黄八丈(きはちじょう)

 浜離宮庭園を鑑賞した帰り竹芝桟橋で船を覗いていたら船が出ますよ・・と声をかけられた、吸い込まれるように飛び乗った行先は何と八丈島行きの船でした。あれっと気が付いた時には既に遅し何とかなるだろうと・・翌朝、底土の港に着いてしまった。そこには目映いばかりのブルースカイ! 我を忘れる!50年以上前に訪れたことがありました。

黄八丈
八丈島                                      と云ったら黄八丈と云う、島に伝わる草木染の絹織物で島に自生する植物の煮汁で黄色,鳶色、黒色に染められた糸を平織または綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったものです。  黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったもので、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていたそうです。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされてます。寛永年間にはタブノキの樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになったが、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれ孫の代まで色褪せないと云われているそうです。


明日葉(あしたば)

明日葉
八丈島植物公園
明日葉とは、世界に誇れる日本原産のセリ科の多年草で、「今日摘んでも明日には新しい芽が出る」といわれるほど成長が早く、生命力の強い植物です。セリ科には薬用植物が多くみられますが、明日葉もその一つで、江戸時代には天然痘予防に用いられていたそうです。もっと古くには「不老長寿の妙草」として、秦の始皇帝や漢の武帝が日本までこの妙草を求めて家来を遣わしたという伝説があります。「血流を改善する効果」「むくみを改善する効果」「抗酸化作用で老化を防ぐ効果」などの働きもあります。柔らかい若葉を「お浸し」や「和え物」「天ぷら」などの食用にもされています。


宇喜田秀家の話

宇喜田秀家の墓
伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな「太陽と花と緑の島」、八丈島です。

 豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。 八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られていたそうですが、その最初が秀家一行であったそうです。
宇喜田秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごしたそうです。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしていた老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
宇喜田秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置されている。
 秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなった。

八丈植物公園
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられたそうです。八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。

  

ついつい当時のことを思い浮かべなが思感傷に耽ってしまいました。


霜 月             八 大

















 






蜀山人の狂歌

蜀山人
「恐れ入り谷の鬼子母神」「どうで有馬の水天宮」,「志やれの内のお祖師様」と読まれた有名な洒落は太田南畝(おおたなんぼ)という江戸時代の狂歌師の作です。今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらんと。死に際にしても悲観的過ぎずちょっと茶目っ気を感じさせますよね。

大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人である。名は覃(ふかし)字は子耕、南畝は号であります。通称、直次郎、のちに七左衛門と改めています。別号を、蜀山人(しょくさんじん)と名乗る。

江戸の高名な狂歌師、蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた。自作の作品で          「朝も良し昼もなお良し晩も良しその合いあいにチョイチョイとよし」を、口ずさみご機  嫌そのときノミが一匹、盃に飛び込んだ、そこで一首                「盃に飛び込むノミも飲み仲間、酒のみなれば殺されもせず」の即吟となる。       盃の中のノミがすかさず返し歌を                         「飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩に来てさす」洒落て読む。


「入谷の鬼子母神」は皆さんご存じの通りの語呂合わせです。安産や子育ての神として祀られることの多い鬼子母神。子を見守る優し気な神かと思いきや、元は多くの子供たちを養うために、人を殺して食らうというおぞましい鬼であった。悪鬼が転じて神になろうとは・・江戸時代中頃、とある大名家の奥女中が腫れ物で困っていたところ、入谷の鬼子母神にご利益があると聞きつけて、お参りにやってきたのだという。21日目の願掛け最後の日境内でつまずいてしまう。その時ぽろっと腫れ物が破れ膿が出て完治したと・・か。 この話を聞いた狂歌師・大田南畝がそのご利益に恐れ入ったと云うところでこの言葉が口をついで出たという。 


「情け有馬の水天宮水の守護神としてまた安産・水難除けの神として知られています。 東京都中央区にある神社。 文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神となる。以後、江戸の庶民にも広く親しまれ幕府から裁可されて、毎月5日に限って参拝が認められるようになりました明治5年に久留米藩下屋敷のあった日本橋蛎殻町へと遷座しています。久留米藩・有馬家は「江戸庶民ファースト」だったのでしょう。有馬家の情け深い恩情に感謝して、有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情け有馬の水天宮」という言葉が生まれたと云います。


「お祖師様」このお寺は江戸時代には厄除けのお祖師さんとして庶民に大変な人気がのスポットであったそうです。おそっしは似通った別の言葉を当てて違った意味を言う洒落のことで お祖師様とはその宗派を初めて開いたその肖像で、特に日蓮宗の開祖の日蓮上人を尊敬して云います。お祖師、おそっさまと。祖祠堂に安置されている堀之内の「厄除け祖師」と呼ばれ江戸時代から現代に至るまで霊験あらたかなことで広く信仰を集めています。 明和6年(1769年)の火災の後の再建工事には、名工と言われた欄間彫刻師、波の伊八(初代)が参加したそうです。地元世田谷の堀之内では厄除けのお祖師様と呼ばれているそうです。

言葉の面白さ「地口」                               ことわざや俗語などと同音、あるいは音声(発声)の似通った別の言葉を当てて、違った意味を言う洒落のことです。例えば「舌切り雀」を「着たきリ雀」と言い換えるというようなことです。地口は、言葉遊びの一種で「洒落」とほぼ同じ意味を持ちます。江戸時代の享保年間に流行したそうです。


 霜月              八 大













上海蟹

上海蟹

 中国料理の秋冬の風物詩といえば上海蟹。「菊黄蟹肥(菊の花の季節に蟹が肥える)」という言葉があるそうで、10月半ばにもなると市場には食べごろの蟹が出て来ます。毎年レストランでは10月中頃から蟹、蟹、蟹で賑わうそうです。黙々と蟹を食べる、面倒くさいけれど美味しい、足元には食べかすが散らかっているがそんな事は気にしない人達が満足げな顔で食べるとき、言葉はいらない。時代が平成に変わる頃のことでした。

中国で一般に上海ガニと呼ばれているのはイワガニ科の一種でチュウゴクモヅクガニです。秋が旬で上海や香港で人気のある食用ガニで、中国の長江流域から朝鮮半島迄の川に棲息しています。なかでも江蘇省蘇州市にある陽澄湖で養殖されるものが海外でも高値で取引されています。その為他の場所で養殖されたものを一瞬だけ水に浸して陽澄湖産としてしまう業者もいるそうです。日本でも昨年、韓国からのシジミの産地偽装の話がありましたね懲りない面々は何処にでも。

秋に十文字に縛られ生きた状態で中国から日本へ出荷される様子は秋の風物詩のひとつです。日本では同種のモズクガニも漁獲量は少ないものの食されています。上海ガニは身が美味しい物の、その量はほんの少ししかありません。メスの殻の内側にあるオレンジ色の内子に大変価値があるそうです。内子には濃厚なうまみが詰まっており独特の酸味が大変な人気です。

食べ方は蟹を丸ごと茹でたり蒸したりしますが、生きたまま紹興酒に漬けた料理も酒の旨味が染み込んでおり大変美味しいもので忘れられない味でした。また身のうまみを生かした蟹汁や蟹飯も大変に旨いですよ一度お試しあれ。

 神無月             八 大    

       





「コオロギ」の出番?




夜が戸張を降ろすころ虫の音が騒がしくなってきました。螽斯在戸 (キリギリス、戸にあり)という言葉もありますがキリギリスが戸口の側まで来て、哀愁を漂わせながら「ギーチョン、ギーチョン」と鳴く季節になって来ました。その鳴き声が深まる秋の侘しさ長くなっていく夜の深さを感じさせてくれますネ。

コオロギ=キリギリスだった
螽斯は正しくは「しゅしゅつ」と云い、コオロギやキリギリスの事を指すそうです。この二種は数ある虫の中でも比較的遅い時期まで鳴き続け時には霜の降りる頃まで鳴くこともあるようです。それゆえ漢字の意味が混同されてしまったのでしょう? また古い時代にはコオロギをキリギリスと呼ぶこともあったそうです。

キリギリスと云えば童話「アリとキリギリス」で越冬の準備を怠ったために死んでしまうキャラクターとして描かれています。けれども実際は成虫の寿命が遅くとも11月で尽きてしまうだけで、冬の準備を怠るから死ぬわけではありませんよね。キリギリスから見れば、此の童話で「怠け者」のレッテルを貼られてしまいさぞかし無念だったことでしょうね。

キリギリスは 緑色もしくは薄い茶色の体で後ろ足と触覚がとても長く,ギーチョン・ギーチョンと鳴き、コオロギはコロコロ・コロコロと鳴きます。やがて来るだろう食糧危機への対策として今昆虫食に注目が集まっています。2050年頃には世界人口が100億人になることが予想されていて、そのため重要な栄養源であるたんぱく質を確保することが重要な課題とされています。そこで、家畜の代替えとしての昆虫食が注目され始めてるのです。

栄養価が高く環境への負荷も少ない事から国連食糧農業機関(FAO)も推奨している。まだ抵抗感をもつ人も多い食材ですが、無印良品では徳島大学と連携してコオロギ粉末入りのチョコレートとお煎餅を開発したそうですが?。地球にやさしい未来食と云っていますが・・・・如何ですかね。



 神無月              八 大











庚申信仰 「三尸(さんし)の虫」

庚申の碑
庚申(かのえさる)の日、人間の腹の中には「三尸(さんし)」と呼ばれる虫が体内から抜け出し天帝に悪事を伝えると云う空想上の虫です。少しの過ちも見逃すことはことはありません。その三尸の虫は庚申の夜に人が眠っているすきに体内から抜け出で、その罪悪を天帝に密告する役目を持っているそうです。

天帝のところにはそれぞれの人の罪科を記録した台帳があり、その記録が増えると人間は命を奪われると云います。そのため庚申の夜は三尸の虫が体内から抜け出ないように、寝ないで酒宴などを催しながら夜を明かしたと云います。こうした行事は平安時代の貴族社会から伝わる庚申信仰であり中世末から近世にかけて             一般庶民の間にも拡がったと云います。

東陽寺
ここ埼玉県松伏町赤岩地区の東陽寺境内にある、文政四年(1821年」建立の庚申塔には三尸の文字が入っているのが確認されており珍しい物だそうです。三尸の文字が刻まれているのは山形県高畠町や埼玉県の鴻巣市等にも見えますが貴重な庚申塔が確認されています。

の庚申の日眠らなければ三尸は出てこないとされ宴席を一晩中開いたと云います。これが平安時代から伝わる庚申信仰であります。三尸は庚申信仰の中心的位置を占めていると云われます。全国各地に点在する庚申塔ですがここ東陽寺の庚申塔には「天下地平 国土安穏 三尸消滅 開講無事」の文字が刻まれており現在でも庚申の祭り「庚申講」では同町築比地区でも僅かに残っているそうで貴重な民族的な資料と云われています。

庚申塔の説明

またこの地域の土着の信仰で最も古い記述では清和天皇の代、貞観5年(863年)11月1日の宮中に宴が開かれ音楽が奏でられていたと云います。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していたと云います。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなっていったと云われています。

 神無月           八 大







































神嘗祭と新嘗祭

 

伊勢神宮の鳥居
神嘗祭(かんなめさい)とは神様を食事でもてなすと言うお祭りです。五穀豊穣に感謝して毎年の最初に収穫した「初穂」を天照大御神に奉り感謝をする伊勢神宮のお祭りです。年間に1,500以上に及ぶという神宮のお祭りの中でも、最も由緒ある重要な祭り事であります。毎年10月15日から17日にかけて行われております。戦前までは17日を国民の祝日となっていたそうです。

古くから神嘗祭には皇室から幣帛使(へいはくし)と呼ばれる使者が派遣されて来たそうです。応仁の乱や戦国時代の戦火により中断することもあったそうですが江戸時代に入り世の中が安定するとこの風習も復活し今日に至っております。

伊勢神宮・内宮
神嘗祭が毎年二十年間行われると「大神嘗祭」となり「式年遷宮」が行われます。「式年遷宮」とは社殿を新しく造り、御神体をその新宮に遷す大祭です。西暦690年から1,300年以上にわたり行われていて、現在から7年後の令和2033年には第六十三回式年遷宮が予定されるわけです。

新嘗祭(にいなめさい)も、五穀豊穣の収穫祭にあたり、毎年11月23日に宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)で執り行われます。天皇陛下が初穂を神々にお供えし、五穀豊穣に感謝を捧げて祈念します。その後、天皇陛下も初穂の食事を召し上がる飛鳥時代から続く重要な宮中祭祀であります。新米を召し上がるときには、古来から続いている伝統行事に思いを新たにしては如何でしょうか。

先ごろ我が家にも新米が届きましたが安易に食べてしまうのではなく、子供たちにも食の大切さを一言添えて分け与えました。それにしても最近は新米の出回るのが早くなり、季節感も薄れて収穫祭での喜びや感謝の心も少しづつ薄れていくように感じます。                子供の頃「米」と云う映画が上映され記憶が薄れていますが当時の若手スター<江原真二郎と中原ひとみ>が共演して米作りの大変さが脳裏に残っていました・・・。遠い昔の話になりましたね。

  神無月             八 大















鹿鳴館の跡地

在りし日の鹿鳴館
先日久しぶりに仲間と日比谷界隈を歩いた。目的の一つは鹿鳴館の跡地が無くなったそうだとの話が伝わってきた。跡地が無くなるってどういうことなの・・・?

帝国ホテルの角を曲がるとある筈の小さなモニュメントの付近には工事用のバリケートが積んであり立ち入り禁止の表示が。工事の担当者らしき監督さんが居られたので話を聞いた。

去年の今頃撤去して今は片付けてしまいました‥とのこと。モニュメント(石碑)は何処に行けば見られますかと聞いたところナント処分してしまったとのこと。そんな事ってあるの?・・と聞き返すと、鹿鳴館は昭和16年に取り壊された後小さなモニュメントがホテルの横裏に残っていましたが、この辺でお役御免となったそうです、そんなもんなんですね・・?なくなると見たいものですね。

鹿鳴館の碑
 鹿鳴館は明治16年に当時の外務卿井上馨の欧化政策の一環として建設された西洋館です。 国賓や外国の外交官を接待するために外国との社交場として使用されていました。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」と云われ、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」とも呼ぶそうです。

 欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上馨が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになりましたが、1941年(昭和16年)に取り壊されたそうです。

鹿鳴の言葉の由来は、鹿は群れを成して山に棲息する習性があります。冬に雪が積もると餌が乏しくなり、雪の中に餌を求めてさ迷い歩く日が延々と続くのです。やがて雪解けの早春の頃には空腹が絶頂に達する。

そんな折に、たまたま一頭の鹿が雪解けの山肌に萌え出たヨモギを見つけた。その瞬間に鹿は貪り付くと思いますか・・?そうではないのです。嶺に駆け上がり悠々と鳴いて仲間を呼び集め、僅かばかりのヨモギを皆で分かちあって食べるという。この鹿鳴きの詩は、喜びを分ちあう鹿の習性讃えた詩であるそうです。

野生の動物から学んだ教訓を言い表しているのであり飽食の時代と云われる豊かな現代、他人への思いやりのない独善的な風潮が蔓延しつつあります。こうした自己中心的な社会からは本当の幸福は生まれない。鹿鳴の声は私達に自戒を促しているようですね。

神無月             八 大











高輪ゲートウエイ駅

左側が「高輪ゲートウエイ駅」
「高輪ゲートウエイ」駅が2020年3月14日に暫定開業したことは聞いておりましたが、通過するだけで訪れたことはありませんでした。今頃になってどうしたのって言われそうですが、東京のど真ん中に突然に表れた感じでビックリです。JR東日本は2014年(平成26年)6月に田町駅から約1.3km、品川駅から約0.9 km付近の位置に新駅を建設し、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催にあわせて暫定開業させたのはご存知の通りです。鉄道駅としての開業後も駅や周辺の開発整備を進め、2024年度末の「本開業」を予定しているそうです

駅の構内をぶらぶらしてみると工事現場その物、開放感があります
が工事が中断しているように感じられ居心地が悪いのは私だけでは
昔と今
ないと思います。でもホームの端から端時迄を真っすぐに見られ
のは開放感もあり気分も良くなりますよね、素晴しい景色です。
一歩駅を出ると工事現場そのもので、資材を運んできた大型トラックや資機材の看板等が並んでいて交通誘導員が7~8人丁寧な誘導をしてくれてはいますが・・・これは大変な工事である事を再認識です。

工事現場を横断して通行人に道を聞こうと声を掛けると、目の前の道をまっすぐ進むとなんとそこが泉岳寺でした。四十七士で有名な泉岳寺がこんな位置にあったとは知りませんでしたね。境内は線香の香りがもうもうとしていました。参拝者は若い世代が多く見受けられました。

50年位の昔に、高輪の二本榎と云う地名があり法事で母親と一緒に訪れたことがありました。すぐ近くに「宝井其角の井戸」があり好奇心から覗いて見ました。当時は名所の一つに数えられていたんでしょう、釣瓶井戸の側には切り花が添えてありました。

 長 月              八 大




「三四三(サシミ)の法則

 私が働き盛りの40代の頃、職人さんの仲間に人生の先輩である博学のお爺さんがおりました。私に教えてくれたことの一つに、会社と云う組織は社員のやる気(努力)で決まるのだと云う。自分の会社では従業員とは呼ばないで「スタッフ」と呼んで共に生きることの幸せを役員も社員と一緒に噛み締めて行くんだと云って「三四三の法則」と云う事を教えられました。

その人材には「三四三の法則」と云うのがありる、まず「人財」がある。この会社にとって「なくてはならない」社員でありスタッフである、自分の経験では三割いる。次に「人材」四割います、ただ会社に通勤するだけの社員で「指示待ちの人」が多い。直接的に会社の足を引っ張らないが仕事を創造的に出来ない人たちで、この人達に前向きに働いてもらう事が最も重要だと云われました。如何にして仕事の動機付けをして前向きに働いてもらうかが重要である。

問題は三つ目の「人罪」であります、常に怠けることを考え会社に貢献しようとはしないグループが三割ぐらいいるという。もちろん雇い入れた側にも問題はあるが簡単にやめてもらうわけにはいかない。会社も創業期を過ぎると、役員も社員も会社という存在にもたれかかり自分たちも自分たちの努力の無さを棚に上げ会社の業績が上がらないのは会社の上司のせいだと考える。

清蔵鉄道(チベット)
創業時には「人財」だった人たちが、あっという間に「人材」になりその内に「人罪」にもなる。人材同士が足の引っ張り合いをしているうちに会社はどんどん坂道を転げ落ち業績を転げ落ちてしまう。そこで先輩の御仁はこう云う。「経営者たる者は、常に社員と共に生きる」姿勢を持つことであり、全ての社員は会社に対して「感謝の気持ちを持つことである」教えて戴きました、全く素晴らしい言葉でしたね。    

 長月          八 大




















「リトアニア」と云う国


 「リトアニア」はヨーロッパの北東部に位置する共和制国家で「ラトビア」エストニア」と共にバルト三国の一つとして海に面しており、北はラトビア
、東はベラルーシ、南はポーランドロシア飛地カリーニングラードと国境を接している小さな国ですが歴史を遡る14世紀~18世紀頃には外交力があり領土が拡大され大国でありました。

この処 テレビの影響もありスポーツの番組が盛んに見られているようで突然のようにバスケットボールにもブームが到来したようです。我が国では野球やテニスやゴルフなどは既に人気のあるスポーツですがバレーボールやバスケットボールなども各地でテレビ放映がされることも増え、コロナ禍の収まりもありゲームの観戦に人気が出て来ております。

先ほどのパリ・オリンピック予選を兼ねたバスケットのゲームでは俄観戦者の盛り上がり方は異常なほどで、その活況を楽しませてくれました。観衆の異常な盛り上がり方はコロナ禍での日頃の鬱憤を晴らすような見方もあるのではないかな、皆様方は如何思いましたでしょうか?

茗荷は食べ過ぎに注意?
テレビの解説者の案内によるとパリオリンピックへの参加が内定したようですが、人口230万人規模の小さなリトアニア国が何と世界ランク6位と云うから驚きです。リトアニアのバスケットボールは「国技」「第二の宗教」と呼ばれるほど人気が高くNBAに選ばれた選手たちは米国では引っ張りだこであるそうです。

ビリニュスの旧市街の歴史地区は古くからの建造物や街並みが残り、世界文化遺産に多くが登録されています。現在の国土面積は北海道の80%程ですが、15世紀頃にはリトアニア大公国は現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家であった歴史を知る人は少なくなりました

この国で最も有名な人はユダヤ人の亡命を助けた日本国の「杉原千畝」です。         第二次世界大戦中、当時外交官として赴任していた日本人の杉原千畝は、国外へ逃げるためにカナウスの日本領事館に殺到した6,500人ものユダヤ人にビザを発給して命を救いました、有名な話です。杉原の功績を讃え、首都ピルニュス市には「スギハラ通り」と名付ずけられた杉原記念館もあります。

 長 月                八 大

 


 



女郎花(オミナエシ)

女郎花はオミナエシ科の多年草で、日当たりの良い山野に自生して、多数の黄色の小花を傘状に付ける秋の七草のひとつです。

自分が子供の頃先祖様の墓参りが年中行事としてのお盆の行事がありましたが、必ずと言っていい程近くの城山公園付近の野山へ野草の花摘みに生かされました。紫陽花や桔梗や竜胆の花が公園の近くに咲いているのを摘んできてお盆参りに供えましたよ。中でも一段と背が高く見つけやすいのが黄色い女郎花だった。

女郎花
オミナエシの「オミナエシ(女郎)」は、美しい女性の意味で、「万葉集」では「女郎花」の他、オミナに「佳人」「美人」「姫」などの字が使われていたそうです。

オミナエシの語源には「女飯」に由来する俗説もあるそうでそれは、白いもち米の飯を男性が食べていたことから「男飯(おとこめし)」、黄色い粟飯を女性が食べていたことから「女飯(おんなめし)」と呼んでおり、黄色い粟飯と女郎花の花が似ていることから、この植物を「オミナメシ」と呼ぶようになり、変化して「オミナエシ」になったと云われているそうです。

毎年、お盆の先祖様のお迎えには女郎花が付き物で必ず入っていましたが、数年前には品薄で揃わなかったときがありました。やはり墓前の中央の奥の方には存在感もあり無くてはならないお花ですよね。

 葉月           八 大  



素麺の話

 「素麺の話」

今年の暑さは異常ですよね。これからも暑さが続くことが予想されますが台風の数も少し多くなりそうです。その原因は偏西風の蛇行と云われます。Bingに問い合わせると今年の台風の数は例年より多いそうですよ! この暑い時期多くの人が食欲が進まないと云い、簡単に済ませようと食べるのが「素麺」ですね。

冷やしそうめん
40年もの昔に京都の鞍馬寺を訪ねた時に炎暑を避けながら歩いたその先で一休み。川の流れに足を浸しながら食べた「流しそうめん」がありましたが、”これぞ天国”を思い起こしました。

素麺(そうめん)は、小麦粉を原料にした東アジアや日本をで流通している麺の一つで、主に乾麺として流通するため一年中どこでも入手できるが、冷やして食することが多く清涼感を求めて夏場に食するのが一般的である。素麺は中国との交流もあり広く食べられるようになりましたが日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされております。

JAS規格で「乾麺類品質表示基準」機械類が決められており機械類の場合、素麺の麺の太さが直径1.3mm未満をそうめん「素麺}とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、1.7mm以上はうどん(饂飩)と分類されるそうです。ちなみに幅が4.5mm以上、厚さ2.0mm未満だときしめんと云うそうです。

素麺の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満は以上が手延べ麺の場合は素麺も、ひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされるそうです。

京都祇園社の南北朝時代の記録によりますと麺類を指す言葉として索餅(さくべい)、索麺「さくめん」素麺(そうめん)と3つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされているそうです。平安時代には七夕に索餅を食べるとマラリヤ性の熱病にかからないという中国の故事に倣って、宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられていたといわれています。     
今晩は素麺で閉めにしましょう。

 葉月               八 大


春日部市八丁目 とは

「 春日部市八丁目」の由来

先日、国道四号線の近くでいつもは何気なく見過ごしていた小さな看板を見てビックリ、「春日部市八丁目」という看板に出逢った。

この頃ではマイナンバーカードの話ばかりで改めて道路標識を意識していませんでしたが、地域に住む私達にとっては何故か少しうれしい気分です。50年近く住み慣れている場所ではありますが改めて見上げるとこんな看板があったんだとビックリ!

この地域は、江戸時代には「武蔵国葛飾郡八丁目村」と呼ばれ明治22年に、当時の7カ村が合併して幸松村となったことから「埼玉県北葛飾郡幸松村大字八丁目」となり、その後昭和29年に当時の1町4村が合併し春日部市となり、「春日部市八丁目」になったとのこと。

春日部市にとってのイメージは「岩槻市」が「さいたま市」に編入されて以来、東京方面からの鉄道高架化が北越谷の地でストップし10年以上が経ちます。その間春日部市内の交通渋滞は市民生活に支障をきたしていることは大問題であります。その間地域住民の声は「菜っ葉の肥やし・・かけ肥え声ばかりでやる気はなし」の声が聞こえていましたが・・・ようやく春日部駅の立体交差化工事に着手され沈み込んでいたイメージが上向きつつあるように思います。

 文月              八 大






    蓮の花

     50年ぐらい前の話ですが、上野公園の不忍池にハスの開花音を聞きに仲間と一緒に出掛けたことがありました。早朝の夜明け前に陣を取り5~6人の奇特な愛好家の仲間と一緒にその開花音を聞き漏らすまいと真剣に聞き耳を立てていたことを思い出しました。

    ハスの開く音については、開花の瞬間にポンと大きな音がするという噺を聞いたことがありました。しかし現実にはハスはゆっくりと花びらを開くので、そのような音は聞こえませんでした。ハスが開花するときの音を聞いた人は幸せになると言われるのは、神秘的なハスが開くことに「運が開く」「幸運になる」という願いを重ねたからなのかもしれませんね。

    ここ春日部,内牧のハス田は平成17年に春日部市の公園緑地課で蓮の植栽を始めたことから今日に至るそうで現在では毎年1400株の花が開いて順調に開いて来ており今月中頃までが見ごろとのことです。昨年はひょう害の影響を受け残念な事でした。今朝は早くからアマチュアカメラマンが訪れるて賑やかですね。


    ハスの花言葉 
    「清らかな心」「神聖」という花言葉があります。皆様ご存知のようにの花言葉は蓮の成長からきたもので、蓮は池など泥水の中に育ち美しい花を咲かせるという姿から「清らかな心」という花言葉が付いたと云われています。 また「神聖」という言葉は仏教の絵の中で見られますが、生まれて間もないお釈迦様が歩き出し、その足跡から蓮の花が咲いたという言い 伝えもあり「天上天下唯我独尊」という言葉をおっしやったとされています。こういった理由からインドやエジプトなどの仏教の国では特に蓮の花に対しては「神聖」の花言葉が掲げられております。

     文 月            八 大




    ひめゆり

     初夏の季節に鮮やかな橙色のくっきりとした六花弁を咲かせる、「ひめゆり」は夏に入ろうとするこの時期清々しい雰囲気を感じさせてくれます。原産地は日本から朝鮮半島にかけて分布しておりここ関東地方でも多く見かけられます。けれども最近は鹿による食害で自生のひめゆりは減少を続けており日光の戦場ヶ原付近ではその対策に苦慮しているそうです。

    我が家のひめゆり
    戦時中に若くして亡くなられた沖縄の「ひめゆり学徒隊」が有名ですが、この名前の由来は植物のひめゆりと思われますが実は関係はないそうです。この学徒出準のもとなった二つの学校の広報誌が「乙姫」と「白百合」だったため「姫」と「百合」をとり「ひめゆり」になったそうです。

    姫百合はその名の通りユリ科の植物で海外では、特にキリスト教圏では聖なる花として大切にされているそうです。ユリは純潔の象徴で聖母マリアのシンボルとされているからです。

    六月の誕生花の花言葉は「誇り」「可憐な愛情」や「強いから美しい」と云ったもので、美しく気高く咲く姫百合にふさわしい言葉ですね。

     水張月          八 大