「桃 旬」の画像検索結果 白桃は7月下旬から8月にかけて美味しい季節になっています。白桃はその名の通り白い桃であり、岡山県の発祥の地である。日本独自の桃と云われており今が一番の食べ頃で美味しいですね。桃は雨によって実が大きくなる代わりに甘みがが拡散してしまうことなので長雨の後では味が落ちてしまうという微妙な果物です。

 神話の時代イザナミノミコトが黄泉の国の黄泉比良坂で悪鬼たちの襲撃にあったときに、3個の桃を投げて難を逃れたという話があります。
 桃は中国が原産の地ですが不老長寿の象徴であり不老不死の世界は桃源郷と云われていいますが「世俗を離れた別世界」のことを指す言葉で、煩わしいことのない楽園とも云います。普段日常を過ごしている世界から離れた理想的な世界です。

中国南北朝時代の文学者であった、陶淵明は目的をもって追求したのでは到達できない場所とであるとし、日常生活を尊重し同時に書物を通じて神話世界を飛翔し神仙の境地に至っていたと云われています。
 その一説に 

    初夏になって草木が伸び            我が家の周りには樹木が茂る 
    鳥たちは巣作り喜びに励み            私も自分の家が気に入っている 
    野良仕事に精を出し                        家に帰ると読書を楽しむ 
    狭い道には車も入って来れぬから          煩わしい付き合いをしなくても済む 
    近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし  肴に庭の野草を食う 
    小雨が東の方から降ってくると                   それに添えられた絵に目をやる 
    寝ながらにして宇宙のことがわかるのだから    こんなに楽しいことはない

    令和元年         八 月               八 大

 「孤独という道づれ」

 6月の末、全く偶然に駅前の改札口でY・Sさんに出会った。「久しぶりだね」と挨拶をするとラムズイヤーはこの近くにありますか・・?と問われる。ブログに書いてあったハーブの小道はこの近くですかと聞き返されるが、そんなに大業なもんじゃないけれど案内してあげますよと歩き出すと間もなく目的地に。

わずかな空き地であるが私にとっては植物園でもあり、夢のパラダイス。
ああこれですか本当にウサギさんの耳と云ってましたが形と云い肌触りといい何とも言えませんね。他にもラベンダーをはじめ小さな名札が付けてあるのでよく分かります。
ヤマヤでお茶したがその時は多弁で元気で生き生きしていた。

後日一冊の本を受け取りました。それは返さなくても良いですからと、岸恵子さんの最近出版していたエッセー集「孤独という道づれ」を・・戴きました。
「孤独という道ずれは。馴染んでみればファンタスティック!私は少しばかりずる賢く要領よく、この道ずれを抱き込んで、かなり気ままな一人旅」と書き込まれていた。
この内容とは少しばかりずれているように思いますが、ここにきて孤独ということが最近特に問題視されているようで、それを道連れにできれば気が楽になりそうですね。

彼女は以前から古利根川の遊歩道を好んで散歩をしたらしく、たまに来るスマホには藤塚橋から公園橋間の季節の様子が記されていました。
体調がすぐれないことは以前から聞いておりましたが、こんなに早く逝かれるとは思いもしませんでした。まだまだブログでのやり取りをしたかったのに残念でなりません。
仲間の皆さんももう少し先を目指し頑張りましょう。


 令和元年     八月          八 大


土潤いて蒸し暑し(つちうるおいてむしあつし)


 八朔


「稲穂」の画像検索結果 八朔とは一日(ついたち)のこを云いますが旧暦の八月一日を八朔と云って、そのころとれはじめる早稲の穂を日頃お世話になっている人へ贈る習慣がありました。田の実の節句とも云うそうです。その意味が転じて田の実を「頼み」となり農家だけでなく日頃の恩にお礼をする日になったと云われているそうです。(ホントかなと思いません?

「だらりの帯」の画像検索結果
 もう一つあります これは皆さんご存知のことと思いますが、京都の芸妓さんや舞妓さんは新暦の八月一日になると日頃からお世話になっている、芸事のお師匠さんやお茶屋さんに「よろしくおたのもうします」「おきばりやす」とあいさつ回りをする習わしになっています。この日は祇園界隈では着飾った舞妓さんたちが忙しそうにあいさつ回りをしている姿を多く見かけることが出来ますよ。


Hassaku fruit and cross section.jpg 八朔(ハッサク)日本原産のミカン科柑橘類のひとつで
この時期スーパーで多く見られます。果皮だけでなく、袋(じょうのう膜)も厚いため、通常は袋も剥いて食べました。独特の苦みと酸味があるものの、鮮度の良い物は水分多い。日本国内でのハッサク栽培は、江戸時代末期に尾道市因島浄土寺原木が発見されたのを機に始まったとされる。現在因島では約二千戸の農家がハッサクを育てている。         




 令和 元年 八月一日         八 大





 大 暑 (3題) 

 今年の梅雨は異常気象とは云え何とも長い梅雨だったですね。気象庁の話によると近年では記録的mには日照時間が短かった。その結果か病害虫の発生か変な形のキュウリやナスが見られます。おかげで季節の野菜や果物の生育が思わしくないそうだ。我が家でもナスやキュウリは変な形が多く不作でした、代わりにトマトの成績は良好です。

 今日は土用の丑の日
さて立春、立夏、立秋、立冬の前の十八日間を土用と云います。立秋前の夏土用の丑の日には鰻を食べる習慣があり精の付く鰻を食べて暑さ乗り切ることから始まります。鰻を食べる習慣が一般的に広まったのは江戸時代夏に売り上げが落ちると相談を受けた平賀源内が、店先に「本日丑の日うなぎの日、食すれば夏負けすることなし」という看板を立てたら大繁盛したことで、ほかの鰻屋でも真似するようになったとか。「本日丑の日」は日本初のコピーライティグ云われています。

 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)
高級桐ダンスは湿度が高いと膨張して気密性が高まり湿気を防いでくれる、乾燥時には収縮して通気性を良くしてくれる。昔の人は嫁入り道具として桐ダンスを持たせるため女の子が生まれたらきりを植えるという習慣がありましたネ。この時期キラメキ通りのポケットパークにも小さな実が付き始めました。

 夏といえば花火の季節
江戸時代、八大将軍徳川吉宗の時代享保の飢饉のころコレラの流行がありましたが、この慰霊と厄払いを兼ねて隅田川で花火大会が行われたことが始まりと云われております。称賛の掛け声で有名な「玉屋』「鍵屋」と云った花火職人たちがありましたが「玉屋」は失火があり一台で断絶されました。鍵屋は現在にも続いており聞くところによりますと十五代目になっているそうです


   令和元年 7月       八 大







日本人の死生観


 物事は考えようだ

 元来あまり先のことを考えるのが不得手な自分ではあるが最近になって「人は死んだ後どうなっていくんだろう」そろそろお盆が近づいてきましたが魂が存在してあの世とこの世を行き来すると云いますが本当はどうなんだろうと子供のころは考えていた。

 その一方では物質にもとずく現代の科学的な考えでは、魂は存在せず死後はすべてが土に還り消えてなくなるというものです。そうすると死んだ後のことは生き返ることは出来ないので誰もそれを証明することはできない。そうするとその先を選ぶのは本人の自由であるのではないか? そうだとするならば気分的には楽しい方を選ぶのがいいと思いませんか。

 最近は樹木葬という言葉が聞かれますが頷けることがありました。桜の木の下に親、兄弟、子供、孫たちや友人、恋人たちと身近な人たちが寄り添って咲き誇りほどなく散って同じ樹の下に帰ってゆく、そしてまた、繰り返されて同じ枝に咲いてまたその根元から養分として吸い上げてられ繰り返されていく桜があります。

 あの時会えなかった人たちともう一度同じ桜の枝に咲いてあの暖かな陽を浴びて微睡むことが出来るかもしれないと思うと何も悩むことはないのでは? 輪廻転生という言葉もあるように大丈夫、貴女方とは、きっとまた何処かで廻り逢うことが出来る、そう考えると死の恐怖や別れの悲しみを受け入れやすくなるかもしれないですよね。

  令和元年   7月            八 大     








水神信仰と魔除け


深大寺 水神信仰
 いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでしょう。
深沙大王を祀っておりますが本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話がありますが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を行っていますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
奈良時代の満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相学を学び帰郷後この地にお堂を建て深沙大王を祀りました。天平5年(733年)これが深大寺開創の言い伝えであります。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。

国宝 銅造釈迦如来倚像
 明治42年(1909年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂に安置されています。飛鳥時代後期(白鳳期)7世紀の作で像高60.6㎝、全高83.5㎝。関東地方には数少ない古代の仏像であり、童顔の面相、眉から鼻に連なる線、平行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは、時代の特色を表している。下腿部の互い違いに表された衣文、両足間の三角状の衣文、裳裾部分の衣文の処理などはいずれも法隆寺の銅造観音菩薩立像(通称夢違観音)と共通しているそうです。像は火災に遭っており、表面の鍍金はほとんど失われています。その形は倚像(いぞう)と云われ椅子に腰掛けたポーズの像です。意外なことに本像は2017915日付けでようやく国宝に指定されました。

元三大師
名前は良源といいますが、平安時代の天台宗の僧で朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている
18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。

 角大師 魔除け
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵である。伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。
「元三大師」像はいずれも礼拝像として定型化した表現を示しており、やや吊り目で厳しい表情で、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)を持つのが特色で、不動明王のイメージが重ねられている。。
 慈恵大師(良源)を祀るおもな寺院
 群馬県前橋市-龍蔵寺(青柳大師) 大祭:13
 栃木県佐野市-惣宗寺(佐野厄除け大師) 大祭:211
 茨城県坂東市-安楽寺(元三大師)
 東京都調布市-深大寺 大祭:33
 東京都台東区-輪王殿両大師堂(両大師)
 東京都墨田区-木母寺
 埼玉県川越市-喜多院(川越大師)

  令和元年 7月             八 大























カサブランカ



カサブランカ に想う

 真っ白い花カサブランカが見事に咲きました。雨を避けて山法師の木陰に移しましたが直径が何と、28㎝もありその姿は豪華絢爛に極まる。近寄るとユリ独特の甘い香りが漂っている。その花言葉は「雄大な愛」「純粋」「甘美」「威厳」「無垢」「祝福」・・とうなずけるものばかりです。

 アフリカ西海岸にあるモロッコは紀元前10世紀ごろにベルベル人が定住してフェニキア人やローマ人との交易が行われており、中世のころ商業と金融の中心都市として栄えたカサブランカと云う街があります。名前の由来はスペイン語で「白い家」という何とも耳障りの良い地名でありますが人口は400万人を超す͡古都であります。

 往年の名画に「カサブランカ」という題名の映画がありましたが、私の生まれた年に映画化されたものらしいです。敬愛する女優イングリットバーグマンがハンフリーボガードと共演しており映画史上屈指の作品ともいわれております。彼女はその理知的な風貌から多くのファンを得ていた大スターであり小生もその中の一人でした。
 彼女は女優として数々の賞に輝いているが何といっても三回のアカデミー賞にも輝いており永遠の大女優である。その出生地であるスエーデンの墓碑には「この女性は人生の最後まで演技し続けた素晴らしい女優ここに眠る」と刻まれているそうです。

 カサブランカと云う作品は反ナチス時代に地下組織を舞台にした内容で重くて暗い雰囲気が立ち込めていたなかでバーグマンの立ち居振る舞いが今に至っても頭に残っています。

 令和 元年6月            八 大   








          



宥座の器

 
 宥座の器



 ある春の日差しの温かいころ暫くぶりに足利学校を訪れ学校門をくぐり孔子廟を参拝したことがありました。休日であった為か子供ずれも多く玄関から上がって教室で何やら論語の教材をもって静かなやり取りが囁かれておりました。私は玄関脇の奇妙な置物が気になりますが品定めというか「宥座の器」とは何ぞやと自問自答したことがありました。



 今から2,500年も前に中国魯の国の孔子様は魯の桓公の廟に参詣したときに宥座の器を見て「満ちて覆らない者はいない」と教訓しました。この宥座の器は、人生におけるすべてのことにおいて、無理をすることや満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙譲の徳の大切なことを教えています。 自らの戒めとするために身近に置いて戒めとするもので孔子の教えを実際に体験できる器です。


 春秋時代、斉の16代君主だった桓公の墓にあった器は「水が入っていない空の時は傾き、水を適度に入れるとまっすぐに立ち、水が満ちるとひっくり返り全てこぼれる」という。これを見た孔子は「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て。」と説いた故事から。


 令和元年    6月  

                   八 大






































ラムズイヤー




 ラムズイヤーって何

ラムズイヤー 駅の近くに雑草の塊のような花が咲いていたので「雑草にも名前があるんだよ」と、昭和天皇が仰ったことを思い起こした。半身になって腰を下ろしてよく見るとそこには聞いたこともない名前のハーブが植えられていました。近隣の愛好家の方が手入れをされておられるらしい、雑草にしか見えていなかったが、ラベンダーをはじめとする草花たちが『私は此処よ・・・』と囁いているようだ。 
 
 よくよく見ると、アカンサスモーリス・ラムズイヤー・タイム、、、生き生きとしている凄い、宝物だね。この近くの篤志家の皆さんが手入れをされてハーブ園?として楽しませてくれている事に気づきました。

 改めて確認してみるとなんとその数20種ぐらい、それぞれの香りや肌触りを確かめると愛おしくてなかなか側を離れられなくなりましたよ。こんな街の中で私を癒してくれる草花に出会うとは思わなかった。私は何処を見て歩いたんだろうか、見えているはずの物が見えてないとは自分を恥ずかしく思った次第です。

 小さな案内板にラムズイヤーと書いてあった、この姿を見てとっさに思い浮かんだ言葉は「羊の耳」きっとこれに違いないと言葉を反芻しながら家に戻ってパソコンを開くとラムズイヤーとは「羊の耳」でした。
 ラムズイヤーの白い毛で覆われた葉は、ぬいぐるみのように心地よく、柔らかな手触りで、lamb's ear(羊の耳)の名前にぴったりです。葉には、香りがあり、生葉や乾燥させた花をクラフトなどに利用できます。初夏に薄紫色の花を咲かせます。夏の高温多湿が苦手で、株元が蒸れて腐ることがしばしばありますが、環境さえ合えば、地表にマット状に広がります。
  この小さな趣味の庭園もその近くまで区画整理の指定がなされ消えて行ってしまうのはそんなに遠くない時間かもしれないことを思うと言葉を失う、きっと何処かで生きていて欲しい。

              令和 元年 6月          八 大

柘榴と鬼子母神

 
 柘榴
 今年も朱色の花が二階の屋根越しに咲きはじめました。
 三十年以上前にシルクロード敦煌を訪れた時に、街はずれで見事に真っ赤な花が咲いるのを見つけた。それは莫高窟に向かう旅の途中で見かけた茶色の山肌を背景に赤色は威厳ある朱色でそれはよく見ると柘榴の花でした。
 柘榴は、ミソハギ科・ザクロ属に分類される落葉性の小高木です。世界中の亜熱帯地域に生息しており、原産地についてはイラン(ペルシャ)あたりでシルクロードを超えて日本へは平安時代に、中国から朝鮮半島を経由して渡来したようです。
 樹高は2~7mほどに生長し、先端にトゲのある細かい枝をたくさん茂らせ、初夏になると、春に伸びた枝の先に、花を咲かせます。通常は6枚のオレンジ色の花びらを一重に付けますが、品種によっては八重咲きのものもあり花の色も白や黄色とバリエーションもあります。
 その後秋になると、結実して果実が付きます。熟すと、実の赤く硬い皮が裂け、中から透明な果肉の粒がたくさん現れます。この粒の中には、1つずつ種が入っているんですよね、これが柘榴の果実です。

 鬼子母神伝説 
鬼子母神伝説は、お釈迦様の「法華経」の中に出てきます。鬼子母神は500人もの子供を持つ美しい神様でしたが、自分の子供達を育てるため、なんと人間の子供をさらっては食べていたのです。これを知ったお釈迦様は、鬼子母神の末っ子を神通力によって隠してしまいます。鬼子母神は嘆き悲しみ、必死に我が子を探しますがみつからず、困り果ててお釈迦様に助けを求めました。お釈迦様は「お前は500人も子供がいるのに、たった1人がいなくなっただけでこんなにも嘆き悲しんでいる。たった数人しかいない子供をお前に奪われた人間の親の気持ちが、これでお前にもわかっただろう。」と言って鬼子母神に子供を返しました。そして、「今後、どうしても人の子が食べたくなったら代わりにこれを食べよ」と与えられたのがザクロだったそうです。鬼子母神は改心し、以後は仏教の教えを守る、安産と育児の神様となりました。そんなわけで、鬼子母神は左手に子供、右手にザクロを持っているとのことです。このことからザクロは古くから子孫繁栄を表す縁起の問い果実として吉祥果とも云われています。
鬼子母神を訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれていました。

                  令和 元年  6月         八 大








百舌鳥・古市古墳群


 仁徳天皇陵
                  世界文化遺産への登録を目指す「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について文化庁は5月14日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に登録することが内定した、正式の登録は6月の委員会で決まるとのことです。

 古墳群は大阪府南部の百舌鳥地域(堺市)と古市地域(羽曳野市、藤井寺市)にあり、現在89基の古墳のうち形がよく残っている49基が登録されるようです。それらは4世紀後半から5世紀後半に成立されたものです。

 『延喜式』では、この古墳を「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名し、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定・管理している。

 墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。明治5年(1872)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。また、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているほか、日本最大の前方後円墳にふさわしく周辺には「陪塚」(ばいちょう)と呼ばれる、小型古墳10基以上も確認されている。

 仁徳天皇陵古墳は墳丘長が486m高さが35,8mと巨大であり、エジプトのクフ王のピラミッド(350M)、中国の秦の始皇帝陵(230M)と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。

 日本全国では約16万基 の古墳があり、その内  前方後円墳は約4500基程が確認されています。
 
                     令和 元年5月       八 大
                                   










オリーブの樹


 オリーブの樹

「オリーブの木」の画像検索結果 ずいぶん昔の話、高峰秀子の主演による二十四の瞳と云う映画が大ヒットしたとき、田舎町の映画館に見に行ったことがあった。島の分教場には女の先生と十二人の子供たちが別れを惜しんで泣いていた光景が思い浮かんだ。それ以来小豆島の光景が目に焼き付いて忘れられなかった。

 社会に出てからの後、一人旅の途中に小さな船に乗って小豆島に渡った。島のいたる処にオリーブの畑が広がっており温暖な気候とともに緩やかな時間が過ぎていった。その頃はオリーブの木なんてハイカラな言葉もあまり解らなかったが、それがオリーブとの出会いだった。古くから多様な力を持つ果実として歴史的にも評価されてきているのはご存知の通り。それから五十年余・・・・・

「国際連合の旗」の画像検索結果 旧約聖書の「ノアの方舟」では洪水が収まった際、ハトがオリーブの枝を咥えて戻ってきたことが記されて以来オリーブは「聖なる木」「知恵の果実」として大切に育てられている。このエピソートからオリーブは平和を表すものと考えられられるようになり、現代では国際連合の旗のデザインにも使われている。

 エルサレム旧市街の岩のドームから東方を望むと市街地のはずれの方に緑の森が見えたが、その辺一帯はオリーブの大木が入道雲のように競りあがり照り輝いて見える。その先では依然として解決のできない紛争の場所パレスチナに接しているが、その壁はあまりにも分厚いものだと思う。
                 
                
  令和 元年5月           八  大



端午の節句 (鯉のぼり)

 「鯉が滝を登りきると龍になる」という中国の故事があるが、男児の成長や家の繁栄を願う端午の節句がある。最近では大型連休の一部に組み込まれてしまい本来の意味はあまり意識しなくなっている。住宅の事情から大空を舞う姿は昔に比べると少なくなってきている。けれども端午の節句には日本古来の考え方が残っているが、それらを理解することは日本人として大切なことである 改めて感じる。

 そもそも「節句」とは季節の節目にその季節の草花などを神様に供えたものを家族で戴いて邪気を払うという行事でした。現代の日本では次の5つの節句が年中行事として祝われていて、中でも5月5日の「端午の節句」では男の子の成長を願ってお祝いをしたと云います。
 〇 人日(1月7日)
 〇 上巳(3月3日)
 〇 端午(5月5日)
 〇 七夕(7月7日)
 〇 重陽(9月9日)

 例えばもともとはひな祭りや七夕などと同じように、奇数が重なると縁起が悪いという考えから厄除けの日であったことや、ヨモギや菖蒲の香り、鯉のぼりのカタカタなる矢車の音などは邪気を払い無病息災を願う先人の知恵が受け継がれている。
男児の成長を願うという意味が強くなったのは鎌倉時代からのようで人々の健康、家内安全、子孫繁栄、五穀豊穣など社会の平和や安定を願うものであった。

       令和 元年5月               八 大


東寺 (教王護国寺)





 東寺展(教王護国寺)

 今上野の東京国立博物館で開催されている空海ゆかりの国宝展は重みのある展示で見ごたえがあります。東寺は平安京鎮護のために官寺として建立が始められが後に、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。

 21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。現在は国の史跡に指定されておりましたが、平成6年には世界遺産に登録されております。
 その昔に東寺があるなら西寺があるだろうと地図を見ながら探したことがありましたがその遺構は小学校の敷地でありましたが建造物は何もありませんでしたよ。

 8世紀の末頃平安京の正門にあたる羅城門(らじょうもん)の東西に「東寺」と「西寺という2つの寺院の建立が計画されており、これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であったそうで東寺は「空海」、西寺は「守敏」に下賜されたとあります。


 空海のもたらした密教美術品は極めて高い質を誇りその多彩さや豊かさは我が国の仏教美術の中d背も群を抜いております。空海が作り上げた曼陀羅の世界を講堂安置の21体の立体曼陀羅がありますが今回は国宝と重文合わせて15体がされており、見る人を驚嘆させます。

 仏像なんてあまり興味はないよと思う人も京都までいかないで上野で見られますので是非ともこの際覗いてみては如何ですか。

  

  平成31年4月                  八 大




 




   百段階段 目黒雅叙園

   先日久しぶりに渋谷に降り立ったが相変わらずの
人のうねり、駅周辺の変わりようは言葉にならない。
どこか落ち着けるところはないものか・・? この巨大な地下空間から離れることが先決である。

 目黒へ出て雅叙園へ向かったがすぐ近くだと思っていたが曲がり道を間違えたからか坂を下ってようやく玄関に辿り着いた。三十年以上も前に訪れたイメージとは想像以上の変わりようで違和感すら感じ驚いた。

 眺める余裕もなく目指す百段階段へ進む。ありました目の前に長く伸びている九十九段は以前訪れたことのある奈良長谷寺の回廊の記憶が蘇ってきました。

 細川力蔵と云う人は石川県から身を起こし東京芝浦で料亭を開いていたが、新たに目黒の地に土地を買い求め純日本式料亭「雅叙園」を開業し料理で味を楽
しませる他、目でも食を楽しんで頂くとい
う考えで階段状の宴会場を考え出し昭和6年に開
業させました。


 建物は傾斜地を活用した六層の作りになっており、それぞれの宴会場は豪華絢爛な螺鈿細工が施されているほか天井や欄間には当代屈指の名のある画家たちが飾り上げた美の世界が描かれている。まさにその当時の竜宮城と呼ばれていた空間です。

 どこか日光の東照宮のゴテゴテした雰囲気はあまり馴染めない思いもありますが、昭和初期で贅をつくした作品と見れば、これもまた素晴らしいものでした。



 




平成31年  4月

             八 大









奥の細道・むすびの地
(水の都、大垣)


 岐阜県西濃地方に位置する大垣市は「水の都」とも呼ばれているように、地下水が豊富で、長良川をはじめとする15本もの一級河川が流れる街です。
 豊かな自然を体感できる緑地や公園をはじめ、「大垣まつり」や「水都まつり」などのさまざまな祭り、大垣城などの歴史的建築物など沢山の水路の間を通り抜けながらやさしい雰囲気の街であります。

「奥の細道むすびの地記念館」の周りには、俳人・松尾芭蕉が奥の細道紀行を終えられたこの地には有名な紀行集「奥の細道」についての案内があり奥の細道の内容に関する解説や、松尾芭蕉に人柄、人生などについて紹介しています。

「大垣城」。大垣城は、大垣市のシンボルとして人々の間で親しまれている城です。関ヶ原の戦いでは、豊臣方の武将・石田三成が本拠としました。その後、戦火で焼失しましたが、1959年に再建されたそうで全国的にも珍しい四層の天守を持っています。
天守とは云えその大きさは八畳の間ぐらいで何とも可愛らしい空間でした。
場内には戦国武将たちの資料や甲冑などが展示されていますが本来、石田三成の居城があった関係で地元贔屓の人たちが多くいたように感じた。




大垣市奥の細道むすびの地記念館の写真_88103











   平成31年4月             八大


          









大磯と吉田茂

 吉田茂は皆さん後存知の優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期を7年間にに亘り総理大臣の職にありましたが戦前に外交官としての交渉力があったからこそでありサンフランシスコ講和条約にまで漕ぎ着けて戦後の日本の基礎を築いてくれた人でありました。国会における暴言「バカヤロー」によって国会が解散となる大混乱を起こしたこともありました。
 その邸宅は平成21年に母屋からの失火があり修復作業の末、昨年、庭園と共に再建工事が完成され一般に公開されております。
また地続きの城山公園は多数の横穴式古墳と縄文土器が発見されており、小磯城が築かれていたことも確認され明治の頃には三井財閥の別荘も構えられていましたが財閥の解体等による変遷もあり今に至っているそうです。
 ゆるやかな丘陵地である為、展望台に上がると相模湾から伊豆半島、箱根の山から雄大な富士山などが一望に眺められ「県立大磯城山公園」として開園しており地域の憩いの場となっております。  



     平成31年3月         八 大












イチロー選手の言葉

 先週21日にイチロー選手が引退を表明したが、会見を聞いていて特に残った言葉がありました。記者の質問で「生きざまでファンに伝わっていたら嬉しいことは・・?」という質問に対しての答えは。
イチローを見よ。
「人より頑張る事なんてとてもできないんですよね。あくまでもはかりは自分の中にある。自分なりにそのはかりを使いながら自分の限界を見ながらちょっと超えていくと云うことを繰り返していく。そうするといつの日か、こんな自分になっているんだっていう状態になって。少しづつの積み重ね。それでしか自分を超えていけないって思うんですよね。一気に高みに行こうとするとギャップがありすぎて続けられないと考えているので、地道に進むしかない。後退もしながら自分でやると決めたことを信じてやっていく。自分なりに重ねてきたことを見ていただけていたなら嬉しいです。」

 自分の秤を持つことは誰にでも必要なことだとは思いますが、こんな言葉があの記者会見の中で出てくるとは、やはり超一流の人でなければ出てこない言葉ですね。
 はかりと云う言葉を聞いて足利学校の玄関に飾ってあった「宥座の器(ゆうざのき)」を思い起こしました。

「宥座の器」とは
常に身近に置いて戒めとするという意味で孔子の説いた「中庸」と云うことを教えるものでして、壺状の器に水は入っておらず、空の時は傾き、ちょうど良いときはまっすぐ立ち、水をいっぱい入れるとひっくり返ってこぼれる。
 いっぱいに満ちて覆らないものはないと慢心や無理を戒めたことで足るを知ると云うことに繋がりますね。
                                                     
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ミモザの花

 ミモザは春を告げる花としてヨーロッパ各地では大変人気があり,フランスのニース辺りでは毎年、ミモザ祭りが開かれています。色鮮やかなイエローは町中の丘や公園の街全体が黄金色に輝きます。

 我が家にも10年以上前に眺めて楽しんでいたことがありましたが、あまりにも大きくなりすぎたことと季節の終わり頃に花粉のようなモヤモヤが出てするので引き取って頂いたことがありましたので現在は見られません。でもこの時期に近くのミモザに出会うと「あなたに出会えた頃が懐かしい」と思い
を馳せております。

 毎年3月8日は100年以上前に女性労働者が参政権を求めてデモを行ったことから「国際女性デー」となっているそうで、イタリアではこの時期に男性が女性にミモザの花を贈る習慣になっています。そのため3月8日を「ミモザの日」とも言います。
 ミモザ(アカシア)の花言葉は「優雅」「友情」。少し色が変わるとオレンジ色の場合の花言葉は「エレガント」。黄色の場合の花言葉は「秘密の恋」と云うそうで・・・なんか怪しそうです。
 生長が非常に早く樹高も10m以上になり手に負えなくなったことがありました。2月~3月に咲く花の時期にはミモザ全体が黄色く染まるほど、黄色い小さな花が集まったで球形の花を多数咲かせ、芳香を漂わせ妖艶な気分にもなります。
 小生が随分に若かったころ北原武夫の小説に目を通したことがあったような気がしたが、当時の私には随分刺激的な文章が綴ってあったことを思い出し、あの頃が懐かしく思い起こされます。

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 房総半島の花園

久し振りに青い海を見たさに房総半島の先端に出掛けた。房総半島の南端白浜海岸から千倉にかけてのフラワーライン沿いには沢山の花畑が見られます。関東地方ではようやく寒が明けたところですが、一年中温暖なこの地にはきんせんか、金魚草、矢車草、ストックと色とりどりの草花たちが私を迎えてくれました。中でもストックの香りは遠い昔を思い起こさせられて春の霞のように私を包んでくれました。
野島崎の灯台の白は大海原に際立ち小ぶりではありますが、恰もその役目を誇示しているかのように立っています。柔らかな海風は私を和ませ、時のたつのを忘れさせ沢山の花を抱えて帰ることが出来ました。
また、南国を感じさせるヤシの並木は房総の浜辺では象徴的な植物で絵になる一品でもあります。

ストック
「房総半島の花畑」の画像検索結果2月を過ぎると、房総半島は花々で覆われます。目をひくのは、色とりどりのストックの花です。ストックとは英国でガーデン・ストックのことです。日本名は紫羅欄花(あらせいとう)という名前です。アブラナ科の花で、原産は地中海沿岸です。
本来は四弁花だが,重弁花の園芸品種が多く出てきて,芳香があり花の色は赤紫・淡紅・白・淡黄とカラフルに咲いてくれる。冬の切花用に人気がある。
春の南房総で多く見かける。2月、3月が切り花出荷のピークとか。
地中海地方の原産でギリシャ時代から栽培させれており古代から薬草として利用されていた

カナリーヤシ(フェニックス)
「フェニックス ...」の画像検索結果アフリカ西海岸、カナリア諸島(スペイン領)原産のヤシの木科の植物。アフリカ大陸北西沖のカナリア諸島(スペイン領)原産のヤシ科の木。成長すると、高さ20メートルになる。ヤシの中では、比較的寒さに強く見栄えも良いとして、主に関東以西で街路樹や公園の植栽として親しまれている。県木に指定している宮崎県では、大正時代に初めて植えられたとされる。
ラテン語で、エジプト神話の霊鳥で死んでも蘇ることで永遠の時を生きるといわれる伝説上の鳥である。寿命を迎えると、自ら薪から燃え上がる炎に飛び込んで死ぬが、再び蘇るとされており、不死鳥、もしくは伝承から火の鳥ともいわれる。

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 ハンミョウ (斑猫)

「ハンミョウ」の画像検索結果 先日友達の絵画展に出掛けたところパソコンで描かれた作品がありましたが、その片隅に気になる虫が居ました。それは小さくて色鮮やかな虫ハンミョウでした。
 ハンミョウとは体長は2㎝程度の小型の甲虫ですが、群青色に青緑、朱色の帯に白紋などが入り交じった複雑な模様をしていて、しかも全体のトーンが金属光沢を帯びています。これが里山の畦道や路上にフワッフワッと現れた瞬間はまさに宝石を見つけたような気分になります。
 人が近づいて行くと跳んで逃げ1~2ⅿ程飛んですぐに着地し後ろを振り返る、それを何回も繰り返す習性から「道教え」或るいは「道しるべ」の俗称があります。大きな複眼と鋭い大顎を持って敏捷な動作で小型の昆虫をなどを捕まえて食べる。
 身体には独特の香り(蟻酸)があり果物のような芳香と感じる人もいる。日当たりが良くて地面が湿っている林道や河原などに良く生息するほか、公園など都市部でもよく見かけ
ます。
 この虫たちも土の中に産卵する為、路面が舗装されてしまうと生きていけない。こんなに色鮮やかな昆虫であるが住ずらくなったもんだなあと嘆いているようだ、


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GAFA それって何

GoogleAppleFacebookAmazon このIT系超巨大企業4社の頭文字を取ったもので、言われ始めたのは最近ではないのですが、メディアに取り上げられ目につくようになってきましたね。
スマートフォンやパソコンを使っていると、本人は意識しなくとも検索や買い物の履歴などの膨大な個人データが企業に蓄積され、事業に活用されます。その個人データを圧倒的な規模で集めている勝ち組企業4社を総称してGAFAと言っています。

米国でもそして日本でも、GAFAに代表されるアメリカの大手IT企業が、データ市場を“支配”している現状を問題視するようになってきた。例えば、ネットの検索や閲覧の履歴は「グーグル」、携帯電話は「アップル」SNSは「フェイスブック」、買い物の検索や履歴はで「アマゾン」が身近に入り込んできいます。私たちの暮らしはこの4社に取り囲まれて、情報が筒抜けになって来ていると云われています。

これらのサービスは「便利」ですが、大量の個人データに囲い込まれていることに気がついた時、あらゆる情報が吸い上げられてしまうから早くにGAFAの牙城に風穴を開けなければならない。正常な競争が成り立たなくなるという危機感も芽生えているようで4社による寡占状態を何とかせよと米国のメディアからも声が上がっています。

企業が個人データを収集すると「情報漏洩」や「情報悪用」をされることのリスクが付いて回り曳いては信頼感を失うことに繋がります。日本でも欧米でも個人データを有効活用しようという取り組みは更に進んでいくと思われますが、私の中では益々わからない世界に入り込んでいくようで不安にもなります。

現在の私たちはIT革命の緒についたばかりこれからも世の中は飛躍的に進歩拡大を続けて行くことでしょうが、あまりにも大きな変化が起こっていることに戸惑いを感じています。不安に思う反面どうにでもなれ、心配するより尻尾につかまって振り落とされないようにする事の方が重要かなとも思います。

最近、ふと思うのは、誰も「携帯電話」を持っていなかった頃は電話で約束をしてから待ち合わせをして面談をしたわけでそれが普通でしたが不便は全く感じませんでした。人と人の関わり合いにもっと“ぬくもり”があったような気がします。一度携帯電話を忘れた時の不安感は何とも言い難いものがあって、いかに自分が携帯電話に依存しているのかが良くわかります。

昔はどうしていたんだろう、と思いますが一日一日の流れが段々と早くなっていることにこの頃特に不安が増してくるのを覚えます。傘を忘れても携帯を忘れないことの方が気になっていることは何なんでしょうか。一日ぐらいその不便さを楽しめる自分になりたいと思う時もありませんか?

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