アルマジロ

アルマジロ
この処ようやくお馴染みの顔になってきた政界のスポークスマン松野博一官房長官が世間の目からジワリジワリと攻め立てられ遂に首を取られてしまいましたね。従来の長官に比べて何となくコソコソ感が見られました。そつがなく平穏に過ごせるかと思われましたが、政界の一歩先は闇の世界でしたね。そんな官房長官を、永田町では付いた綽名(あだな)はなんとアルマジロですって?

アルマジロとはスペイン語で「武装した小さなもの」を意味する哺乳類の総称だそうで、体中が鎧のような骨の板で覆われているのが最大の特徴で、この部分は「皮骨(ひこつ)」と呼ばれる組織で骨が丈夫な皮膚に包まれて出来ているそうです。南米の乾燥地帯の草原に住んで雑食性でアリや昆虫、ミミズ、爬虫類などの他に草の根や動物の死骸なども食べる。夜行性で日中は地下に穴を掘って過ごしている。

名前の由来はスペイン語で鎧を着た人と云われアリクイの仲間で敵から身を守るため日頃から地面に巣穴を掘ってその中で敵から身を守るために地面を両足の爪で、しっかりと掴んで踏ん張る。その主な生息地はアルゼンチンの乾燥地帯の草原に住んでいる。

そんな官房長官のあだ名が永田町では『アルマジロ』と呼ばれているそうです。アルマジロは危険が迫ると丸まって堅い殻で守りに入り、外側からいくら突いても出てこない。ここに来て裏金問題が表に出てきて国民の皆さんの見る目が大きく変わって来たようで・・・政界も俄かに騒がしくなってきました。年末年始の話題には事欠きませんね。

師走          八 大          






明日葉 (あしたば)

我が家の明日葉
「明日葉」とは、セリ科シシウド属の多年草です。強い生命力と繁殖力がある植物で、今日に新芽を摘んでも明日にはもう若葉が出ていることから明日葉と名付けられ、その名の由来とされているそうです。                       別名「八丈草」とも云われ、独特の苦みを持つセリ科の多年草で日本では古くから栽培されており、江戸時代の本に滋養強壮の効能がある薬草として紹介されています。最近ではスーパーなどでも珍しい野菜として店頭に並んでいることがあります。

温暖な気候を好み海岸沿いの草原などに自生する日本原産の植物で、房総半島や三浦半島、伊豆諸島など温暖な太平洋沿岸部に自生しております。明日葉は強い生命力と繁殖力がある野菜でビタミン、ミネラル、食物繊維がバランスよく含まれており健康野菜として知られております。

その昔、中国秦の始皇帝は「東方の海中に不老長寿の薬草あり」と聞き、使者を使わしてその薬草を探させたと言い伝えがあります。その薬草が今日でいう、明日葉だったのではないかとも云われています。その若葉はお浸しや和え物、汁の実、てんぷらなどにして食用にされております。 2月から5月ごろがその旬の時期で八丈島の香りそのものですね。納豆に混ぜて食べるとこれもありですね。

若いころ、竹芝桟橋で時刻表を覗いていたら船が出ますよとその声に押されて・・・・・・気が付くと船中の人となっていたことを思い出しました。・・・そんな事がありましたね!


 極 月          八 大











「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










黄八丈(きはちじょう)

 浜離宮庭園を鑑賞した帰り竹芝桟橋で船を覗いていたら船が出ますよ・・と声をかけられた、吸い込まれるように飛び乗った行先は何と八丈島行きの船でした。あれっと気が付いた時には既に遅し何とかなるだろうと・・翌朝、底土の港に着いてしまった。そこには目映いばかりのブルースカイ! 我を忘れる!50年以上前に訪れたことがありました。

黄八丈
八丈島                                      と云ったら黄八丈と云う、島に伝わる草木染の絹織物で島に自生する植物の煮汁で黄色,鳶色、黒色に染められた糸を平織または綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったものです。  黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったもので、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていたそうです。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされてます。寛永年間にはタブノキの樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになったが、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれ孫の代まで色褪せないと云われているそうです。


明日葉(あしたば)

明日葉
八丈島植物公園
明日葉とは、世界に誇れる日本原産のセリ科の多年草で、「今日摘んでも明日には新しい芽が出る」といわれるほど成長が早く、生命力の強い植物です。セリ科には薬用植物が多くみられますが、明日葉もその一つで、江戸時代には天然痘予防に用いられていたそうです。もっと古くには「不老長寿の妙草」として、秦の始皇帝や漢の武帝が日本までこの妙草を求めて家来を遣わしたという伝説があります。「血流を改善する効果」「むくみを改善する効果」「抗酸化作用で老化を防ぐ効果」などの働きもあります。柔らかい若葉を「お浸し」や「和え物」「天ぷら」などの食用にもされています。


宇喜田秀家の話

宇喜田秀家の墓
伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな「太陽と花と緑の島」、八丈島です。

 豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。 八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られていたそうですが、その最初が秀家一行であったそうです。
宇喜田秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごしたそうです。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしていた老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
宇喜田秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置されている。
 秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなった。

八丈植物公園
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられたそうです。八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。

  

ついつい当時のことを思い浮かべなが思感傷に耽ってしまいました。


霜 月             八 大

















 






蜀山人の狂歌

蜀山人
「恐れ入り谷の鬼子母神」「どうで有馬の水天宮」,「志やれの内のお祖師様」と読まれた有名な洒落は太田南畝(おおたなんぼ)という江戸時代の狂歌師の作です。今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらんと。死に際にしても悲観的過ぎずちょっと茶目っ気を感じさせますよね。

大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人である。名は覃(ふかし)字は子耕、南畝は号であります。通称、直次郎、のちに七左衛門と改めています。別号を、蜀山人(しょくさんじん)と名乗る。

江戸の高名な狂歌師、蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた。自作の作品で          「朝も良し昼もなお良し晩も良しその合いあいにチョイチョイとよし」を、口ずさみご機  嫌そのときノミが一匹、盃に飛び込んだ、そこで一首                「盃に飛び込むノミも飲み仲間、酒のみなれば殺されもせず」の即吟となる。       盃の中のノミがすかさず返し歌を                         「飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩に来てさす」洒落て読む。


「入谷の鬼子母神」は皆さんご存じの通りの語呂合わせです。安産や子育ての神として祀られることの多い鬼子母神。子を見守る優し気な神かと思いきや、元は多くの子供たちを養うために、人を殺して食らうというおぞましい鬼であった。悪鬼が転じて神になろうとは・・江戸時代中頃、とある大名家の奥女中が腫れ物で困っていたところ、入谷の鬼子母神にご利益があると聞きつけて、お参りにやってきたのだという。21日目の願掛け最後の日境内でつまずいてしまう。その時ぽろっと腫れ物が破れ膿が出て完治したと・・か。 この話を聞いた狂歌師・大田南畝がそのご利益に恐れ入ったと云うところでこの言葉が口をついで出たという。 


「情け有馬の水天宮水の守護神としてまた安産・水難除けの神として知られています。 東京都中央区にある神社。 文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神となる。以後、江戸の庶民にも広く親しまれ幕府から裁可されて、毎月5日に限って参拝が認められるようになりました明治5年に久留米藩下屋敷のあった日本橋蛎殻町へと遷座しています。久留米藩・有馬家は「江戸庶民ファースト」だったのでしょう。有馬家の情け深い恩情に感謝して、有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情け有馬の水天宮」という言葉が生まれたと云います。


「お祖師様」このお寺は江戸時代には厄除けのお祖師さんとして庶民に大変な人気がのスポットであったそうです。おそっしは似通った別の言葉を当てて違った意味を言う洒落のことで お祖師様とはその宗派を初めて開いたその肖像で、特に日蓮宗の開祖の日蓮上人を尊敬して云います。お祖師、おそっさまと。祖祠堂に安置されている堀之内の「厄除け祖師」と呼ばれ江戸時代から現代に至るまで霊験あらたかなことで広く信仰を集めています。 明和6年(1769年)の火災の後の再建工事には、名工と言われた欄間彫刻師、波の伊八(初代)が参加したそうです。地元世田谷の堀之内では厄除けのお祖師様と呼ばれているそうです。

言葉の面白さ「地口」                               ことわざや俗語などと同音、あるいは音声(発声)の似通った別の言葉を当てて、違った意味を言う洒落のことです。例えば「舌切り雀」を「着たきリ雀」と言い換えるというようなことです。地口は、言葉遊びの一種で「洒落」とほぼ同じ意味を持ちます。江戸時代の享保年間に流行したそうです。


 霜月              八 大













上海蟹

上海蟹

 中国料理の秋冬の風物詩といえば上海蟹。「菊黄蟹肥(菊の花の季節に蟹が肥える)」という言葉があるそうで、10月半ばにもなると市場には食べごろの蟹が出て来ます。毎年レストランでは10月中頃から蟹、蟹、蟹で賑わうそうです。黙々と蟹を食べる、面倒くさいけれど美味しい、足元には食べかすが散らかっているがそんな事は気にしない人達が満足げな顔で食べるとき、言葉はいらない。時代が平成に変わる頃のことでした。

中国で一般に上海ガニと呼ばれているのはイワガニ科の一種でチュウゴクモヅクガニです。秋が旬で上海や香港で人気のある食用ガニで、中国の長江流域から朝鮮半島迄の川に棲息しています。なかでも江蘇省蘇州市にある陽澄湖で養殖されるものが海外でも高値で取引されています。その為他の場所で養殖されたものを一瞬だけ水に浸して陽澄湖産としてしまう業者もいるそうです。日本でも昨年、韓国からのシジミの産地偽装の話がありましたね懲りない面々は何処にでも。

秋に十文字に縛られ生きた状態で中国から日本へ出荷される様子は秋の風物詩のひとつです。日本では同種のモズクガニも漁獲量は少ないものの食されています。上海ガニは身が美味しい物の、その量はほんの少ししかありません。メスの殻の内側にあるオレンジ色の内子に大変価値があるそうです。内子には濃厚なうまみが詰まっており独特の酸味が大変な人気です。

食べ方は蟹を丸ごと茹でたり蒸したりしますが、生きたまま紹興酒に漬けた料理も酒の旨味が染み込んでおり大変美味しいもので忘れられない味でした。また身のうまみを生かした蟹汁や蟹飯も大変に旨いですよ一度お試しあれ。

 神無月             八 大    

       





「コオロギ」の出番?




夜が戸張を降ろすころ虫の音が騒がしくなってきました。螽斯在戸 (キリギリス、戸にあり)という言葉もありますがキリギリスが戸口の側まで来て、哀愁を漂わせながら「ギーチョン、ギーチョン」と鳴く季節になって来ました。その鳴き声が深まる秋の侘しさ長くなっていく夜の深さを感じさせてくれますネ。

コオロギ=キリギリスだった
螽斯は正しくは「しゅしゅつ」と云い、コオロギやキリギリスの事を指すそうです。この二種は数ある虫の中でも比較的遅い時期まで鳴き続け時には霜の降りる頃まで鳴くこともあるようです。それゆえ漢字の意味が混同されてしまったのでしょう? また古い時代にはコオロギをキリギリスと呼ぶこともあったそうです。

キリギリスと云えば童話「アリとキリギリス」で越冬の準備を怠ったために死んでしまうキャラクターとして描かれています。けれども実際は成虫の寿命が遅くとも11月で尽きてしまうだけで、冬の準備を怠るから死ぬわけではありませんよね。キリギリスから見れば、此の童話で「怠け者」のレッテルを貼られてしまいさぞかし無念だったことでしょうね。

キリギリスは 緑色もしくは薄い茶色の体で後ろ足と触覚がとても長く,ギーチョン・ギーチョンと鳴き、コオロギはコロコロ・コロコロと鳴きます。やがて来るだろう食糧危機への対策として今昆虫食に注目が集まっています。2050年頃には世界人口が100億人になることが予想されていて、そのため重要な栄養源であるたんぱく質を確保することが重要な課題とされています。そこで、家畜の代替えとしての昆虫食が注目され始めてるのです。

栄養価が高く環境への負荷も少ない事から国連食糧農業機関(FAO)も推奨している。まだ抵抗感をもつ人も多い食材ですが、無印良品では徳島大学と連携してコオロギ粉末入りのチョコレートとお煎餅を開発したそうですが?。地球にやさしい未来食と云っていますが・・・・如何ですかね。



 神無月              八 大











庚申信仰 「三尸(さんし)の虫」

庚申の碑
庚申(かのえさる)の日、人間の腹の中には「三尸(さんし)」と呼ばれる虫が体内から抜け出し天帝に悪事を伝えると云う空想上の虫です。少しの過ちも見逃すことはことはありません。その三尸の虫は庚申の夜に人が眠っているすきに体内から抜け出で、その罪悪を天帝に密告する役目を持っているそうです。

天帝のところにはそれぞれの人の罪科を記録した台帳があり、その記録が増えると人間は命を奪われると云います。そのため庚申の夜は三尸の虫が体内から抜け出ないように、寝ないで酒宴などを催しながら夜を明かしたと云います。こうした行事は平安時代の貴族社会から伝わる庚申信仰であり中世末から近世にかけて             一般庶民の間にも拡がったと云います。

東陽寺
ここ埼玉県松伏町赤岩地区の東陽寺境内にある、文政四年(1821年」建立の庚申塔には三尸の文字が入っているのが確認されており珍しい物だそうです。三尸の文字が刻まれているのは山形県高畠町や埼玉県の鴻巣市等にも見えますが貴重な庚申塔が確認されています。

の庚申の日眠らなければ三尸は出てこないとされ宴席を一晩中開いたと云います。これが平安時代から伝わる庚申信仰であります。三尸は庚申信仰の中心的位置を占めていると云われます。全国各地に点在する庚申塔ですがここ東陽寺の庚申塔には「天下地平 国土安穏 三尸消滅 開講無事」の文字が刻まれており現在でも庚申の祭り「庚申講」では同町築比地区でも僅かに残っているそうで貴重な民族的な資料と云われています。

庚申塔の説明

またこの地域の土着の信仰で最も古い記述では清和天皇の代、貞観5年(863年)11月1日の宮中に宴が開かれ音楽が奏でられていたと云います。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していたと云います。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなっていったと云われています。

 神無月           八 大







































神嘗祭と新嘗祭

 

伊勢神宮の鳥居
神嘗祭(かんなめさい)とは神様を食事でもてなすと言うお祭りです。五穀豊穣に感謝して毎年の最初に収穫した「初穂」を天照大御神に奉り感謝をする伊勢神宮のお祭りです。年間に1,500以上に及ぶという神宮のお祭りの中でも、最も由緒ある重要な祭り事であります。毎年10月15日から17日にかけて行われております。戦前までは17日を国民の祝日となっていたそうです。

古くから神嘗祭には皇室から幣帛使(へいはくし)と呼ばれる使者が派遣されて来たそうです。応仁の乱や戦国時代の戦火により中断することもあったそうですが江戸時代に入り世の中が安定するとこの風習も復活し今日に至っております。

伊勢神宮・内宮
神嘗祭が毎年二十年間行われると「大神嘗祭」となり「式年遷宮」が行われます。「式年遷宮」とは社殿を新しく造り、御神体をその新宮に遷す大祭です。西暦690年から1,300年以上にわたり行われていて、現在から7年後の令和2033年には第六十三回式年遷宮が予定されるわけです。

新嘗祭(にいなめさい)も、五穀豊穣の収穫祭にあたり、毎年11月23日に宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)で執り行われます。天皇陛下が初穂を神々にお供えし、五穀豊穣に感謝を捧げて祈念します。その後、天皇陛下も初穂の食事を召し上がる飛鳥時代から続く重要な宮中祭祀であります。新米を召し上がるときには、古来から続いている伝統行事に思いを新たにしては如何でしょうか。

先ごろ我が家にも新米が届きましたが安易に食べてしまうのではなく、子供たちにも食の大切さを一言添えて分け与えました。それにしても最近は新米の出回るのが早くなり、季節感も薄れて収穫祭での喜びや感謝の心も少しづつ薄れていくように感じます。                子供の頃「米」と云う映画が上映され記憶が薄れていますが当時の若手スター<江原真二郎と中原ひとみ>が共演して米作りの大変さが脳裏に残っていました・・・。遠い昔の話になりましたね。

  神無月             八 大