「本阿弥光悦」とは

本阿弥光悦展
 久しぶりに東博(東京国立博物館)の「本阿弥光悦(ほんあみとうえつ)展」を尋ねました。凄い男だとは聞いていましたが江戸時代初期に活躍した大巨人でしたね。その名前からして異端者のように感じていましたが・・・。

 本阿弥光悦の名前を聞いたことがある人はおられると思いますが、彼が何者であるのかを一言で説明することはまったく難しいことです。どうしてか、それは非常に多才な人物だったからです。その奥深い才能を読み解く特別展「本阿弥光悦の大宇宙」展が上野の東京国立博物館にて始まりました。

江戸時代の永禄元年京都に生まれた本阿弥光悦は日本刀の鑑定家に生まれ書家、陶芸家、画家、蒔絵師などの多彩な顔を持つ人で多方面で活躍したスーパーマンでした。元和元年(1615)の大坂夏の陣の後には徳川家康から京都北部の鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などを率いて移住し、芸術村(光悦村)を築いた。

光悦寺垣


50代後半になった本阿弥光悦は徳川家康から京都、鷹峯(たかがみね)に広大な土地を与えられた。この新天地に職人たちを呼び集めて、芸術村として「光悦村」を運営して芸術の演出家とし頭角を現し光悦自身も創作活動打ち込んでいた。80歳で亡くなるまでの20年間を光悦村で創作活動に打ち込んだと云われています。こういう人を総合芸術家と呼ぶのでしょう。 

そのグループのリーダーが本阿弥光悦と俵屋宗達という二人の画家によって作品が作られるようになったのが琳派の始まりと云われています。      琳派の琳は尾形光琳の名前から取られたものですが琳派の起点となる人物は江戸時代の初めに京都で活躍した本阿弥光悦と俵屋宗達と云われています。


睦 月              八 大










江戸時代初期に活躍した「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)は、日本刀鑑定の名門家系に生まれ、後世の日本文化に大きな影響を与えた芸術家です。書家・陶芸家・画家・茶人など多彩な顔を持つ人物であり、国宝2点、重要文化財18点の作品を残しました。その一方で有力大名にも顔が利くほどの人脈や、並外れた目利きにより若手芸術家を次々と発掘。「俵屋宗達」(たわらやそうたつ)から「尾形光琳」(おがたこうりん)へと続く、総合芸術流派の「琳派」(りんぱ)を興したことでも知られます。


総合芸術家として活躍した光悦

本阿弥光悦の事績  書道家 画家 蒔絵師 陶芸家


40代に入ってから、本阿弥光悦は総合芸術家としての才能を開花。当時駆け出しの画家だった俵屋宗達の才能を見抜き、「厳島神社」(いつくしまじんじゃ:広島県廿日市市[はつかいちし])の宝物「平家納経」(へいけのうきょう:金銀などの意匠を凝らした経典群、平家一族が繁栄を願い奉納)の修復グループの一員に加えます。期待に応えた俵屋宗達は、のちに近世絵画の巨人となりました。

また、本阿弥光悦は幅広い人脈でも知られ、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)、加賀藩(かがはん:現在の石川県)の藩祖「前田利家」(まえだとしいえ)、織部焼で知られる戦国大名「古田織部」(ふるたおりべ)といった名立たる人物達と交流を重ねたと伝えられます。






光悦寺

1615年(元和1)本阿弥光悦が、徳川家康より鷹峯の地を与えられ、一族や工匠等と供に移り住み芸術村を築きました。光悦は、刀剣鑑定のほかにも、多くの才能に優れており、芸術指導者としても活躍しました。現在の光悦寺は、本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌堂(位牌所)があった場所といわれています。






逆鱗(げきりん)

逆鱗とは
今年は龍の年です。竜羽ばたけば雲を呼ぶ優れた人物や力強い存在が登場すると、その影響が大きな変化をもたらす様子を表現しています。竜は力強く舞い、変化や進展をもたらす象徴とされています。このことわざは力強い行動や存在が周囲に大きな影響を与え、新しい展開や希望が生まれることを期待するメッセージを込めています。

中国皇帝を竜にたとえて穏やかな時には背中に子供をまたがらせることも出来るが、怒らせるて顎の下にある棘に触れるとうろこ状のとげを出して怒り狂うことを逆鱗(げきりん)と云われています。転じて目上の人を激怒させることを言うそうです。

龍年

竜は穏やかな時は背中にまたがることも出来るが、顎の下の刺に触れると、怒り狂って人間を殺してしまうとも云われています。君主という存在にも「逆鱗」があるため、説得などを試みる際には十分な配慮が必要と云われています。

竜は架空の生き物ですが力強く舞い変化や進展をもたらす象徴とされており、古くから「運気上昇」「生命力」の象徴とされてきました。また鯉が龍に変身するという逸話もあり出世運にも繋がると云われています。                  さあ竜年が始まりましたよ!

 睦 月           八 大


























「人生は一度きり」?

ヘップバーンの言葉
 人生は一度きり」 多くの人は人生を一度きりという言葉を知りながら「いつか俺だって」と自分の出番が来ることを考えながら何年も歳を重ねて来ました。この先まだまだ続くかのように思っていた・・・? 輪廻転生という言葉がありますがそんなことはないんですよね。今生は一度きり今の自分もいつかは確実に後輩の皆さんにバトンを引き継いで見守る側に回ります。   

人生が一度限りなら、自分が望む生き方をしなければならないと思う。仕事や人間関係に我慢を強いられる事もあったが人生は楽しむことです。ここに来て頭に思い浮かぶことがあるなら「人生は一度きり」であるということです。毎日やらなければならないことに追われて同じことの繰り返しの中で、つい忘れてしまいがちなことです。    

自分が望む生き方ってどんな事だろう、それを知ることが大切ですよね?                         「自分の好きなことを仕事にする」「家族との時間を大切にする」「田舎でのんびり暮らす」「好きな人との付き合いを大切にする」・・・細かいことはたくさん浮かんで来ますが大きく分けるとこんなところですよね

そしてここからが一番大切なところです。「人生は一度きり」なんですよね。そうするとじゃあ、これらの事を「いつやるの?」ってことになります。テレビでおなじみの林先生の言われる「今でしょう!」考えているだけではダメです、今からでも遅くない今すぐに行動に移すことです!

元旦の日夕方16時過ぎ、能登地震あり・・・大混乱

 睦 月             八 大



  



アルマジロ

アルマジロ
この処ようやくお馴染みの顔になってきた政界のスポークスマン松野博一官房長官が世間の目からジワリジワリと攻め立てられ遂に首を取られてしまいましたね。従来の長官に比べて何となくコソコソ感が見られました。そつがなく平穏に過ごせるかと思われましたが、政界の一歩先は闇の世界でしたね。そんな官房長官を、永田町では付いた綽名(あだな)はなんとアルマジロですって?

アルマジロとはスペイン語で「武装した小さなもの」を意味する哺乳類の総称だそうで、体中が鎧のような骨の板で覆われているのが最大の特徴で、この部分は「皮骨(ひこつ)」と呼ばれる組織で骨が丈夫な皮膚に包まれて出来ているそうです。南米の乾燥地帯の草原に住んで雑食性でアリや昆虫、ミミズ、爬虫類などの他に草の根や動物の死骸なども食べる。夜行性で日中は地下に穴を掘って過ごしている。

名前の由来はスペイン語で鎧を着た人と云われアリクイの仲間で敵から身を守るため日頃から地面に巣穴を掘ってその中で敵から身を守るために地面を両足の爪で、しっかりと掴んで踏ん張る。その主な生息地はアルゼンチンの乾燥地帯の草原に住んでいる。

そんな官房長官のあだ名が永田町では『アルマジロ』と呼ばれているそうです。アルマジロは危険が迫ると丸まって堅い殻で守りに入り、外側からいくら突いても出てこない。ここに来て裏金問題が表に出てきて国民の皆さんの見る目が大きく変わって来たようで・・・政界も俄かに騒がしくなってきました。年末年始の話題には事欠きませんね。

師走          八 大          






明日葉 (あしたば)

我が家の明日葉
「明日葉」とは、セリ科シシウド属の多年草です。強い生命力と繁殖力がある植物で、今日に新芽を摘んでも明日にはもう若葉が出ていることから明日葉と名付けられ、その名の由来とされているそうです。                       別名「八丈草」とも云われ、独特の苦みを持つセリ科の多年草で日本では古くから栽培されており、江戸時代の本に滋養強壮の効能がある薬草として紹介されています。最近ではスーパーなどでも珍しい野菜として店頭に並んでいることがあります。

温暖な気候を好み海岸沿いの草原などに自生する日本原産の植物で、房総半島や三浦半島、伊豆諸島など温暖な太平洋沿岸部に自生しております。明日葉は強い生命力と繁殖力がある野菜でビタミン、ミネラル、食物繊維がバランスよく含まれており健康野菜として知られております。

その昔、中国秦の始皇帝は「東方の海中に不老長寿の薬草あり」と聞き、使者を使わしてその薬草を探させたと言い伝えがあります。その薬草が今日でいう、明日葉だったのではないかとも云われています。その若葉はお浸しや和え物、汁の実、てんぷらなどにして食用にされております。 2月から5月ごろがその旬の時期で八丈島の香りそのものですね。納豆に混ぜて食べるとこれもありですね。

若いころ、竹芝桟橋で時刻表を覗いていたら船が出ますよとその声に押されて・・・・・・気が付くと船中の人となっていたことを思い出しました。・・・そんな事がありましたね!


 極 月          八 大











「身土不二」の言葉

「身土不二(しんどふじ)」とは                    人間の身体と土地は切り離せない関係にあるという意味です。この言葉は、仏教用語で「しんどふに」と読みますが、「身」(今までの行為の結果=正報)と「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離すことはできないという意味があるそうです。

食の思想としては、「その土地のものを食べ、生活するのがよい」という意味で使われています。その土地でその季節にとれたものを食べるのが健康に良いという考え方で明治時代から唱えられました。また、食養運動のスローガンとしても使われており、「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という意味です。大正時代に「食養会」という組織が創作したそうです。

我が家の「明日葉」
「 地産地消」という言葉もあります。その土地気候風土にあった農産物は、農薬などをたくさん使わなくても自然のエネルギーでかにるため、安全で栄養高くより新鮮でおいしい。そうしたものをべるようにしていると確かに健康によさそうです。また、自分たちが暮らす地域のことをよくるきっかけにも繋がります。

「身土不二」と「地産地消」の違いとは                   このところ地産地消という言葉をよく耳にしますが、身土不二との違いは何かと云うと、その土地ゆかりの作物であることは関係なく地域で作られた農作物や水産物であればすべて対象となるという点です。つまり冬場にビニールハウスで育てた夏野菜も、隣町の牛乳で作られたチーズも地元産であれば、それを食べることは地産地消になるのです。

伝統的な考え方は身土不二の通りですが、最近ではビニールハウスの活用によって季節感が薄れているようですが、消費者側からのサステナブル(持続可能)な食べ方はこのところ大きく変わってきているようです。そういう意味では八丈島が特産の「明日葉」はSDGsの優等生です。

ここで普段の生活の中で出来る身土不二の思想に近づけるサステナブルな食べ方を挙げてみます。

地元の個人店での買い物                         地元個人店での買い物をすることで手っ取り早く買い物ができる。地域でお金を回すことを意識する。ができる 

あえて規格外の野菜を買う                        スーパー等では形の揃った食材を選びがち。けれども形や見た目が悪くても栄養分や美味しさは変わらない。食品ロスを少なくするためにあえて規格外の野菜も買って美味しくいただく。

季節の食材を選ぶ                            食材の栄養価を、美味しく頂くことが出来るのが旬の食材です。季節に合わない野菜を買うことは、遠い地域から運ばれた野菜を買うことになり、輸送費がかかり燃料費が増え環境にやさしいとは言えない。

国産、地元産の食品を選ぶ                        フードマイレージを出来るだけ減らし、地元でお金を循環させることができる地元産の食品を選ぶ。

顔の見える食品を選ぶ                          信頼性の高い食品を選ぶ為には、誰がどのように作っているかを知ることが必要です。食の安全性が確保されているかどうか、家畜をどのように扱っているかが見える食品は安心して購入できます。

オーガニック食材を選ぶ                         農薬や化学肥料を使わないものオーガニックな食品は体に優しく美味しいだけでなく環境に優しいのがポイントです。できるだけ持続可能な方法で作られた食材を選ぶようにする。また食材は素材を丸ごと頂く一物全体の考え方に即した食べ方にも最適である。


 師走           八 大

















 





 




 










黄八丈(きはちじょう)

 浜離宮庭園を鑑賞した帰り竹芝桟橋で船を覗いていたら船が出ますよ・・と声をかけられた、吸い込まれるように飛び乗った行先は何と八丈島行きの船でした。あれっと気が付いた時には既に遅し何とかなるだろうと・・翌朝、底土の港に着いてしまった。そこには目映いばかりのブルースカイ! 我を忘れる!50年以上前に訪れたことがありました。

黄八丈
八丈島                                      と云ったら黄八丈と云う、島に伝わる草木染の絹織物で島に自生する植物の煮汁で黄色,鳶色、黒色に染められた糸を平織または綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったものです。  黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったもので、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていたそうです。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされてます。寛永年間にはタブノキの樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになったが、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれ孫の代まで色褪せないと云われているそうです。


明日葉(あしたば)

明日葉
八丈島植物公園
明日葉とは、世界に誇れる日本原産のセリ科の多年草で、「今日摘んでも明日には新しい芽が出る」といわれるほど成長が早く、生命力の強い植物です。セリ科には薬用植物が多くみられますが、明日葉もその一つで、江戸時代には天然痘予防に用いられていたそうです。もっと古くには「不老長寿の妙草」として、秦の始皇帝や漢の武帝が日本までこの妙草を求めて家来を遣わしたという伝説があります。「血流を改善する効果」「むくみを改善する効果」「抗酸化作用で老化を防ぐ効果」などの働きもあります。柔らかい若葉を「お浸し」や「和え物」「天ぷら」などの食用にもされています。


宇喜田秀家の話

宇喜田秀家の墓
伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな「太陽と花と緑の島」、八丈島です。

 豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。 八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られていたそうですが、その最初が秀家一行であったそうです。
宇喜田秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごしたそうです。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしていた老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
宇喜田秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置されている。
 秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなった。

八丈植物公園
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられたそうです。八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。

  

ついつい当時のことを思い浮かべなが思感傷に耽ってしまいました。


霜 月             八 大