中秋の名月

そろそろ今年も中秋の名月がやって来ますが今年は924日です。
「中秋の名月」とは、太陰太陽暦の815日の夜に見える月を云いますが農事暦との結びつきで、「芋名月」とも呼ばれています。
平安時代に中国から伝わった風習は今でも私達日本人の心の中に身近に残っています。今年は924日が中秋の名月で翌日の925日が満月と1日ずれているそうです。今年のように、中秋の名月と満月の日付がずれることは、しばしば起こるそうです。この時期の「お月さん」は晴れていればて、明るく神々しく見えて自然と襟を正して祈りたい気分になります。また、「十三夜」を「豆名月」「栗名月」とも呼ばれており子供の頃を思い出しますが今年の十三夜は、1021日です。
先ほど、今朝のテレビで月旅行が現実になる夢のような話が飛び出してきました。
米宇宙ベンチャー「スペースX」の最高経営責任者(CEO)が昨日、月周回旅行計画について、2023年に実現すれば民間人として初めての月旅行になる事を発表した。時速3,000㎞の速さで6日間の月往復で月の裏側を見てくるという夢のような計画が発表されたことは、何の知識のない小生には「それって「・・・・・どう云うこと」?
今改めて今宵の月に思いを馳せる。

      平成309月          八大




重陽の節句 (九月九日)
 
Kiku yellow01.jpg 旧暦の九月九日は」重陽の節句にあたり別名「菊の節句」ともいいます。平安時代の宮中では邪気を払い長寿を願うため菊を浮かべた酒を飲む風習ありました。天武天皇の重陽の宴を開いた記録もあり、又江戸時代でも大名が江戸城に登城した時には菊花酒でお祝いしたそうです。一方で庶民たちも「お九日」(おくんち)の頃に合わせて収穫祭と称して菊酒の宴を開いていたそうです。長崎では毎年十月九日から行われる「長崎くんち」が特に有名です。
中国では月と日の数字が重なるのを忌み嫌い、その日は邪気を祓って神を迎える風習がありました。それがいつしか「節句」と呼ばれ日本でも定着していった。」中国では奇数が陽なので「九」はその最大数にあたり九月九日は「重陽」と呼ばれています。
 人々が菊花酒を飲むのは菊が霊力を持った不老長寿の花とされているからで、菊の花の香りを移して菊酒も飲んでいたそうです。
重陽の節句は別名「菊の節句」ともいい
ます。
キク 洋菊 スプレー菊中国では邪気を払い長寿の効能があると考えられていましたがっていましたが日本でも菊を飾った宴が開かれ、菊を愛でたり、酒に菊の花びらを乗せた「菊花酒」を楽しんだりしたのです。また菊呉茱萸(ゴシュユ)の実を入れた袋を肘に持ったり、郊外の小高い丘などを選んで菊の花を浸したお酒を飲むことにより厄払いをする「登高」と云う行事もありました。
それに比べて重陽の節句は、菊を鑑賞し、菊花酒などを楽しみながら無病息災や長寿を祈るという、静かで、悪く言えば少し地味な節句であるとも言えますが、しかし菊花は天皇家の紋章であり、最も高貴な日本の国花 なのですから、
はり五節句の中で最も重要な節句
と思いますね。

                       平成309月9日      八大








 虎ノ門の云われ 大逆事件

    江戸城の西に虎之御門と云われる立派な門がありました、当時は青龍・白虎・朱雀・玄武の四獣神が四方を守るという考えがあり、青龍は東、白虎は西、朱雀は南、玄武は北がふさわしいとされていた。 これにちなんで江戸城の西に位置していた門は、白虎の「虎ノ門」と名付けられたといわれている。その後の交通事情から明治6年に今の場所に移り現在に至っています。
文部科学省の正面脇のここ地下鉄虎ノ門駅を出たところにその由来が石碑に書いてあります。目立たない小さな像ですので見落としてしまいそうになりそうです。

 大正12年12月27日時の皇太子裕仁親王が摂政として通常議会の開院式に出席するために皇居を出て5分後虎の門前を通過中群衆の中にいた難波大助(無政府主義者)が警戒線を突破して、ステッキ仕込み式の銃で狙撃した。銃弾は皇太子には当たらなかったが車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長が軽傷を負った。
 警護の中にいた私服警察官が飛びついて押さえたそうですが民衆も加わっていた為、誰が犯人なのか大混乱したそうです。(大逆事件)



  世の中は関東大地震と云う未曾有の大災害の直後に加えて左翼人や無政府主義者の横
 行などもあり大混乱を呈しておりました。年を越した10日後新年早々に山本権平内閣
 は総辞職が認められ清浦圭吾内閣が発足しました。
  難波は逮捕された後大逆罪で起訴され大正13年11月13日に判決が確定、3日後の15
 日に死刑が執行されました。その後も親兄弟は勿論の事親類縁者は勿論の事、学校の卒
 業生に至るまで広範囲な取り調べが続いたそうす。
  
  
                     平成30年8月        八 大














「わたあめ」の思い出
 この暑い季節に「わたあめ」の話とは如何なものとは思いますが?


「綿の木」の画像検索結果今年の夏祭りは終わりましたがお神輿や山車に繋がりながら子供たちは「わたあめ」に群がる、何故かあのふわふわ感が楽しくて今でも人気がありますね。

綿が取れることで知られる綿花はアオイ科の多年草で、夏にハイビスカスに似た形の淡い黄色い花を咲かせますが、これが綿の花とは云われてみても実感しません。 花は一日で萎んでしまいますがその二か月後ぐらいに硬い殻の中から真っ白い綿がはじき出されるようにして飛び出して来ます。不思議な花ですね。

「綿の木」の画像検索結果この綿を取り出し繊維として衣類などに活用されて無くてはならない布ですが、紀元前五千年ぐらい前からメキシコで栽培されていたことの痕跡が発見されていたそうです。

古代のギリシャ人はこんな不思議な花を見たことがなかったので「羊毛が生える木」があると云ったそうで後で大笑いになったそうです。

盛んに栽培されるようになったのは案外新しく十五世紀頃になってからで食用の油(綿実油)としても大いに活用されているのはご存じのとおりです。最近では園芸用としても人気があり鉢植えにして楽しんでいる仲間がおります。
                        平成308月       八大 


 縄文のヴィーナス

 「一万年の美の鼓動・縄文」展
kokuhodogu
縄文のビーナス
土偶と一言で云うけれど3,000年~5,000年前の彫刻作品になる訳で、只々貴重品で素晴らしいものですね。
 縄文時代の火焔土器を見て岡本太郎が「芸術は爆発だ」と云って絶賛したことは良く知られたことでしたが素晴らしい物を改めて見ました。


 国立博物館で縄文の展覧会が開催されていますが、5,000年以上も前の本物の土偶や土器などが展示されています。考古学に興味のある方にとっては大変に貴重な発掘
kokuhodogu
仮面の女神
品ですね。

 あの時代に何を思ってこれらの物を造り出したのか「国宝だから素晴らしいんじゃなくて、素晴らしいから国宝なんだ」と今改めて本物に対峙して観ますと何故素晴らしかったのかが分かるような気がします。

 縄文時代の土偶とですから素朴で荒々しいことを想像しますが、一つ一つを見ますとよく観察されており芸術作品
kokuhodogu
合掌土偶
です。
狩猟採取の生活が長く続いた様ですが、こんな時代に生まれた縄文人たちはどんなことを思っていたんだろう、物の本によるとその時代は平和な時代が長く続いたとも聞きましたが。
 縄文のビーナスに対面するとあまりにもふくよかで圧倒されます。お腹の膨らみ具合からして妊婦であることが一目でわかりますし,おおらかな姿からこの時代では平和な時代が長く続いたのではないかと想像できますね。
kokuhodogu
縄文の女神

 現在の私たちは健康第一を合言葉に長命を願ってきた結果
が、血圧が高いの血糖値がどうのコレステロールが高いのと
こうのと悩んでいますが、健康は目的ではなく手段でありま
す、その先に何をしたいのかを早く見つけられるとイイです
ね。
 本当の平和で楽しい生活はあの頃だったのかも知れないと
思いますね。



(国宝の土偶が勢ぞろいしました)
kokuhodogu
中空土偶



     平成30年8月         八大













 槿 (むくげ)


この時期あちこちに今は盛りと槿の花が咲いていますが、朝に咲いて夕に萎れる槿は日本では儚さの象徴とされますが、韓国の国の人々は苦難をしのいで発展していく民族や国民の姿を花に託しているように感じます。
一輪の花は短命ですが一つの木としてみれば次々に咲いて秋まで果てることはないのです。

だが思い出すのは韓国ではムグンファ(無窮花)とも呼ばれて2,013年には親子二代にわたり大統領になったパククネ(朴槿恵)になりましたが、セオウル号等の大事故や政権をゆるがす大事件に発展して政権の座から引きずり降ろされることがありました。

アオイ科の芙蓉族の落葉樹で別名モクゲとも呼ばれている。過去の一時期には短命な花と云うことで「きらい物」「嫌花」として祝儀の席などでは避けるべき花として挙げられていた時期があったと云われたそうですが最近ではその清楚な姿が見直されているようです。

ムクゲは花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている。この語句が「わずか一日の儚いの意に取られて、「槿花一日の栄」「槿花一朝の夢」といったことわざをも生んだ。

俳句では秋の季語であるが、松尾芭蕉は
     「道のべの 木槿(もくげ)は馬に くはれけり」
                という句を詠んでおり、

小林一茶も、
     「それがしも 其の日暮らしぞ 花木槿」
                 という句を詠んだ。

またアララギ派代表的な歌人斎藤茂吉は・・詠む

雨はれて心すがしくなりにけり 窓より見ゆる白木槿(しろむくげ)はな」と

                            
                                      
                       平成308月       八大










 


トキメキを感じよう
       (キメキとは 期待や喜んで胸躍る状態の事)

チコちゃんに叱られる

 歳をとると何故一日が早く感じるのか、不思議に思ったことはありませんか。一日の時間は皆な同じなのに、子供の頃は一日中遊んでいても時間が足りなかったのが、この頃では何もしないうちに時間が経ってしまう。何が違うのか?
 今を時めくNHKテレビで人気の5歳児チカちゃんが教えてくれました。
 その答えはトキメキが無くなっているようです。

バカ言ってんじゃねえよ!
 ボ~ッと生きてんじゃねえよ!
 時間とは心が感じている精神的時間と、時計で決められている物理的時間があるらしい。
 人の話が長く感じられるのは時間を気にしている時には何となく長く感じられる。
 その一方で子供の頃は時間の経つのが遅かった、これは誰しも子供の頃の方が身体の代謝が活発だからなので時間が短く感じられる。

 例えば50歳の人間にとって一年の長さは人生の50分の1程ですが、5歳の人間にとっては5分の1に相当します。それは5年しか生きていない人間にとっては、1年は長い時間となりますよね。
「現在進行している時間の体感速度」ではなく「過去を触れかえった振り返った時に感じる時間の長さ」の印象です。

 新しいことをたくさん覚える若いうちは時間が長く感じ、経験を積んできて記憶することが少なくなると時間が短くなるという説もあるらしい。

 毎年1年を振り返った際に、充実感や満足感をしっかりと実感できる、そんな生活を送っていれば年齢に関係なく、時間は平等に流れてくれるでしょうね。

                 平成30年7月         八大
   










 玉川上水

羽村取水堰
このところ全国的に猛暑日が続いておりますので、東京の水道について玉川上水のことを調べてみました。
 徳川家康は江戸の城下を作るにあたって水の確保を重視し、天正18年(1590年)大久保藤五郎に小石川を水源として神田方面に通水する「小石川上水」の工事を命じた。
取水口
その後江戸の人口の増加が加速したため承応元年(1652年)江戸幕府は多摩川の水を江戸に引き込むとして羽村に取水堰を計画した。庄右衛門と清右衛門の兄弟が現地調査から工事計画と設計施工を請け負うことに決まった。準備万端を整えると1653年4月に着手し羽村の取水堰から四谷大木戸まで約43㎞の区間をわずか8ヶ月で完成させた事が分かる。
小平付近
羽村の堰から四谷大木戸までの高低差は92ⅿであったから100ⅿ当たり僅か21㎝の落差を自然流加方式で到達させると云うもので当時の流技術水準の高さを示すもので当時としては画期的な大工事であった。
 現在でも玉川上水として拝島・小平・小川橋・桜橋・小金井・三鷹・井の頭公園の近くを通ったところに当時の様子を伺うことが出来ます。
 その後、水門を作り虎ノ門まで地下に水路を延長し、江戸城を始めとして四谷、赤坂、京橋方面に給水管を延長していった。
工事に尽力した兄弟には褒賞として玉川の姓を名乗らせたという。その後昭和33年には、ゆかりの玉川の地に銅像が建てられている。


井の頭水源
全体の説明会書
四ッ谷大木戸の碑














 平成30年7月         八大













水神信仰 全国各地に

七月上旬から降り続いた西日本大水害は平成に入って以来の大災害となったことは、改めて水による災害の恐ろしさを思い知らされました。アマゾン河のポロロッカで知られているような、河の本流から支流に向かって逆流していく様は日本では考えられなかった異常現象でありました。

古来日本人の自然崇拝の考え方は太陽神をはじめとして風、火、水・・の神様に対しての畏敬の念が表れていたものがありますが、特に身近な信仰としての水神様は人間が生きていくうえで最も大切な事であったと思います。

兵頭神社の水龍頭
以前、水道の蛇口はなぜ蛇の口と書くのかということを調べていると全国各地に龍神或は水神伝説が残っていました。それぞれの水源から集められた水は水道管を通して各家庭の端末の蛇口に届けられます。現在では当然のように思われていますが、各部落毎に水路の掃除や水争いなどもあり大変な時代がありました。末端の口を蛇口と云うようにそこには龍神さんが居ていつも綺麗にしておくものだと親から言われたものでした神社やお寺などでは蛇ではなく龍の口から水が出るようになっているところも多くありますが、中国では水龍頭というそうです。

どうして「蛇口」と云う言葉がつけられたのか?また「蛇口をひねる」ではなく「蛇口のハンドルをひねる」が正しいのでは?蛇口とは・・水道管の先端に取り付け、水の量の調節や開閉するための金属製の道具であり、明治20年頃の横浜で、近代水道が給水を開始したのが始まりだそうです。道路の脇に設けられた共用栓から水を出す英国式は、ヨーロッパで水の守護神が「ライオン」だったため水道の口に取り付けられていたようです。日本で共用栓を作るようになるが日本や中国では水の守護神と言えば「龍」であり空想上の生き物で、その元になったのは「へび」である。それを「蛇体鉄柱式共用栓」と呼んだそうです。時代は流れ共用栓が専用栓へと変わりその後、蛇体鉄柱式共用栓の先端部分を子供(龍の子)という意味で「蛇口」と云った。その蛇口は守護神として侵してはいけない領域で人が生きていくために守るべき大切なものであるといった意味がのせられていたようです。そういえば神社の手水は龍の口から水が出ています。あれが大元と考えられるわけですね。そんなわけでヘビのようだから蛇口と云う言葉ではなく水をひねり出す道具全般に使われるようになりました。忘れてはいけないのは、毎日守護神様のおかげで有り難く水が頂戴できるという感謝の気持ちを持つことですね。              

ここで一言  蛇足と云う言葉について 昔、中国の楚()の国で、蛇の絵を早く描く競争をした時、最初に描き上げた者がつい余裕に任せて足まで描いてしまい龍になってしまい負けとなってしまった。付け加える必要のないものを足したことで「蛇足」、無用の長物と云われる。 

                      平成307月        八大 































春日部駅現状に一言

この頃東武スカイツリーラインの電車が見違えるほど垢抜けしてきたと感じませんか? 「けごん号」や「きぬ号」だけでなく一般の通勤電車も型式やカラーや車内の雰囲気も以前とは比べ物にならないくらいスマートになったことを感じます。私達が利用している電車が気分よく爽快でいられる事はありがたいことです。

一方北越谷から北千住までの高架化については十年以上前に完成しておりますがその先の春日部駅の高架化については全く進展がないようでしたが、ようやく先ごろ駅の高架化についての説明会があったようです。今のところ平成三十一年度中の着工を目指すような記事が書かれておりました。

一歩前進ではありますがそこからの工事期間がなんと十年以上かかる計画ですが、春日部駅の完成は、遠い先の話になっていまいます。そのうえ駅の東西通路が開通できていない状態が長く続くことは駅の利便性を考えると大きな問題でありますが 何とか半分の五年ぐらいで実現 できないものか当局に再考を戴きたいと思っています。

また駅東口側商店街の空洞化の現状も問題です、市の人口も数年前から二十四万人を大きく割り込んで元気のない春日部市になっており衰退の一途をたどっております。

こういう問題はただ傍観しているだけではなく、少しでも多くの仲間に声を掛け合って行動に移すことが急務です。今年の始めごろ日工大の学生グループが春日部の旧街道筋の街並みを保存していくことでインスタバ絵に繋げる計画を始めている話を聞きました。意気込みのある人の中から始められればいいなと思っており、若い人たちに交じって私で出来ることがないのか思案中です。


「春日部駅の鉄道高架化の一刻も早い実現を」!

                       平成30年7月        八大

追伸です

先日羽田空港へのアクセスについての話あり
来年度から十年間で羽田~東京間に新幹線を開通させるとの新聞発表がありました。




JR東日本が計画している羽田空港アクセス線は、羽田空港から東京貨物ターミナル駅まで新線を建設、そこから休止中の東海道貨物線(大汐線)を活用して田町駅付近で東海道本線と合流、上野東京ラインを介して宇都宮線高崎線常磐線方面に直通する「東山手ルート」、大井町駅付近で東京臨海高速鉄道りんかい線と合流、新宿駅方面に向かう「西山手ルート」、東京テレポート駅でりんかい線と合流、新木場駅京葉線方面に向かう「臨海部ルート」の計3ルートを建設するとしている


ご提案の新線計画ルート素晴らしいですね。
地域の皆さん達の声も成田よりも羽田を望む声が大きいです。
ご返信を有難う御座います、御社の益々のご活躍を期待します。 
                    令和7年  八大







「リハビリの散歩道」

 私は生涯で初めての大病を経験してリハビリを受ける身となりました。
リハビリとは機能回復訓練と訳されますが、人間らしく生きる権利の回復のために、理学療法士「PT」作業療法士「OT」言語聴覚士「ST」の専門分野に分かれているそうです。ここでの様子の一部をお話しします。

PT」のリハビリはT先生との組み合わせが多く、私の様子を伺いながらいつも半歩遅れて歩みを観察して頂いていました。私はマイペースながらの速足でご迷惑をかけてしまったなと自戒しております。
病院の玄関を出る時に今日の道順と信号待ちや、車への注意がありますが一番距離の長いSコースを歩くのが常です。

玄関を出て右に曲がって工事中の看板を横目に見て家並みを過ぎると畑に出ます。市民農園のように区切られている様ですが、いろいろな種類の野菜が植え付けられている。ホウレンソウや茄子やジャガイモの他、紫陽花や菖蒲やマリーゴールドの花が賑やかに配置されており持ち主の思いが込められているようで楽しい。
眺めながら右に折れてラーメン屋を過ぎると称名寺の山門前で(南無阿弥陀仏)と一礼して塀沿いに歩くと、信号待ちの車が並んでいて注意して通らないと危ないところがある。私が歩くルートで最も注意が必要なところです。
その先には農家の庭先に手入れが行き届いてまだ青いミニトマトがびっしりと実を付けており、隣の列にはサヤエンドウが髭を伸ばして陽を浴びている。

まもなく行くと飛び超えられそうな幅の用水路がありそこを過ぎると花菖蒲が水面に映って水郷気分を味わえます。その水面に動く影あり、じっと見つめているとそれは握りこぶし程の亀が浮かんでいる。最近は何処にでも顔を出していて見向きもされなくなったあの外来種のアカウミガメである。
用水路が100Mぐらい続きますがそこからは一級河川になりますが、この辺りは川幅が広く緩やかな流れは大河の風格があり私が一番のおすすめの場所でもあります。川岸に近づきしゃがみ込んで見ると葦原の陰に2~3人の釣り人の姿があり太公望の雰囲気を味わっているかのようです。
歩を進めると大勢の幼稚園児たちが教室に向かうのでしょう、弾んだ声がバスの中よりあふれ出ています。久し振りに聞く元気で可愛い子供たちの声天使のささやきの様に聞こえて私が励まされている思いでした。

この2ヵ月間という長いようで短い間ではありましたが、新緑の芽吹き・農家の春作業の光景・幼稚園児からの声に励まされ心癒された時間でしたが、何とか修了することが出来ました。「リハビリの散歩道」Sコース40分間は楽しい思い出として過ごすことが出来ました。感謝・感謝・感謝です!


           平成306月       八 大



 
夏安吾(げあんご)

 三十年ほど前になると思います、小雨の降る法隆寺を訪れた時の事でした。法隆寺西室の入り口で留守居番らしき老人と傘を差しながらの立ち話をしていると今、立松和平さんが来ているよと云われて西院の講堂を覗きました。衣を着た二十人ほどの若いお坊さんが講義を受けていたので、隅の方で私も耳を傾けて聞いてみると難しい熟語をやさしく解説をされていたのが印象に残っていました。黒板には夏安吾の文字があった。

法隆寺
 インドでは6月~9月頃が雨期になるそうです。雨期には川が氾濫したり交通が困難になりますがこの頃には草や木や虫が良く成長する時でもあります。この頃には外に出ることは控えて農作物の新芽を痛めたり可愛い虫たちを踏み潰さないようにあまり出歩いて踏み潰さないようにしない為に出歩かないことが良いと教えられます。
 そんなときにはお寺や洞窟にこもって修行に専念するそうで、その事を安吾と云いますが安居中の食事や身の回りのことは在家の信者が世話をしてくれ、修行者から説法を聞くことを習いとしました。この安居のための居場所が、お寺の始まりとも云われています。


 日本にも安居は伝えられましたが形が変わり、夏安居のほかに秋安居や冬安居などが生まれ、国土安穏や無病息災を祈る形式が多くなりました。その期間は宗派により異なり、一定していませんが、夏安居は旧暦の4/16~7/15日の三ヶ月間が基本とされています。
 日本の安居は天武天皇12年(683年)宮中で行われたのが最初といわれています。延暦25年(806年)には桓武天皇の命により、15大寺と諸国の国分寺で安居が行われ、官寺の恒例行事となっていたそうです。

          平成30年6月                八大


   


「草上の昼食」クロードモネ
                        
 過日、東京都美術館にクロードモネの大作「草上の昼食」を見る機会があり覗いてみました。印象派の画家クロード・モネは「印象・日の出」や「睡蓮」であまりにも有名ですが、今回の作品は初来日と云うことですが縦1・3ⅿX横1・8ⅿの大作です。
 18世紀の産業革命で裕福になった都会人たちがスポンサーになり肖像画などより身近な題材を描くようになったことでテーマに広がりが出ているようです。
そんなお金持ち階級の人たちを描いた作品は登場人物がおおらかで、着ている洋服からも楽しさが浮かび上がってきている。
 題名の「草上の昼食」は緑の林の中で大勢の仲間たちが着飾って昼食会になったいるようで一部の人が日陰になっているところなどは偶然の一瞬を描いているそうです。
 また荒いタッチでありながら色彩感覚はみずみずしさを感じさせます。
ゆっくりと鑑賞するのもたまには良いものです。

 印象派の名前の由来となった『印象・日の出』はモネが幼いころ過ごしたフランスの港町に日が昇る様子を描いたとされています。

               平成30年6月               八大  












 明治維新から150年

 今年、2018年は明治150年の遠忌にあたります。
 1868年(慶應4年)9月8日に詔が発せられ明治元年と改元されてから150年が経ちました。

 この間の変わりようは明治から大正・昭和・平成へと受け継がれて来ましたが日本国としても味わった事のない大きな変化の時でもあったと思います。この事を遠い昔のことのようにに感じる人が多いと思いますが変化の速さは益々勢いずいて来てるようです。

 遠い遠い昔、にわとりが卵を生み始めてから一万数千年の今でも相変わらずにわとりは卵を生み続けています。
 縄文時代は1万年以上にわたり狩猟採取生活をされていたがその後、稲作の時代となり集落の定住が始まりおおよそ千年の間を弥生時代と呼ばれる。
 それからは古墳時代、奈良時代を経て、貴族や武士の時代へと移り替わりその後に年表の上では平和で安定した江戸時代となりましたが、幕末の混乱した時代に多くのヒーローの活躍があり、明治維新に繋がるわけであります。

 その後の150年間の最先端に私たちがいる訳ですが未だ且つて味わった事のない大きな変化の中に私達が居るわけであります。縄文や弥生時代や江戸時代の頃の延長では想像も出来なかったことが今起きているのです。
 イギリスをスタートした産業革命による技術革新の動きはここに来て更なる速度を早め異次元の世界「AI革命」の時代に突入しております。
 私達の多くはその点に対して時間経過の感覚にマヒしてしまっているように思います。
 この話で風呂敷を広げると包めなくなってしまうので後の機会に譲ります。
(この間3か月間の中断でご迷惑をお掛けしました。)

                         平成30年6月    八大





「有無同然」                     
     幸せなんだけど、何かが足りない・・

  あなたは、今幸せですか・・・? 幸せなんだけどやっぱりむなしい.心から満足できないというのが本音ではありませんか。
 今では多くの人達が財布の中にお金があり銀行に口座があり、ほとんどの人たちがパソコンを持っております。若者でも少しお金が足りなければ奨学金で大学にも行ける。日本は世界的な平均から見れば大変恵まれた国に居るわけです。どうしてこんなに恵まれた日本で心から安らぎや満足が得られないのかと考えたことはありませんか?
 人類は歴史上、何万年もの間に食うに困るような貧しい時代が続いていました。それがようやく二百数十年ぐらい前、産業革命の時代から少しづつ豊かになり始め二十世紀の経済成長を通じて飛躍的に豊かになってきた。
 しかしここに来てお金やモノがあっても幸せになるような訳にはいかないのでは・・・と心配する人が多くなっているようです。1980年代に米国の経済学者が云うには「高収入は幸福感と関係はない」と云うことを言われ始めましめました。そのころジャパンアズナンバーワンともいわれ驚かれたことご存知のことと思います。
 年収七百万を超えると幸福度が下がっていくらしい。ある程度の衣食住が満たされると、それ以上はどんなに働いても幸福度は上がらず、むしろ下がると言われる。
 2600年も前からお釈迦様が「有無同然」と云うことを説かれていた。
 有無同然とは お金、財産、名誉、地位等が有っても無くても心から満たされないこと
        には変わりはないと言うことを云うそうです。

        「有る者は金の鎖で、無い者は鉄の鎖で苦しんでいる」

                          平成30年3月      八大












有無同然 

お地蔵様

 子供とかかわりが深く、お地蔵さまと親しまれている地蔵菩薩は「釈尊入滅後、次代の仏である弥勒菩薩が五十六億七千万年の後に出現するまでの無仏の間、この五濁の世に出現して六道の衆生を救済する菩薩」と定義付けされている。
 と云うことは、地蔵菩薩は来世で浄土を約束する阿弥陀如来や、将来ずっと先に我々を導いてくれるに弥勒菩薩と違って今この世界(娑婆世界)でもだえ苦しんでいる非力な私たちを助けてくれる仏である。
 地蔵菩薩の本願
 この地蔵菩薩は、衆生済度のためにいくつかの功徳利益の誓い(本願)をたてているが、その中で代表的な十の利益として
 1 土地が豊饒で作物に恵まれる
 2 家内が安全である
 3 もし亡くなっても天国に生まれる
 4 現世ではできるだけ長生きできる
 5 願望がよくかなう
 6 水火の災難がない
 7 過ちやさわりを除く
 8 悪い夢を見ることがない
 9 旅行しても無事である
10 仏に巡り合うことが出来る

 地蔵菩薩は現在に於いて我々を守り、利益をかなえてくれる仏であるが「地蔵菩薩本願経」に地蔵菩薩が地獄に姿を現わしたり数々の地獄の名称や罪報を説いていることから次第に地獄救済の仏と考えるようになっていった。
 墓地やお寺の入り口などに六体並んで祀られている六地蔵は正式な経典の根拠はないらしいが地蔵菩薩本願経に「今、慈悲を興して一切の罪苦の六道にいる衆生を救済して不思議のことを述べんとす」と説くことから、地獄のほか餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道それぞれの教化を受け持つ仏と考えられたようである。

                         平成30年3月     八大

 









越谷市フステバル

 2/25は越谷市60周年記念の生涯学習フェスティバルがあり野次馬として参加してきました。多くの催し物会場がありまして特に午前中の混雑は大変なもの。私たちの仲間である皆さん達も裏方として活躍されていました。
 越谷市も江戸時代のころは今よりはもっと活性化しており時代の先端を行っていたことを嘆くお年寄りがおりました。
 聞くところによるとお煎餅の始まりは草加よりも越谷の方が早かったとか、越谷だるま、越谷ひな人形、越谷桐箱、浴衣の籠染め技法、果物屋で有名な千疋屋さんは越谷から出たそうで今でも地名が残っているとのこと。
 伝統工芸の技が消え掛かっていることを心配しているお年寄りに、少しずつですが若者が街興しに係わって来ているそうで明るい希望の灯が見えてきているとのこと・・素晴らしいことですね。
 また最近の健康志向を考えた、血管年齢の測定や体脂肪バランス分析などの結果を出して頂きましたが、意外にも良好な数字で自信が持てました。丈夫な体に生かしてくれた両親に改めて感謝してます。
 帰り道、会場で出会った飲み友達と体調管理についての自慢を肴にお清めをやってから帰宅となりました。季節は雨水を越えたとはいえ寒い中ではありましたが有意義な一日を過ごすことが出来ました。感謝!

                    平成30年2月25日   八大   








現状維持とは(冬籠りの中で)

 今年の冬籠りも例年通り八幡平の豪雪の中、昨夜の最低気温は氷点下17,4℃、積雪量2,4ⅿ正に極寒の世界でありますが下界からは遮断された自然環境の中、自分ではどうにもならない雑念を忘れる時を過ごしてきました。
 雫石スキー場のゲレンデは毎年滑っており何ら変わる事ではなかったが今になって思うと若い頃はスピードと急斜面に対する挑戦が湧いていたが、何故か御身大切を思うのか楽しく滑れればそれで良しと思えてきた。そんな思いは何処から生まれるのか・・・?分からないが、昨年までの現状を維持することは決して負け惜しみで言っているのではないけれどそれが今の自分である。
 若いスノーボーダーがすぐ近くをすり抜けていくあの身軽さには今でも魅力を感じるが「俺はこれでいいんだ!」と納得している自分がここにいる。
 吹雪の中ゴーグルの曇りを取りながらこの齢になって現状を維持できることに誇りをもって挑むこと、それも自分の進歩なのではないか感じる。
 論語の中に「七十にして心の欲するところに従えども矩を超えず」とあったがこんな心境を言うのかもしれない。
                         平成30年2月   八大












仁和寺展 (葛井寺の千手観音菩薩)

 「私しゃお多福お室の桜 鼻は低くとも人が好く」ずい分に昔になりますが京都双ヶ岡近くの仁和寺に遅咲きの花見に伺ったことがありました。結構なピンク色が印象に残っていました。
今回その仁和寺がお寺全体の大改修に伴い、国宝を含めて多くの仏像や秘宝の数々が東博で見られます。その中でも門外不出と云われていた真言宗御室派の寺院である葛井寺からの国宝「千手観音菩薩像」は圧巻です。
 観音菩薩は救済する衆生にふさわしい姿に変えて現れる仏で、三十三の姿に変化して出現すると云われておりその由縁で三十三観音霊場巡りなどに繋がりが現れております。その変化観音の中でも千手観音とはよく耳にすると思います、その姿のは多くは42本の手の姿であり1本の手が25の世界を救ってくれるとあり、あらゆることに対応してくれると云われています。
 今回、葛井寺の千手観音菩薩は実際に千本以上(1043本)あります。多方面での救済の為とはいえ一本一本丁寧に作られており信心と云うか、布教活動と云うか今の私たちには思いもつかないことではないかと思われます。奈良時代の昔にどうしてここまで造ることが出来たのか実際に近くで拝見して手の込んだ造作に感銘を受けました。

                                                                 平成30年2月    八大