嵯峨野路その8

 南禅寺と琵琶湖疎水

南禅寺三門
南禅寺の正式名称は太平興国南禅寺と号し臨済宗南禅寺派の大本山のお寺で、開山は大明国師で開基は亀山法皇である。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で日本の禅寺の中で最も高い格式を持つ。南禅寺建立以前にこの地に亀山天皇が離宮として「禅林寺殿」を建立しそれから持仏堂を立て南禅院と名付けたのが始まりでその後に南禅寺と云う寺号に改めたのが正安年間(1299年~1302年)のことである。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが足利義満が1385年に自分が建立した相国寺を五山の第一とするため南禅寺を別格として五山の上に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭寺院(たっちゅうじいん)を60カ寺を要する大寺院となったため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなった。その後2度目の火災の後に応仁の乱が勃発、市街戦も広がり後の復興には多くの時間が掛かったが徳川家康の側近として「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が臨済宗寺院を統括する役職を務め復興に努めた。
疎水トンネル

琵琶湖の水を京都へ引くことは、昔から京都の人々の願いでした。長いトンネルや正確な図面を作る技術はありませんでした。そんな中その計画を実現させたのは第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。幕末の戦災と明治維新による東京遷都により衰退した京都の復興には「琵琶湖疎水」を建設することだ。

無鄰菴

当初の目的は田畑の灌漑、精米水車、運輸、防火、水道・・等が予定されていたが途中から水力発電が加えられ困難を極めた長期に渡る難工事でした。そんな中工事の途中でも古都の景観を破壊するとして反対の声も上がって南禅寺の三門に見物人が殺到する騒ぎもあった。また明治維新直後には上地(あげち)(民間から政府に召し上げられた土地)に遭い寺領の多くを失った為廃絶に追い込まれた塔頭寺院も少なくなかった。

對龍山荘
蹴上浄水場の完成を持って京都市の水道事業が明治45年に誕生しました。豊富な水は多様な用途と新たな価値を生み出しました。その一つが大きな庭園への引水でした。山県有朋公の別荘、無鄰菴を皮切りに南禅寺周辺には清流亭、碧雲荘などの広大な別荘ができ、疎水の水が流れる回遊式庭園が造られ貴重な空間を見せている。その多くに精魂込めて作られたのが庭園造りの名人「植治」こと小川治兵衛の存在を忘れることは出来ません。

南禅寺から山門をでて
天授庵・金地院・料亭八千代・對龍山荘の辺りは現在でも大きな区画で疎水を引き入れた池泉回遊式庭園はほとんどそのまま形を残しております。40年程前に伺った流饗院(龍村美術館)のお庭を拝見した時には紅葉の鮮やかさにこんな空間を独り占めできたことは今でも忘れられない思い出として印象に残っています。現在は真如苑が所有されています。現在15区画のお屋敷(別荘)の庭園となっていますが拝観できる処もいくつかありますので是非とご覧になる事をお勧め致します。

 令和3年 師走        八 大












嵯峨野路その7

禅林寺(永観堂) 
禅林寺 は当初真言宗の道場として貞観5年(863年)清和天皇により禅林寺の寺号を賜り浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺である。その後中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん)律師の時に阿弥陀仏の熱心な信者になり念仏の寺として浄土宗のお寺に変わった。阿弥陀仏像を安置し病人救済や慈善事業なども行った。この永観律師が住したことにより永観堂と呼ばれるようになった。紅葉の名所としても知られ「秋はもみじの永観堂」と云われて今賑わいを見せております。

永観堂の本尊阿弥陀如来立像は顔を左に曲げた特異な姿「見返り阿弥陀」とも云われている。何故そんな姿かと云うと当時50歳の永観が日課の念仏を唱えていたところに阿弥陀如来が須弥壇から降りてきて一緒に念仏を始めたといいます。びっくりした永観が歩みを止めていると阿弥陀如来が振り返って一言「永観、遅し」と言ったという。それ以来阿弥陀如来の首の向きが元に戻らずそのままの姿にあると云われている。

晶子の歌碑
左を振り返った阿弥陀如来の姿は「思いやり深く周囲を見つめる姿」「愛や情けを掛ける姿勢」「遅れた者たちを待つ姿勢」といった解釈がされているようですが、実際に「見返り阿弥陀」を間近かに見ると、そのささやきが聞こえてきそうでな感じを覚えます。

この時期の紅葉は何処へ行っても赤のグラデーションで美しい、この一枚も圧巻です。背後に映った多宝塔に別れを告げ急斜面のもみじのトンネルをくぐり抜けると足元に与謝野晶子の歌碑を見つけた。「みだれ髪」の中にある一節ですが、与謝野晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われてこの永観堂の紅葉を愛でていた、その心の中の思いは・・・  

『秋を三人椎の実なげし鯉やいずこ 池の朝かぜ手と手つめたき』 詠みながら南禅寺へ

 令和3年 師走         八 大















嵯峨野路その6

今日も金閣寺は輝いていますネ・・・』と云っていた初老のご夫婦がおられた。

金閣寺
金閣寺の正式名称は北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)と云い臨済宗相国寺派の塔頭寺院(たっちゅうじいん)です。建物の内外に金箔が貼られた舎利殿から金閣寺として知られています。寺の名前は室町幕府3代将軍、足利義満の法号である鹿苑院殿から名付けられました。その歴史を紐解くと600年以上も昔に遡ります。京都の北山にある西園寺家(さいおんじ)の邸宅と庭園を譲り受けた足利義満は1397年に山荘である北山殿(きたやまどの)の造営に着手し翌年に舎利殿が完成し51歳でこの世を去るまで住処としていました。

鏡湖池
金閣の目の前に広がる「鏡湖池(きょうこち)」は大小の島々との背景が美しく水面に金閣が反射し鏡の中に足を踏み入れた気分を味わえます。鹿苑寺庭園として特別名称指定地となっており池泉回遊式庭園の代表的なお庭とされています。

金閣寺は建立されて以来、さまざまな時代の流れの影響や災難を受けていますが1467年の応仁の乱では多くの建物が焼失しましたが、奇跡的に金閣などいくつかの建物は消失は免れました。第二次世界大戦終了後いよいよ戦後の復興の動きが見えたころ金閣寺放火事件がありました。

「金閣寺放火事件」金閣寺が燃えちゃった・・と小学2年生の時に祖父から聞かされたことがあった。それはお寺の坊さんが金閣寺に放火して丸焼けになっちゃったよ、残念としか言いようがないよと独り言のようにつぶやいていたことを覚えています。

昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の学僧によって放火炎上し焼失しました。その学僧は寺の裏山で自殺を図ったが一命は取り留めた、その動機は「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。しかし母親は警察の事情事情聴取のために京都に呼ばれその帰り道に保津峡で投身自殺をして命を絶ったそうです。

この事件から6年後になって三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求していく事になったと云われています。その時に出版されたベストセラー作品が小説「金閣寺」であります

その当時の住職は、いち早く再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が自ら進んで浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復がなされ焼失前より創建時の姿に近くなったと言われています。1944年には世界文化遺産に登録され海外からの観光客の人気も高く世界的な観光名所となっています。

 令和3年 霜月          八 大 




















嵯峨野路その5

「きぬかけの道」                                 
仁和寺を出て龍安寺に向かって歩いて行くと「きぬかけの道」の標識が出てきた、衣笠山の裾野ではあるけれど きれいな名前だ思った。裾野を見上げると色づいたモミジが彩りを添えて散歩をするには楽しいところですね。以前は観光道路と呼ばれていた気がする。後日調べてみるとなんと平成3年(1997年)に愛称を公募して命名されていたことを知りました。

道の途中・天授庵
宇多天皇が真夏に雪見をするために衣笠山に絹を掛けたと伝えられる故事にちなみ「きぬかけの道」と名前を付けられたと云います。地図を広げてみると周辺には多くの社寺が数多く点在しており平安から鎌倉、室町時代にかけて隆盛を誇った皇族貴族の歴史を今に伝える観光地域になっています。

歴史と伝統を誇る古都の道路名などは簡単に変えられるものではないと思いましたが、道路の愛称が30年前に変えられた事があったとは不思議に思えた。よく考えて見るとこれは京都の先取性にあるのではと思われます。角倉了以を始め京セラ、島津製作所、ワコール、日本電産等々の創業者達は古い土地柄に合っても新しいものを取り込んで行く姿勢は素晴らしいものですね。これぞ温故知新の心だと思います。

「龍安寺」                                    坂道を上がっていくと左手に池を望み方丈が見えて来る。明応8年(1499年)の造営と云われますが白砂の上に15個の石が配置された枯山水庭園で、虎が子供を連れているように見えることから虎の子渡しの庭とも云われます。一般的には虎の子渡しの庭あるいは、七五三の庭と云われている。春夏秋冬いつ来てみてもこの庭は変わっていないのに受ける自分の感じ方は違っていることが多い、正面に見える油土塀の落ち着きに自分が惑わされてしまうのかもしれない。

寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配されており、75坪程の枯山水庭園は虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも云われている。平成6年(1996年)に世界文化遺産に登録された

この石庭の作庭意図には”禅の精神”心の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく今だ謎のままである。けれどもこの謎こそがこの庭の解釈をめぐり人々を引き付けてやまない理由と思います。

昔の話になってしまいますが昭和50年にイギリスのエリザベス女王が日本を訪れた際、石庭を見学されました。当時の新聞には女王が絶賛したことが書かれており、海外のマスコミでも報道され石庭の名前は瞬く間に世界に広がったと云われます。現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となっています。


 令和3年 霜月         八 大

⦿ 拝観停止の話 石庭・油土塀の屋根の杮葺替え工事の為                          令和3年12月6日~翌年3月18日まで拝観を停止するそうです












嵯峨野路その4

 仁和寺の歴史 

五重の塔
仁和寺は創建から1100年を超える、京都を代表する名跡で真言宗御室派の総本山です。国宝の金堂や阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像の他多くの文化財を有し境内の一部も国の史跡に指定されています。また中門一帯に植えられた「御室桜」は背が低い事で知られて、当時の姿を今に伝える名勝地として数多くの歌人や俳人にも詠まれています。「私しゃお多福御室のサクラ 背は低くとも花は咲く」

寺の歴史は仁和2年に「西山御願寺」として建立を発願されましたが、先帝が崩御されたため第59代宇多天皇が遺志を継がれ仁和4年(888年)に完成したもので、寺号も元号から仁和寺となりました。それ以降皇室の出身者が代々の住職(門跡)を務めた為、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保持しました。

しかし応仁元年(1467年)からに始まった「応仁の乱」で一山のほとんどを兵火で焼失しましたが、阿弥陀三尊や多くの宝物などは近くの塔頭寺院の真光院に移されていた為に法灯と共に今に伝えられております。応仁の乱から160年後、寛永11年(1634年)徳川3代将軍家光によって仁和寺の再興が承諾され正保3年(1646年)再建が完了し創建当時の姿に戻ることが出来ました。

御殿と庭園
慶応3年(1867年)第30世純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史が終わりました。昭和の時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、平成6年(1994年)古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録されて新たな歴史を刻んでいます。 ⦿ 還俗 (げんぞく)とは 僧が僧籍を離れて、俗人になること。

仁和の教え 「 は慈しみ、思いやり  は和やか、平和の和 」 

仏教詩人「坂村真民」さんが言った言葉に「人間は年を取って体の機能や動きは衰えますが気持ちや心まで落ち込ませてはいけません。老いることをあきらめるのではなく「念ずれば花開く」という言葉を胸に私達は、幾つになっても常に前向きにしっかりと生きることを忘れないで下さい・・と。」単なる長生きでは意味がない、本当の長生き=名が生きを目指して豊かな人生を送りたいものです。 


 令和3年  霜月         八 大 









嵯峨野路その3

百人一首の話(藤原定家と蓮生)

 祇王寺から清凉寺釈迦堂に向かう道を歩くと、道端の看板に目が留まった。「中院山荘跡」とありよく見ると「新古今和歌集」などの選者の一人であり「小倉百人一首」を編纂した藤原定家がここの小倉山の麓で作歌活動をしていたところであり、思わず目を閉じて想像を膨らませてしまいました。

「小倉百人一首」は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した藤原定家の息子の妻が、下野の国の城主だった宇都宮頼綱(法名・蓮生)の懇望によって作られたものである。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び年代順に色紙にまとめたもので、当時は小倉色紙などと呼ばれたていたが後になって定家が中院山荘(小倉山荘)で編纂されたことから「小倉百人一首」という通称に定着したそうです。

当時は神社・仏閣・貴族の邸宅などの襖や障子に色紙を貼ることが行われており、特に定家のような当代一の大歌人であり選者の書いた色紙ならば別邸の誉れとなると蓮生は思い、襖の色紙を定家に懇望しました。高齢の定家は中風を患いながらもこれを承諾し古来からの歌、各一首を天智天皇より順徳院までの秀歌百首を選んでいます。和歌を愛した蓮生の懇望がなかったら「百人一首」の誕生はなかったのではとも思います。

私の古くからの同級生が宇都宮市周辺に住んでおりますが、その仲間が故郷の街興しのテーマを考えたところ下野の国の五代目城主‣宇都宮頼綱公と「小倉百人一首」に繋がったという事でした。歌留多での街興しは毎年順調にすそ野が広がり、令和元年には第25回を数え参加者が700人を超え会場の体育館が満員だったそうです。

 私の推薦三句

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」持統天皇

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」藤原定家


 令和3年  霜月        八 大




 
















嵯峨野路 その2

                                                                                  

北野天満宮
 北野天満宮  通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、楼門と拝殿の間に建つ中門は三光門と呼ばれ壮麗な造りと上部に掲げられた後西天皇宸筆の『天満宮』の勅額は神社のシンボル的な建築である。三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として神社の七不思議に数えられている。 社殿と同じく桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。


おかめ像

千本釈迦堂
千本釈迦堂 12月の風物詩である大根炊きで知られる大報恩寺ですが本尊の釈迦如来坐像があります。文永年間(1270年頃)「徒然草」に「千本の釈迦念仏如輪上人これを始められけり」と書かれていたので通称でそう呼ばれています。徒然草228段には文永の頃「千本の釈迦念仏は如輪上人これを始められけり」と当寺に記されています。またこの本堂は応仁の乱にも焼けることなく創建当時の物で洛中では最古の現存構造物で国宝になっています。その他にも本堂の建立に関して大工の妻「おかめ」さんに関する厄除け信仰の伝説が伝えられている。


平野神社
平野神社 平安京の北方の平野の地に鎮座する神社で、桓武天皇の生母、高野新笠の祖神として平城京に祀られていた渡来系の神様であったが平安京遷都にに伴って大内裏に移し祀られたことに始まる。延喜式に記されている古くからの神社で平安時代には例祭 (平野祭)において皇太子自らにより奉幣が行われていました。多くの降下氏族から氏族として歴史的に崇敬された神社でありました。ご祭神は「今木神」「久度神」「古開神」「比売神」の四神で源氏‣平氏・高階氏・大江氏の他、中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており「八姓の祖神」と称されたと云います。


わら天神
わら天神宮 地元京都人が親しみを込めて「わら天神」と呼ばれておりますが正式には「敷地神社(しきちじんじゃ)」です。その名が有名過ぎて本当の名称を知る京都人は多くないと云われています。                    古くから安産にご利益あるとされており、戌の日の安産祈願には参拝客が大勢だそうです。主祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめ)」で一夜にして懐妊し次々と3人の子を出産したという逸話から全国に広がったと云われています。安産のお守りとして藁が授与されることからその通称があり、藁に節があれば男児、節がなければ女児が誕生すると言われている。

次回に続く


 令和3年 霜月         八 大




























嵯峨野路散策

                     

渡月橋
久しぶりに時間を遣り繰りして紅葉の嵯峨野路に出掛けることにしました。先ずはこの時期、最も人気のある橋と云ったら「渡月橋」ですね。ここから足の向くまま気の向くまま昔の思い出を浮かべながら、行き当たりばったりの旅のスタートです。               こちら嵯峨野と対岸の嵐山を隔てて流れる桂川に架かる橋ですが、第90代天皇だった亀山上皇(南朝・大覚寺統の祖)が橋の上を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似たる」との感想を述べたことから渡月橋と名
天龍寺
付けられたと言われて
います。

桂川沿いを右に折れると京都五山で第一の寺格を誇る「天龍寺」の門前にでる。度々の火災に遭ったため現在の堂宇の多くは明治期の再建であるが夢窓国師のによる池泉回遊式庭園は国の史跡・特別名勝第一号に指定されています。平成6年には世界文化遺産に登録されています。大方丈の正面から眺める曹源池の眺めは小さな島国から大海原への広がりを見
せており世界への広がりを思い浮かばせる
野宮神社
ものだ。

人の流れについて歩くと山陰本線踏切の手前
に黒木鳥居の宮神社(ののみやじんじゃ)がある。豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向かう前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であります。天皇が代替わりすると未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され一年間嵯峨野の清らかな
場所を選び造営された野宮に入り潔斎して伊勢神宮に臨む。その様子は源氏物語賢木(さ
落柿舎
かき)の巻の舞台とされ、謡曲「野宮」の題
材にもなっております。現在の鳥居は樹脂加
工されており、樹皮の付いたままのクヌギの原木を使用し作られた貴重な「黒木の鳥居」で形としては日本最古の鳥居形式を伝えてい
るそうです。

竹林の道を抜けると藁ぶきの屋根が見える「落柿舎」の出迎えあり、暖簾を分けると生憎と先客あり・・・向井去来の墳に手を合わせまたの機会に逢いましょう。坂道を上ること12分行き止まりの拝観受付「祇王寺」のおばちゃんの笑
祇王寺
顔が迎えてくれた。平清盛の寵愛を受け、後に
捨てられて出家した白拍子の祇王と祇女と若い
仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われ母
親と共に尼となった。往生院の庵で後にいつか我が身も同じ運命と悟った仏御前が旧縁を捨てた祇王母娘に加わり四人で念仏三昧の余生を送ったと云う物語あります。


次回に続きます


 令和3年 霜月         八 大

















牛島公園のコスモス

春日部市の 古利根川沿いに「牛島第二公園」があります。今コスモスの花が見ごろを迎えています。近くの幼稚園の園児や介護施設の皆さん達がたくさん訪れて最近にはなかった賑わいを見せています。公園内には一段と高い「見晴らし台」も設置されており高台からの眺めも一見の趣があります。

又この公園は小さいながらも季節ごとに「ポピー」や「向日葵」「コスモス」と霜の降りる12月頃まで楽しめるように準備がなされており、ぞれぞれの花の咲くころには多くの人                     達が訪れて賑わいを見せております。

隣接した児童公園は「クレヨンしんちゃん」で有名になった遊具もあり子供たちにとっても絶好の遊び場となっています。目の前の古利根川には「ポケットパーク」と呼ばれる公園もあり散歩コースともなっております。水辺には「鴨」や「シラサギ」を始め野鳥たちが羽を休めていますが、時にはあの美しい姿の「カワセミ」を見ることもあり楽しさ一杯の人気スポットです。

水と緑とコスモスの花が溢れる公園ですよ!

「コスモス」と云う言葉を最初に用いたのは!、あの有名な哲学者ピタゴラスがギリシャ神話の中で秩序・整然・調和ある世界、すなわち「宇宙」と云ったものからコスモスと云う言葉が生まれたと言われています。つい花を見てコスモスと云ってしまいますが、あの当時の空を見上げてコスモスと云う言葉を発したそうですよ。

 令和3年 霜月        八 大










アルカイック・スマイル

法隆寺の隣にあの「微笑みの御仏」で有名な飛鳥時代に造立された中宮寺門跡があります。

「世界三大微笑像」の一つとして「スフィンクス」(エジプト)」「モナリザ(ジョコンダ夫人像)と並んで中宮寺の「木造弥勒菩薩半跏思惟像(もくぞうみろくぼさつはんかしゆいぞう)は、私達の時代の人達は修学旅行などで多くの人が一度は拝観されたことと思われますが別名を如意輪観音像とも伝えられています。

半跏思惟像は朝鮮の三国時代に当時の朝鮮半島で造立されたものとと思われていました。その当時は銅造りが総てでしたので楠が使われていることから朝鮮半島伝来物ではなく弥勒信仰だけが日本に伝来し、日本で作られた仏像であるという結論に至っております。

材料は楠の寄せ木造りであり、真っ黒い色ですがそれは下地の漆があらわになっているので銅像のように見えています。造立当初は色彩が施されていたようで、足の指の間にはわずかに色彩が残されておりますので肌の色や衣にも金色、朱色、緑色などの顔料が使われていたことが明らかになっており、それはそれは見事の色彩が想像されますよね。

弥勒菩薩とはお釈迦様の修行中の姿を云いますが、その次の時代に仏陀(ブッダ)になる事を約束された菩薩であります。現在も修行を重ねている仏様で「思惟(深く考える)」の形をを取っています。その修業が終わるのは、釈迦が入滅した後の56億7千万年後に現れてその成果を発揮し全世界を救済してくれるという未来仏であります。

半跏思惟像をよくよく見ているとあの二つのたんこぶは何だろうと思いますが、双髪(そうけい)と呼ばれる仏像特有の髪型の一つで、主に飛鳥時代後期から奈良時代に造立された仏像に多く見られる髪型であります。長い髪を頭頂で結い上げそれを2つ束にまとめて、髪の一部を肩へ垂らす形です。

アルカイックスマイルとは像を造立する際の表現語で「古い微笑」の意味で基となっている語源は古代ギリシャ語のアルカイク(古い)という意味で長い間にアルカイックになったと云われています。

 令和3年 神無月        八 大




外郎(ういろう)

小田原城と外郎(ういろう)

久し振りの晴れた日に小田原城を訪ねた。急な階段を一気に天守閣まで駆け上がってみると家並みの向こうに大海原が広がり素晴らしい眺望であります。この相模灘を越えると伊豆諸島に繋がりその先の大海原の向こうに北アメリカ大陸に繋がっている。黒船来航もこのルートを通って来たことを思うと何となく親しみを感じる。

15世紀頃に大森氏が城郭とし、北条早雲の攻略以降、北条氏の本拠となった。北条氏は城を逐次改修し、上杉謙信や武田信玄の侵攻をも退けた難攻不落の城となり、関東を制覇した。そのころ豊臣秀吉が天下統一を目指し、4代氏政に降伏を勧告したが、これを拒み、1589年(天正17)から城の防御力を高めるべく、土塁や堀で城下町を含む総延長9kmにおよぶ総構えを構築したが、城は1590(天正18年)年秀吉軍率いる20万の大軍に包囲され、3ヶ月余の籠城戦のうえ開城され、徳川の譜代大名大久保忠世・忠隣によって近世城郭として整備された。

小田原の名物に「外郎」(ういろう)というお菓子があります。中国元の時代に王様が汗臭さを打ち消すために仁丹によく似た形状で口中清涼・消臭薬として使用された大衆薬がありました。応安年間(1,370年ごろ)陳宗敬という医者が日本に渡来し、以後代々医を業として「外郎家」(ういろうけ)と呼ばれ「透頂香」などの薬を製造していましたが、この透頂香が外郎(ういろう)と通称されて普及したと云われています。

九州の博多で創製したものが京都を経由して小田原に伝わったもので去痰(きょたん)の丸薬として売り出したものである。ういろうは蒸し和菓子の名で、もち米粉、うるち米粉、黒砂糖、くず粉などを練り合わせ蒸したもので白砂糖、抹茶、ワラビ粉、ニッケイなどで風味をつけたものであります。

外郎(ういろう)と切っても切れない物に「外郎売」(ういろううり)と云うものがあります。享保3年(1718年)正月、江戸森田座の『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の演目の一つである。その劇中に出て来る外郎売の長台詞が有名で俳優や声優などの養成所、或いはアナウンサーの研修等で暗唱、発声練習や滑舌の練習に使われています。それを演ずると8分程の時間がかかるそうですが、それを見てファンの皆様は待ってましたとばかり大喝采となります。

小田原外郎とは元来、小田原の外郎家が製造・販売する薬を指していましたが、和菓子の「ういろう」はその口上の口直しの為に出されたものと伝えられたいます。最近は美味しい和菓子も多くありますが時には、お茶うけに「ういろう」などは如何ですか。

 令和3年 神無月         八 大













ジャネーの法則

最近、一年があっという間に過ぎてしまう・・・と感じませんか? 歳をとると時間が経つのを早く感じたことはありませんか? それは私達が勘違いしているのではなく心理学的にも証明されていることです。「人間の体感時間(心理的な時間の長さ)は、それまで生きてきた年齢に反比例する」フランスの哲学者、ポール・ジャネーが提唱したので「ジャネーの法則」として証明されている現象であります。

(ジャネーの法則ーから引用)                           主観的に記憶される年月の長さは年少者に長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明したものです。例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の一に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の10日に当たることになる。

人は経験したことがないことをやっているときは、それが強く意識に残り時間が長く感じます。反対に、慣れてしまうと時間の長さが気にならなくなり、あっという間に時が過ぎたように感じます。子どもの頃は初めて体験することばかりで、毎日が新鮮で新しい出会いや発見があります。しかし、大人になるにしたがって、新しい経験をする機会が失われます。大人になると時間があっという間に過ぎ去ってしまったと感じるのは、日々の生活に新鮮味がなくなるからだと云われます。

こんな話も 「失楽園」で有名な直木賞作家の渡辺淳一さんは、時間の流れの速さを「川の流れ」に例えてこう言いました。「20代はちょろちょろ流れる小川、30代で川になり、40代で急に早くなった流れは、50代では激流、60代では滝のごとし」だと。

ジャネーは私達に   時間を無駄にしてはいけないよ!

             充実した1日1日を生きなければ後で後悔するぞ!                    

               歳を重ねるごとに時間は加速していくのだから!

光陰矢の如しと云う言葉があります。年を取るほど時間の経つのが加速しているように感じませんか?「まだまだ時間はたっぷりある」と油断せず、早いうちから、人生について考えておくことです。また何歳になっても新しいことに挑戦し新鮮味や刺激を感じるようにする事が大切です。

 令和3年 神無月         八 大






春日部夢の森公園

春日部夢の森公園

とんがり山?
東武スカイツリーライン豊春駅東側の国道16号線を越えた所に、かつて田んぼだった広い空き地がありましたが10月1日に埼玉県営31番目の公園として部分開園をしました。見渡す限りの田んぼだったところですが全体は16㏊と云いますから結構な面積です。この辺も都市化が進んでだんだんと緑が少なくなっていますので「春日部夢の森公園」が出来ることは有難い話ですね。        

公園設立のコンセプトは「みどり再生」のシンボルとなる「新たな森を創出する」事業として、ふれあいの森~人と自然。人と人のつながりを継承する~」をコンセプトに地域の人々の参加により持続的で生き生きとした地域社会を築いていこうと云うものだそうです。私たちが主役になって緑を再生し「トンボの飛び交う水辺」を造り「どんぐりの森」を育てて行きましょうという事です。

隣の松伏町に「まつぶし緑の丘公園」がありますが現地を歩いてみると規模は少し小さいけれど全く同じような内容の公園であります。小さなトンガリ山を造って裾野に調整池を配した構想は全くのコピーそのものに見えてしまう事が残念に思います。

今、世界共通の目標である「SDGsを推進」していくため春日部市に置いても2030年迄の達成を目指して各地でそのアクションが進行中であります。これから10年・20年かけて地域の皆さんと共に手作りで「水辺や緑の森」を造っていく事は子供たちの成長が見られるようで素晴らしいことで楽しみです。

右側、部分開園
調整池












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土瓶の取っ手?

土瓶
 「人の名前は土瓶の取っ手」と云っていた人がいましたが本当に旨い事を云いますね。確かに名前を呼ばれるという事は人間にとって心地の良い物です。上司に親しく名前で呼びかけられたら部下は嬉しくなります。名前を覚えて呼びかけると云うのは、自分の味方を作るためにも非常に有効な手段であります。次に会った時に、自然に名前で呼ぶことが出来れば相手との温度差がずっと上げることが出来ますね。そんなことを常々云っていた人は当時週刊朝日の名編集長だった扇谷正造さんでした。

そのフレーズを実践で活用していたのは当時絶大な人気を誇っていた田中角栄総理でした。初めて会う人にも、「やあ~やあ・・小林君元気だね」といきなり言葉を掛けらると、何で俺の事を知っていたのか・・と思うと気分が高揚して嬉しくなるそうです。人の心を掴む手っ取り早い方法は名前で呼ぶことであると云っていたそうである。そんなことが出来た人が「角さん」であった。

急須
その土瓶にお茶を入れるには取っ手を持って蓋を開けることから始まるが、その動作そのものが「名前を呼ぶ」ことであり容易に会話に繫がっていく事になる。誰でも解っていることであるが中々出来ない時もあります。

最近ではコロナ禍による生活スタイルの変化で使い捨てのプラスチックや紙コップが一段と幅を利かせ、外来語の氾濫と相まって最近では「土瓶」という言葉が聞かれず、むしろ懐かしく思えるようになってきた感があります。

土瓶と急須違い                                、持ち手の違いをいうそうです。 土瓶は文字通り土から作られているもので胴体の上部に持ち手がついており、熱を通しにくい素材(竹、籐など)が使われています。 急須は胴体の横に持ち手がついており、胴体と同じ素材で作られております。 

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女郎花(おみなえし)

 ようやく秋らしい気候になって来ましたね。燃え立つような紅い「彼岸花」の側に控えめな黄色い「女郎花」(おみなえし)がどこか儚げでチョット愛らしい姿です。秋の七草の一つとしてお馴染みの花ですが、その花言葉は「約束を守る人」「美人」「はかない恋」と3種類あります。

女郎花の物語の中では愛し合う二人の男女の姿が描かれています。すぐに迎えに来るとの約束をしたまま足遠くなってしまい、それを恨んだ女が身を投げてしまいます。その身を投げた女の塚から女郎花が咲き、それを知った男もその同じ場所で命を絶ちました。「約束を守る人」と云う言葉の重みが感じられる物語です。

「美人」と「はかない恋」は、女郎花の咲いている様子から、細くてすらっと伸びた茎に華麗な小さな花を咲かせるオミナエシと、どこか人恋しそうに寂しげに秋の風に揺られる姿が繊細な女心をくすぐるように感じませんか?

「女郎花」言葉の由来                            今でこそ男女平等をの世の中になっていますが、その昔は男女平等ではありませんでした。男性が優位に立っていた頃、男が食べていたと云われている「男飯(おとこめし)」は白い米だったのに対し、女性が食べていたと云われる「女飯(おんなめし)」は黄色い粟ご飯でした。そのオミナエシの花姿そのものであり、今でもその名前が残って付けられております。

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桔梗の花

 桔梗の花

秋の七草の一つ桔梗は「ききょう」と音読みし別名を「きこう」とも呼んでいた。「更に吉」(さらにきち)という語呂に縁起を担いだと云う説もあります。花の原産国は日本と云われていますが朝鮮、中国にも広く自生しており身近かに愛されておりますね。紫と白の清楚な花を咲かせますが秋彼岸のこの時期、昔は野原でも良く見られましたが万葉集でも朝顔の花として読まれていたそうですよ。

開花直前の花を見ると丸く膨らんだ状態が本当に面白いね。これは開花前に花びらが互いの縁でくっついたまま膨れていくため蕾の時は風船のようにふっくらとして可愛らしく見え何とも言えません。     紫のふっと膨らむ桔梗かな 正岡子規

昔から武士に好まれたようで、家紋として図案化されたり、江戸城を囲む11の門の中に内桜田門がありますが通称を「桔梗門」と云っています。江戸城を造ったと云われる太田道灌の家紋であり明智光秀の使っていた家紋でもあります。

こんな話もあります。 戦国時代に天下統一を果たしたた織田信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)によって殺害されましたが、信長の子孫に繫がるフィギヤスケート選手の織田信成さんは、今でも桔梗の花を飾ることはしないそうです。明智光秀一族の家紋である桔梗の花であるからとのこと。

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「人生」って速い!


 「紺珠」の中にこんなメモが

 夢中で駆け抜けた10代

    将来を真剣に考えた20代

       人生の分かれ道だった30代

      信じた道を迷いながら突き進んだ40代

            残り時間を意識して選択した50代

               自分と云うものを確立し始めた60代

                      我れ心の欲するところに従う70代

 どの年代もあっと言う間に過ぎました、行きたい処があるなら早く行っとく事だ。

   逢いたい人がいるなら会っておく、やりたい事があるなら全てやることだ。

     人生は思っているより短く、いつ終わるのかも分からないからだ。

        私の歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない。


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ジャクソンホール会議

 ジャクソンホール会議 ❓ 

                                                                こんな言葉聞いたことありませんか。先月27日、米国連邦準備理事会FRBパウエル議長のリードによって、世界の金融界のメンバーによる講演会がコロナ禍の為テレワークで行われていました。世界の景気を支える金融政策の市場から主に米国債を買い入れる「量的緩和」規模の縮小について年内開始を前向きに考える見解を示した。一方事実上の0金利政策の解除について慎重で拙速な政策変更を避ける姿勢を明確にした。

米国ワイオミング州にジャクソン渓谷がありますが人口僅か10,000人程の小さな街でありますがフライフィッシングで有名なところであります。近くには有名なイエローンストーン国立公園があり近くの川で盛んに行われていたそうです。FRB会議の期間前後には参加した人たちや一般の人達も大勢がフィッシングに興じて賑わうそうです。

そもそもの始まりは1982年8月避暑地のジャクソン渓谷における米国経済人の小さな勉強会として始まったものが時代とともに国際的にも重要視され夏の一大行事になってきている。それ以来40年、毎年開かれておりメジャーな国際会議になっています。仕事を通じて趣味のフィッシングも楽しめ交遊も図れるなんて・・何とも優雅で羨ましいですね。働きバチの日本人も多いに見習いたいものですね。

ご存知のスイス冬のリゾート地で提唱されて始まったダボス会議もありますが、こちらはFRB議長だったボルカーさんが1971年に提唱したフォーラムで世界の金融界の集まりであります。世界的な国際会議などは楽しいことも出来るような集まりですが日本でのそれとは程遠いことが分かりますね。

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