナ問題等が世の中を陰湿ムードに押されていますが、待望の桜の開花で明るさが出て来ました。毎年待ちに待った桜の開花です、気象庁の職員が誇らしげに開花宣言をする姿を新聞やテレビもこぞって取り上げるのも桜以外では考えられません。 

東京隅田川に架かる言問橋・櫻橋の傍に長命寺桜餅の<山本や>があります。随分昔の話になってしまいますが何とも言えない桜葉の香りが忘れられません。辛党だったのに甘党でも行けるんですかと云われても・・・何でそんなことを言いなさるのか?物によっては両党づかいと云う事もあります。何とも贅沢に桜の葉を三枚も使った桜餅です薄皮に、こし餡と塩味のある葉が合わさり何とも上品で美味しい。

長命寺の桜餅
当時の親父さんの講釈を聞いた事がありましたが、長々と蘊蓄を聴かされました。葉っぱと云うけれどこれは大島桜の葉で伊豆大島をはじめとする伊豆諸島や房総半島などで自生するものを採取し塩漬けにしたた物で、大きくて柔らかいのが特徴だそうです。今でもその光景は頭に残っております。花は染井吉野よりも白くて大きく可憐な姿と香りの良さから「純潔」・「優れた美人」という花言葉があります。海沿いが自生地なので潮風に強く丈夫な品種なので街路樹や公園樹にも用いられることも多い。

桜餅の由来 江戸時代、長命寺の門番だった新六と云う人が隅田川沿いの桜から落ちる葉を惜しんで、何かに活用できない物かと考えていました。そこで葉っぱを塩漬けお餅を包んで売ったところ、それが人気を得て「桜餅」の発症になったそうですよ。

関西の道明寺
関西に多い道明寺の桜餅 元々は保存食。 関西の桜餅は道明寺粉(大阪にある真言宗の尼寺道明寺で作られていた保存食が元になっている)で作られているものが多いそうでもち米を一度蒸した後で乾燥させて2つ~3つ割りにしたもので、これを色付けしたもので餡を包んで作るためお米の食感が残りつぶつぶとした皮が特徴です。どちらが美味しいかは食べてみることですネ。

 令和4年 弥生        八 大




お彼岸参り

牡丹餅(ぼたもち)
 今日はお彼岸の中日です。暑さ寒さも彼岸までと云う言葉がありますが彼岸会は春と秋にの2回あり季節の大きな節目でもある仏教の法会のことです。お彼岸には寺院へ詣でたり、お墓参りをしたりする期間ということは広く知られていますが、牡丹餅の思い出は皆さん持っていますよね。

この風習はインドや中国には存在せず、日本独自の習俗が仏教と結び付いて生まれた考えられています。一説には聖徳太子の頃に始まり、平安時代から江戸時代にかけて習慣化、年中行事化したといわれていますが、起源については定かではありません。

また、彼岸会の期間中に行う「六波羅蜜行」(6つの実践修行)という仏教の修業のことであります。経典ですので言葉が難しそうで、入って行けそうに思えませんが内容は基本的な修行を分かりやすく説明してあります。仏教の基本を示しておりますので下段に示します。

「布施」 人の為に見返りを求めず良いことをしたり施しをする        「持戒」 自ら戒めながら規律を守り規則正しい生活を送る          「忍辱」 如何なる屈辱を耐え忍び寛容な心を持つ                「精進」 怠けの心に打ち勝ち目標に向かって前進する           「禅譲」 心の乱れと動揺を鎮め、静かな心で審理を思惟する        「知恵」 正しい行をする為に仏の正しい知識を身に付ける   

6つの修行からなる行の事です。彼岸会の期間中、中日はご先祖様に感謝し、残りの6日間はそれらの修行を一日一つを行う事で、仏の悟りの境地である彼岸に近づくことが出来るとされています。

西国三十三所第17番札所に六波羅蜜寺という真言宗のお寺がありますが、空也上人のお寺があります。そうです口から6体の阿弥陀像が空也上人の小像が吐き出されています。その阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し念仏を唱えるさまを視覚的に表現しております。 6体の小像は針金で繋がっています。

 令和4年 弥生        八 大

一汁三菜の日

3月13日は「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」の日です。 3月に限らず毎月13日は「一汁三菜の日」に制定されていますが、これは13(じゅうさん)の読み方が、一汁三菜に似ていることから来ているとのことです。

一汁三菜はもともと室町時代に確立したと云われ、江戸時代に発展した本膳料理の基本となるもので、ご飯に汁物、なます、煮物、焼き物が付きそこに香の物が添えられるのが通常で、ご飯と香の物は数えないことから、一汁三菜となるそうです。かつて和食は一人ひとり独立した膳で食べるのが一般的で、家庭で食べる日々の食事のことを一汁三菜と呼んでいたとされています。

一方、食文化の頂点に立つおもてなし料理は、室町時代に武家社会で確立した「本膳料理」(一の膳、二の膳、三の膳と順番に膳に載せた料理が出される方法は、小さな膳(銘銘膳)に載せる料理の数に限界があるため、膳の数を増やしたと考えられます。江戸時代には「二の膳つき」(二汁五菜)が定着し食べ切れない料理は持ち帰ったそうです。

一汁三菜の献立には5大栄養素「炭水化物・脂質・たんぱく質・ミネラル・ビタミン」がすべて含まれているのが特徴で健康維持に必要な栄養素をバランスよく含まれていることから現代人の食生活でも理想とされています。仕事やライフスタイルの変化で何かと乱れがちな食生活ですが13日の「一汁三菜の日」には日頃の食生活を見直しをしてみませんか。

 令和4年 弥生          八 大