一生懸命と中今

 一生懸命
 誰でも使う言葉に一生懸命という言葉がありますが、一生とは産まれてから死ぬまでの間のことで、終生とか生涯ということであるので人間が一心に生きることを指しますが、元来は一所懸命ということであり、一つの所又は一つになることであります。そしてその一つの事柄に対して命がけで取り組むことであり、一心に目標の為に頑張ることであります。人は人生の目標に向かって一つ一つのハードルをを乗り越える。その一つ一つが一生懸命に繋がるのだと思います。

 中今
 江戸中期の書物「葉隠」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があります。それは死ぬまで頑張れということではなく「死を想え」そして「今を生きろ」たった一度しかない人生後悔するのではなく、失敗や負けることを恐れず苦難や挫折を受け入れるという前向きな発想のことであります。

神道の教えの中に、今に集中して今に生きることで自ずと道が開けるとあります。私たちは中今(なかいま)に生きているとも云います。「中今」とは今この一瞬ということであります。広辞苑には過去と未来の真ん中の今とあります。遠い無限の過去から遠い未来に至る間としての現在とあります。

 と云うことは過去があって現在があり、現在が又未来を築くのであります。その真っ只中が今なのです。であるならば、この一瞬をしっかり捉えて自分に忠実にとらえて生きたいものです。その一瞬一瞬が後先をを考え単なる今ではなく「中今」となるのです。

 人生には迷いもあるし、ためらいもあります。しかし迷っているうちに、ためらっているうちにも時は過ぎて行くのであります。いったん決めたらそれに従ってその目的を達成させるために一所懸命その「中今」を無駄にしないことです。その努力がやがて自信につながり、目標達成につながるのだと思います。

  令和元年  10月            八 大












ベンケイソウ

 先日、園芸市場に出掛けた際何となくほっこりとした肉厚の葉で頬紅を付けたような、ベンケイソウに出会った。そう云えば案外身近なところでこの多肉植物は見かけていましたが改めて見つめているとほっこり感がありますね。

サボテンもその種類の一つですが多肉質の葉および茎を持ち水分を多く貯蔵できるそうで、あまり手のかからない植物なので、その分布は世界中に広がっているそうです。

 常緑の多年草でカネノナルキ(金のなる木)のように茎が木質化しているものもある。カランコエやヒダカミセバヤなどもこ
の科に属します。古利根川沿いの所どころ
にイワベンケイやホソバイベンケイが青々
と育っているところもあります。

 花言葉は「穏やかな」「信じて従う」「機転が利く」という意味で随分おしとやかで賢そうな名前になっているので探ってみると、その由来が面白いよ。

 武蔵坊弁慶の逸話から出来ている。
弁慶と云えば義経の家来ですが勧進帳でお馴染みの安宅関の場面で、弁慶一行が山伏姿で通り抜けようとするが関守から山伏は通行まかりならぬと厳命される。
 けれどもとっさの判断で機転を利かせ、たまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、淀みなく朗々と読み上げて疑いを晴らそうとするシーンがあります。このことから弁慶は機転が利くという花言葉を戴いたと言われる。
 一度歌舞伎座でその勧進帳を見られると粗筋だけでなく芸の細かさや主従関係が理解できるので楽しいことこの上なしです。


 令和元年    10月        八 大













 
 寒 露 (秋の虫と秋鯖)


寒露,二十四節気,暦
寒露とは字のごとく、朝露も冷え始めることから寒露と云います。
 この時期中国では陽精の雀が秋めいて涼しくなり、陰気になってゆく海に入って蛤(陰精)になり、菊の花は黄色く咲き誇る時期と云われ秋の陰気さが深みを増していく中で、自然が静かな美しさを醸すと云われています。(二十四節気の17節)

 コオロギ(蟋蟀)かキリギリス(螽斯)か、このところ虫の音がか細くなってきましたが我が家のスズムシ(鈴虫)もようやくおとなしくなってきております。虫かごを覗くと現在三匹が声を失ってヨロヨロと動きも緩慢になって時の来るのを待っているようです。
 キリギリスは別名を機織り虫と呼ばれますがその由来は鳴く声がギーッチョン・ギーッチョンと機織りのように聞こえるからとのこと。秋の夜長に家の草むらに近づいてきて明るさや暖かさに惹かれたからなのか軒下にこっそりと忍び込んでくる姿は何と微笑ましくさえ思えます。

 今が旬の「鯖」の人気は衰えを知らないそうで、先日の消費税率の引き上げ間地かの店先ではスーパーの籠一杯いに買い込んだ缶詰を重そうに買い込んでいるお年寄りがいた。みそ煮・塩焼き・お刺身・・と脂の載ったこの時期の鯖は味わい深いもがありますね。国産のマサバは貴重でお店に並ぶのはその多くがタイセイヨウ鯖だそうです。
 青魚の王様と呼ばれるほどで脂の載りは栄養豊富、鯖の脂は血液の流れをサラサラにしてくれる効果があるとのことで人気があるそうです。けれども足が速い(傷みやすい)ので、青光している新鮮なものを選ぶことが大切だといわれました。

 令和元年   10月      八 大 










 
 人生の四分法

 最近の厚労省の調査によると日本人の平均寿命は男性が81,25歳、女性が87,32歳となっており、やがて人生100年の時代がそこまで来ています。

 世の中ではいろいろな区分法があると思いますが、四分法の区切りでいきますと方角の東西南北・季節の春夏秋冬・物事の進み具合の起承転結などなど沢山あります。古代インドでは四住期という考え方もあり例えば人生百年と考えると、生まれてからの25年間を学生期(がくしょうき)その後の25年間の50歳迄を家住期(かじゅうき)その後の25年間の75歳迄を林住期(りんじゅうき)その先の100年迄を遊行期(ゆぎょうき)となります。

 それぞれの期間でいうと学生期は青少年時代で心身を鍛え学習し体験を積み、家住期は就職し、結婚をし家庭を作り子供を育てる、これまでの人生の成長の期です。林住期は人生の黄金期でもありますがそれまでの若いうちから計画を立て夢を実現させるように心がけておくことが大切であったと今に思っています。今の私は四分法の最終段階の遊行期に入りました。日常生活から解放された今、自由に生き遊びの感覚で精神的に放浪する真の生きがいを探す旅に出ようとしています。

「虹」の画像検索結果 吉田兼好は語る「死は前よりしも来たらず、かねてより後ろに迫れり」と、すなわち背後からポンと背中をたたかれて愕然とするのが人間であるという。遊行期の75歳に入った今、余禄の期間をどう生きるのかが、寿命の延びた私たちが後輩たちに伝えていかねばならないと考えています。

 人間は何のために働いてきたのか、目的が生きるために働いてきたというならばそれは間違いであると言いたい。人間が働くことは手段であり目的はその先にあると思う。林住期を過ぎてもその事に気ずかず黙々と働いている人を見ると、それぞれに言い分はあると思いますが人生のおまけにはしたくないものですね。

 令和元年  10月             八 大







 今年も「おくんち」が始まった

 九州北部では、秋祭を「くんち」と呼びました。いわゆる収穫祭ですが、その内容には地域性や歴史が重なり、それぞれ独自性があります。その中で特に有名な「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」を「三大くんち(九州三大秋祭)」として紹介されています。

長崎くんち(ながさきくんち)


長崎くんちの「龍踊」
名高い「長崎くんち」は、毎年10月の7・8・9日に長崎市の諏訪神社の秋季大祭で行われる。見どころは、各町の奉納踊りには、有名な「龍踊(じゃおどり)」や「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります。
祭(くんち)の始まりは江戸時代の寛永年間、二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことと言われています。その後、年々盛んになっていき、さらに長崎という土地柄から、中国や南蛮文化の影響を受けました。

博多おくんち(はかたおくんち)


祭がある「櫛田神社」
「博多おくんち」は、博多で1200年以上の由緒がある櫛田神社の秋の例祭です。かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが、昭和28年より、名称を変更して新
たに祭礼を行うようになったそうです。     神輿渡御 「櫛田神社」
10月22・23・24日に牛車に引かれた神輿渡御、獅子頭、稚児行列の他五穀豊穣市や相撲大会などが催される他ミス福岡に選ばれた女性がオープンカーに乗ってブラスバンドと共に現れるパレードもあり賑やかで
あります。また新鮮な魚や旬の野
菜なども販売されるそうです。

唐津くんち


巨大な曳き山 
写真提供:佐賀県観光連盟 くんち4_JALAN_160804毎年11月2・3・4日に唐津神社で開催される例祭「唐津くんち」は、掛け声とともに曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています。その特徴はなんといっても獅子。漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や、大きな赤獅子・青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています。「唐津くんち」は江戸時代に始まったと考えられていますが、独特の「獅子」は文政年間に、奉納したものが曳山行事の原点と伝えられています。今では14基の曳山があり、「唐津くんち」の曳山行事として国指定重要無形文化財となっています。


  令和元年  10月          八 大






「即位の礼正殿の儀」

皇位継承の重要儀式でこの秋に相次いで行われます。
1022日に195カ国の代表らを招き陛下が内外に即位を宣言する「即位の礼正殿の儀。
1114日夕から翌日未明には、天皇が一代で一度だけ望む大掛かりな神事、大嘗祭が古式ゆかしく行われる。

即位の礼正殿の儀とは、即位した天皇が日本国の内外に即位を宣明する儀式で諸外国における戴冠式にあたるものです。

平安絵巻そのままに皇位継承の中心儀式は国の儀式として「即位の礼正殿の儀」として皇居・宮殿の一番高い正殿「松の間」で平安絵巻そのままに繰り広げられる。衣冠束帯の正装で、高御座(たかみくら)に上り即位を宣言しお言葉を述べられる。高御座は天皇の玉座を意味し平安時代の即位式から使われています。また十二単姿の皇后さまは隣の一回り小さな御頂台(みちょうだい)に入られ他の成人皇族方も平安相続姿で勢ぞろいする。

また参加者は招待国が増えたため195か国、内外の代表者は約2500人に上り色とりどりののぼりが建てられ太刀や弓などを持った古式装束の宮内庁職員らが並ぶそうです。
陛下のお言葉に続いて安倍首相のお祝いの寿詞(よごと)を述べた後、万歳の音頭を取り、参列者が万歳を三唱する。

 約30分の儀式の後、両陛下は洋装に着替え、皇居から住まいの赤坂御所まで47㎞をオープンカーに乗り、お披露目のパレードを行う、これも「祝賀御列の儀」に入ります。
       
      高御座 と 御頂台
    
  令和元年 10月   八 大             
 















 日本人の心根を継承

 私たちが当たり前に行われてきたお宮参り、七五三、成人式などの子供の行事や七夕、お盆、お月見など季節の行事なども、私のような世代にはそれらの意味が段々と伝わらなくなってきている。祖父母や親の代から正しく教えられてこなかった社会に。考える機会がないと「人のせい」にするのは恥ずかしいけれど現実である。

 そんなとき改めてその意味を考えて見たことはなかったが自分が親となり孫をもって子供の行事に関わってみたとき知らないで済ませてきたことが今にしてその意味を知ると、日本人としての大事な何かが欠落していることに気付いてしまう。

 日本の年中行事の中にはその季節に合わせてそれぞれに特徴あるものが多い。子供のこと、家族のこと祖先のこと食べ物、気候それぞれの安定安心を望む気持ちの中には常に自分だけではなく自分より人をと、いう他者を思いやる気持ちが込められていると思われる。利己ではなく利他を求めて、他者と協調して自然を尊び健康であることを最高の価値観としているのではないかと考えます。

ミニフラッガー MF2000 サンポール 翻って、現代の若者でありますが電車の中でお化粧をし、云われたことしかできない若者を見ると寂しく思う。少なくとも人に不愉快な思いをさせない振る舞いとは何か、人の役に立つにはどうすれば良いかと、他者を意識した考え方は毛頭ないようである。

 私は日本人に生まれた以上日本人の心根を後世に継承していく責任があると思う。そのためにも日本人の底流にある美しい価値観を、古来より伝わる伝統行事の中から学び身に着けていかねばならない。祝日やハレの日の在り方についても
もう一度考えてみることがっ重要であると考えます。

 
 令和元年 九月                       八 大





白 露 

 白露とは大気が消えてきて露を結ぶこと..あります。
ようやく残暑が引いて行き本格的な秋が訪れます。台風15号が関東地方を直撃し9月とは思えない気温が続いておりましたが、古利根の川面に目をやると赤とんぼが飛び始めましたよ。私たち人間が実感する以前に季節はその到来を知っているようです。

<秋ナスは嫁に食わすな>
 秋茄子は嫁に食わすなとは、憎らしいには、美味しい茄子を食べさせるのは、もったいないという意味。 秋茄子は体を冷やすから、大事な嫁に食べさせるという意味。 秋茄子は種が少ないので、子種ができなくなるから食べさせるという意味などいろいろ諸説あるようです。

 秋野菜の代表は網で炙ったナスをカツオ節とオロシ生姜をのせて醤油をかけシンプルな味は酒の肴にはもってこいです。一説には夏にとれるから夏実(なつみ)と呼ばれ、なすび、ナスとなったそうです。薄紫の花を咲かせた後に次々と実がなりこの季節のイッピンですね。手軽に家庭での栽培ができるので家庭菜園でも人気者です。

 そのレピシは他の食べ物との相性が良いからでしょうかです多種多彩です。
ナスの煮びたし、麻婆茄子、ナスのシギ焼、ナスカレー、米ナスの田楽、ナスの挟み揚げと・・・何といっても皮の柔らかいナスの漬物が一番ですね。

 ナスの色は濃い紫色で菫色・パープル、とも言われますが深みのある何とも言えない色ですね。私が中学生の頃でした、前頭から小結の相撲とりに清水川というお相撲さんげおりまして眉がキリリと締まって凛々しい顔立ちで五月人形のような姿で人気のある関取でした。そのまわしの色は後々まで印象に残っている茄子紺でした。

 令和 元年  9月                       八  大






 藤袴 秋の七草

 秋に七草の一つでもある藤袴は日本各地に広く分布しているが、これがそうですと言われてもピンとこない人が多いのではないか。古く万葉集や源氏物語の作品にも登場しています。

 生草のままだと無香ですが乾燥させると桜餅のようなほのかな香りがします。昔の女性たちは乾燥した藤袴を香料として十二単に忍ばせておしゃれアイテムとして活用していました。
 最近では環境省のレッドリストには準絶滅危惧種に指定されてしまいました。園芸店でもフジバカマとして売られていますが、ほとんどが雑種でサワヒヨドリというまがい物らしいです。背丈は約1m。茎はかたく直立し、断面は円柱状です。葉はやや硬くて、光沢があり、三裂して鋸歯状に切れ込みます。そして8月から10月にかけて、茎の頂に淡くて紅紫色を帯びた小さな花を、管状、散房状につけます。一つ一つの花弁は、美しい藤色で、形が袴をはいたようで藤袴と云います。
 
 地味な花ですが、キク科の多年草で澄んだ青空のもと、野山や川岸で花序が揺れる姿は、秋の訪れを感じさせてくれます。花言葉は 「ためらい」「あの日を思い出す」「優しい思い出」「遅延」・・・など。

 花の形をよく見るとなんと旧満州国章でフジバカマを図案化したもので蘭花紋と呼ばれるもので1,932年(大同元年)に制定されていたものです・・・?

万葉集 
 なつかしき移り香ぞする藤袴 われより先に妹や来てみし  藤原頼輔

万葉集  七種(ななくさ)の花
 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花
                               山上憶良

令和 元年 9月                      八 大 
  




 

「桃 旬」の画像検索結果 白桃は7月下旬から8月にかけて美味しい季節になっています。白桃はその名の通り白い桃であり、岡山県の発祥の地である。日本独自の桃と云われており今が一番の食べ頃で美味しいですね。桃は雨によって実が大きくなる代わりに甘みがが拡散してしまうことなので長雨の後では味が落ちてしまうという微妙な果物です。

 神話の時代イザナミノミコトが黄泉の国の黄泉比良坂で悪鬼たちの襲撃にあったときに、3個の桃を投げて難を逃れたという話があります。
 桃は中国が原産の地ですが不老長寿の象徴であり不老不死の世界は桃源郷と云われていいますが「世俗を離れた別世界」のことを指す言葉で、煩わしいことのない楽園とも云います。普段日常を過ごしている世界から離れた理想的な世界です。

中国南北朝時代の文学者であった、陶淵明は目的をもって追求したのでは到達できない場所とであるとし、日常生活を尊重し同時に書物を通じて神話世界を飛翔し神仙の境地に至っていたと云われています。
 その一説に 

    初夏になって草木が伸び            我が家の周りには樹木が茂る 
    鳥たちは巣作り喜びに励み            私も自分の家が気に入っている 
    野良仕事に精を出し                        家に帰ると読書を楽しむ 
    狭い道には車も入って来れぬから          煩わしい付き合いをしなくても済む 
    近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし  肴に庭の野草を食う 
    小雨が東の方から降ってくると                   それに添えられた絵に目をやる 
    寝ながらにして宇宙のことがわかるのだから    こんなに楽しいことはない

    令和元年         八 月               八 大

 「孤独という道づれ」

 6月の末、全く偶然に駅前の改札口でY・Sさんに出会った。「久しぶりだね」と挨拶をするとラムズイヤーはこの近くにありますか・・?と問われる。ブログに書いてあったハーブの小道はこの近くですかと聞き返されるが、そんなに大業なもんじゃないけれど案内してあげますよと歩き出すと間もなく目的地に。

わずかな空き地であるが私にとっては植物園でもあり、夢のパラダイス。
ああこれですか本当にウサギさんの耳と云ってましたが形と云い肌触りといい何とも言えませんね。他にもラベンダーをはじめ小さな名札が付けてあるのでよく分かります。
ヤマヤでお茶したがその時は多弁で元気で生き生きしていた。

後日一冊の本を受け取りました。それは返さなくても良いですからと、岸恵子さんの最近出版していたエッセー集「孤独という道づれ」を・・戴きました。
「孤独という道ずれは。馴染んでみればファンタスティック!私は少しばかりずる賢く要領よく、この道ずれを抱き込んで、かなり気ままな一人旅」と書き込まれていた。
この内容とは少しばかりずれているように思いますが、ここにきて孤独ということが最近特に問題視されているようで、それを道連れにできれば気が楽になりそうですね。

彼女は以前から古利根川の遊歩道を好んで散歩をしたらしく、たまに来るスマホには藤塚橋から公園橋間の季節の様子が記されていました。
体調がすぐれないことは以前から聞いておりましたが、こんなに早く逝かれるとは思いもしませんでした。まだまだブログでのやり取りをしたかったのに残念でなりません。
仲間の皆さんももう少し先を目指し頑張りましょう。


 令和元年     八月          八 大


土潤いて蒸し暑し(つちうるおいてむしあつし)


 八朔


「稲穂」の画像検索結果 八朔とは一日(ついたち)のこを云いますが旧暦の八月一日を八朔と云って、そのころとれはじめる早稲の穂を日頃お世話になっている人へ贈る習慣がありました。田の実の節句とも云うそうです。その意味が転じて田の実を「頼み」となり農家だけでなく日頃の恩にお礼をする日になったと云われているそうです。(ホントかなと思いません?

「だらりの帯」の画像検索結果
 もう一つあります これは皆さんご存知のことと思いますが、京都の芸妓さんや舞妓さんは新暦の八月一日になると日頃からお世話になっている、芸事のお師匠さんやお茶屋さんに「よろしくおたのもうします」「おきばりやす」とあいさつ回りをする習わしになっています。この日は祇園界隈では着飾った舞妓さんたちが忙しそうにあいさつ回りをしている姿を多く見かけることが出来ますよ。


Hassaku fruit and cross section.jpg 八朔(ハッサク)日本原産のミカン科柑橘類のひとつで
この時期スーパーで多く見られます。果皮だけでなく、袋(じょうのう膜)も厚いため、通常は袋も剥いて食べました。独特の苦みと酸味があるものの、鮮度の良い物は水分多い。日本国内でのハッサク栽培は、江戸時代末期に尾道市因島浄土寺原木が発見されたのを機に始まったとされる。現在因島では約二千戸の農家がハッサクを育てている。         




 令和 元年 八月一日         八 大





 大 暑 (3題) 

 今年の梅雨は異常気象とは云え何とも長い梅雨だったですね。気象庁の話によると近年では記録的mには日照時間が短かった。その結果か病害虫の発生か変な形のキュウリやナスが見られます。おかげで季節の野菜や果物の生育が思わしくないそうだ。我が家でもナスやキュウリは変な形が多く不作でした、代わりにトマトの成績は良好です。

 今日は土用の丑の日
さて立春、立夏、立秋、立冬の前の十八日間を土用と云います。立秋前の夏土用の丑の日には鰻を食べる習慣があり精の付く鰻を食べて暑さ乗り切ることから始まります。鰻を食べる習慣が一般的に広まったのは江戸時代夏に売り上げが落ちると相談を受けた平賀源内が、店先に「本日丑の日うなぎの日、食すれば夏負けすることなし」という看板を立てたら大繁盛したことで、ほかの鰻屋でも真似するようになったとか。「本日丑の日」は日本初のコピーライティグ云われています。

 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)
高級桐ダンスは湿度が高いと膨張して気密性が高まり湿気を防いでくれる、乾燥時には収縮して通気性を良くしてくれる。昔の人は嫁入り道具として桐ダンスを持たせるため女の子が生まれたらきりを植えるという習慣がありましたネ。この時期キラメキ通りのポケットパークにも小さな実が付き始めました。

 夏といえば花火の季節
江戸時代、八大将軍徳川吉宗の時代享保の飢饉のころコレラの流行がありましたが、この慰霊と厄払いを兼ねて隅田川で花火大会が行われたことが始まりと云われております。称賛の掛け声で有名な「玉屋』「鍵屋」と云った花火職人たちがありましたが「玉屋」は失火があり一台で断絶されました。鍵屋は現在にも続いており聞くところによりますと十五代目になっているそうです


   令和元年 7月       八 大







日本人の死生観


 物事は考えようだ

 元来あまり先のことを考えるのが不得手な自分ではあるが最近になって「人は死んだ後どうなっていくんだろう」そろそろお盆が近づいてきましたが魂が存在してあの世とこの世を行き来すると云いますが本当はどうなんだろうと子供のころは考えていた。

 その一方では物質にもとずく現代の科学的な考えでは、魂は存在せず死後はすべてが土に還り消えてなくなるというものです。そうすると死んだ後のことは生き返ることは出来ないので誰もそれを証明することはできない。そうするとその先を選ぶのは本人の自由であるのではないか? そうだとするならば気分的には楽しい方を選ぶのがいいと思いませんか。

 最近は樹木葬という言葉が聞かれますが頷けることがありました。桜の木の下に親、兄弟、子供、孫たちや友人、恋人たちと身近な人たちが寄り添って咲き誇りほどなく散って同じ樹の下に帰ってゆく、そしてまた、繰り返されて同じ枝に咲いてまたその根元から養分として吸い上げてられ繰り返されていく桜があります。

 あの時会えなかった人たちともう一度同じ桜の枝に咲いてあの暖かな陽を浴びて微睡むことが出来るかもしれないと思うと何も悩むことはないのでは? 輪廻転生という言葉もあるように大丈夫、貴女方とは、きっとまた何処かで廻り逢うことが出来る、そう考えると死の恐怖や別れの悲しみを受け入れやすくなるかもしれないですよね。

  令和元年   7月            八 大     








水神信仰と魔除け


深大寺 水神信仰
 いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでしょう。
深沙大王を祀っておりますが本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話がありますが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を行っていますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
奈良時代の満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相学を学び帰郷後この地にお堂を建て深沙大王を祀りました。天平5年(733年)これが深大寺開創の言い伝えであります。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。

国宝 銅造釈迦如来倚像
 明治42年(1909年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂に安置されています。飛鳥時代後期(白鳳期)7世紀の作で像高60.6㎝、全高83.5㎝。関東地方には数少ない古代の仏像であり、童顔の面相、眉から鼻に連なる線、平行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは、時代の特色を表している。下腿部の互い違いに表された衣文、両足間の三角状の衣文、裳裾部分の衣文の処理などはいずれも法隆寺の銅造観音菩薩立像(通称夢違観音)と共通しているそうです。像は火災に遭っており、表面の鍍金はほとんど失われています。その形は倚像(いぞう)と云われ椅子に腰掛けたポーズの像です。意外なことに本像は2017915日付けでようやく国宝に指定されました。

元三大師
名前は良源といいますが、平安時代の天台宗の僧で朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている
18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。

 角大師 魔除け
2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵である。伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。
「元三大師」像はいずれも礼拝像として定型化した表現を示しており、やや吊り目で厳しい表情で、手には数珠と独鈷杵(とっこしょ、仏具の一種)を持つのが特色で、不動明王のイメージが重ねられている。。
 慈恵大師(良源)を祀るおもな寺院
 群馬県前橋市-龍蔵寺(青柳大師) 大祭:13
 栃木県佐野市-惣宗寺(佐野厄除け大師) 大祭:211
 茨城県坂東市-安楽寺(元三大師)
 東京都調布市-深大寺 大祭:33
 東京都台東区-輪王殿両大師堂(両大師)
 東京都墨田区-木母寺
 埼玉県川越市-喜多院(川越大師)

  令和元年 7月             八 大























カサブランカ



カサブランカ に想う

 真っ白い花カサブランカが見事に咲きました。雨を避けて山法師の木陰に移しましたが直径が何と、28㎝もありその姿は豪華絢爛に極まる。近寄るとユリ独特の甘い香りが漂っている。その花言葉は「雄大な愛」「純粋」「甘美」「威厳」「無垢」「祝福」・・とうなずけるものばかりです。

 アフリカ西海岸にあるモロッコは紀元前10世紀ごろにベルベル人が定住してフェニキア人やローマ人との交易が行われており、中世のころ商業と金融の中心都市として栄えたカサブランカと云う街があります。名前の由来はスペイン語で「白い家」という何とも耳障りの良い地名でありますが人口は400万人を超す͡古都であります。

 往年の名画に「カサブランカ」という題名の映画がありましたが、私の生まれた年に映画化されたものらしいです。敬愛する女優イングリットバーグマンがハンフリーボガードと共演しており映画史上屈指の作品ともいわれております。彼女はその理知的な風貌から多くのファンを得ていた大スターであり小生もその中の一人でした。
 彼女は女優として数々の賞に輝いているが何といっても三回のアカデミー賞にも輝いており永遠の大女優である。その出生地であるスエーデンの墓碑には「この女性は人生の最後まで演技し続けた素晴らしい女優ここに眠る」と刻まれているそうです。

 カサブランカと云う作品は反ナチス時代に地下組織を舞台にした内容で重くて暗い雰囲気が立ち込めていたなかでバーグマンの立ち居振る舞いが今に至っても頭に残っています。

 令和 元年6月            八 大   








          



宥座の器

 
 宥座の器



 ある春の日差しの温かいころ暫くぶりに足利学校を訪れ学校門をくぐり孔子廟を参拝したことがありました。休日であった為か子供ずれも多く玄関から上がって教室で何やら論語の教材をもって静かなやり取りが囁かれておりました。私は玄関脇の奇妙な置物が気になりますが品定めというか「宥座の器」とは何ぞやと自問自答したことがありました。



 今から2,500年も前に中国魯の国の孔子様は魯の桓公の廟に参詣したときに宥座の器を見て「満ちて覆らない者はいない」と教訓しました。この宥座の器は、人生におけるすべてのことにおいて、無理をすることや満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙譲の徳の大切なことを教えています。 自らの戒めとするために身近に置いて戒めとするもので孔子の教えを実際に体験できる器です。


 春秋時代、斉の16代君主だった桓公の墓にあった器は「水が入っていない空の時は傾き、水を適度に入れるとまっすぐに立ち、水が満ちるとひっくり返り全てこぼれる」という。これを見た孔子は「知を持つものは愚を自覚し、功績を持つものは謙譲の心をもち、力を持つものは恐れを忘れず、富があるものは謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て。」と説いた故事から。


 令和元年    6月  

                   八 大






































ラムズイヤー




 ラムズイヤーって何

ラムズイヤー 駅の近くに雑草の塊のような花が咲いていたので「雑草にも名前があるんだよ」と、昭和天皇が仰ったことを思い起こした。半身になって腰を下ろしてよく見るとそこには聞いたこともない名前のハーブが植えられていました。近隣の愛好家の方が手入れをされておられるらしい、雑草にしか見えていなかったが、ラベンダーをはじめとする草花たちが『私は此処よ・・・』と囁いているようだ。 
 
 よくよく見ると、アカンサスモーリス・ラムズイヤー・タイム、、、生き生きとしている凄い、宝物だね。この近くの篤志家の皆さんが手入れをされてハーブ園?として楽しませてくれている事に気づきました。

 改めて確認してみるとなんとその数20種ぐらい、それぞれの香りや肌触りを確かめると愛おしくてなかなか側を離れられなくなりましたよ。こんな街の中で私を癒してくれる草花に出会うとは思わなかった。私は何処を見て歩いたんだろうか、見えているはずの物が見えてないとは自分を恥ずかしく思った次第です。

 小さな案内板にラムズイヤーと書いてあった、この姿を見てとっさに思い浮かんだ言葉は「羊の耳」きっとこれに違いないと言葉を反芻しながら家に戻ってパソコンを開くとラムズイヤーとは「羊の耳」でした。
 ラムズイヤーの白い毛で覆われた葉は、ぬいぐるみのように心地よく、柔らかな手触りで、lamb's ear(羊の耳)の名前にぴったりです。葉には、香りがあり、生葉や乾燥させた花をクラフトなどに利用できます。初夏に薄紫色の花を咲かせます。夏の高温多湿が苦手で、株元が蒸れて腐ることがしばしばありますが、環境さえ合えば、地表にマット状に広がります。
  この小さな趣味の庭園もその近くまで区画整理の指定がなされ消えて行ってしまうのはそんなに遠くない時間かもしれないことを思うと言葉を失う、きっと何処かで生きていて欲しい。

              令和 元年 6月          八 大

柘榴と鬼子母神

 
 柘榴
 今年も朱色の花が二階の屋根越しに咲きはじめました。
 三十年以上前にシルクロード敦煌を訪れた時に、街はずれで見事に真っ赤な花が咲いるのを見つけた。それは莫高窟に向かう旅の途中で見かけた茶色の山肌を背景に赤色は威厳ある朱色でそれはよく見ると柘榴の花でした。
 柘榴は、ミソハギ科・ザクロ属に分類される落葉性の小高木です。世界中の亜熱帯地域に生息しており、原産地についてはイラン(ペルシャ)あたりでシルクロードを超えて日本へは平安時代に、中国から朝鮮半島を経由して渡来したようです。
 樹高は2~7mほどに生長し、先端にトゲのある細かい枝をたくさん茂らせ、初夏になると、春に伸びた枝の先に、花を咲かせます。通常は6枚のオレンジ色の花びらを一重に付けますが、品種によっては八重咲きのものもあり花の色も白や黄色とバリエーションもあります。
 その後秋になると、結実して果実が付きます。熟すと、実の赤く硬い皮が裂け、中から透明な果肉の粒がたくさん現れます。この粒の中には、1つずつ種が入っているんですよね、これが柘榴の果実です。

 鬼子母神伝説 
鬼子母神伝説は、お釈迦様の「法華経」の中に出てきます。鬼子母神は500人もの子供を持つ美しい神様でしたが、自分の子供達を育てるため、なんと人間の子供をさらっては食べていたのです。これを知ったお釈迦様は、鬼子母神の末っ子を神通力によって隠してしまいます。鬼子母神は嘆き悲しみ、必死に我が子を探しますがみつからず、困り果ててお釈迦様に助けを求めました。お釈迦様は「お前は500人も子供がいるのに、たった1人がいなくなっただけでこんなにも嘆き悲しんでいる。たった数人しかいない子供をお前に奪われた人間の親の気持ちが、これでお前にもわかっただろう。」と言って鬼子母神に子供を返しました。そして、「今後、どうしても人の子が食べたくなったら代わりにこれを食べよ」と与えられたのがザクロだったそうです。鬼子母神は改心し、以後は仏教の教えを守る、安産と育児の神様となりました。そんなわけで、鬼子母神は左手に子供、右手にザクロを持っているとのことです。このことからザクロは古くから子孫繁栄を表す縁起の問い果実として吉祥果とも云われています。
鬼子母神を訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれていました。

                  令和 元年  6月         八 大








百舌鳥・古市古墳群


 仁徳天皇陵
                  世界文化遺産への登録を目指す「百舌鳥(もず)・古市古墳群」について文化庁は5月14日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に登録することが内定した、正式の登録は6月の委員会で決まるとのことです。

 古墳群は大阪府南部の百舌鳥地域(堺市)と古市地域(羽曳野市、藤井寺市)にあり、現在89基の古墳のうち形がよく残っている49基が登録されるようです。それらは4世紀後半から5世紀後半に成立されたものです。

 『延喜式』では、この古墳を「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名し、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定・管理している。

 墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。明治5年(1872)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。また、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているほか、日本最大の前方後円墳にふさわしく周辺には「陪塚」(ばいちょう)と呼ばれる、小型古墳10基以上も確認されている。

 仁徳天皇陵古墳は墳丘長が486m高さが35,8mと巨大であり、エジプトのクフ王のピラミッド(350M)、中国の秦の始皇帝陵(230M)と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。

 日本全国では約16万基 の古墳があり、その内  前方後円墳は約4500基程が確認されています。
 
                     令和 元年5月       八 大
                                   










オリーブの樹


 オリーブの樹

「オリーブの木」の画像検索結果 ずいぶん昔の話、高峰秀子の主演による二十四の瞳と云う映画が大ヒットしたとき、田舎町の映画館に見に行ったことがあった。島の分教場には女の先生と十二人の子供たちが別れを惜しんで泣いていた光景が思い浮かんだ。それ以来小豆島の光景が目に焼き付いて忘れられなかった。

 社会に出てからの後、一人旅の途中に小さな船に乗って小豆島に渡った。島のいたる処にオリーブの畑が広がっており温暖な気候とともに緩やかな時間が過ぎていった。その頃はオリーブの木なんてハイカラな言葉もあまり解らなかったが、それがオリーブとの出会いだった。古くから多様な力を持つ果実として歴史的にも評価されてきているのはご存知の通り。それから五十年余・・・・・

「国際連合の旗」の画像検索結果 旧約聖書の「ノアの方舟」では洪水が収まった際、ハトがオリーブの枝を咥えて戻ってきたことが記されて以来オリーブは「聖なる木」「知恵の果実」として大切に育てられている。このエピソートからオリーブは平和を表すものと考えられられるようになり、現代では国際連合の旗のデザインにも使われている。

 エルサレム旧市街の岩のドームから東方を望むと市街地のはずれの方に緑の森が見えたが、その辺一帯はオリーブの大木が入道雲のように競りあがり照り輝いて見える。その先では依然として解決のできない紛争の場所パレスチナに接しているが、その壁はあまりにも分厚いものだと思う。
                 
                
  令和 元年5月           八  大



端午の節句 (鯉のぼり)

 「鯉が滝を登りきると龍になる」という中国の故事があるが、男児の成長や家の繁栄を願う端午の節句がある。最近では大型連休の一部に組み込まれてしまい本来の意味はあまり意識しなくなっている。住宅の事情から大空を舞う姿は昔に比べると少なくなってきている。けれども端午の節句には日本古来の考え方が残っているが、それらを理解することは日本人として大切なことである 改めて感じる。

 そもそも「節句」とは季節の節目にその季節の草花などを神様に供えたものを家族で戴いて邪気を払うという行事でした。現代の日本では次の5つの節句が年中行事として祝われていて、中でも5月5日の「端午の節句」では男の子の成長を願ってお祝いをしたと云います。
 〇 人日(1月7日)
 〇 上巳(3月3日)
 〇 端午(5月5日)
 〇 七夕(7月7日)
 〇 重陽(9月9日)

 例えばもともとはひな祭りや七夕などと同じように、奇数が重なると縁起が悪いという考えから厄除けの日であったことや、ヨモギや菖蒲の香り、鯉のぼりのカタカタなる矢車の音などは邪気を払い無病息災を願う先人の知恵が受け継がれている。
男児の成長を願うという意味が強くなったのは鎌倉時代からのようで人々の健康、家内安全、子孫繁栄、五穀豊穣など社会の平和や安定を願うものであった。

       令和 元年5月               八 大


東寺 (教王護国寺)





 東寺展(教王護国寺)

 今上野の東京国立博物館で開催されている空海ゆかりの国宝展は重みのある展示で見ごたえがあります。東寺は平安京鎮護のために官寺として建立が始められが後に、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。

 21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。現在は国の史跡に指定されておりましたが、平成6年には世界遺産に登録されております。
 その昔に東寺があるなら西寺があるだろうと地図を見ながら探したことがありましたがその遺構は小学校の敷地でありましたが建造物は何もありませんでしたよ。

 8世紀の末頃平安京の正門にあたる羅城門(らじょうもん)の東西に「東寺」と「西寺という2つの寺院の建立が計画されており、これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であったそうで東寺は「空海」、西寺は「守敏」に下賜されたとあります。


 空海のもたらした密教美術品は極めて高い質を誇りその多彩さや豊かさは我が国の仏教美術の中d背も群を抜いております。空海が作り上げた曼陀羅の世界を講堂安置の21体の立体曼陀羅がありますが今回は国宝と重文合わせて15体がされており、見る人を驚嘆させます。

 仏像なんてあまり興味はないよと思う人も京都までいかないで上野で見られますので是非ともこの際覗いてみては如何ですか。

  

  平成31年4月                  八 大