博多祇園山笠

櫛田神社
 正式名称は櫛田神社祇園例大祭と云われ、古くから博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている櫛田神社のお祭りです。七百年を超す伝統を誇り毎年7月1日から行われる福岡を代表するお祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。掛け声の「おっしょい」が有名ですが、なんと云っても15日のクライマックスは「追い山笠」です。

博多祇園山笠フィナーレ
早朝から「櫛田入り」し5分おきに境内を出て約5㎞のコースを懸命に走り抜け「廻り止め」と呼ばれるゴールを目指します。走りながら担ぎ手が交代するので一つの山笠に数百人の男たちが群がり走り続けます。櫛田入りと、廻り止めをそれぞれタイムが計測されるので山笠同士のスピードが勝負になります。熱気むんむんの山笠めがけて樽に入った水をぶちまけられる様子はまさに男の世界です。

社伝には757年(天平宝字元年)伊勢の松坂にあった櫛田神社を勧請したことに始まるとされ御祭神である大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられるが平安時代末期、平清盛が所領の肥前の国、神崎(佐賀県神埼市)の櫛田の宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が有力です。その後戦国時代に交配しましたが1587年(天正15年)豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営されたと云います。

山笠の収納

話は変わります 二十数年前に櫛田神社をお詣りをした後、偶然にも永六輔さんのラジオ放送が流れていて「かろのうろん」の話がありました。聞いているとすぐ近くなので看板を探して入ると3時を過ぎているのに8割の込み具合でした、博多っていうところは凄いところなんだと思った。「かろのうろん」とは「角のうどん」のことで博多の老舗うどん屋さんの事ですが、本当に旨いうどんでした。いろいろと能書きはいりません本物の美味しさを味わいました。今でもその味を思い出せます。

 

令和4年 文月          八 大














椰子の実

     「椰子の実」

      名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子やしひと
  故郷ふるさとの岸を離れて なれはそも波に幾月いくつき


  旧もといやしげれる 枝はなお影をやなせる
 
 われもまたなぎさまくら 孤身ひとりみの 浮寝うきねの旅ぞ

 

  実をとりて胸にあつれば あらたなり流離りゅうりうれい
  うみの沈むを見れば たぎ異郷いきょうなみだ

  

  思いやる八重やえ汐々しおじお いずれの日にかくにに帰らん


椰子の実
この詩は1898年(明治31年)の夏に柳田国男が1ヶ月半ほど愛知県の伊良湖岬に滞在した時恋路が濱に流れ着いた椰子の実の話を「海上の道」という本に載せました。風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを三度まで見たことがある。どの辺りの沖の小島から海に浮かんだものかは今でもわからぬが、ともかくも遥かな波路を越えて・・こんな浜辺まで渡ってきていることが私には大きな驚きであった」と。

東京に戻って島崎藤村にこの話をしたことで「椰子の実」の詩が生まれたそうです。作者が「何千キロも離れた遠い島に思いを寄せ此処に辿り着くまでにいったいどれくらいの歳月がかかったのだろう・・・」と詠うこの詩を聞くと、自然に望郷の念が湧き上がって来てしまいますが不思議な気がしますよね。

椰子の実一つ

1936年(昭和11年)に日本放送協会(NHK)日本放送協会大阪中央放送局で放送中であった「国民歌謡」の担当者が作曲家の「大中寅二」宅を訪問して、この詩に曲を付けるよう依頼され7月9日に曲が完成したもの。東海林太郎の歌唱で一週間放送されると職場や学校でも歌われ、12月にはレコードが発売されると広く愛唱されていった。

愛知県、渥美半島の観光案内所では1988年(昭和63年)から毎年、「椰子の実」の再現を目指し、「遠き島」に見立てた石垣島沖で標識を付けた「椰子の実」を投流するイベントを開催しているそうです。投流された椰子の実が鹿児島県以北で拾われた場合には、発見者と投入者を伊良湖岬へ招いて対面式が行われており、2020年までに3個が伊良湖岬がある田原市に漂着しているが、恋路ケ浜へはまだ漂着したことがないそうです。

NHK連続テレビ小説『ちむどんどん』は、2022年に本土復帰50年を迎える沖縄が舞台です。沖縄料理に夢をかけるヒロインで、四兄妹の次女の上白石萌歌が演じる比嘉歌子が「椰子の実」を歌唱していますネ。このような昔懐かしい叙情歌はいつ聞いても懐かしさが込み上げてきますね。この処コロナ禍によって帰郷が叶わなかった人たちも多くいたと思いますが今年のお盆には安心して懐かしい故郷に集まれるといいですね。

 令和4年 水無月          八 大




道草について

道草を食うとは                                    「馬が道端で草を食べていることで、歩みが遅くなる こと。転じて目的地に行く途中で他の事に時間を費やしてしまう事を云います。」

道草を食う
子供の頃「道草をしないで帰って来なさい」と母親にたびたび云われたことがありましたが、そんなに真面目じゃなかったので学校帰りに友達と途中あちこちに寄り道しながら暗くなるのを忘れて遊んだことを思い出す。「道草ってどんな草」っていう事を云いだす子供でした。よほど何かなければ真っすぐに家へ帰ったことはなかった。 でも今になって振り返ってみると、道草を食う習慣が自分の人生を豊かにしてくれたようにも思えます。

暫らくぶりに各駅停車に乗ると、停車する駅名も車窓の景色の移り変わりも思いのほか新鮮に感じられた。ただ躓きもなく順調に近道ばかりを歩いて一生を終えてしまう人がいるとしたら勿体ない話です。大切なものを見落としてしまっているかもしれませんよね。人生の寄り道や回り道によって今迄に気付けなかった、風の匂いや季節の変化に感動を覚えることによって、細やかな配慮の出来る人へと創られていくのではないかと思います。

「究極の道草は旅である」                            若い頃には興味を持ったことに理屈抜きで取り組んで来たがそれは「人生の種まきの時期」でもあった。これからの時間は自分の人生を豊かにするために使うもので、敢えて道草を食うということは人生に彩りが添えられる大きな財産である。最近は道草という言葉そのものを使う機会が減っているけれど、何故だろうか? 道端に草が生えていないのではなく、草を喰いに行く気概が減っているのではないかと思える。

 令和4年 水無月         八 大
















茗荷(ミョウガ)

茗荷
 梅雨のこの時期、青々とした茗荷の茎が伸びてその根元にふっくらとした茗荷が芽を出し私を迎えてくれました。そろそろ私の出番です・・と云いながら可愛らしい新芽をトンガラセテお目見えです。茄と胡瓜と茗荷の浅漬けは最近では年齢のせいもあり、食が細くなったにもかかわらず茗荷の歯触りと食感は別腹でありついつい食が進んでしまいますね。

茗荷は収穫時により「夏みょうが」や「秋みょうが」などと云われていましたが現在では栽培方法の改良によって通年で出回っていますね。そうめんや冷奴、蕎麦などの薬味としても利用されており、昔も今も夏バテ対策にはもってこいのアイテムです。

収穫された茗荷
茗荷にはビタミンCやカリウム、食物繊維などが多く含まれているそうです。また熱を冷ます解毒作用があるなどの効果があり夏の食卓には欠かせない存在です。かつては「物忘れがひどくなる」という俗説もありましたが、むしろその香味で集中力が増す働きがあるそうで根拠のない言いがかりだったようです。

話は変わりますが、東京都文京区の小石川には「茗荷谷」という地名が残っております。これは江戸時代に牛込早稲田あたりから小石川にかけてミョウガの栽培が盛んだったらしく、その谷間(畑)を見下ろしたことに由来したと云われています。

 令和4年 水無月        八 大





ブロッコリーの話

青虫に食わられたブロッコリー

 我が家はこの時期ブロッコリーを狙うアオムシの駆除から始まります。5株しかないブロッコリーですが朝起きていきなり葉っぱに近づくと毎日食べられていて、その穴は数えきれないくらいです。丁寧に割り箸を使って一つ一つ駆除していきますが毎朝その数は40匹をこえます。アオムシブロッコリーをはじめキャベツ、小松菜、カブなどアブラナ科の野菜の大敵です。犯人は モンシロチョウの幼虫で卵は葉の裏に点在して産み付けられるようで、葉の裏から穴をあけて食べられるようです。このまま育つかどうかこの先が心配です。

ロッコリーはビタミンやミネラルが豊富に含まれているのに低カロリーで特にカリウムや鉄分・ビタミンCが多く含まれており筋力を付けるためには最高の食材と云われております。ボディビル大会に出るようなマッチョから、ほどよく筋肉がついた細マッチョ、最近ではメリハリのついたボディラインを維持する筋トレ女子までが食されているそうです。

ブロッコリーの歴史は古く原産地はヨーロッパの地中海沿岸だと言われていて、ローマ帝国時代にイタリアを中心に栽培されていたそうです。中世にかけてヨーロッパ全体に広がり、移民などをきっかけに19世紀の後半にアメリカへと広がっていきました。日本での普及し始めたのは明治の始め頃に伝わったそうで、つい最近の野菜であるとも云えますね。もともと野生のキャベツを品種改良して生まれたものらしく、これをさらに改良して出来たものがカリフラワーだそうです。

料理の先生に聞くと、 ふだん食べているのは花蕾といわれる部分ですが、茎もやわらかく栄養もたっぷりです捨てるところはないと。お湯で茹でるより、電子レンジで調理する方が栄養素がたっぷり摂れるのでおすすめだそうですが、茹でる場合に比べると、水に流れ出やすいカリウムやビタミンCなどの栄養素の損失を防げます。含まれる栄養素の多さからブロッコリーは「野菜の王様」と呼ばれているそうです。


 令和4年 水無月          八 大










秘すれば花 とは

 能楽の大成者で室町時代に「世阿弥」という人が居りましたが能の理論をまとめた「風姿花伝」と云うものがあります。今から700年以上前に書かれた本ですが最近ビジネス書として改めて注目されているそうです。  その中に「秘すれば花」という言葉がありますが時代を超えて受け継がれた芸の神髄について書かれています。

芸とは人々に感動を与えるもので思いもよらない感動を与えられたとき、それを「花」と云うそうです。花は演技の中でさり気なく見せられるもので、それを軽々しく人に話してしまってはどんなに素晴らしい演技や演出であったとしても花ではなくなります。役者にとって「花」とは観客に感動を与えるキモであり自分だけの物として大切に持っていて、なくてはならない物であります。

今の言葉に置き換えると花とはサプライズのようなもので、相手に心の準備をさせることなく不意打ちを食らったような感動は何倍も膨らみ余韻を伴うもので観客に感動を与えるものです。そのこころが「秘すれば花」ですね。

よく似た言葉に「言わぬが花」という言葉もありますが「言わぬが花」ははっきりと云わない方が値打ちや味わいがあるという事になります。「秘すれば花」は云わないどころか、秘密がある事さえ隠しておきなさいという教えですから、より秘密度が高いと言えます。

「言わぬが花」は自分からペラペラしゃべることで、自分の価値を下げることにもなり兼ねないことになります。余計なことは一言も言わないようにと云う戒めの意味合いもありますね。お互いすべてを見せてしまわないで秘密の部分を持っておく方がその重みを感じさせます。そういう事では何か恋愛にも通じるものがありますね。

 令和4年 水無月         八 大



行為の意味

  「思いやりを行動に」  

  あなたの心はどんな形ですかと
   人に聞かれても答えようがない
  自分にも 他人にも心は見えない
   けれどほんとうに見えないのであろうか

  確かに心はだれにも見えないけれど
   心づかいは見えるのだ
  それは 人に対する積極的な行為だから

  同じように胸の中の思いは見えないけれど     
   思いやりは見えるのだ
                                   それは 人に対する積極的な行為なのだから                                                  

  あたたかい心が あたたかい行為になり
   やさしい思いが やさしい行為になるとき
  「心」も「思い」も、初めて美しく生きる
  それは 人が人として生きることだ
  

  [

[私達の道徳 小学校5・6年]              

羽生市の出身で詩人の宮沢章二さんと云う方がおられました。埼玉県の内外で小・中・高等学校、300校以上の校歌の作詞をされたことで知られております。

宮沢さん作品の一つに「行為の意味」という詩があります。「行為」とは、「行動・行い」のことです。「あなたのこころはどんな形ですか」という問いで始まるいこの詩は「思いやりを行動に移すことの大切さ」を伝えています。

今から11年前に起こった東日本大震災の直後、未曽有の災害による大きな衝撃が日本を覆う中、テレビから発信されたこの詩が復興へ向かう日本の背中を押してくれました。その時に使われた「行為の意味」という詩の一節です。                     「心は誰にも見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど思いやりは見える」

この部分はいろいろな場面で使われていましたが世界中が10年以上たった今、コロナ禍と云う大きな困難に遭っています。人と人との接触が制限され、コミニュケーションの取り方もこれまでと変わってしまいました。そんな時ですが「何か自分にできることはないか」「誰かのために役に立つことはないか」と行動してみることが大切だと思います。

 令和4年 水無月         八 大





カルミヤの花

我が家のカルミヤ
 カルミヤ アメリカシャクナゲ(石楠花)と呼ばれており明治時代に桜をアメリカに寄贈したお礼として渡来したものだそうです。別名をハナガサシャクナゲとも呼ばれ花の形を花笠に見立てたようで星形のつぼみも面白いですね。アメリカでは自生の植物でインデアンが根からスプーンを造っていたので「スプーンの木」とも呼ばれているそうです。

日本でも最近園芸用として栽培されておりましてよく見かけるようになりました。我が家でも20年ぐらい前から庭の片隅で1mほどの高さで一本だけ咲いています。ピンク色が一際目立っており、この時期だけですがお姫様のような扱いを受けておりいます。チョット見ると五角形の形は金平糖のようにも見えている時もあり懐かしさもあります。

花の形をよく見ると小さな五角形のパラソルがたくさん開いているようで何とも可愛らしいでね。花言葉は「大志を抱く」「爽やかな笑顔」「野心」とありますが、実はカルミヤの葉にはシャクナゲやツツジ科の植物にあるグラヤノトキシンと云う毒を持っており、誤って食べると下痢や嘔吐になりやすいので注意が必要です。そのためカルミヤは
安行の史跡巡りの途中で
別名「羊殺し」
という名前が付けられているそうです、それなりのご注意が必要です。

晩春の頃つぼみが膨らみこの梅雨の頃に掛けて一か月ぐらい少しずつ開いていくので色の変化もあります。長い間楽しませて戴いた上花が終わった後も散らずに少し茶色になりましたが春を見送っております。

安行の史跡巡りでは花と緑に囲まれて楽しい                     一日となり感謝の一日でした。

 令和4年 皐月          八 大




「初夏の風」川上澄生の版画

本棚を整理していたら一枚の絵ハガキが 出てきた、なんとこの清々しさは・・。

あれは確か30年ぐらい前でした、車で日光の田母沢御用邸を見に行くときに途中の鹿沼市を流れる黒川の近くを通りかかった際「川上澄生美術館」がありました。この辺りではあまり見かけることのない建物だったので美術館の中に入ってみました。薄緑色の版画が展示されており・・ なんじゃこりゃ? と思った記憶がありました。

初夏の風

 かぜになりたや 

はつなつのかぜとなりたや  
                         かのひとのまえにはだかり

かのひとのうしろよりふく

はつなつのはつなつの 
                         
かぜとなりたや 


川上澄生は父親の仕事の関係でアメリカやカナダにに滞在しその間当地の美術学校に学び、帰国してからは栃木県・宇都宮旧制中学校で英語の教師として赴任し、好きな版画や詩の制作にも打ち込んだ。大正11年に発表した「初夏の風」は版画と詩が一つの画面で響きあう独自の世界を作り出したという事で版画界で大きな反響を呼びました。

棟方志功が版画家になるきっかけとなったのは川上澄生の作品だったと云われています。


川上澄生詩と絵の世界



鹿沼市立川上澄生美術館








へっぽこ先生



波囲み南蛮船










 令和4年 皐月        八 大







「オシラ様」蚕の神様

オシラ様
オシラ様

初夏の今頃を皐月と云いますが「木の葉採りの月」という別名があり蚕のエサである桑の葉を摘む頃と云う意味です。養蚕は戦前まで日本では盛んでたくさんの桑畑が広がっており蚕は美しい糸をはいて繭を作りその繭から絹の糸が取れます。東北地方では蚕と家の守り神である「オシラ様」が広く信仰されております。


桑の葉
主に村の旧家などに祀られていて、生活に深く浸透している              であります。オシラ様は人形神で、ご神体は30センチほどの長さの桑の木で作られた二体一組の偶像です。その姿は馬頭、姫、男女、など、そのお顔は彫刻や墨書きなど様 々である。ご神体である桑の棒は、元々はオシラ様を宿らせ る道具から変化したもので、桐の箱などで大切に保管されて いたそうです。


「遠野物語」で有名な遠野市は岩手県花巻市の東側にありま
曲がり家
すが、昔から柳田国男がこの地方に伝わる逸話や伝承などを
蒐集したもので日本民俗学の先駆けとも云われており良く知
られております。この地方独特の「曲がり家造り」の旧家に
上がらせて頂いてオシラ様の話を聞いたことがありました。
ご神体を前にして老婆の語り口は何とも恐れ多い感じがして
ジッとその口元を見つめているだけでした。


絹織物の歴史 シルク素材は最も古い繊維と云われおりますが、何と紀元前の20世紀に中国で始めたと云われています。中国の皇女が当時「繭」で遊んでいた際に繭をお湯の中に落としてしまいました。しかしそれを拾い上げる時に糸を手繰ったことで絹糸つくりの最初だった事が伝わっています。また中国の甲骨文字に「桑」「蚕」「糸」「棉」などの文字が見つかっております。シルクを養蚕する技術は中国で発達しましたが国外に持ち出すことは禁じられていました。その為ヨーロッパの人達はどうにかして手に入れようとして中国との交易したそうです。その交易の道が「シルクロード」という言葉に繋がります。

シルクロード


現在では多くの布製品が化学繊維に変わっており国内で生産を続けているメーカーは生産コストが合わずに国内の養蚕家が少なくなっております。絹製品のほとんどは中国やブラジルなどにに変わっており日本のシェアは僅かに10%になっているそうです。時代の変化とは言え将来が心配ですね。


 令和4年 皐月         八 大








二十四節気の話 蚯蚓出(みみずが地上に這い出る)

蛙始鳴
「 みみず」は夏の訪れを告げ、畑の土を豊かにする上でも欠かせない生き物です。一昨日久しぶりに畑仕事でナス苗を植えようとすると早速にお目見えされたのが、あのニョロニョロとしたみみずのお出ましです。その名前の由来は手足もなく目もないその姿の「見えず」から派生したとされています。みみずは一生を土の中で過ごし細い体で這いまわり、土の中に含まれる微生物を食べます。みみずが排出する粒状の糞が植物を育ちやすい土質に作り替えるそうです。又みみずは漢方では解熱や気管支を広げることで咳を和らげる効能があるそうです。

蚯蚓出

季節を表わす言葉に春夏秋冬がありますがもう少し細分化すると「二十四節気」と云う言葉があります。春夏秋冬を更に6つに分けることで、1年を二十四に等分し、それぞれの季節に相応しい名がつけられています。季節の訪れを一歩先んじて察知することができ、農作業に従事する人には欠かすことのできない暦です。さらにその二十四節気の各一気(約15日)を約5日ごとに初候、二候、三候と3等分し、一年を七十二
に分けたものを「七十二候
竹笙生
と云います。                   

一年のスタートは立春から始まりますが、立夏の頃は二十四節気の内で最も過ごしやすい季節の夏が始まります。カエルの声が聞こえる蛙始鳴(かわずはじめてなく)、ミミズが動き出す蚯蚓出(みみずいずる)、タケノコが芽を出す竹笙生(たけのこしょうず)今がこの季節であり土の中ばかりでなく人の世界でも心をウキウキさせる季節になりましたね。

古代中国では陰暦が用いられ、日付が太陽の位置とは無関係であったので春夏秋冬の循環による暖・暑・涼・寒の訪れにズレを生じることになります。これを補うために日付とは別に季節区分法が必要になったそうで、つまり太陽の黄道上の位置、黄経三百六十度を二十四等分した位置にそれぞれの節気を配置して、一年の気候の推移を知るようにしたものだそうです。夏至、冬至、春分、秋分と立春、立夏、立秋,立冬の八節を合わせて暦と季節のズレを正しながら用いられていると云います。   (暦は難しいですね。)

 令和4年 皐月         八 大








 

遠藤さんちのバラ園

 春日部(藤塚)「遠藤さんちのバラ園」

 毎年、この時期に自宅を開放して皆さんにサービスしているそうです・





















ウクライナの近況と将来

 ウクライナと云う国

ウクライナ国旗
 ウクライナは東側をロシアに、西側をヨーロッパ連合(EU)の国々に挟まれた、人口4千万人を超える国で、面積は日本の1・6倍、耕地面積は農業国であるフランスの1・8倍もあり、小麦などの穀物や野菜などたくさんの農産物が生産されることから「欧州のパンかご」とも呼ばれます。国旗の青色は空を、黄色は小麦畑と二色で表されており、いかにも農業国であることを象徴しています。

 今の首都キエフに生まれた「キエフ公国」(キエフ・ルーシ)が10~12世紀に欧州の大国となり、同じスラブ民族からなるロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流になりました。ルーシとはロシアの古い呼び方です。13世紀の歴史で「モンゴルのくびき」については前号で述べましたので割愛しますが,その後に栄えたモスクワがロシアを名乗り、キエフ・ルーシを継ぐ国と称しました。ウクライナは東スラブ民族の本家筋ですが、分家筋のモスクワが台頭して大きくなったとも言えます。

 ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ東部で特別な軍事作戦を行うことを決めました。「兄弟国」とも呼ばれる、かつてのソビエト連邦(ソ連)の仲間を、なぜロシアは攻撃しようとするのか。その背景と経緯をまとめた。

 ウクライナは20世紀になると、世界で初めての社会主義国であるソビエト連邦(ソ連)ができ、広大な領土を持つ国となった。しかし、1991年にソ連が崩壊して多くの国に分かれた。ロシアもウクライナも、このときに独立しました。ただ、首都モスクワを含むロシアが人口の多さも領土の広さも群を抜いているため、ロシアのプーチン大統領は「ロシアが兄でウクライナなどが弟」という関係と見ていた。

ゼレンスキーとプーチン
独立して民主主義国になったウクライナは、ロシアと親しくしようという政権と西ヨーロッパの国々と親しくしようという政権の間で揺れた。2014年に親ロシアのヤヌコビッチ大統領政権が倒れるとプーチン大統領は軍隊を出して、黒海に突き出たウクライナ領のクリミア半島を占領し、強引にロシアに組み込んだ。さらにウクライナ東部(ドネツク州とルガンスク州)にいて独立を目指す親ロシア派の武装組織を支援し、ウクライナ軍との小規模な戦闘が続いてきた。今回のロシアの侵攻にはそういう伏線があったのです。

プーチン大統領が戦争をしてまでウクライナを従わせようとする大きな理由は、ウクライナがロシアとヨーロッパにはさまれた位置にあることです。ウクライナがヨーロッパの国々と親しくなり、北大西洋条約機構(NATO)に入ることになれば、プーチン大統領からすると、すぐ隣にNATO軍がいることになり心穏やかでない。プーチン大統領としては、ウクライナをNATOに入れさせないために、ロシアの言うことを聞く国にしないといけないと考えたとみられる。もちろん、ロシアの言い分が国際社会で通るわけがない。ウクライナがどの国と親しくしようが自由で、それを武力で一方的に変えさせようとするのは許されることではない。

米国、欧州の国々や日本などの多くの国は、ロシアに対して経済制裁を発動した。ロシア通貨のルーブルと外貨との交換を難しくしたり、ロシアが外国に持っている資産を差し押さえたり、ロシアの輸出品に高い関税をかけたりしてプーチン大統領の弱体化を図った。

ロシアの侵攻を通じて、浮き彫りになった問題が二つあると思います。一つは国連の弱さです、国連で平和と安全に責任を持つのは安全保障理事会だ。常任理事国は5カ国で、ロシアも入っている。実行力のあることを決めるには5カ国が一致して賛成しなければならないというルールがあるため、ロシアが反対すれば何も決められない。国連のしくみを変えて、国連の実行力をもっと発揮しやすくしなければならないと思った人は多いだろう。  もう一つは、核保有国が独裁的なリーダーのもとで戦争を始めたときの怖さです。ロシアは世界で最も多くの核弾頭を持つ国です、暴走するプーチン大統領はウクライナに対して核兵器の使用すら匂わせる発言をしています。このままでは核を持つことが自国を守ることに繋がると考える国が増えれば世界はますます危険な状態になっていく。確かに核戦争にならないことを危惧しているとは思うが、使えば使われることにもなり最後は自制心が働く事は自明の理であります。

この戦いでウクライナは多くの人命を失った事は大きな痛手であるが、長い目で見れば攻め込んだロシアの方が長期的には政治的・経済的・国際的にも孤立して行くことになるでしょう。時が経つにつれてロシアは国内の混乱が続いて行き貧しい国にななると思われ大きな代償を払う事になると思います。 ウクライナ頑張れ・ゼレンスキー頑張れ!

 令和4年 皐月         八 大






水角神社の富士塚

水角神社
春日部市の旧庄和町地区の国道四号線バイパス沿いの目立たない処に「水角(すいかく)神社」があります。水角なんて聞いたことがないと云われる人があるかと思いますが郡村誌によると当地は寛永年間(1624~44)から開墾され正保年間(1644~48)に水角村と称したと云われます。覆い屋の中には一間社造りの本殿には二社あり八坂神社とその後合併された八幡神社があり、その後にも稲荷神社も合併されたとあります。それから後に病人が相次いだことがあり祟りを恐れ合併を機に、社号を「三霊神社」と改めましたが更に大正六年に「水角神社」と改めたそうです。(このころは全国的に小神社の統廃合が行われたそうで、私の八丁目地内の香取神社も「香取・八坂・稲荷合社」とあります。)

水角神社の額
神社の裏手にある富士塚は万延元年(1860)に築かれたもので北葛飾地区では同じ町内にある宝珠花神社の浅間塚に継ぐ古いものだそうで、周りには沢山の石碑が建てられており往時は信仰が盛んだったことが伺えられます。またその中でも「丸岩講」と云う組織が当時盛んだったようであちこちに石碑が建てられていたようです。                           また富士塚(浅間塚)の始まりは安永9年(1780年)に江戸の高田藤四郎と云う人が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています

富士塚
先日、民家の裏手に居られた老女に伺ったところ、30年程前に国道のバイパスが出来ることで移転となりましたが目の前が浅間塚でしたので有難いと思っていました。当初は組内の人も手入れをしてくれましたが、年を取って来て儘ならなくなったので市役所にお願いして管理ををしてもらっていますが・・・・長年の風雪に耐えて、忘れられているような状態になっており悲しく何とも寂しい思いをしているそうです。

富士塚の説明
富士講(ふじこう)は浅間講とも云われ江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に                     を中心とした関東地方で流行したもので、                     修験道の行者であった男は常陸の国での修行                     を終え陸奥の国で岩窟で修行中、役行者より                     お告げを受けて富士山麓の人穴に辿り着く。                     そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立                     ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年                    (1560年)「角行」という行名を与えられた                 と云われる。

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。修行の地である人穴に接する「人穴神社」は主祭神を角行としている。その後盛んに石碑が建てられて現在でも230基の石碑塔群が残っており「人穴富士講遺跡」として知られています。

 令和4年 卯月         八 大







 














シバザクラ(芝桜)

シバザクラ(芝桜)は、春に小さな花を咲かせる多年草です。1つ1つの花は小さいですが、満開になると絨毯のように花が広がります。その美しい姿から、開花時期になると全国の名所にはたくさんの人が訪れますよ。先日、栃木県の市貝町の芝桜公園に足を延ばしてみましたが、この時期コロナ禍に飽きた家族ずれで大賑わいでした。

芝桜は北アメリカが原産で、地面を覆うように広がって育つハナシノブ科の多年草です。茎が立ち上がらないことから寒暑や乾燥にも強く常緑である為、芝生代わりに植えられているところもあります。白やピンクの小さな花を、4月~5月にかけて赤、薄紫、白の花を密集して咲かせます。桜と同時期に桜に似た花を咲かせることから「シバザクラ」と名付けられたと云われます。西洋では別名ハナツメグ(花詰草)とも云われています。

芝桜(シバザクラ)の花言葉は「合意」「一致」「臆病な心」で、小さな花を密集して咲かせる様子に因んでいますが、「忍耐」「協調」と云う言葉もあり小さいながらも沢山の花を咲かせる生命力に由来しています。

この広いシバザクラの絨毯の中を歩くと、意外にも今まで気づかなかった心地よい香りが漂ってきました。この匂い?この香りです!自然は季節を忘れず知らせてくれているのに気がつかなかった自分に恥じてしまいます、シバザクラの香りがあったんですね。残念だったことに初めての発見でした。そう言えば先ごろの音楽会でビオリラの音を聞いて忘れていた音の響きを感じることが出来ました。

ここで私事になりますが、自分で五感を刺激することで脳の疲れを取ることがイイらしいと聞いたことがありました。五感とは、ご存知の視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚のことで、それを意識して感じることで脳を鍛えることになるそうです。今年になって白内障での治療により視覚が回復しました。今回はシバザクラの香りで臭覚を堪能しました。味覚と触覚は日頃から身近に鍛えております。気になるのが聴覚の衰えが心配ですので意識して耳をダンボにしております。五感を意識していくと第六感(インスピレーション)も自然と身についてくるとらしく小さなことですが、時々予感を感じることがあります。

実業家・思想家でヨーガの修行者でもあった中村天風は霊感について五感を越えていることから「第六感」とも呼んだ。身近な例としては「虫の知らせ」と云うものがあると云います。もともと人間として生命を得たからには誰にでもこの感覚を持っているのだが、文明人になるにしたがってこの働きが弱くなってしまう。この霊感を磨けば無念無想になれると述べています。

 令和4年 卯月          八 大





















初鰹

しぶりに晴天が続いて気分が良いので散歩の帰りにスーパーへ立ち寄ると初鰹の表示あり。すぐに飛びついて大き目の柵を買い込んで包丁裁きはお手の物山椒の新芽を添えました。夕餉の席へ持ち込んで一献傾ける風情は自画自賛である。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」とはこの事なりと納得し岩手の地酒を手元にする。

この句は江戸中期の俳人山口素堂の有名な句がありますがチョット気になる事に気がつきました。プレバトの夏井いつき先生に云わせると季重なり(きがさなり)でボツになりそうですよね。こんな時はどんな受け答えをするのか興味がありネットで調べると答えがありました。俳句の中に明らかに「強い季語」と「弱い季語」があり、どちらが主役かハッキリしている場合は季重なりでもOKとなります。この場合には季語同士がお互いを邪魔しません? との答えでした。

鰹には旬(しゅん)が二度あります。「初鰹」「戻り鰹」の2種類があるのですが、初鰹は「春のかつお」として知られており、サッパリしているのが特徴です。初鰹は、南から北上する途中の3月頃から獲ることが出来るため、脂の乗りがイマイチでサッパリしているのが特徴です。

北上して行く鰹は8月頃に宮城県沖に移動して折り返し11月頃にかけて鹿児島に向かって南下して行くのが戻り鰹で、南下する途中で沢山の脂分を蓄えて行く為そのままでも美味しく食べられます。けれども高知のグルメと云えば表面だけ藁で香ばしくあぶり焼いた「藁焼きタタキ」の料理は豪快に食べられ本当に旨いです。ご存知の高知発祥の食べ方と云われています。

昨夕に食べた初鰹は旬に違いはないけれど残念ながら戻り鰹とは比べ物にならないもので「江戸っ子の心意気」を示しただけでした。

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 櫻 (日本人の心)

吉野の櫻
満開の桜に語りかけると「この処の寒の戻りで気分が引き締まります」と桜の精が答えてくれたようで引き締まった気分が味わえました。コロナ禍のお陰で世の中肩身の狭い思いが続いておりますがキリッとした感じも良いもんですね。さくらは美しいだけではなく日本人の心の中に住み着いているように感じられます。

私の紺珠の中にあります桜のメモを開いてみます。平安時代から現代まで、桜に魅了され続けて来た日本人の心を和歌で迫りたいと思いまして・・・・。

「世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平 世の中に桜などなければ、春は心のどかに過ごせるだろうにと云う反語的な表現で詠まれています。桜のことで落ち着かない心持ちを見事に表現していますね。

「久かたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」紀友則 陽がのどかに射している春の日に桜が咲いている美しい光景が目に浮かぶ、その桜の花は「しず心なく」散って行く。自分は、のんびりと静かに桜を見ていたいのに、そんな気持ちを理解せず、桜の方はなぜ散り急ぐのでしょうか。と云う口惜しい心持ちを詠んでいます。長閑(のどか)な陽の光の中に咲き、あっという間に散ってしまう櫻は日本人にとって人間の生と死の象徴を表わしているように思われますね。

「願わくば花の下にてわれ死なんこの如月の望月の頃」西行法師の有名な歌です。釈迦が入滅した旧暦2月15日の満月の頃に」という意味であります。西行法師は桜を愛し230首もの櫻を詠った歌を詠んでいます。その桜の下で死にたいという望みを果たすかのように、実際に旧暦の2月16日桜花の下で亡くなり世の人々はその不思議に驚いたと云います。その後西行の墓の周りには多くの桜の木が植えられたと云います。日本人は昔から桜の花と共に生きてきたのです。

「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花の在りかを」一休禅師の道歌として知られていますが、春になると満開の桜をまとう吉野山も冬には枯れ木のような木々が林立するばかり、花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても桜の花は見つかりません。

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