雨水の頃

 雨水とは、降る雪が雨へと変わり、氷が溶けだすころのことで、昔からこの季節は農耕の準備を始める目安とされていました。東北の地方では「雪代(ゆきしろ)」とも云われ、雪が解けて川に流れ込む水のことを雪解とも云いました。春の暖かな日差しの中まだ残っている雪の間を勢いよく流れる川の流れを見るだけでも、チョット元気になれました。

その頃には野山のあちこちに「蕗の薹、タラの芽、うど」などの山菜類が新芽を出し天婦羅や御浸し、和え物にして食べることが出来る良い季節でもあり一番楽しい季節でもあります。けれども最近スーパーで買える山菜は季節に合わせて出荷できるように育てられているようで、味が淡白で私が育ったったころの苦みが少なくなっているように感じるのが残念ですね。       

チキナー(からし菜)の話 からし菜を使った豆腐料理が美味しかったことが頭に浮かびました。それは沖縄に行ったときに辛子菜の一種である島菜(しまなー)に、島豆腐といろいろ炒めたものを戴きましたが香辛料の辛みが効いていて素朴で旨い味でした。寒いこの時期に食べると東北の田舎の山菜を思い出             しますね。

春一番 (キャンディーズ)

 雪が解けて川になって流れてゆきます

   つくしの子がはずかしげに顔を出します

     もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか

           風が吹いて暖かさを運んできました

             どこかの子が隣の子を迎えに来ました

               もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか

この時期、おなじみキャンデイーズの歌「春一番」ですが歌詞を見ただけでリズムが思い起こされつい口ずさみたくなりますね。この歌から春が始まるようで何となく浮かれ始まります。春ってみんなが待ち焦がれた季節なんですね。 

 令和3年  如月         八 大


                                                     

幌墓(ほろはか)

 春日部の市内を流れる古利根川沿のに銚子口と赤沼地区の境に、幌墓(ほろはか)と呼ばれるところがあります。この地で亡くなった侍(さむらい)を供養するため嘉永7年(1854年)に建てられた石碑があります。此の石碑が「幌墓(ほろはか)」と呼ばれるのは、亡くなった武士が幌と呼ばれる防具を身に着けていたことからと云われています。

その由来として石碑には次のような事が書いてあります。昔この地で命を落とした武者を村人が葬リ塚を築きその後、幌墓と呼ばれるようになりましたが武者の名前も古い話のために伝わらず忘れられて行きました。ところが嘉永7年ごろ、この塚の周辺で闇夜に怪しい光が出る人魂を目撃したと云う噂が広がり村人が怖がったそうで、これを聞いた銚子口の名主が武士の魂を鎮めるために石碑を立てて供養をしたと云います。

その薄い線刻をたどると石碑には「武士(さむらい)の家のしるしや雉子の声」と、武者にちなんだ俳句が刻まれております。本文に続いて、葛飾蕉門(かつしかしょうもん)という俳諧一門の人々が寄せた句が12句彫られており、18世紀中ごろから19世紀にかけて市域で盛んになった俳諧文化を示す資料としても貴重なものだそうです。

処は桃屋工場の裏手にありますが、土手を上がると浅瀬でありますが古利根川の川幅が広がりを見せ長閑な景色が何とも言えません。不思議な伝承を聞くことが出来ました、私も故人の冥福を祈って合掌!

 令和3年 如月         八 大







寒ざらし蕎麦


 寒中のこの時期にしか味わえないお蕎麦があります。その名を「寒ざらし蕎麦」と云いましてその呼び名は聞いているものの季節もので中々その時期に出会うことが出来ませんでした。昨日久しぶりに野州栃木の山中に分け入ってその寒ざらし蕎麦を食べに行ってまいりました。指折り数えると30年来の贔屓の蕎麦屋さんで処は出流山満願寺の門前に店を構える福寿屋であります。

ご存知、坂東の17番札所である満願寺は徳川家康が江戸城修築の時にここ野州の白土を使用し、その効果が良かったので幕府の御用以外には諸大名の使用を禁止したと云われている。それ以来,石灰の産地となったと云われております。山路の途中には山肌を真っ白に覆った石灰工場がそびえたっておりこの先にお寺さんがあるとは思えません。

ここ福寿屋はこの地域の玄蕎麦から自動製粉により本来の味と香りを最大限に味わえる挽ぐるみ粉を使用し、田舎手打ちで名物の盆ざるそば「一升打ち、五合打ち」の大盛りを食べることが出来ます。また季節の山菜の時期に天ぷらと共に食べると一層引き立てられ、そば通の御仁には満足この上ない境地であります。

そばは秋に収穫されますが、その頃になると店先に「新そば入りました」のチラシが張られていました。寒ざらしとは秋に収穫した玄そばをを冬の厳寒期に冷たい水につけ、これを寒風に晒すと余分なアクや渋みが抜けて、甘みと風味が増し舌触りがよくなります。この製法は江戸時代に徳川家にそばを献上するために考えられた手法と云われ旨さの違いが分かります。

 令和3年 如月        八 大

立春大吉

 昨日は立春を迎えました、今年の冬は例年になく寒い日が続きますねとの挨拶が交わされていましたが心から待ち遠しかったですね。そんな中最近ほとんど見かけなくなったものに「立春大吉」のお札があります。春先に蕾がしぜんと花開くように、天地自然の正しい神気を戴き万民に福をもたらすと云われる縁起ものです。「春が始まる節目の日」

私達の生命は正しい生命秩序を維持することにより、終わりのない連続的な生成発展を遂げて行きます。「歳」の生命は四季ごとによみがえり、草花や樹木は後の世に命を残します。人もまた親から子に継ぐことにより、命は子孫に受け継がれていきます。新春の光に新たな光を授かり、草花の息吹と共に力強く歩みを続けます。

暦の上では春になりました、今年くらい皆が待ち望んでいた歳はなかったのではないかと思います。憎きコロナめ! 東風(こち)吹かば匂起こせよ・・・と歌に詠まれる東風とは春風を云いますが何で? 春風というのは南から吹く暖かい風のはずなのになぜ東風と呼ぶのかと思いませんか?。それは元々暦の七十二候が中国から渡ってきたことの名残であります。中国で親しまれる陰陽五行の思想で、春は東を司るから東風と呼ぶそうです。

「東風吹くや 耳現るゝ うない髪」                             春風が吹き、幼い子のうなじのあたりで束ねた髪が風にそよいで耳が現れます。

 令和3年  如月          八 大  







立春大吉。。

今年の節分

 先日、近所の子供から何で今年は節分の豆まきが2日なんですか?と聞かれた。そういえば年末に新しい手帳を求め本屋 に行ったときに店員さんから一言「今年の豆まきは2日ですよ」と云われました。そんなことを聞いたことがなかったので・・・チコちゃんに聞いてみようかなと思っていました。

昨年の手帳には2月3日が節分になっています(今年の手帳には2月2日になっています),何で変わったんだろう?不思議・ふしぎ・摩訶不思議ですね。暦により天体の運行を推算し、暦象年表の発行や暦要項の発表を行っている国立天文台の暦(れき)計算室によると、節分の日が2日になるのは1,897(明治30)年以来で、124年ぶりだそうです。そうだったんですかそんなことは全く知りませんでした。(立春の前日が、節分=豆撒き)

「季節のめぐりを表す、1年とは1太陽年のことです。1年ごとでは1太陽年365.2422日と1年365日の差から約6時間ずつ遅くなる。一方うるう年には4年前より少し早くなるというパターン」。このため「しばらく2月4日の中に納まっていた立春の日が令和3年には2月3日へ移り、その前日の節分も連動して2月2日へ移った」という事だそうです。へ~・・!

節分とは雑節の一つで各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことです。節分は「季節を分ける」ことも意味していまして、江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多いです。

此のところようやく世界中でワクチンの接種が始まって来たようですが、何で我が国への対応が遅いのでしょうか一刻も早く多くの皆さんが待ち望んで居ります・・・が、もう少しです待ちましょう。今年の豆まきは例年より1日早くなります、この調子でコロナ禍をトットと早く追い出してしまいたいものですね。

 令和3年 睦月           八 大

ルピナス

今、東口の花勘の店先ではシクラメン・ストックと ルピナスの花がその色合いを競って咲き誇っています。昔々になりますが母親が目の前のやせた土地に小さな箱庭を作って野草を育てていたがその中に「のぼりふじ(昇り藤)」があった。毎年咲いてくれる母親の自慢の花でした。

そうです、現在では「のぼりふじ」なんていう人は殆どいません、ルピナスと云いましてこの時期見事に空に向かって白・赤・紫と色とりどりに楽しませてくれます。葉には長い柄がありその草丈は1mを越える物もあるそうですが我が家ではせいぜい60cm位でこの寒さの中、元気に成長してくれます。花の様子がフジに似ており花が下から咲き始めるため昇り藤と呼ばれていたと云います。

ルピナスと云う名前はラテン語でオオカミを意味するルプスという言葉に由来するそうであの植物学者の牧野富太郎博士が、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させたと云われています。またどんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させることで大地を破壊すると畏怖されて付けられたとも言われております。

花言葉 ギリシャ語では「嘆き」という意味があり、これは「涙が出るほど苦い豆」に由来しているそうです。またルピナスと云う名前はループス(オオカミ)のように、はびこることを表しており「どん欲」「空想」と云う花言葉があります。


 令和3年 睦月          八 大





 

久伊豆神社

 狛犬の足止め
 

今年はコロナの騒ぎがあり、恒例の七福神巡りも出来ませんでしたが緊急事態宣言が出ているため全くの「巣ごもり」状態のため不自由な生活を強いられておりますね。政府から行動を制限されることなんてありませんでしたので、心身ともに不自由を目の当たりにして改めて自由という意味の有難さを感じております。

先日は突然春のような陽気が訪れたのを幸いに久伊豆神社にお参りに行きました。人影はまばらでしたが年が改まっての初参りはいつもの光景でした、拝殿の手前では昨年の古いお札を受け付けており有害と思われる付属の飾りを取り分け、お焚き上げを行っておりました。最近では環境に配慮した行動の義務ずけが徹底しているようで結構なことですね。

拝殿前にはよく見ると麻紐で両足を括りつけられた狛犬が居りますが何で麻で縛ってあるのかと思いませんか・・?。それには江戸時代から伝えられている願掛けの方法で、「走人(はしりびと)足止め」と云われる祈願で家出人が帰ってくると云われていました。迷い人や家庭を顧みない家族との絆をしっかりと結びなおしたいという願いを込めて結んだものと云われています。

そうすると必ずや居所が見つかると云います。足が止まりますようにとの願いや、子供たちが神隠しに遭わないようにと狛犬の足を麻紐で結んでいました。最近では商売をされている方や、恋人の心が離れないようにと固く結んで祈願されている方もいるそうですよ・・?  

 令和3年 正月           八 大














鏡開き


鏡餅
 鏡開きとは1月11日に今年1年の一家円満を願いながら、神様に供えた鏡餅をお下がりとして戴くと云う風習です。飾っておいて固くなった餅を木槌や手で細かくしますが、鏡餅には神様が宿っているので、神様との縁を切らないように「割る」や「砕く」とは云わず「開く」と、縁起の良い表現を使います。

餅は「望月(満月)」に通じその丸い形が家庭円満の象徴とされることから、もともと正月や祝い事などの「ハレの日」のための特別な食べ物とされており、のちに縁起物としてお正月に飾られるようになりました。また鏡餅を食すことを「歯固め」といいますが、これは固いものを食べて歯を丈夫にし歳神様に長寿を願う            事からと云われます。

鏡の話

八咫鏡と云われる物
その昔、天孫降臨で天照大御神はこの鏡(八咫鏡)を私だと思って大切にしなさいと神勅を出していますが古代から日本人は鏡を神聖なものとして扱っていたと思われます。古墳時代には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の国王より銅鏡を贈られた故事があります、これは卑弥呼がシャーマン的な支配者であることを意味するとも伝えられています。

私の家の神棚にも中央の奥に天照皇大神宮のお札の前に八咫鏡と称する鏡が飾られており、毎日の日課としお参りをしてから1日が始まります。また昔の言い伝えで鏡が割れると不吉と云われましたが大切に扱ったために、今でも鏡台にはカバーをかける習慣があります。鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを示していると思われます。しかし時代の変化と共に、そういった観念も次第に薄らいでいるようにも感じますネ。


 令和3年  正月           八 








なお、鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとはの古語。つまり蛇の目)であると言われている。

橙(だいだい)

橙の話

私達が子供の頃はお正月飾りのてっぺんには必ず「橙」が乗っていました。小正月が終わると、どんど焼きがあって 繭玉を模した団子を食べました。その時橙も食べましたが、なんとそれが酸っぱい事この上ありませんでしたね。その時本家のお爺ちゃんから教えられました。正月飾りとはその年の歳神様を迎え祀るためのもので一般の家庭では、飾り付けは12月27日位から始めます。29日は「苦を待つ」につながり、31日は「一夜飾り」になる為この日に飾るのは縁起が悪いといわれました。お正月飾りを外すのは歳時記では14日と決められていたそうです。

鏡餅の上に据えられている橙は、代々とも称され、インドヒマラヤ地方が原産のカンキツであり、日本にはかなり古い時代に中国から渡来したとされている。成熟した果実ですが落果しにくく、収穫しなければ同一樹で新旧代々の果実を見られることから、子孫が代々繁栄することに通じるため、「代々」の名が生まれ正月飾りに用いられるようになったとのこと。今のように科学や医学が発達していない時代、人々は自然に対する畏敬のなかで、自然の不思議な現象に自分の願望を重ねたようです。

ダイダイはミカン科の常緑小高木で葉は楕円形で先がとがり、葉柄(ようへい)に翼がある。初夏に香りのある白い花を開きます。実は丸く冬に熟して黄色になるが、何年も木に付いたまま落ちることなく、冬には橙色に色づき暖かくなるとまた青くなり再び冬になると橙色に色づくといったように繰り返すため、ひとつの木に何代もの実が一緒になることから、繁栄の象徴として昔から縁起物とされ、正月の飾りなどに利用されてきました。また果汁は料理に果皮は漢方薬として健胃薬に用いられています。

花言葉は 相思相愛、愛への誘い、誇り、温情、寛容などがあります。


令和3年 正月          八 大   












青木別邸

 明治の森 青木別邸

明治の元勲として山形有朋や大山巌、松方正義などの名士を知らない人は少ないと思いますが、青木周蔵と云われてもすぐにわからない人がいると思います。9月の中頃千本松牧場をを訪ねた折に近くにあると聞いていて那須塩原市に現存する青木別邸に向かった。

青木周蔵は山口県長門の生まれで医学修行を経てドイツに留学したが日本の近代化には選考を分散することの必要性を説いており、本人は外務省に入省しその後駐独公使となってオーストリア=ハンガリー帝国公使をも兼任した。黒田内閣の大隈重信外相のもとでの外務次官として条約改正交渉の全権委任を受け活躍しており、山形内閣や松方内閣でも外相を務め当時の列強各国に対し対等の合意などに対して奮闘した人物である。

東京から150KMに位置する栃木県の那須野が原は広さ4万ha中央部は土砂や火山岩が厚く堆積し、真ん中を縦断する蛇尾川は水が地下に浸透してしまう地質であった。その為約10㎞にわたり水のない川になっており明治の初めまでは人の住めない不毛の原野でした。当時殖産興業政策を掲げた政府に開拓地として注目され、その実現に向けて華族階級が出資する農場が明治13年から20年にかけて次々と開設されました。

華族農場に始まる開拓事業は明治から昭和にかけて地元の開拓団へ引き継がれ、牧畜の主流も羊から乳牛に代わって行きました。今この地を訪れる人々は四季折々の自然の中に遊び大地の恵みを味わうことが出来ます。そんな中、明治21年に農場の中央にドイツ様式で白亜の青木別邸が出来上がり今でもその美しさを誇っております。彼がこの別荘を訪れるときには黒磯駅から馬車で向かったと云われています。


 令和2年 師走          八 大





クリスマス・ローズ


我が家の小さな庭にも10年ぐらい前からクリスマス・ローズが咲きます。何ともおしとやかな姿で草藪の中に、下を向いて咲くので咲いているのが分からない時もあります。植物学的には、下向きで咲く花を好むハナバチ類の訪花を誘引していると考えられているそうです。ハナバチ類は行動範囲が広く一つの花での採蜜時間が短く効率よく多くの花を訪れて受粉をします。植物にとってはありがたい存在で、このため、花首を長くし下を向くように進化したと思われます。下向きの花をどうしても上向きにしたい方は、
支柱を立てて上向きに育てている人もいます。


「 聖なる花」クリスマスローズは、冬の花が少ない時期に花を咲かせる常緑の植物でクレマチス、アネモネなどと同じキンポウゲ科の植物です。 日本ではクリスマスローズと呼びますが、本来のクリスマスローズはクリスマスの頃に開花する
「ヘレボルス」を指す名前だそうです。 クリスマスローズにはグリーンの葉を低く繁らせた中から茎を長く伸ばす有茎種と、茎の低い無茎種があります。

へレポルスは古い時代からヨーロッパで薬効のある植物として知られていました。こういった効能から花言葉は中世ヨーロッパに騎士たちが戦場に向かうときに、自分を忘れないでほしいという思いを込めて「慰め」「中傷」「私を忘れないで」「私の不安を和らげて」などを恋人に贈ったといわれています。


 令和二年  師走         八 大












 














カマキリ

  師走に入ったこの頃「カマキリ」が庭先から入ってカーテンの裾に引っかかってそのまま動かない。翌日もその形を保っているので楊枝の先でつついてやると果敢にも斧を振り回し絡んでくるのを見ると勇敢そのものである。でもヨクヨク見るとお腹が大きそうなのでお産の場所を探しているかもしれないと推察した。

子供の頃カマキリに喧嘩をさせたことがあるが絡み合ったら放さない、絡み合いが続くがそのままの状態が1時間以上続いたことを思い出す。最後にはどちらかが食べられてしまうことになる話を聞いた。日活ポルノ映画「五月みどりのカマキリ夫人の告白」という映画があり男を食い殺す悪女の象徴としてあったそうですが見る機会はありませんでした。

三日後の夜なんとカーテンの陰で産卵を見ることが出来ました、でも物音が気になったのか普通の大きさの三分の一程度の大きさで何処かへ姿を隠してしまいました。何とも申し訳ない事をしてしまったと後悔をしています。

カマキリ(螳螂)は前脚が鎌状に変化し他の小動物を捕食する肉食性の昆虫で、名前の由来は鎌切とも言われて分かるように「鎌で切る」から鎌切になったとも云われます。カマキリ類では、同じ種類でも体の小さいオスが体の大きいメスに共食いされてしまう場合がある。交尾の際も共食いが行われ、オスはメスに不用意に近づくと、交尾前に食べられてしまうので、オスは慎重にメスに近づいて交尾まで持ち込む。

昨年はラグビー人気がありましたが、五郎丸選手のようなポーズをとる姿が一躍有名になりました。日本では昔からそのカマキリの形を拝み虫(おがみむし)の姿と呼ばれた様です。一週間たった今でも我が家のカマキリさんは居心地がいいのか天井付近にへばり付いており、時には三角目玉をくるりと動かし天下の情勢を伺っているようです。


 令和2年  師走           八 大














花語らず

 花の少ないこの季節、何時ものように古利根川をぶらぶら歩いて思い出したことがありました。随分昔の話になりますが京都南禅寺9代目の柴山全慶管長さんの言葉に「こころ」打たれました。それは「花語らず」という小文でのメモがありました。

『花は黙って咲き 黙って散っていく そうして再び枝に帰らない
    けれども その一時一処に この世のすべてを託している
       一輪の花の声であり 一枝の花の真である
          永遠にほろびぬ生命のよろこびが 悔なくそこに輝いている』    

どうしてそんな事が今頃になって心に浮かんできたのだろうか・・・。それは四行目の言葉一言一句に我が身を重ね合わせて自問自答してみる。それから先の世の中に灯りと生きる喜びを与えてくれるからだろうと私は思う。小さなことのようでも私にとっては大きな収穫でありました。


 令和3年  師走       八 大

タブレット


最近 、我が物顔でタブレットを使いこなしている中年男を見かけることが多くなったことを感じます。羨ましく思いますがこの言葉って何なのと疑問を持っていました。「タブレット」とは画面にタッチして感覚的に操作できる、スマホとパソコンの中間のような端末ですが、そのルーツは歴史との深い付き合いがあったと思われます。古代メソポタミアで使われていた楔形文字で記した粘土板を指すことが多いそうです。

識字率の低かった当時、文字を書くことを仕事とする書記官たちが様々な出来事を記した粘土板が、古代社会の営みを今に伝えてくれていました。当時の書記は行政機関や神殿などに就職して活躍していましたが一人前になるまでの道のりは相当に険しかったに違いないと想像しております。

その当時の粘土板にこんな事が書いてあるのが見つかっていたようで「ぼくを朝には早く起こしてください。遅刻できないのです。僕の先生に鞭でたたかれます」と、紀元前2,000年ごろのシュメール語の文学作品「学校時代」に出て来る話であると聞きました。

現代のタブレットも教育利用が広がり、コロナ禍がそれを加速助長させているのではないかと思っています。当時の書記の卵が見たらあまりの高機能さにはビックリするに違いない。大切なのは楔形文字を正確に書くことありましたが、学び続けることでは昔も今も変わらないのではないかと思います。

 令和2年  霜月         八 大       


マスク

マスクで際立つ子供の目

 世界中がコロナ禍でマスクの着用が日常になっていますが、ここに
きてトランプさんも一度だけマスク姿が見られましたがその後はトンと見られなくなりましたね。我が国では花粉対策の為や風邪をひいたときには日常的に使用されてきましたが、あまりマスクになじみのないヨーロッパの国々では病気でもしない限り使用するもんじゃないと云われていたことが世界中の常識のようでした。コロナのお陰でサージカルマスクは世界中の家庭の必需品になってしまいました。

先日小学校の子供たちの登校の姿を見る機会がありました。無言で整列したその姿を見て頼
もしさを感じてしまいました、年をとったという事ですかね。人間は五感という感覚を持った動物であるが、コロナ禍によってマスクの使用が強制されたため表面上は唯一マスクの存在が見直されて来た感じがします。マスクを着けると顔の表面からは目だけがキラキラと輝いて見えてしまいますが、横断歩道際の交通指導員と交わす、おはようの言葉からはハキハキとした清々しさを感じます。

目は口程に物を言うと云われますが視覚という存在が改めて見直されますね。日本人は目元で、米国人は口元で感情を読み取る傾向があると云われていますがヨーロッパの人も口元重視だそうです。私達日本人は口元が隠されて
もそれほど気になりませんが、欧米人には、相手の感情を読み取るのに重要な口元が隠されたマスク姿は、不気味にうつり、なじめないそうです。日本人は目元が隠されたサングラス姿を見て「ちょっと怖い」という印象を抱くのと似た感覚だと思います

今はコロナの事で一杯ですが年が明ける頃にはスギ花粉症の季節がやって来ますね、日本ではスギやブタグサが多いようですがヨーロッパの方でもプラタナスやカエデ、ミモザなどが飛散して多くの人々が悩まされているようです。国立環境研究所の説明によると、都市部で浮遊する大気中のいろいろな化学物質が原因であると云います。これらの国が持つ共通点は何かというと、何だと思いますか? はいそれは「先進国」なのです。マスクは今では日本文化そのものであります。


 令和2年  神無月         八 大

















櫻木神社

 こんな処に(失礼します)立派な神社があったとは知らなかったですね。野田市駅近くにあるキッコーマン工場から梅郷寄りに桜台という地名があります。住宅街が広がっており何の変哲もないと思えた反対側に回ってみると大きな鳥居がありその向こうにこんもりとした林が見え、掃き清められ手入れの行き届いた神社があり、可憐な十月桜が咲いていました。

野田市桜台にある櫻木神社は、社記によると平安朝の仁寿元年(西暦851年)に、大化の改新で活躍した藤原鎌足から5代後の藤原冬嗣の息子がこの地に居を構えた時、此処に美しい桜の大木があったので倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりであると伝えています。この地は古くには櫻木村と呼ばれ、後に桜台村となり桜が咲き誇る美しい里であったと考えられています。現在の社家はその継承から28代目で初代からは31代目に当たるそうです。

倉稲魂命は伊勢神宮外宮の祭神である豊宇気比売神(とようけひめのかみ)と同一の神様と云われ、穀霊として食物全般の神様でもあります。また人々の生命を守り育て、家を富裕にしてくれる祖神であり、生活の衰運に関わる大切な神様です。

平成4年の神社再建御造営に伴い、御殿地(宮司宅地内裏山)の発掘調査が行われ、日本列島の旧石器時代の有舌尖頭器や縄文時代の土器・石器類、古墳時代の住居跡などの遺跡のほか、古代祭祀に関係する遺物としてヒスイ勾玉管玉・台形様石製品・剣先様装飾品・半円状石製品・玉杖なども多数出土たそうです。

大鳥居脇のシダレザクラや正門の手前にあるミヤビザクラは3月中に満開を迎えると云われます、その時期に仲間の皆さんと是非行ってみたいと思います。


 令和2年  神無月        八 大 






もみじのトンネル


 今年の紅葉は台風の上陸もなく順調に紅葉前線が南下しており、何時になく色鮮やかですよと隣人に云われたのを信じて30日に日塩もみじラインへ足を運んでみました。もみじラインとは日光と塩原を結ぶ道路のことで通称バレーラインと呼ばれていますがタイミングも良かったからですが見事なグラデーションで賛嘆の声を挙げました。

塩原からの逆のコースを走りましたが、つづら折りになった紅葉の急カーブ、時々まぶしい太陽光の中を潜り抜けるとシーズン前のスキー場のゴンドラが揺れ動いていている。やがて峠に出ると一瞬にして視界が広がり会津の方向に山並みがそびえて見える、頂に近いところはやがて来る冬に備えた様子が伺えます。

街道はやがて平家の落人の集落を超え、山間の紅葉の隙間からは黄葉の木々も交じり合って高さ100Mを超える断崖を望む瀬戸合峡と川俣ダムの風景は素晴らし眺めですね。一休みするとやがて平家の落人集落の近くを超え山王林道から光徳牧場に差し掛かる頃、景色は変わって黄金色に輝く落葉松の林の中へと進みます・・・。落葉松林の黄葉もこれだけの規模があると、しばし言葉を忘れてしまいます。

戦場ヶ原の右手には「日光の貴婦人」と呼ばれる白樺の木がうっすらと見えて来てやがて中禅寺湖の水面に八丁出島の紅葉がまたまた鮮やかに映し出され日光の美しさを改めて確認することが出来ました。


令和2年  神無月      八 大









コキア

 今、国営ひたち海浜公園に真紅に紅葉したコキアが見ごろとなりましたネ。コキアは、ユーラシア大陸に広く分布する植物です。日本へはアジアから中国経由で渡来し1,000年以上前から栽培されていたという記録が残っているそうです。江戸時代にはホウキの材料として広く栽培されおり、和名の箒草はホウキとして利用していたことに由来しているそうです。

写真にあるような紅色は圧巻と云う言葉がありますがその言葉が当てはまりますね。夏を過ぎた頃からふっくらと緑色から鮮やかな紅色に変化し公園の見晴らしの丘を染め上げております。その丘を登るとその向こうには太平洋が大きく広がり表示の看板に目をやるとその先にはアラスカやロスアンゼルスにに繋がるという。海のないところに育った自分でしたので大海原は何となく憧れのイメージがあります。

子供の頃玄関の片隅を柄の短くなった箒を持って毎朝のように掃除担当だった私がさせられたことが思い起こされます。確かホウキ草と呼ばれていましたが茎の部分を乾燥させ水糸かなんかで縛ってあっただけの単純なものでしたが使い勝手の良いものでした。

また、乾燥させた小さなつぶつぶの実はより分けて良く洗ってから煮つけにしたり、大根おろしと混ぜて食べていましたが、プチュプチュして歯触り良かったのを覚えています。中国より伝わったころには食用として渡来したもので、その頃から「とんぶり」と呼ばれており私たちの育ったころは畑のキャビアと呼ばれていましたね。


 令和3年  長月         八 大   





きぬかつぎ

 里芋の皮をそのまま蒸し,その皮を剥いで食べる料理を「きぬかつぎ」(衣被き)と云う。

泥だらけでお世辞にもきれいとはいえない姿の里芋ですが、その独特のねっとり感とやわらかさは、和食のメニューには欠かせない野菜です。子供の頃「おやつ」として、小腹の空いたころに食べた塩味は今でも口元に残っていましたが、何できぬかつぎと云うんだろうと思っていましたが、本当に変な名前として頭に残っていました。

これは平安時代以降に登場しました女性が外出時に頭から被った布のことだそうです。その時代には婦女子が衣もしくは薄衣を頭から被るようになり、脱ぐことが簡単であることから衣被かづきになぞらえてそう呼ばれたようです。その背景として風や埃を防ぐ目的と共に、顔を人前に晒すのを恥とする意識があったとみられています。衣服には単に手で前方をつぼめるものと腰のあたりで帯を結ぶものがありました。

里芋のぬめりは胃の粘膜や腸の働きを活発にし、血糖値や血中コレステロールを抑える働きがあると云われています。そのほか塩分の取りすぎを抑える効果や、足のむくみの防止にも効果があるそうです。しかも他の芋類に比べると低カロリーで女性にはお勧めの野菜であると云われています。料理の主役ではありませんが煮物には欠かせない一品すね

また里芋は親芋のまわりに子芋がついて、更に子芋のまわりに孫芋が連なるところから、子孫繁栄の縁起物とされています。そのため、里芋の煮物はおせち料理やお祝いの膳の定番となっていて重箱の中では欠かせない一品でもあります。


 令和3年  長月         八 大





金木犀


毎年この時期、秋を告げるよう金木犀の花は芳香を届けてくれますが、誰にでもわかる贈り物ですね。ああ又この季節がやって来たんだ、そうするとこの後は大きな三本立ての菊の花の出番です、季節は迷うことなく順序良く訪れてくれます。微かな風の動きの中でも脂粉のかおりは子供の頃、三角ベースで草野球をやった思い出が懐かしさを思い起こさせます。隣の家の金木犀はそこそこの香りを出してくれますので秋を感じますが朝、一瞬にしてオレンジの絨毯が現れるのには何とも勿体ない気分になります・

原産地は中国西南部、今回コロナ騒ぎの震源地である武漢市辺りで近くの桂林は金木犀の名所として名高いところです。モクセイ科の常緑樹で一般には桂花と呼ばれているそうですが、和名で金木犀と書くと花の名前が何でこんな字になるのと思いますよね。そうですその由来はこの樹皮が犀(サイ)の足に似ているために中国で「木犀」と名付けられたそうで、ギンモクセイ(銀桂)の白い花に対して橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイ(金桂)と云われています。

日本には江戸時代初期の頃中国から渡来したが、花を見ることしか考えなかったため雄株しか入ってこなかったが挿し木で簡単に増やすことが出来たので多く庭木として採用され増えて行ったようです。雌株は冬にクコの実程の小さな実を付け、熟すと紫色になる。そんなことから中国まで行かないと実を見ることは出来ないようです。

この季節に良く降る「桂花雨」の合間を縫って地上に白い布を敷いて竹竿で木の枝を叩き花を集め、その花を使って「桂花茶」「桂花酒」が加工されこの時期に食べる桂花入りのお菓子を作られたと云われています。                           木犀や障子閉めたる仏の間   正岡子規


 令和3年  長月        八 大




中秋の名月


旧暦八月十五日の満月は中秋の名月と云われ里芋の収穫時期にあたり芋名月とも呼ばれ、農村を中心に庶民の間の間で行われていた収穫祭と結びついて豊作への感謝を込めて芋をお供えする習わしがあった。                    

満月の前後の呼び名は、十三夜、子望月(こもちずき)十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月、更待月と、一夜一夜の月に名前を付けるほど月が身近に、愛でたい存在としてあったのでしょう。また十五夜が雲に隠れて見えないことを無月、雨で見えないことを雨月と雲の向こうの満月を言い表しました。

昔の日本は太陰暦で、月の満ち欠けと太陽の動きを基にして作られた暦で農業中心でその暮らしに役立てておりました。旧暦の7,8,9月を秋としておりその真ん中の日の8月の15日を「中秋」と呼び、その晩に上がる月を「中秋の月」と云いました。旧暦と新暦では1か月~2か月のズレがあるため現在の中秋は9月だったり10月だったりします。


日本では十五夜の月見が盛んになったのは平安時代に貴族の人達が、空を見上げて月を眺めるのではなく、水面や盃の酒に映った月を愛でたという事が書かれております。月が美しいから感激して眺めていたんでなくて、水面に映し出されたその月を愛でていたとは何と奥ゆかしいことか言葉が出ません。

また本場、中国の中秋の名月は、中華三大節の一つ中秋節として、家族や親しい友人を招き月餅を食べ月を見るという風習があり、現在の月餅はその時期の贈答品として定着したものだそうです。

                               



 令和2年  長月        八 大










社日 とは


社日と云う言葉は知らない人が多くなっていると思います、前後にある祝日に埋もれてしまって、最近ではその影がますます薄くなっており昭和の時代が益々遠くなっていることを実感してます。春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃に最も近い戊(つちのえ)の日を「社日」と云います。令和2年春の社日は3月16日で秋の社日は9月22日になります。その土地の神様を祀る日とされております。

 社日(しゃにち・しゃじつ)



その由来ですが春の社日の頃は種まきの頃であり、秋の社日の頃は収穫の頃にあたります。そんなことから社日は重要な節目と考えられ、春は五穀の種子を供えて豊作を祈り、秋には初穂を供えて収穫を感謝するようになりました。

社日を祝う習慣は元来中国にあり「土」と云う意味がある「戊(つちのえ)」の日に豊作を祈願するするもので「社」とは土地の産土神(生まれた土地の守護神)のことを表しています。この風習が日本に伝えられると、土地の神様を信仰する日本の風土に溶け込み、重要な農耕儀礼として全国に広がったと云われています。

社日は「土の神」を祀るので、この日は農作業など土をいじることを忌む風習が各地にみられます。信州・上田平の地を訪ねた時には「お社日様は」春は神迎え、秋には神送りとして餅をついて祝っていることが現在でも行われております。そういう昔からの風習が残っているところを訪ねると改めて日本人としての歴史や民族の誇りを感じますね。

 令和2年 長月       八 大




SDGs とは

以前から胸に少し大きめの丸いバッジに気づいていた方も居られるたとは思いますが、最近特に政治家や一般の企業人の中にも多く見られるようになって来ておりますのでチョットだけ触りの部分を描き留めました。

SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称であり(エスディージーズと読みます)、2015年9月に国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標です。17の大きな目標と、それを達成するための具体的な169のターゲットで構成されています。

SDGsの17の目標とは

1 貧困をなくそう あらゆる場所であらゆろ形態の貧困に終止符を打つ。
2 飢餓をゼロに 飢餓に終止符を打ち食糧の安定確保と栄養状態の改善を達成するとと
  もに持続可能な農業を推進する
3 すべての人に健康と福祉を
  あらゆる年齢の人に健康的な生活を確保し福祉を推進する
4 質の高い教育をみんなに
5 ジェンダー平等を実現しよう
  ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る
6 安全な水とトイレを世界中に
  すべての人に水と衛生へのアクセツと持続可能な管理を確保する
7 エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
  すべての人々に手ごろで信頼でき、持続可能かつ近代的なエネルギーへのアクセツを
8 働きがいも経済成長も  
  全ての人の為の持続的、包摂的かつ持続可能な経済成長、生産的な完全雇用及び、働き
  甲斐のある人間らしい仕事を推進する
9 産業と技術革新の基盤を創ろう
  強靭なインフラを整備し、包摂的で持続可能な産業化を推進するとともに、技術開発の
  拡大を図る
10 人や国の不平等を無くそう
  国内および国家間の格差を是正する
11 住み続けられる街づくりを
  都市と人間の居住地を包摂的、安全、強靭かつ持続可能にする
12 つくる責任、つかう責任
  持続可能な消費と生産のパターンを確保する
13 気候変動に具体的な対策を
  気候変動とその影響に立ち向かうために、緊急対策を取る
14 海の豊かさを守ろう
  海洋と海洋資源を持続可能な開発に向けて保全し、持続可能な形で利用する
15 陸の豊かさを守ろう
  陸上生態系の保護、回復及び持続可能な利用の推進、森林の持続可能な管理、砂漠化へ
  の対処、土地劣化の阻止及び逆転、ならびに生物多様性損失の阻止を図る
16 平和と公正をすべての人に
  持続可能な開発に向けて平和で包摂的な社会を推進し、すべての人に司法へのアクセツ
  を提供するとともに、あらゆるレベルにおいて効果的で責任ある包摂的な制度の構築
17 パートナーシップで目標を達成しよう
  持続可能な開発に向けて実施手段を強化し、グローバル・パートナーシップの活性化を

この上段6つの目標を見ると、貧困や飢餓、健康や教育、さらには安全な水など開発途上国
に対する支援に見えますが、日本でも子供の貧困やジェンダー平等に関して当てはまることです。中段のエネルギーや経済成長の話になると先進国である日本にも密接に関係していることです。また後段では気候の変動の話、海や陸上の話になって開発途上国だけでなくもっと大きな包括的な広がりとなってきますね。(国連広報から参照)

 令和 2年 長月           八 大


















鶺鴒

 鶺鴒(せきれい) 


古利根川の人道橋付近は川幅も広くゆったりとした流れは釣り人も多く、何となく人の心も穏やかになっていくようで楽しいスポットですね。いつものように水面を眺めていると朽ちた釣り船に留まって尻尾を上下させている鶺鴒を見つけました。その細めの体と長い尾が特徴的な鶺鴒はその長い尾でちょんちょんとリズムをとるようにして、歩き回り水生植物や昆虫をあさっているようです。その長い尾を上下に振る習性から地方によっては「石たたき」「庭たたき」などとも言われています。

日本書紀には日本神話の国生みの伝承として「恋かぞえ鳥」「恋知り鳥」という異名もあるそうですが、これは神話の中にあるエピソードが由来だそうです。それは日本の国を創ったイザナギノミコトとイザナミノミコトは結婚したものの、子供の作り方が全くわかりませんでした。そこへ鶺鴒が飛んできて盛んに尾を上下に動かす動作見せると納得し二人の神は性交の仕方をすぐに覚えたのです。

神様のやることは早いです、直ぐにイザナミは大八嶋(日本列島)を産み落としたのでした。今の日本列島があるのは鶺鴒のお陰かもしれませんね。そんな伝説からか鶺鴒は結婚にゆかりの深い鳥になっており皇室での成婚時には、新床の飾りとして鶺鴒が置かれていたとも言われております。

また鶺鴒は盛岡市や喜多方市、水戸市、あきる野市、板橋市、岡崎市など全国各地の自治体で愛される鳥として指定の鳥として選ばれているようです。一般にみられているセキレイは日本ではセグロセキれレイ、ハクセキレイ、キセキレイが主であるが中国地方にいるイワミセキレイと云う種は長い尾を左右に振る習性があるそうで見られると面白いですね。


 令和2年  長月        八 大