嵯峨野路その6

今日も金閣寺は輝いていますネ・・・』と云っていた初老のご夫婦がおられた。

金閣寺
金閣寺の正式名称は北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)と云い臨済宗相国寺派の塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から金閣寺として知られています。寺の名前は室町幕府3代将軍、足利義満の法号である鹿苑院殿から名付けられました。その歴史を紐解くと600年以上も昔に遡ります。京都の北山にある西園寺家(さいおんじ)の邸宅と庭園を譲り受けた足利義満は1397年に山荘である北山殿(きたやまどの)の造営に着手し翌年に舎利殿が完成し51歳でこの世を去るまで住処としていました。

鏡湖池
金閣の目の前に広がる「鏡湖池(きょうこち)」は大小の島々との背景が美しく水面に金閣が反射し鏡の中に足を踏み入れた気分を味わえます。鹿苑寺庭園として特別名称指定地となっており池泉回遊式庭園の代表的なお庭とされています。

金閣寺は建立されて以来、さまざまな時代の流れの影響や災難を受けていますが1467年の応仁の乱では多くの建物が焼失しましたが、奇跡的に金閣などいくつかの建物は消失は免れました。第二次世界大戦終了後いよいよ戦後の復興の動きが見えたころ金閣寺放火事件がありました。

「金閣寺放火事件」金閣寺が燃えちゃった・・と小学2年生の時に祖父から聞かされたことがあった。それはお寺の坊さんが金閣寺に放火して丸焼けになっちゃったよ、残念としか言いようがないよと独り言のようにつぶやいていたことを覚えています。

昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の学僧によって放火炎上し焼失しました。その学僧は寺の裏山で自殺を図ったが一命は取り留めた、その動機は「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。しかし母親は警察の事情事情聴取のために京都に呼ばれその帰り道に保津峡で投身自殺をして命を絶ったそうです。

この事件から6年後になって三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求していく事になったと云われています。その時に出版されたベストセラー作品が小説「金閣寺」であります

その当時の住職は、いち早く再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が自ら進んで浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復がなされ焼失前より創建時の姿に近くなったと言われています。1944年には世界文化遺産に登録され海外からの観光客の人気も高く世界的な観光名所となっています。

 令和3年 霜月          八 大 




















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