水角神社の富士塚

水角神社
春日部市の旧庄和町地区の国道四号線バイパス沿いの目立たない処に「水角(すいかく)神社」があります。水角なんて聞いたことがないと云われる人があるかと思いますが郡村誌によると当地は寛永年間(1624~44)から開墾され正保年間(1644~48)に水角村と称したと云われます。覆い屋の中には一間社造りの本殿には二社あり八坂神社とその後合併された八幡神社があり、その後にも稲荷神社も合併されたとあります。それから後に病人が相次いだことがあり祟りを恐れ合併を機に、社号を「三霊神社」と改めましたが更に大正六年に「水角神社」と改めたそうです。(このころは全国的に小神社の統廃合が行われたそうで、私の八丁目地内の香取神社も「香取・八坂・稲荷合社」とあります。)

水角神社の額
神社の裏手にある富士塚は万延元年(1860)に築かれたもので北葛飾地区では同じ町内にある宝珠花神社の浅間塚に継ぐ古いものだそうで、周りには沢山の石碑が建てられており往時は信仰が盛んだったことが伺えられます。またその中でも「丸岩講」と云う組織が当時盛んだったようであちこちに石碑が建てられていたようです。                           また富士塚(浅間塚)の始まりは安永9年(1780年)に江戸の高田藤四郎と云う人が江戸の高田水稲荷の境内に建てたものが最古であるとされています

富士塚
先日、民家の裏手に居られた老女に伺ったところ、30年程前に国道のバイパスが出来ることで移転となりましたが目の前が浅間塚でしたので有難いと思っていました。当初は組内の人も手入れをしてくれましたが、年を取って来て儘ならなくなったので市役所にお願いして管理ををしてもらっていますが・・・・長年の風雪に耐えて、忘れられているような状態になっており悲しく何とも寂しい思いをしているそうです。

富士塚の説明
富士講(ふじこう)は浅間講とも云われ江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、特に                     を中心とした関東地方で流行したもので、                     修験道の行者であった男は常陸の国での修行                     を終え陸奥の国で岩窟で修行中、役行者より                     お告げを受けて富士山麓の人穴に辿り着く。                     そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立                     ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年                    (1560年)「角行」という行名を与えられた                 と云われる。

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。修行の地である人穴に接する「人穴神社」は主祭神を角行としている。その後盛んに石碑が建てられて現在でも230基の石碑塔群が残っており「人穴富士講遺跡」として知られています。

 令和4年 卯月         八 大







 














シバザクラ(芝桜)

シバザクラ(芝桜)は、春に小さな花を咲かせる多年草です。1つ1つの花は小さいですが、満開になると絨毯のように花が広がります。その美しい姿から、開花時期になると全国の名所にはたくさんの人が訪れますよ。先日、栃木県の市貝町の芝桜公園に足を延ばしてみましたが、この時期コロナ禍に飽きた家族ずれで大賑わいでした。

芝桜は北アメリカが原産で、地面を覆うように広がって育つハナシノブ科の多年草です。茎が立ち上がらないことから寒暑や乾燥にも強く常緑である為、芝生代わりに植えられているところもあります。白やピンクの小さな花を、4月~5月にかけて赤、薄紫、白の花を密集して咲かせます。桜と同時期に桜に似た花を咲かせることから「シバザクラ」と名付けられたと云われます。西洋では別名ハナツメグ(花詰草)とも云われています。

芝桜(シバザクラ)の花言葉は「合意」「一致」「臆病な心」で、小さな花を密集して咲かせる様子に因んでいますが、「忍耐」「協調」と云う言葉もあり小さいながらも沢山の花を咲かせる生命力に由来しています。

この広いシバザクラの絨毯の中を歩くと、意外にも今まで気づかなかった心地よい香りが漂ってきました。この匂い?この香りです!自然は季節を忘れず知らせてくれているのに気がつかなかった自分に恥じてしまいます、シバザクラの香りがあったんですね。残念だったことに初めての発見でした。そう言えば先ごろの音楽会でビオリラの音を聞いて忘れていた音の響きを感じることが出来ました。

ここで私事になりますが、自分で五感を刺激することで脳の疲れを取ることがイイらしいと聞いたことがありました。五感とは、ご存知の視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚のことで、それを意識して感じることで脳を鍛えることになるそうです。今年になって白内障での治療により視覚が回復しました。今回はシバザクラの香りで臭覚を堪能しました。味覚と触覚は日頃から身近に鍛えております。気になるのが聴覚の衰えが心配ですので意識して耳をダンボにしております。五感を意識していくと第六感(インスピレーション)も自然と身についてくるとらしく小さなことですが、時々予感を感じることがあります。

実業家・思想家でヨーガの修行者でもあった中村天風は霊感について五感を越えていることから「第六感」とも呼んだ。身近な例としては「虫の知らせ」と云うものがあると云います。もともと人間として生命を得たからには誰にでもこの感覚を持っているのだが、文明人になるにしたがってこの働きが弱くなってしまう。この霊感を磨けば無念無想になれると述べています。

 令和4年 卯月          八 大





















初鰹

しぶりに晴天が続いて気分が良いので散歩の帰りにスーパーへ立ち寄ると初鰹の表示あり。すぐに飛びついて大き目の柵を買い込んで包丁裁きはお手の物山椒の新芽を添えました。夕餉の席へ持ち込んで一献傾ける風情は自画自賛である。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」とはこの事なりと納得し岩手の地酒を手元にする。

この句は江戸中期の俳人山口素堂の有名な句がありますがチョット気になる事に気がつきました。プレバトの夏井いつき先生に云わせると季重なり(きがさなり)でボツになりそうですよね。こんな時はどんな受け答えをするのか興味がありネットで調べると答えがありました。俳句の中に明らかに「強い季語」と「弱い季語」があり、どちらが主役かハッキリしている場合は季重なりでもOKとなります。この場合には季語同士がお互いを邪魔しません? との答えでした。

鰹には旬(しゅん)が二度あります。「初鰹」「戻り鰹」の2種類があるのですが、初鰹は「春のかつお」として知られており、サッパリしているのが特徴です。初鰹は、南から北上する途中の3月頃から獲ることが出来るため、脂の乗りがイマイチでサッパリしているのが特徴です。

北上して行く鰹は8月頃に宮城県沖に移動して折り返し11月頃にかけて鹿児島に向かって南下して行くのが戻り鰹で、南下する途中で沢山の脂分を蓄えて行く為そのままでも美味しく食べられます。けれども高知のグルメと云えば表面だけ藁で香ばしくあぶり焼いた「藁焼きタタキ」の料理は豪快に食べられ本当に旨いです。ご存知の高知発祥の食べ方と云われています。

昨夕に食べた初鰹は旬に違いはないけれど残念ながら戻り鰹とは比べ物にならないもので「江戸っ子の心意気」を示しただけでした。

 令和4年 卯月        八大






 櫻 (日本人の心)

吉野の櫻
満開の桜に語りかけると「この処の寒の戻りで気分が引き締まります」と桜の精が答えてくれたようで引き締まった気分が味わえました。コロナ禍のお陰で世の中肩身の狭い思いが続いておりますがキリッとした感じも良いもんですね。さくらは美しいだけではなく日本人の心の中に住み着いているように感じられます。

私の紺珠の中にあります桜のメモを開いてみます。平安時代から現代まで、桜に魅了され続けて来た日本人の心を和歌で迫りたいと思いまして・・・・。

「世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」在原業平 世の中に桜などなければ、春は心のどかに過ごせるだろうにと云う反語的な表現で詠まれています。桜のことで落ち着かない心持ちを見事に表現していますね。

「久かたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」紀友則 陽がのどかに射している春の日に桜が咲いている美しい光景が目に浮かぶ、その桜の花は「しず心なく」散って行く。自分は、のんびりと静かに桜を見ていたいのに、そんな気持ちを理解せず、桜の方はなぜ散り急ぐのでしょうか。と云う口惜しい心持ちを詠んでいます。長閑(のどか)な陽の光の中に咲き、あっという間に散ってしまう櫻は日本人にとって人間の生と死の象徴を表わしているように思われますね。

「願わくば花の下にてわれ死なんこの如月の望月の頃」西行法師の有名な歌です。釈迦が入滅した旧暦2月15日の満月の頃に」という意味であります。西行法師は桜を愛し230首もの櫻を詠った歌を詠んでいます。その桜の下で死にたいという望みを果たすかのように、実際に旧暦の2月16日桜花の下で亡くなり世の人々はその不思議に驚いたと云います。その後西行の墓の周りには多くの桜の木が植えられたと云います。日本人は昔から桜の花と共に生きてきたのです。

「年ごとに咲くや吉野の山桜木を割りて見よ花の在りかを」一休禅師の道歌として知られていますが、春になると満開の桜をまとう吉野山も冬には枯れ木のような木々が林立するばかり、花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても桜の花は見つかりません。

 令和4年 卯月        八 大













清明祭

「清明(せいめい)」とは 清く明らかなことで「清浄明潔」と云う言葉を略したもので「すべてのものが清らかで生き生きしている」と云う意味です。二十四節気の一つで、春分から数えて十五日目の陽暦四月五日ごろで万物に清新の気がみなぎる季節です。この時期南東の方から吹く心地よい風を清明風とも云うそうです。

清明は沖縄地方での三大行事の一つで春先の清らかで生き生きとした様子を表わした「潔」という言葉を簡略したものです。また清明祭(シーミー)とも呼ばれ先祖の墓前にお重と料理を供えて宴を開き、供養と親族の親睦を深める行事です。お供えする料理は地域により異なりますが、天・地・海を象徴するもので、鶏肉、豚の三枚肉煮付け、赤い蒲鉾など日持ちのしやすい物を重箱に詰めます。気候もいい頃でピクニック感覚で楽しむそうです。

沖縄地方では一族全員が同じ墓に入る伝統があり必然的にお墓が大きくなります。そのため宴の規模が大きくなり各地で賑やかな清明祭を見ることが出来ます。この行事は十八世紀に中国から伝わったそうです。当時は農作業の始まりのこの季節に祖先の力を借りるためだったそうですが、広まるにつれて先祖祭りへと変化していったと思われます。 

また本家の中国でも「清明節(せいめいせつ)」と呼ばれる祝日であり、 このはお墓を掃除して墓参りをするため「掃墓節(そうぼせつ)」とも呼ばれています。 日本でいう「お盆」に当たるで気候もすっかり温暖となり、桃やスモモの花が咲き柳が緑にけむって清明と呼ぶにふさわしい季節です。唐時代以降,郊外に出かけて春の青草を踏んで遊んだり酒の宴を開く事を「踏青(とうせい)」とも云われ新鮮な緑へのあこが感じられます。

 令和4年 卯月          八 大






浄源寺の春

 浄源寺に春がやって来ましたよ~~~

         お寺のあちこちで待ちわびた春のお花が咲き誇っていますよ!

裾摺りの櫻
見上げる櫻




馬酔木





クリスマスローズ

ゆきやなぎ
椿
枝垂れ桜
岩槻・浄源寺の山門

令和4年 弥生            八大    











長命寺の桜餅

<山本や>
 春の花の四番バッターは何と云っても「桜」です。日本人の心に宿している桜の花がやっと開きました。此のところ新型コロナ問題や急遽出てきたウクライナ問題等が世の中を陰湿ムードに押されていますが、待望の桜の開花で明るさが出て来ました。毎年待ちに待った桜の開花です、気象庁の職員が誇らしげに開花宣言をする姿を新聞やテレビもこぞって取り上げるのも桜以外では考えられません。 

東京隅田川に架かる言問橋・櫻橋の傍に長命寺桜餅の<山本や>があります。随分昔の話になってしまいますが何とも言えない桜葉の香りが忘れられません。辛党だったのに甘党でも行けるんですかと云われても・・・何でそんなことを言いなさるのか?物によっては両党づかいと云う事もあります。何とも贅沢に桜の葉を三枚も使った桜餅です薄皮に、こし餡と塩味のある葉が合わさり何とも上品で美味しい。

長命寺の桜餅
当時の親父さんの講釈を聞いた事がありましたが、長々と蘊蓄を聴かされました。葉っぱと云うけれどこれは大島桜の葉で伊豆大島をはじめとする伊豆諸島や房総半島などで自生するものを採取し塩漬けにしたた物で、大きくて柔らかいのが特徴だそうです。今でもその光景は頭に残っております。花は染井吉野よりも白くて大きく可憐な姿と香りの良さから「純潔」・「優れた美人」という花言葉があります。海沿いが自生地なので潮風に強く丈夫な品種なので街路樹や公園樹にも用いられることも多い。

桜餅の由来 江戸時代、長命寺の門番だった新六と云う人が隅田川沿いの桜から落ちる葉を惜しんで、何かに活用できない物かと考えていました。そこで葉っぱを塩漬けお餅を包んで売ったところ、それが人気を得て「桜餅」の発症になったそうですよ。

関西の道明寺
関西に多い道明寺の桜餅 元々は保存食。 関西の桜餅は道明寺粉(大阪にある真言宗の尼寺道明寺で作られていた保存食が元になっている)で作られているものが多いそうでもち米を一度蒸した後で乾燥させて2つ~3つ割りにしたもので、これを色付けしたもので餡を包んで作るためお米の食感が残りつぶつぶとした皮が特徴です。どちらが美味しいかは食べてみることですネ。

 令和4年 弥生        八 大




お彼岸参り

牡丹餅(ぼたもち)
 今日はお彼岸の中日です。暑さ寒さも彼岸までと云う言葉がありますが彼岸会は春と秋にの2回あり季節の大きな節目でもある仏教の法会のことです。お彼岸には寺院へ詣でたり、お墓参りをしたりする期間ということは広く知られていますが、牡丹餅の思い出は皆さん持っていますよね。

この風習はインドや中国には存在せず、日本独自の習俗が仏教と結び付いて生まれた考えられています。一説には聖徳太子の頃に始まり、平安時代から江戸時代にかけて習慣化、年中行事化したといわれていますが、起源については定かではありません。

また、彼岸会の期間中に行う「六波羅蜜行」(6つの実践修行)という仏教の修業のことであります。経典ですので言葉が難しそうで、入って行けそうに思えませんが内容は基本的な修行を分かりやすく説明してあります。仏教の基本を示しておりますので下段に示します。

「布施」 人の為に見返りを求めず良いことをしたり施しをする        「持戒」 自ら戒めながら規律を守り規則正しい生活を送る          「忍辱」 如何なる屈辱を耐え忍び寛容な心を持つ                「精進」 怠けの心に打ち勝ち目標に向かって前進する           「禅譲」 心の乱れと動揺を鎮め、静かな心で審理を思惟する        「知恵」 正しい行をする為に仏の正しい知識を身に付ける   

6つの修行からなる行の事です。彼岸会の期間中、中日はご先祖様に感謝し、残りの6日間はそれらの修行を一日一つを行う事で、仏の悟りの境地である彼岸に近づくことが出来るとされています。

西国三十三所第17番札所に六波羅蜜寺という真言宗のお寺がありますが、空也上人のお寺があります。そうです口から6体の阿弥陀像が空也上人の小像が吐き出されています。その阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し念仏を唱えるさまを視覚的に表現しております。 6体の小像は針金で繋がっています。

 令和4年 弥生        八 大

一汁三菜の日

3月13日は「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」の日です。 3月に限らず毎月13日は「一汁三菜の日」に制定されていますが、これは13(じゅうさん)の読み方が、一汁三菜に似ていることから来ているとのことです。

一汁三菜はもともと室町時代に確立したと云われ、江戸時代に発展した本膳料理の基本となるもので、ご飯に汁物、なます、煮物、焼き物が付きそこに香の物が添えられるのが通常で、ご飯と香の物は数えないことから、一汁三菜となるそうです。かつて和食は一人ひとり独立した膳で食べるのが一般的で、家庭で食べる日々の食事のことを一汁三菜と呼んでいたとされています。

一方、食文化の頂点に立つおもてなし料理は、室町時代に武家社会で確立した「本膳料理」(一の膳、二の膳、三の膳と順番に膳に載せた料理が出される方法は、小さな膳(銘銘膳)に載せる料理の数に限界があるため、膳の数を増やしたと考えられます。江戸時代には「二の膳つき」(二汁五菜)が定着し食べ切れない料理は持ち帰ったそうです。

一汁三菜の献立には5大栄養素「炭水化物・脂質・たんぱく質・ミネラル・ビタミン」がすべて含まれているのが特徴で健康維持に必要な栄養素をバランスよく含まれていることから現代人の食生活でも理想とされています。仕事やライフスタイルの変化で何かと乱れがちな食生活ですが13日の「一汁三菜の日」には日頃の食生活を見直しをしてみませんか。

 令和4年 弥生          八 大




人生は一度きりではない❕

随分昔の話になりますが「政木和三」さんと云う発明家の話を聞いたことがありました。何でも自動炊飯器や魚群感知器、自動ドアなど1000件以上の発明品を世に出した人として知られておりますが、特許料は取らずして世に貢献をしていたそうです。一方でスピチアルな体験や経験を多くして「人々が幸せになる発明をしなさい」と云う啓示を受けて自身の奇跡的な体験や、心理が自然の中にあることなどを講演活動で伝えていました。 

「人生は一度きりではない」、一度きりだと思うとどんな生き方をしてもいいけれど「因果応報」と云う言葉があります。死後の世界で肉体は生命体の乗り舟である、人間の死とは生命体と肉体との別離であって生きているうちは生命体が肉体を支配しているが、老朽した肉体からは生命体が離れていく、だからこの世に執着心を残さないように生きることを強調しているように思います。 

また死後の世界には何段かのランクがあるらしく生きている間に人の為に、社会の為に尽くした人は高い位置にあり人を苦しめ社会に悪をまき散らしは人は、暗いじめじめした最下位に永くいることになる。人生が生きているときだけのものであるなら自分さえよければ、の一生も結構であろうが、その反作用は自分の死後の世界と次世代に生まれ変わって出て来た時の人生にも影響することを深く考えて見なければならない。と書いておられる。

これらの事から、自分の本体は生命体であって肉体ではないこと、この世での肉体は一度きりであっても、生命体は未来永劫に続く、そして周りに幸せを与えて生きることの大切さを説いています。そんな時に「道標」になるのが「政山和三さん」の生き方であります。 

1 コツコツと学ぶ     (基礎的な学問をしっかりと身に付ける)                   2 お金や物に執着しない  (私的な目先の欲望を捨てる)                3 自分の事より周りを考える(陰徳を積む)                    4 神の声を聴く      (インスピレーションを受ける)

今の人生は、今世だけの修業の場であり魂は輪廻します。今だけが良ければという思いは来世に必ず影響します。苦しいときこそ、修業をさせられていると感謝して心得るべし!どのようなことが起きてもすべてに感謝して、人のためになること、役に立つことに目を向けて努力することです。それが今の自分に人間として必要なことと思います。

令和4年 弥生         八 大







ウクライナ 頑張れ!

 ウクライナ紛争に思う  

ロシアのプーチン大統領は用意周到に準備した上で、ウクライナのゼレンスキー政権に威嚇を示していたが対応しないと見るや、全世界中が見ている前で冷酷にも軍隊を使って強硬手段に出たのです。2014年にクリミヤの併合に成功したことがあったので今回も簡単に成功することが出来ると思っていたのではないかと思う?。ウクライナ人とロシア人は本来一つの民族で単なる隣国ではなく、歴史・文化・精神世界で切り離せないロシアの一部だと強調していました。

 ウクライナには紀元前3万2千年から人が住んでおり、中世には東スラブ民族文化の中心地であり、「キエフ大公国」という強力な国家がウクライナのアイデンティティの基礎を形成していた。しかし、13世紀以降、モンゴル帝国の侵攻により領土が破壊され、オスマン帝国を始め近隣諸国から支配され分割されてきた歴史「モンゴルのくびき」がありました。18世紀には最終的にポーランドとロシア帝国の間で分割され、第2次世界大戦後ウクライナ西部はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に合併され国全体がソビエト連邦の一部になった。その後でソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナは独立を果たしたという事です。

今日のテレビを見とぃると2回目の停戦協議に入るように伝えておりますがどちらも歩み寄りには入っておりません。女性や子供たちはポーランドへ列車や車、徒歩で脱出しているようですが男たちの多くは国に残って立ち向かっているようです。民間人には被害を及ぼさないように対応するとロシア側は言っていますが相手が冷酷な民族ですどこまで通じるのか疑問が残ります。

私達の父親・祖父の世代の先輩たちは大東亜戦争に敗北した結果、悲惨な目に遭いましたが、戦争終了後もシベリアの極寒の地に抑留・強制労働を余儀なくされ日本の地を踏むことが出来なかった人が70,000人がいたことは皆さんご承知の通りです。昔話になりますがロシア人の事を「ロスケ(露助)」と卑下して呼んで嫌っていました。            (シベリアの抑留者575,000人、死者は55,000人 不明者15,000人です。厚労省調べ)

現段階では一般市民の死者が400人規模で出ているようですがこれ以上増えないことを望みます。核爆弾の用意も窺わせているようで地球規模の問題でもあります。世界の警察官と思って頼りにしていたアメリカ国は何処へ行ってしまったのか、これは日本国としても考え直す時に来ているのではないかと思います。一方で同盟国でもないウクライナへの武力支援することになると全面的な戦争になり兼ねないので思案中であると考えます。このロシアの暴挙に対して傍観しているだけではなく一刻も早く国連をはじめ世界各国の皆さんが行動に移してウクライナに支援の手を差し伸べるべき時ではないでしょうか。 ウクライナ頑張れ!

 令和4年 弥生         八 大



 




          

越谷の梅林公園

白梅
今日2月23日は 、富士山の日ですよ。寒さは相かわらず冷たい北寄りの風が吹いて少し寒いですが、どうやら週末からは冬から春へのとバトンタッチが行われそうですね。今朝も近所のスズメたちが8羽ヤマホウシの小枝に乗ってピーチク・パーチクと朝食をねだって囀りに来ております。その騒ぎを聞いてかメジロの番(つがい)が、昨日の残り物のミカンの輪切りを突いていたので差し入れを上げました。

空が晴れると気分がイイですね。チョットそこまで足を延ばして梅林公園を訪ねると何かいつもと様子が違う。コロナ禍騒ぎなので梅まつりは無いだろうと予測はしておりましたが咲いている筈の梅林に香りはありませんでした。わずかに早咲きの紅梅が開いていておりますが香り豊かな白加賀が僅かに0,5部咲です、今年はどうしたんでしょう?

紅梅
歩いている古老に尋ねると「去年の2月2日に来た時には満開の梅を見たよ」と話してくれましたが、今年は記録的な寒波襲来の影響で一か月ほど季節が遅れているようです。その遅れを取り戻そうと地面の下では野の草や花たちは出番を待つ蠢きが感じられますね。そんなことを考えるとこの2月の呼び名は春が待ち遠しい「春待ち月」でも良いのではとも思えます。

「八年前の想い出」 梅林公園で恒例の梅まつりの話を聞いて出かけてみると会場は大入り満員でした。偶然にも同じ2班の遠藤繁男さんが甘酒売り場にひょっこり出て来て「一杯飲んでいきな」と声を掛けられたことがありました。後になって聞いたところでは袋山地区では顔役で農協の役員をやっており「ダルマ屋の繁ちゃん」で通っていたそうで、祭りの責任者でもあったそうです。穏やかな笑顔が今でも忘れられません、良い男でしたね。

 令和4年 如月         八 大




そこらへんの草


そこらへんの草

朝から上天気、新町橋の右岸の十文橋を超え古利根川の土手道を歩く。今日のお目当てはあの苦みが何とも言えない早春の香り「蕗の薹」です。土手道を16号線の下から柔らかな草の感覚を感じながら小渕橋辺りを進むとお目当ての薹の膨らみが私を迎えてくれます。水位の下がった水辺りには5~6人の釣り人が思い思いの場所で糸を垂れていました。

蕗の薹は5つほど収穫できましたがこれからが楽しみです。夏ごろには雑草の丈が伸びてしまい踏み入ることが出来ませんがこの時期は足の裏に春の知らせを感じることが出来ます。この辺りは字名を「小渕」と云いますが、江戸時代の頃は「巨淵」と云って大きな池の状態になっていたそうで今の小渕の名が付いたそうです。時代によって地名も変わるんですね。

最近「食べられる草」と云う本が出版され人気を呼んでいるそうですが、私が知っているだけでも「三つ葉、ヨモギ、タンポポ、オオバコ、野蒜、カラスノエンドウ、ハコベ、ユキノシタ、ナズナ、からし菜・・・など」子供の頃には川の縁や土手道には多く見られましたね。野草と云うと上品に聞こえますが雑草と云われる草でも子供の頃食べていましたね。今ではスーパーで売っているもの以外は食べようとはしない、時代は変わりましたね。

「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!」という、人気漫画「翔んで埼玉」に登場したこともあった為「そこらへんの草天丼」を、春日部市内のスーパーが商品化したそうです。「ご当地グルメにしたい」と庄和地区の人達の発想がが当たり一時は連日完売の人気を発したことが評判になりましたね。埼玉を痛烈にこき下ろした作品だったがそのユニークな発想が大当たりし、連日完売するほどの人気だったという事でした。

 令和4年 如月          八 大



楽応寺の虎

 楽応寺の虎

漆喰作りの虎2匹
春日部の内牧小学校近くに「楽応寺」と云う小さなお寺があります。昔の奥州街道沿いと云われますが古くから薬師様の寺として地元民から尊敬されており、毎月8日の薬師如来の縁日には賑わいを見せるそうです。現在は無住の寺であり近くの内牧小学校隣接の香林寺の管理下にありますが、平日は全くその様相からは往時をしのぶことは出来ません。

ここの薬師如来の御開帳は12年に一度の寅年に行われていました。今年令和4年2月16日が御開帳の予定でしたがコロナ禍のお陰で残念な事に中止になりました。地元の人の話によれば「私が生まれてこの方75歳を越えましたが中止は一度もありませんでしたよ」と、薬師様にどのように言い訳をしていいのか、香林寺の総代さんに相談に行ったそうですが・・・。

楽応寺由来
この寺の始まりは平安時代の天元3年(980)藤原大納言公任が父母供養のため、薬師如来を堂宇に祀ったと伝えられている。公任はこの時15歳で正5位下に叙せられて侍従に任ぜられている。この薬師如来像を崇敬していた岩槻の渋江大和の守、楽応が天正13年(1583)薬師堂を建立したとあります。

寺の境内の石仏や石碑から安土桃山時代から~江戸時代~現代へと伝承されて来ていることが伺えます。現在の楽応寺は江戸時代の元禄年間の1702年(赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした年)に建立された記録が残っています。

前庭
現在の寺は良く見ると寄棟づくりの建物の軒の上に漆喰で作った可愛いらしい二匹の虎が、狛犬のように向かい合っています。近くの人の話では大正の始め頃左官職人が一匹作って奉納し、その十年後位に二匹目を作り向かい合わせとして奉納したと云われています。(寅年に合せて奉納したのではないかと思われる)

普段は戸が閉まっていて見られないがお寺の気配りで?、戸に穴があけてあり右手に明り取りの窓がある。覗けば薄明かりの中に拝めるようになっているようで「そっとのぞいてみてごらん」と誘っているようにも思えます。薬師如来は古来より眼を守る神様として信仰されております。寺は無住なので維持管理は近所の人たちの支えで今に伝えているそうです。

 令和4年 如月        八 大




 



春は名のみ

「早春賦 

    春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯歌は歌えど  

            時にあらずと 声も立てず 時にあらずと声も立てず 

大正の初期に長野県安曇野を訪れた作詞家の吉丸一昌が穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて、この早春賦の詩を書き上げたとされています。日本の唱歌で長く愛されてきた名曲の一つです。「春は名のみ」と暦の上で”春”になったばかりの季節を歌うこの曲の一番はとても有名ですが三番の歌詞までご存知の方は少ないのではないかなと思います。

    春と聞かねば 知らでありしを 聴けばせかるる 

               胸のおもいを いかにせよとの この頃か 

                        いかにせよとの この頃か 

春だと聞かなかったら気付かなかったけれど聞いてしまったからには心がはやる。このそわそわして落ち着かないこの気持ちをどうしたらいいのか・・・。春を待つこの季節の微妙な心理を見事に表現したこの三番の歌詞から「早春賦」の魅力を再発見したのです。

春爛漫の季節も確かにいいのですが「春の訪れ」をひとつひとつ感じられる早春ならではの楽しみを見つけてみては如何ですか。

 令和4年  如月      八 大      

                 

ポンペイ展

ヴェスピオ山
久しぶりに自粛ムードの中、春日部を離れて上野国立博物館で開催されている「ポンペイ展」を覗いてみました。公園周辺はコロナ禍でもあり人出も少ないため、時間を気にすることなく楽しめました。2,000年も前にこんな生活が営まれていたことを目の当りにすると一級の美術工芸品その物はもちろん周りの景色までもが現在と重なって来て時間軸が合わなくなります。

西暦79年イタリアのナポリ近郊のヴェスピオ山で大規模な噴火が発生しローマ帝国の都市ポンペイが火山の噴出物に飲み込まれました。その後にも大規模の噴火が度々起こったことが記録から分かっております危険な山であることで手が付けられていませんでした。ようやく埋没してしまったポンペイの発掘は18世紀になって始まり、現在にまでも続いております。この展覧会では、壁画、彫像、工芸品の傑作から調理器具と云った日用品に至るまでを展示されておりスマホに納めることも出来ました。

ポンペイレッドの壁画
2000年前のローマ時代の遺品が残っていることが出来たのか不思議ですよね? 物の本を読んでみると噴火した灰は一瞬にしてその地域に火砕流堆積物として覆いかぶさった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたとあります。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・
売春宿
レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになったようです。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっており男女の交わりを描いた絵も有名で、これらは市民広場や浴場や多くの家や別荘で良い状態で保存され続けていたそうです。


噴火時に発生した火砕流の速度は時速 100km以上で、市民は到底逃げることはできず一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げ惑う

石膏によって蘇った遺骨
市民の最期の瞬間を再現した。顔までは再現できなかったが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現された。この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の調査は長らく滞っていたが、近くの商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラな54体の(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)遺骨が発見されたそうです。彼らは火砕流からは難を逃れたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていたと云います。

「ナポリを見てから死ね!」という言葉がありますが、40年程前ぐらいだったと思いますがナポリ湾の景色を見に行った事がありました。着いてすぐにポンペイから見て廻ろうとしたものの、そのポンペイに憑りつかれてしまって時間が空転してしまった事を思い出しました。強烈なポンペイへの想いは未だに脳裏をよぎります。

 令和4年  如月         八 大








































蠟梅(ロウバイ)

蠟梅の花
今日は八幡神社のお詣りの帰りに古隅田川と古利根川の合流付近を歩いてみました。現在の川幅は渇水期である為10M位でありますが堤防敷きの幅は40M位かと思います。道沿いにある古碑を見るとこの辺は川幅が広く大きな橋が架かって十文橋と云う渡しがあり、何と料金を取っていたそうです。その名残りで十文橋の名が付いていたそうです。今では考えられない程川幅が細くなっていますね。その先の梅田の地の女体神社に廻ると何やら昔何処かで出逢ったような匂いが聞こえてきました。

この大寒の中で思わぬところから蠟梅の香が何とも言えない甘~い香りを漂わせて来ます。その所在を確かめると歩みを止め改めて深呼吸をしてしまいます。香りの主は半透明でにぶいツヤのある黄色い花を添えて存在感を表わしているようです。花径が2㎝ほどで葉芽は卵形で花芽は球形をしており、小さな花をうつむき加減に咲かせるので華やかさはありませんが蝋細工のような花がとても愛らしい。

蝋梅(ロウバイ)は4~5ⅿ程になるロウバイ科の落葉低木で、その名前は蝋細工のような花を咲かせることから付けられたそうです。寒い12月から2月にかけてあの独特な香りをのする花を咲かせます。 別名の(カラウメ)とも呼ばれその名前の通り中国原産の樹で我が国へは江戸時代の終りごろに渡来したものです。

中国の語源で「雪中四友(せっちゅうのしゆう)」と云う言葉があります。中国で文人(学問を修め文章に優れた人)が描いた絵を、精神性が表われたものと高く評価するという考え方があると云われ、雪中四友は文人画に好んで描かれいます。早春に咲く梅、蠟梅、水仙、山茶花の四つの花を指す言葉で多くの日本人にも愛されている花ですね。(一言)近くの山茶花には香りはなかったが、品種によってはあるのでしょう。

こんなに厳寒の季節にその美しさと共に早春の香りを届けてくれる花たちを何と称えて上げたら良いのかお礼の言葉が見つかりません、ただただ有難うさんだけです。

 令和4年 如月          八 大










「白内障」の話

江戸紫の鉢巻き

「目病み女に風邪ひき男」                             

と云う言葉がありますが昔から目を患っている女性はその潤んだ目つきが男心をそそり、風邪を引いている男は鼻にかかった風邪声が女心をくすぐる。いかにも江戸好みの諺で当時は目病み女なら眼帯の紅布(もみ)(紅花を揉んで染めることから)、風邪引き男はには江戸紫(えどむらさき)の鉢巻きと道具立ても揃っていました。男女とも病人を挙げたのは色恋も流行りの病の一種という皮肉な見方も感じさせますね。そう言う小生も「目病み男」になり下がってしまい江戸紫の鉢巻きを着けることになってしまいました。 

眼帯姿
最近、春日部駅周辺ではコロナ禍のお陰でマスク姿になりましたが同じく片目か隠れた眼帯姿の色っぽい高齢者も多く見受けられるようになりました・・? そうです白内障の患者さんなんです。日本人の健康寿命がどんどん伸びており男性が72歳女性は何と75歳を超えたそうです。(平均寿命は男82歳・女87歳)依って杖を持ったお爺さんやお婆さんが駅周辺に多く見かけられます。白内障症状は?物が見えにくい、目がかすむ、眩しい、物が二重・三重にだぶってみえる、といったものが主な症状で眼が痛いとか、赤くなるという症状は伴わないそうです。

白内障とは、水晶体が年齢とともに白く濁って視力が低下する病気です。水晶体とは、目の中でカメラのレンズのようなはたらきをする組織で、外からの光を集めてピントを合わせるはたらきを持っています。通常は透明な組織ですが、白内障では白く濁ってしまうため、集めた光がうまく眼底に届かなくなるもので、進行するにつれて、目がかすむ、ぼやけて見えにくい、ものが二重三重に見える、光がまぶしく感じるなどの症状が現れます。 晴れた日の屋外がとてもまぶしく感じたり車の対向車のライトがまぶしく感じたりします。 また、遠くが見えにくく感じるために、近視が進んだように感じる場合もあるようです。

私達は皆が高齢になればなるほど目の中の水晶体が濁ってくることによって視力が低下することは分かって来ていることですので不自由の限度に気ずいたら医者にお願いすることで無理して我慢をしないで部品の交換をする事です。私達の臓器の中にも消味期限消費期限ががあるよう適切に対応することも大切であると思います。

令和4年  睦月          八 大


























寒雀

 寒雀(かんすずめ)

寒 雀
新型コロナウイルスの騒ぎから早2年を過ぎようとしておりますが季節は大寒を迎えようとしています。我が家の山法師の樹の下には毎朝10羽ぐらいの雀たちが飛んで来て蒔いた稗や五穀米に寄って来て賑やかな朝食会を楽しんでいます。木の枝に刺したミカンにはメジロやヒヨドリも加わって上も下も賑やかで楽しい時間でもあります。

雀は 田んぼに餌がなくなる冬季は、人家近くに餌を求めて集まるので親しみやすい。私が子供の頃大人に混じって雀を焼き鳥にして食べていました。もともとは食鳥としてのスズメを「寒雀」と呼んだそうです。大人に混じって子供たちも餌を播いて罠を仕掛け(ザルを使って)雀を捕獲し火であぶり焼き鳥の味は忘れられない程味は美味しかったですね。(その頃の雀は田んぼの稲を食べるので害鳥とされていましたネ。)

メジロ
私達は寒いと服を着込んだり火などで暖をとって凌ぎますが、野鳥           たちは羽を膨らませ空気の層を作り、自らの体温で温め寒さを凌い           でいます。その姿は外観的にまんまるで可愛らしいです。その姿を           可愛いと云っていますが当の雀たちは自衛のためなんでしょう。           膨らんだその姿は「ふくら雀」とも云われてやっぱり可愛いですね。

 「脇へ行くな鬼が見るぞよ寒雀」 小林一茶                      

 晩冬の季語にもなっている寒雀です

 令和4年 如月        八 大