「白内障」の話

江戸紫の鉢巻き

「目病み女に風邪ひき男」                             

と云う言葉がありますが昔から目を患っている女性はその潤んだ目つきが男心をそそり、風邪を引いている男は鼻にかかった風邪声が女心をくすぐる。いかにも江戸好みの諺で当時は目病み女なら眼帯の紅布(もみ)(紅花を揉んで染めることから)、風邪引き男はには江戸紫(えどむらさき)の鉢巻きと道具立ても揃っていました。男女とも病人を挙げたのは色恋も流行りの病の一種という皮肉な見方も感じさせますね。そう言う小生も「目病み男」になり下がってしまい江戸紫の鉢巻きを着けることになってしまいました。 

眼帯姿
最近、春日部駅周辺ではコロナ禍のお陰でマスク姿になりましたが同じく片目か隠れた眼帯姿の色っぽい高齢者も多く見受けられるようになりました・・? そうです白内障の患者さんなんです。日本人の健康寿命がどんどん伸びており男性が72歳女性は何と75歳を超えたそうです。(平均寿命は男82歳・女87歳)依って杖を持ったお爺さんやお婆さんが駅周辺に多く見かけられます。白内障症状は?物が見えにくい、目がかすむ、眩しい、物が二重・三重にだぶってみえる、といったものが主な症状で眼が痛いとか、赤くなるという症状は伴わないそうです。

白内障とは、水晶体が年齢とともに白く濁って視力が低下する病気です。水晶体とは、目の中でカメラのレンズのようなはたらきをする組織で、外からの光を集めてピントを合わせるはたらきを持っています。通常は透明な組織ですが、白内障では白く濁ってしまうため、集めた光がうまく眼底に届かなくなるもので、進行するにつれて、目がかすむ、ぼやけて見えにくい、ものが二重三重に見える、光がまぶしく感じるなどの症状が現れます。 晴れた日の屋外がとてもまぶしく感じたり車の対向車のライトがまぶしく感じたりします。 また、遠くが見えにくく感じるために、近視が進んだように感じる場合もあるようです。

私達は皆が高齢になればなるほど目の中の水晶体が濁ってくることによって視力が低下することは分かって来ていることですので不自由の限度に気ずいたら医者にお願いすることで無理して我慢をしないで部品の交換をする事です。私達の臓器の中にも消味期限消費期限ががあるよう適切に対応することも大切であると思います。

令和4年  睦月          八 大


























寒雀

 寒雀(かんすずめ)

寒 雀
新型コロナウイルスの騒ぎから早2年を過ぎようとしておりますが季節は大寒を迎えようとしています。我が家の山法師の樹の下には毎朝10羽ぐらいの雀たちが飛んで来て蒔いた稗や五穀米に寄って来て賑やかな朝食会を楽しんでいます。木の枝に刺したミカンにはメジロやヒヨドリも加わって上も下も賑やかで楽しい時間でもあります。

雀は 田んぼに餌がなくなる冬季は、人家近くに餌を求めて集まるので親しみやすい。私が子供の頃大人に混じって雀を焼き鳥にして食べていました。もともとは食鳥としてのスズメを「寒雀」と呼んだそうです。大人に混じって子供たちも餌を播いて罠を仕掛け(ザルを使って)雀を捕獲し火であぶり焼き鳥の味は忘れられない程味は美味しかったですね。(その頃の雀は田んぼの稲を食べるので害鳥とされていましたネ。)

メジロ
私達は寒いと服を着込んだり火などで暖をとって凌ぎますが、野鳥           たちは羽を膨らませ空気の層を作り、自らの体温で温め寒さを凌い           でいます。その姿は外観的にまんまるで可愛らしいです。その姿を           可愛いと云っていますが当の雀たちは自衛のためなんでしょう。           膨らんだその姿は「ふくら雀」とも云われてやっぱり可愛いですね。

 「脇へ行くな鬼が見るぞよ寒雀」 小林一茶                      

 晩冬の季語にもなっている寒雀です

 令和4年 如月        八 大

                        





寅年の話

 朝護孫子寺「ちょうごそんしじ」

今年の絵馬
新年早々であるが今年の干支「寅・虎」を探しに出かけた先は、春日部市にある藤塚香取神社である。八丁目町内のペンキ屋さんが創作した「今年の絵馬」を揚げたことを聞き初参りを兼ねて来てみると見上げる程の大きさ、近寄って見上げるとなんと迫力のある勇猛な虎であること、拍手喝采です。

虎と寅の違い 十二支の3番目は「寅」であります。「とら」「虎」とも書きますが、これは動物の「タイガー=」を指しています。十二支の上ではあくまでも「寅」です。このため年賀状や挨拶文のデザインに虎のイラストは入れますが多くの場合「虎」は使いません。

奈良県(大和国)と大阪府(河内国)の境に生駒山地の南端に位置する「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」があります。信貴山真言宗の総本山のお寺で山上のお寺からは時折、読経の声が流れて来ます。古代インドのヒンズー教の神である「毘沙門天」をお祀りしており地元では毘沙門さんと呼ばれています。毘沙門天は七福神の中の一人に入っていますが7人の神様は「清廉、有福、威光、敬愛、人望、寿命、大量」の七つの福を、地域の人々にもたらすために集まった神様達です。

朝護孫子寺と虎
当寺の創建についての伝承では、敏達天皇11年(582年)寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に四天王の一つである毘沙門天聖徳太子が感得し、後にその加護によって物部守屋に勝利したという。用明天皇2年(587年)7月3日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として当寺を創建し、「ずべきぶべき信貴山)」と名付けたとする。これに因んで「虎」が神使(しんし)としての扱いを受けたと云われる。また寺の至る所に張り子の虎が置かれているのは、その逸話に由来している。

毘沙門天とは古代インドのヒンズー教の神様で仏教に帰依してから、仏法を守護する四天王の一尊で東西南北の方角に分かれて護衛に当たって「北の守護」を担当しており福徳や財宝を司る戦勝祈願の神でもあります。四天王の一員として呼ばれるときには多聞天と呼ばれますが、何故かと云うとお釈迦様の教えを一番多く聞いたという逸話からきているようです。また戦勝の武神として名を挙げていた上杉謙信が「毘」を旗印にするほど毘沙門天を信仰したのは有名な話である。

日本三毘沙門の寺として、京都の鞍馬寺・奈良の朝護孫子寺・栃木の大岩山多聞院最勝寺が良く知られております。その姿は甲冑を身に着け足元には邪気を踏みつけ、荒々しい岩場に立った武将の姿で宝塔というお釈迦様のお骨を入れる容器を掲げています。

4年 睦月          八 大













蕗の薹(ふきのとう)の知らせ

 今朝早く正月を迎える最後の仕事として落ち葉の掃き取りをしていると、庭の片隅の枯葉の下に緑色のボールのようなものを見つけた。何だろうと思い落ち葉を祓ってみると何と丸々と太った「蕗の薹」であった。こんなに早い時期に季節を間違えたのか、それとも、一刻も早く私に知らせたいことがあったのか・・?ビックリ!ポンです。

このところ世界中がコロナ禍の騒ぎが長引いており、お正月どころではないようでストレスが一杯の人が多い様です。朝の新聞記事にも新規感染者数という見慣れたグラフが表示されておりチエックが毎日の日課になっております。そんな中、季節外れの私への知らせは何の話だろう耳をダンボにして地面を見つめて考えているところです。

フキは、一つの株から花と葉柄が別々に育つ、少し変わった植物です。フキとして食用にしているのは葉柄の部分で、長く伸びているので茎のように見えますが実際は葉の一部にあたり、円形に広がる葉と地下茎を結ぶ通路の役割があるんだそうです。そして花蕾が、蕗の薹(フキノトウ)と呼ばれてる部分です。食べ頃は開花前のつぼみの時で那須地方では2月~3月頃に 出て春の到来を感じさせます。

蕗の薹が花をつけた後に葉が伸び出し葉柄が長く育って、食用のフキ(フキの煮びたしやキャラブキ)が4月~6月頃になります。 蕗の薹の知らせに期待をして一年の締め括りにしたいと思います。ご愛顧の皆さんにとって来年が良い御年でありますようにお祈り申し上げます。

 令和3年 師走・大晦日      八 大

認知症の話

 認知症とは厄介な生き物だ! 

私の知人に軽い認知症の先輩がおられました。この頃は病気の患者さんが急激に増えているそうで時々トンチンカンなことを言い出しますが回りの皆さんは、心得ていて「そうだよそうだよ、そうだったよね」と否定することなく事を収めることが大切と云われています。認知症の半数近くがアルツハイマー型認知症であるとも云われています。

アルツハイマー博士
アルツハイマーという病気はドイツ生まれの医学者で精神科医の、アロイジウス・アルツハイマー氏1864年生まれ)が 嫉妬妄想・記憶力低下などを訴えた女性患者の症例を精神医学会に発表したことから、この症例が後にアルツハイマー病と呼ばれるようになったと云われます。多くの医学・薬学研究者の生涯の研究テーマとして現在も研究が続けられている。

認知症は、脳の病気や障害など様々な原因により、認知機能が低下し、日常生活全般に支障が出てくる状態を云います。認知症にはいくつかの種類があります。アルツハイマー型認知症は、認知症の中で最も多く、脳神経が変性して脳の一部が萎縮していく過程でおきる認知症です。症状は「もの忘れ」で発症することが多く、ゆっくりと進行していくそうです。

次いで多いのが脳梗塞や脳出血などの脳血管障害による血管性認知症です。障害された脳の部位によって症状が異なるため、             一部の認知機能は保たれている「まだら認知症」が特徴です。症状はゆっくり進行することもあれば、階段状に急速に進む場合もあるそうです。現在でもその原因が判らないので治療方法もなく脳が萎縮して小さくなり死に至る病気である。

年を取るほど認知症になりやすいと云われていますが、日本においては65歳以上の人の数は2020年度現在で約600万人と推計され5年後には約700万人(高齢者の5人に一人)が認知症になると予測されているそうです。  

認知症を重症化させない為には、物忘れの兆候を感じたらそのサインを見逃さない事だ!                    最近では高齢化・核家族化が進み、ワイワイがやがや状態の現象が大幅に減っていることも大きな原因の一つではないかと思っています。認知症の予兆を知っておくことが大切です。物忘れの初期の出来事を知って、自分に言い聞かせる事が大切。「下段にメモを」                                           

物忘れ(記憶障害) 同じことを何回も聞く、身近なものをしまい忘れる、約束を忘れる、    人の名前が出てこない、同じものを何個も買ってしまう等                時間・場所が分からなくなる 日付や場所が分からなくなる、慣れてる道で迷うこともある、出来事の前後関係が分らないことあり等                           判断力が低下する 銀行カードの出し入れに戸惑う、車の運転ミスが多くなる、人の説明を聞いても分からない時がある等                            身の回りのことで 身だしなみに構わなくなる、食べこぼしが多くなる、入浴の仕方に躊躇する、失禁が起こる、スケジュール表が混乱する等

後期高齢者となった私達も近い将来必ず心配される事なので今から対応を考えておくことです。多くの人が認知症の心配があるのなら希望を持って日常生活を過ごせる「共生の社会」を創っていく事が重要なんでしょうね。 

 令和3年  師走        八 大











木枯らし

 木枯らし

秩父での木枯らし
このところ寒い日が続きましたがいつまで木枯らしが吹くんだろうかと手元の手帳で調べてみると「日本の太平洋地域において晩秋から初冬の間に吹く風速8ⅿ/s以上の北寄りの風」のことで冬型の気圧配置になったことを示す現象を云い「凩(こがらし)」とも表示する。

気象庁では東京においての木枯らしの条件として「10月半ばから11月末までに限る」「気圧配置が西高東低の冬型で季節風が吹くこと」「東京における西北西~北の風である」「東京における最大風速がおおむね8ⅿ/s以上であること」です。それより遅れて師走のころに吹く北風は単に北風と云うそうです。

春日部の木枯らし
大阪においての木枯らしの条件は「霜降(10月23日頃)から~冬至(12月23日頃)まで」「気圧配置が西高東低の冬型」「北よりの風で最大風速が8ⅿ/s以上である」。以上の条件を満たした風を「木枯らし」と認定するといいます。                 毎年秋に木枯らし1号が発表されていますが1951年からの記録がありますが全国的ではなく、関東地方と近畿地方でしか発表はありません。 1991年にこの基準が認定されて採用されていますが発生しなかった年もありました。

木枯らしは年中行事のように廻って来ますがそのメカニズムが面白いですね。それはユーラシア大陸から日本に向かって吹いて来る冬の季節風が日本海を渡る時に水分を含む、そして一般に日本列島の中央部には連山があるために日本海側ではこの風が時雨となって雨や雪を降らせたことで水分を失う。その結果、山を越えた太平洋側では乾燥した空気となりこれが吹き抜けることによって乾いた木枯らしとなるという。

 令和3年 師走         八 大







嵯峨野路その10

 嵯峨野路を歩いてから一か月が過ぎてしまいました。この際だからとして意気込んでみたものの心中の火種に心残りはありますが雑事に追い回されていっこうに進みません。元来の遅筆が災いして季節に追いつけなくなってしまい申し訳なく思っています。        嵯峨野路編はこの辺で一区切りにしたいと思います。                 

空也上人
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は平安時代の歴史書「扶桑略記」によれば、踊念仏で知られる市聖(いちのひじり)「空也上人(くうやしょうにん)」が十一面観音を造立し疫病の蔓延する京都でこの観音像を車に乗せて引きながら歩き、
念仏を唱え病人にお茶をふるまって多くの人達を救ったと云われています。その頃鴨川岸では遺体の捨て場であって葬送の場所になっていたと云います。 空也上人の口元から仏様が出て来る挿絵を見たことがあるでしょう。

平安時代の末期には近くに阿弥陀堂が立ち平清盛によって京都を守護するための六波羅探題と云う館も出来てその周辺一帯が平家に有らずんば人にあらずと云われた時代がありましたが、寿永2年(1183年)平家が都落ちした際に炎上しこのお寺も類焼してしまったという事です。その後鎌倉・室町を経て江戸時代までは大伽藍を連ねていたが明治維新の廃仏毀釈を受け現在の寺域は大幅に縮小されている。

八坂神社 

八坂神社
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする神社(約2,300社)の総本社と云われており通称祇園さんと呼ばれており祇園祭の胴元としても知られています。元の祭神であっ牛頭天王が祇園精舎の守護神であることから祇園神社または祇園社と呼ばれていたものが慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。隣接して丸山公園があることから地元の氏神(産土神)としての信仰を集めています。

社伝によれば斉明天皇2年(656年)高句麗から来た伊利之使主(いりしおみ)の創建と云われる。牛頭天皇は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、韓国において信仰された形跡はなく日本独自の神といわれる。山城国愛宕郡八坂郷に祀られ「八坂造(やさかのみやつこ)」の姓を賜ったことに始まるそうです。

をけら
「をけら詣り」 京都の年末の風物詩として12月31日の午後7時半頃から元旦の早朝5時ごろ迄執り行われる「をけら詣り」があります。本殿にて一年を締めくくる除夜祭の後神職により灯籠に火がともされ、白朮(をけら)灯籠に灯された吉兆縄に点火し一年間の無病息災を祈願した火を消さないように縄をくるくる回しながら自宅に持ち帰ります。神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種とする新年の習わしが「をけら詣り」である。一年の締めくくりをお世話になった竈の神様迄にも感謝をするこころ・・風情がありますよね。


 令和3年 師走        八 大
















嵯峨野路その9 (知恩院と増上寺)

 正面の石段を登ろうとすると目の前に覆い被さるように山門が迫り、これぞ圧巻です。

知恩院三門
知恩院 法然上人が開山した浄土宗総本山の寺院で正式な名称は「華頂山知恩教院大谷寺」と云います。法然上人が後半生を過ごし没した地に建てられた寺で現在あるような大規模な伽藍が建てられたのは江戸時代以降であります。徳川将軍家から一般の庶民まで広く信仰を集め今でも京都の人達から「ちおいんさん」と呼ばれています。

知恩院の歴史を細かく述べるのは長くなるので省略しますが、江戸時代以降に浄土宗の門徒であった徳川家康が慶長13年(1608年)から寺地の拡大を進めたのは二条城と共に京都における徳川家の拠点とすることで威勢を誇示し京都御所を見下ろし朝廷を牽制するといった、政治的な背景もあったとも云われています

増上寺三門
同じ浄土宗の大本山増上寺(東京都港区芝公園四丁目)がありますが山号を「三縁山広度院増上寺」と称し徳川家とゆかりの深い寺があります。室町時代明徳2年(1393年)浄土宗第八祖、酉誉聖聰(ゆうよそうしょう)の時に真言宗から浄土宗に改宗し寺号も増上寺と改めた。中世以降徳川家の菩提寺になる前、天正18年徳川家康が江戸入府の際たまたま通りかかった寺の住職(源誉上人)との対面が菩提寺になるきっかけだったと云われています。     (江戸城の裏鬼門との説も)

増上寺大殿本堂
徳川家威光のもとに権勢を誇った増上寺でしたが明治維新後神道国教化政策の下、半官半民の大教院神殿がおかれ参道には通常神社に建てられる鳥居が置かれたことも。また排仏主義者によって放火されたり徳川幕府の崩壊により神仏分離の影響によってその規模は大きく縮小された。また太平洋戦争の空襲によって徳川家霊廟や歌川広重の名所江戸百景にある五重の塔などが焼失し大きな被害を受けたのはご存知の通りです。(東京タワーはその代りではない)

三門とは 元来は門の形式で中央の大きな門と左右の小さな門との三つの門を連ねて一門としたものです。仏教寺院に用いられた結果、お寺の仏殿前の門を形式に関わらず三門と呼びます。三解脱門とも云われ、三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)を解脱する門と云う意味だそうです。山門という呼ばれ方もありますが古い時代には山林の中に建てられていたので山門と呼ばれていたものです。また三門には一般の人が仏門に入ることを拒まない仏の慈悲心を表わすもので扉を設けないものであったそうです。

 令和3年 師走        八 大














嵯峨野路その8

 南禅寺と琵琶湖疎水

南禅寺三門
南禅寺の正式名称は太平興国南禅寺と号し臨済宗南禅寺派の大本山のお寺で、開山は大明国師で開基は亀山法皇である。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で日本の禅寺の中で最も高い格式を持つ。南禅寺建立以前にこの地に亀山天皇が離宮として「禅林寺殿」を建立しそれから持仏堂を立て南禅院と名付けたのが始まりでその後に南禅寺と云う寺号に改めたのが正安年間(1299年~1302年)のことである。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが足利義満が1385年に自分が建立した相国寺を五山の第一とするため南禅寺を別格として五山の上に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭寺院(たっちゅうじいん)を60カ寺を要する大寺院となったため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなった。その後2度目の火災の後に応仁の乱が勃発、市街戦も広がり後の復興には多くの時間が掛かったが徳川家康の側近として「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が臨済宗寺院を統括する役職を務め復興に努めた。
疎水トンネル

琵琶湖の水を京都へ引くことは、昔から京都の人々の願いでした。長いトンネルや正確な図面を作る技術はありませんでした。そんな中その計画を実現させたのは第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。幕末の戦災と明治維新による東京遷都により衰退した京都の復興には「琵琶湖疎水」を建設することだ。

無鄰菴

当初の目的は田畑の灌漑、精米水車、運輸、防火、水道・・等が予定されていたが途中から水力発電が加えられ困難を極めた長期に渡る難工事でした。そんな中工事の途中でも古都の景観を破壊するとして反対の声も上がって南禅寺の三門に見物人が殺到する騒ぎもあった。また明治維新直後には上地(あげち)(民間から政府に召し上げられた土地)に遭い寺領の多くを失った為廃絶に追い込まれた塔頭寺院も少なくなかった。

對龍山荘
蹴上浄水場の完成を持って京都市の水道事業が明治45年に誕生しました。豊富な水は多様な用途と新たな価値を生み出しました。その一つが大きな庭園への引水でした。山県有朋公の別荘、無鄰菴を皮切りに南禅寺周辺には清流亭、碧雲荘などの広大な別荘ができ、疎水の水が流れる回遊式庭園が造られ貴重な空間を見せている。その多くに精魂込めて作られたのが庭園造りの名人「植治」こと小川治兵衛の存在を忘れることは出来ません。

南禅寺から山門をでて
天授庵・金地院・料亭八千代・對龍山荘の辺りは現在でも大きな区画で疎水を引き入れた池泉回遊式庭園はほとんどそのまま形を残しております。40年程前に伺った流饗院(龍村美術館)のお庭を拝見した時には紅葉の鮮やかさにこんな空間を独り占めできたことは今でも忘れられない思い出として印象に残っています。現在は真如苑が所有されています。現在15区画のお屋敷(別荘)の庭園となっていますが拝観できる処もいくつかありますので是非とご覧になる事をお勧め致します。

 令和3年 師走        八 大












嵯峨野路その7

禅林寺(永観堂) 
禅林寺 は当初真言宗の道場として貞観5年(863年)清和天皇により禅林寺の寺号を賜り浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺である。その後中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師の時に阿弥陀仏の熱心な信者になり念仏の寺として浄土宗のお寺に変わった。阿弥陀仏像を安置し病人救済や慈善事業なども行った。この永観律師が住したことにより永観堂と呼ばれるようになった。紅葉の名所としても知られ「秋はもみじの永観堂」と云われて今賑わいを見せております。

永観堂の本尊阿弥陀如来立像は顔を左に曲げた特異な姿「見返り阿弥陀」とも云われている。何故そんな姿かと云うと当時50歳の永観が日課の念仏を唱えていたところに阿弥陀如来が須弥壇から降りてきて一緒に念仏を始めたといいます。びっくりした永観が歩みを止めていると阿弥陀如来が振り返って一言「永観、遅し」と言ったという。それ以来阿弥陀如来の首の向きが元に戻らずそのままの姿にあると云われている。

晶子の歌碑
左を振り返った阿弥陀如来の姿は「思いやり深く周囲を見つめる姿」「愛や情けを掛ける姿勢」「遅れた者たちを待つ姿勢」といった解釈がされているようですが、実際に「見返り阿弥陀」を間近かに見ると、そのささやきが聞こえてきそうでな感じを覚えます。

この時期の紅葉は何処へ行っても赤のグラデーションで美しい、この一枚も圧巻です。背後に映った多宝塔に別れを告げ急斜面のもみじのトンネルをくぐり抜けると足元に与謝野晶子の歌碑を見つけた。「みだれ髪」の中にある一節ですが、与謝野晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われてこの永観堂の紅葉を愛でていた、その心の中の思いは・・・  

『秋を三人椎の実なげし鯉やいずこ 池の朝かぜ手と手つめたき』 詠みながら南禅寺へ

 令和3年 師走         八 大















嵯峨野路その6

今日も金閣寺は輝いていますネ・・・』と云っていた初老のご夫婦がおられた。

金閣寺
金閣寺の正式名称は北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)と云い臨済宗相国寺派の塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から金閣寺として知られています。寺の名前は室町幕府3代将軍、足利義満の法号である鹿苑院殿から名付けられました。その歴史を紐解くと600年以上も昔に遡ります。京都の北山にある西園寺家(さいおんじ)の邸宅と庭園を譲り受けた足利義満は1397年に山荘である北山殿(きたやまどの)の造営に着手し翌年に舎利殿が完成し51歳でこの世を去るまで住処としていました。

鏡湖池
金閣の目の前に広がる「鏡湖池(きょうこち)」は大小の島々との背景が美しく水面に金閣が反射し鏡の中に足を踏み入れた気分を味わえます。鹿苑寺庭園として特別名称指定地となっており池泉回遊式庭園の代表的なお庭とされています。

金閣寺は建立されて以来、さまざまな時代の流れの影響や災難を受けていますが1467年の応仁の乱では多くの建物が焼失しましたが、奇跡的に金閣などいくつかの建物は消失は免れました。第二次世界大戦終了後いよいよ戦後の復興の動きが見えたころ金閣寺放火事件がありました。

「金閣寺放火事件」金閣寺が燃えちゃった・・と小学2年生の時に祖父から聞かされたことがあった。それはお寺の坊さんが金閣寺に放火して丸焼けになっちゃったよ、残念としか言いようがないよと独り言のようにつぶやいていたことを覚えています。

昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の学僧によって放火炎上し焼失しました。その学僧は寺の裏山で自殺を図ったが一命は取り留めた、その動機は「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。しかし母親は警察の事情事情聴取のために京都に呼ばれその帰り道に保津峡で投身自殺をして命を絶ったそうです。

この事件から6年後になって三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求していく事になったと云われています。その時に出版されたベストセラー作品が小説「金閣寺」であります

その当時の住職は、いち早く再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が自ら進んで浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復がなされ焼失前より創建時の姿に近くなったと言われています。1944年には世界文化遺産に登録され海外からの観光客の人気も高く世界的な観光名所となっています。

 令和3年 霜月          八 大 




















嵯峨野路その5

「きぬかけの道」                                 
仁和寺を出て龍安寺に向かって歩いて行くと「きぬかけの道」の標識が出てきた、衣笠山の裾野ではあるけれど きれいな名前だ思った。裾野を見上げると色づいたモミジが彩りを添えて散歩をするには楽しいところですね。以前は観光道路と呼ばれていた気がする。後日調べてみるとなんと平成3年(1997年)に愛称を公募して命名されていたことを知りました。

道の途中・天授庵
宇多天皇が真夏に雪見をするために衣笠山に絹を掛けたと伝えられる故事にちなみ「きぬかけの道」と名前を付けられたと云います。地図を広げてみると周辺には多くの社寺が数多く点在しており平安から鎌倉、室町時代にかけて隆盛を誇った皇族貴族の歴史を今に伝える観光地域になっています。

歴史と伝統を誇る古都の道路名などは簡単に変えられるものではないと思いましたが、道路の愛称が30年前に変えられた事があったとは不思議に思えた。よく考えて見るとこれは京都の先取性にあるのではと思われます。角倉了以を始め京セラ、島津製作所、ワコール、日本電産等々の創業者達は古い土地柄に合っても新しいものを取り込んで行く姿勢は素晴らしいものですね。これぞ温故知新の心だと思います。

「龍安寺」                                    坂道を上がっていくと左手に池を望み方丈が見えて来る。明応8年(1499年)の造営と云われますが白砂の上に15個の石が配置された枯山水庭園で、虎が子供を連れているように見えることから虎の子渡しの庭とも云われます。一般的には虎の子渡しの庭あるいは、七五三の庭と云われている。春夏秋冬いつ来てみてもこの庭は変わっていないのに受ける自分の感じ方は違っていることが多い、正面に見える油土塀の落ち着きに自分が惑わされてしまうのかもしれない。

寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配されており、75坪程の枯山水庭園は虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも云われている。平成6年(1996年)に世界文化遺産に登録された

この石庭の作庭意図には”禅の精神”心の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく今だ謎のままである。けれどもこの謎こそがこの庭の解釈をめぐり人々を引き付けてやまない理由と思います。

昔の話になってしまいますが昭和50年にイギリスのエリザベス女王が日本を訪れた際、石庭を見学されました。当時の新聞には女王が絶賛したことが書かれており、海外のマスコミでも報道され石庭の名前は瞬く間に世界に広がったと云われます。現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となっています。


 令和3年 霜月         八 大

⦿ 拝観停止の話 石庭・油土塀の屋根の杮葺替え工事の為                          令和3年12月6日~翌年3月18日まで拝観を停止するそうです












嵯峨野路その4

 仁和寺の歴史 

五重の塔
仁和寺は創建から1100年を超える、京都を代表する名跡で真言宗御室派の総本山です。国宝の金堂や阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像の他多くの文化財を有し境内の一部も国の史跡に指定されています。また中門一帯に植えられた「御室桜」は背が低い事で知られて、当時の姿を今に伝える名勝地として数多くの歌人や俳人にも詠まれています。「私しゃお多福御室のサクラ 背は低くとも花は咲く」

寺の歴史は仁和2年に「西山御願寺」として建立を発願されましたが、先帝が崩御されたため第59代宇多天皇が遺志を継がれ仁和4年(888年)に完成したもので、寺号も元号から仁和寺となりました。それ以降皇室の出身者が代々の住職(門跡)を務めた為、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保持しました。

しかし応仁元年(1467年)からに始まった「応仁の乱」で一山のほとんどを兵火で焼失しましたが、阿弥陀三尊や多くの宝物などは近くの塔頭寺院の真光院に移されていた為に法灯と共に今に伝えられております。応仁の乱から160年後、寛永11年(1634年)徳川3代将軍家光によって仁和寺の再興が承諾され正保3年(1646年)再建が完了し創建当時の姿に戻ることが出来ました。

御殿と庭園
慶応3年(1867年)第30世純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史が終わりました。昭和の時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994年)古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録されて新たな歴史を刻んでいます。 ⦿ 還俗 (げんぞく)とは 僧が僧籍を離れて、俗人になること。

仁和の教え 「 は慈しみ、思いやり  は和やか、平和の和 」 

仏教詩人「坂村真民」さんが言った言葉に「人間は年を取って体の機能や動きは衰えますが気持ちや心まで落ち込ませてはいけません。老いることをあきらめるのではなく「念ずれば花開く」という言葉を胸に私達は、幾つになっても常に前向きにしっかりと生きることを忘れないで下さい・・と。」単なる長生きでは意味がない、本当の長生き=名が生きを目指して豊かな人生を送りたいものです。 


 令和3年  霜月         八 大 









嵯峨野路その3

百人一首の話(藤原定家と蓮生)

 祇王寺から清凉寺釈迦堂に向かう道を歩くと、道端の看板に目が留まった。「中院山荘跡」とありよく見ると「新古今和歌集」などの選者の一人であり「小倉百人一首」を編纂した藤原定家がここの小倉山の麓で作歌活動をしていたところであり、思わず目を閉じて想像を膨らませてしまいました。

「小倉百人一首」は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した藤原定家の息子の妻が、下野の国の城主だった宇都宮頼綱(法名・蓮生)の懇望によって作られたものである。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び年代順に色紙にまとめたもので、当時は小倉色紙などと呼ばれたていたが後になって定家が中院山荘(小倉山荘)で編纂されたことから「小倉百人一首」という通称に定着したそうです。

当時は神社・仏閣・貴族の邸宅などの襖や障子に色紙を貼ることが行われており、特に定家のような当代一の大歌人であり選者の書いた色紙ならば別邸の誉れとなると蓮生は思い、襖の色紙を定家に懇望しました。高齢の定家は中風を患いながらもこれを承諾し古来からの歌、各一首を天智天皇より順徳院までの秀歌百首を選んでいます。和歌を愛した蓮生の懇望がなかったら「百人一首」の誕生はなかったのではとも思います。

私の古くからの同級生が宇都宮市周辺に住んでおりますが、その仲間が故郷の街興しのテーマを考えたところ下野の国の五代目城主‣宇都宮頼綱公と「小倉百人一首」に繋がったという事でした。歌留多での街興しは毎年順調にすそ野が広がり、令和元年には第25回を数え参加者が700人を超え会場の体育館が満員だったそうです。

 私の推薦三句

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」持統天皇

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」藤原定家


 令和3年  霜月        八 大




 
















嵯峨野路 その2

                                                                                  

北野天満宮
 北野天満宮  通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、楼門と拝殿の間に建つ中門は三光門と呼ばれ壮麗な造りと上部に掲げられた後西天皇宸筆の『天満宮』の勅額は神社のシンボル的な建築である。三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として神社の七不思議に数えられている。 社殿と同じく桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。


おかめ像

千本釈迦堂
千本釈迦堂 12月の風物詩である大根炊きで知られる大報恩寺ですが本尊の釈迦如来坐像があります。文永年間(1270年頃)「徒然草」に「千本の釈迦念仏如輪上人これを始められけり」と書かれていたので通称でそう呼ばれています。徒然草228段には文永の頃「千本の釈迦念仏は如輪上人これを始められけり」と当寺に記されています。またこの本堂は応仁の乱にも焼けることなく創建当時の物で洛中では最古の現存構造物で国宝になっています。その他にも本堂の建立に関して大工の妻「おかめ」さんに関する厄除け信仰の伝説が伝えられている。


平野神社
平野神社 平安京の北方の平野の地に鎮座する神社で、桓武天皇の生母、高野新笠の祖神として平城京に祀られていた渡来系の神様であったが平安京遷都にに伴って大内裏に移し祀られたことに始まる。延喜式に記されている古くからの神社で平安時代には例祭 (平野祭)において皇太子自らにより奉幣が行われていました。多くの降下氏族から氏族として歴史的に崇敬された神社でありました。ご祭神は「今木神」「久度神」「古開神」「比売神」の四神で源氏‣平氏・高階氏・大江氏の他、中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており「八姓の祖神」と称されたと云います。


わら天神
わら天神宮 地元京都人が親しみを込めて「わら天神」と呼ばれておりますが正式には「敷地神社(しきちじんじゃ)」です。その名が有名過ぎて本当の名称を知る京都人は多くないと云われています。                    古くから安産にご利益あるとされており、戌の日の安産祈願には参拝客が大勢だそうです。主祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」で一夜にして懐妊し次々と3人の子を出産したという逸話から全国に広がったと云われています。安産のお守りとして藁が授与されることからその通称があり、藁に節があれば男児、節がなければ女児が誕生すると言われている。

次回に続く


 令和3年 霜月         八 大




























嵯峨野路散策

                     

渡月橋
久しぶりに時間を遣り繰りして紅葉の嵯峨野路に出掛けることにしました。先ずはこの時期、最も人気のある橋と云ったら「渡月橋」ですね。ここから足の向くまま気の向くまま昔の思い出を浮かべながら、行き当たりばったりの旅のスタートです。               こちら嵯峨野と対岸の嵐山を隔てて流れる桂川に架かる橋ですが、第90代天皇だった亀山上皇(南朝・大覚寺統の祖)が橋の上を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似たる」との感想を述べたことから渡月橋と名
天龍寺
付けられたと言われて
います。

桂川沿いを右に折れると京都五山で第一の寺格を誇る「天龍寺」の門前にでる。度々の火災に遭ったため現在の堂宇の多くは明治期の再建であるが夢窓国師のによる池泉回遊式庭園は国の史跡・特別名勝第一号に指定されています。平成6年には世界文化遺産に登録されています。大方丈の正面から眺める曹源池の眺めは小さな島国から大海原への広がりを見
せており世界への広がりを思い浮かばせる
野宮神社
ものだ。

人の流れについて歩くと山陰本線踏切の手前
に黒木鳥居の宮神社(ののみやじんじゃ)がある。豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向かう前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であります。天皇が代替わりすると未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され一年間嵯峨野の清らかな
場所を選び造営された野宮に入り潔斎して伊勢神宮に臨む。その様子は源氏物語賢木(さ
落柿舎
かき)の巻の舞台とされ、謡曲「野宮」の題
材にもなっております。現在の鳥居は樹脂加
工されており、樹皮の付いたままのクヌギの原木を使用し作られた貴重な「黒木の鳥居」で形としては日本最古の鳥居形式を伝えてい
るそうです。

竹林の道を抜けると藁ぶきの屋根が見える「落柿舎」の出迎えあり、暖簾を分けると生憎と先客あり・・・向井去来の墳に手を合わせまたの機会に逢いましょう。坂道を上ること12分行き止まりの拝観受付「祇王寺」のおばちゃんの笑
祇王寺
顔が迎えてくれた。平清盛の寵愛を受け、後に
捨てられて出家した白拍子の祇王と祇女と若い
仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われ母
親と共に尼となった。往生院の庵で後にいつか我が身も同じ運命と悟った仏御前が旧縁を捨てた祇王母娘に加わり四人で念仏三昧の余生を送ったと云う物語あります。


次回に続きます


 令和3年 霜月         八 大

















牛島公園のコスモス

春日部市の 古利根川沿いに「牛島第二公園」があります。今コスモスの花が見ごろを迎えています。近くの幼稚園の園児や介護施設の皆さん達がたくさん訪れて最近にはなかった賑わいを見せています。公園内には一段と高い「見晴らし台」も設置されており高台からの眺めも一見の趣があります。

又この公園は小さいながらも季節ごとに「ポピー」や「向日葵」「コスモス」と霜の降りる12月頃まで楽しめるように準備がなされており、ぞれぞれの花の咲くころには多くの人                     達が訪れて賑わいを見せております。

隣接した児童公園は「クレヨンしんちゃん」で有名になった遊具もあり子供たちにとっても絶好の遊び場となっています。目の前の古利根川には「ポケットパーク」と呼ばれる公園もあり散歩コースともなっております。水辺には「鴨」や「シラサギ」を始め野鳥たちが羽を休めていますが、時にはあの美しい姿の「カワセミ」を見ることもあり楽しさ一杯の人気スポットです。

水と緑とコスモスの花が溢れる公園ですよ!

「コスモス」と云う言葉を最初に用いたのは!、あの有名な哲学者ピタゴラスがギリシャ神話の中で秩序・整然・調和ある世界、すなわち「宇宙」と云ったものからコスモスと云う言葉が生まれたと言われています。つい花を見てコスモスと云ってしまいますが、あの当時の空を見上げてコスモスと云う言葉を発したそうですよ。

 令和3年 霜月        八 大