カイツブリ(鳰)

―遂に一個の卵は孵らなかった。―


先ごろから古利根川の私の散歩道であるユリノキ橋の澱みの中にカイツブリの浮巣があり小さな二羽の雛が時々親鳥の羽の下から首を出しいている姿を見つけました。親鳥はジッと構えており全くその動きはなく五分十分そのままでよく目を凝らさないと鳥がいる事には気づきません。
今朝改めて見るとどうやら一個の卵をあきらめた様子が伺えられる。
沢山いるカイツブリ・ウオッチャーに聞くところによると先月の末頃、二羽のカイツブリが澱みの中に浮巣を作ってから約3週間じっと我慢の親で居て送り盆の16日に二羽の雛が生まれたらしい。しかし浮巣の中にはまだ一個の卵が残っており一生懸命に孵そうとして無念無想の構えで親としての責任を果たそうとしていた。今日で10日間なんとも心打たれる風景でしたがよく見るとを卵がありませんでした。やっと諦めたようでした。



カイツブリの生息地は日本各地にありその姿は一年中見られており、親になっても25㎝位の小さなもので、奈良時代には「にほどり」と称されていた。漢字の「鳰」も水に入る鳥を意味する和製漢字と云われている。 キリリリリとの鳴き声
 琵琶湖は古来からカイツブリが多かったからか「鳰海(におのうみ)」の別名があり滋賀県の県鳥に制定されているそうです。

その生態は最近変わって来てヨシの林の中から人の目に触れるところでも浮巣を作っていることが目立ってきたと、野鳥の研究者が話している。それは都市化された環境の中でも逞しく生きていくことで否が応でも生活をしていかなければならない所に来ているのかもしれない。駅前に住みついているムクドリを見ているとあちらの方が一枚上ですがね。
                    
                                             平成29年8月27日   八大

































獺(カワウソ)
獺の絵 小川芋銭


38年ぶりの大発見
先頃、長崎県の対島で38年ぶりに絶滅されたという獺の姿がツシマヤマネコの調査のためのカメラにとらえられて世紀の大発見と賑わいを見せており、これからの調査が待ち遠しいところです。
今では動物園でしか見られないですが明治時代までは日本各地に棲息していたが乱獲や開発によって生息数が激減したため昭和40年には特別天然記念物に指定されている。昭和54年に目撃がされて以来であり日本人にとっては身近な存在であり河童伝説の原型になったと考えられている。

獺祭(だっさい)
獺祭の絵 川端龍子
獺(カワウソ)は捕らえた魚を川岸に並べる習性があり、その様子が先祖供養の祭儀になぞらえたことから云われたことで出典は中国古代、儒教の経典で四書五経の礼記(らいき)からである。
また、七十二候の一つ(雨水初候)で、立春末候の魚上氷の後、雨水次候の鴻雁来の前にあたる。
礼記の「東風凍を解き、蟄虫は始めて振く。魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る」。春になってカワウソが漁をはじめ魚を捕らえることを言った。俳句の季語にもなっている。
 

大吟醸酒「獺祭」
大吟醸酒 獺祭
昨年開催された伊勢志摩サミットで安倍総理のおもてなしとして各国首脳に、山口県の酒「獺祭」が並んで好評だったことがあった。日本酒の販売量が落ち込んでいる近年、岩国市周東町獺越2167-4の旭酒造(株)がベテランの杜氏を入れないで開発製造された、磨き度23%に磨かれた大吟醸酒が振舞われ好評を博し、現在でも大変な人気で品薄となり価格も一升瓶で¥30,000を超えている。
桜井社長によると昔からその地域に獺に関する言い伝えが残っており地名にも獺越があることから、昭和23年に創業しそこに酒工場を建てて、「獺祭」という名前にしたという。
さてさてその飲みごこちは一言では言い表せないもので、日本酒と云うより上品なワインそのものでその器もぐい飲みではなくスマートなワイングラスが似合います、まあ一度お試しあれ。
               平成29年8月  八大
  






 シリア難民少女の三行詩  


バナ・アラベトちゃん
爆弾が今、雨のように降っています。
 みんなハエのように死んでいきます。
 ちゃんと息ができない。
               バナ

  私たちは今家を失い、軽いけがをしました。
昨日から寝ていません、お腹がすきました。
生きたい、死にたくない
     バナ
アレッポの惨状

 
みなさん、アレッポを助けてください。
空爆を受けなければ、
私はきょうも生き延びることができます。
                
               バナ


 先ごろ米誌タイムは「ネット上で最も影響力のある25人」を発表しましたが、シリア内戦の激戦地だったアレッポの惨状を発信し続けた8歳の少女バナちゃんが選ばれた。選考理由は「ジャーナリストが近づけなかった場所から、内戦の恐ろしさを伝えた」としている。
 その惨状を母親とともにツイッターで発信し続けた。一時は命が危ぶまれたバナ・アラベドちゃんだが去年12月にトルコに逃れ、いまも投稿を続けているという。
 その投稿先はシリアのアサド大統領、ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領にまで及んでいるのに・・・!!

 シリアの混乱した内戦は、このところIS・イスラム国の崩壊が現実味を帯びてきているものの政府軍と反政府軍の戦いは近隣諸国を巻き込んで続いており終結には至ってはいない。
どうして一刻も早く平和を取り戻すことが出来ないのか、それは陰に大国の思惑が見え隠れしており終息への道は程遠いようだ。
 この三行詩に胸を打たれる人は多いと思われる、是非ともこの報道を機にバナ・アラベトちゃんの嘆きに答えて頂きたいものである。

                                        
                      平成29年8月  八大






















ある子ネコの死

生まれてわずかヶ月、子ネコはスプーンの水をゴクンと飲み込んであの世に旅立った。
 ほろ酔い加減で夜道を歩いていると布のようなものを踏みそうになり立ち止まると子ネコがうずくまっていた。手を添えると温かく息遣いが聴こえるがぐったりとして動きがない。このままでは車に轢かれてしまう、どうしようと思いながらも・・その時すでに両手で抱きかかえていた。取りあえず我が家の軒下に寝床を用意し小皿に水とミルクを用意し飲ませると静かに波紋が見えたので少し安心。
翌朝心配しながら覗くと目ヤニを付けて眠っているがぐったりした様子は続いている。濡れタオルで毛並みをそろえてやる、よく見るとそれは彼岸過ぎの頃我が家の周りにうろうろしていた野良猫が3匹の小さな子を引き連れて歩いていた中の一匹であった。
 子ネコのしぐさは可愛らしく、つい餌をあげたくなる衝動にかられたがその行為は近所迷惑になるからと、思いとどまった。この時期の親子連れは私の心を内側から癒してくれた。
二日間ほとんどそのままで眠っているようだったのが、朝方突然の大雨が降ったので様子を見に行くと雨を逃れようとしたのか姿はなかった。その後夕方まで探すも見つからず、やっと見つけた子ネコは生垣の中でぐったりとしていた。まだ温もりがあったので、連れ戻して雨で濡れた毛並みを揃えてスプーンで水を与えると「ゴクン・・」と一口飲みこんだ。そして23分で息絶えた。これがこの子ネコの生涯だったのか・・・合掌!

 エジプトの神様の中にはバステトというネコの女神がおります。エジプト先王朝時代の遺跡の墓より猫の骨が発見されていることから、紀元前4000年には家畜化されていたと考えられています。ファラオの守護者、家の守護者として鼠をとる役割を持ち、人間を病気や悪霊から守る女神であると云われ、また多産のシンボルとみなされ豊穣や性愛を司り音楽や踊りを好むとも云われているようです。

今、野良猫が社会問題になっていますが野良ネコ駆除グループに対して、動物虐待は許せないグループどちらにも言い分があるようですが・・・解決策は見つからない。
家族の一員としてペットを飼うことには何の問題もありませんが、飼えなくなって手放してしまう簡単な行為が原因であることを忘れないようにしたいですね。
                                    平成297月  八大





タイの仏教美術展で
  〔上座部仏教と大乗仏教との違い〕

今、上野の国立博物館で「タイの仏教美術と王権」についての国際シンポジウムと展覧会があるので訪ねてみた。
「微笑みの国タイ」の国宝クラスのきらびやかな展示物は現地での感動があったがワット・スワット仏堂の大扉と釈迦像がここに展示されるとは思いもよらなかったのでビックリでした。タイ王室儀礼に見られる日本刀の展示と解説には、我が国との600年にわたる交流の歴史があった事を改めて思い起こされました。
 同じ仏教国であるタイですが、釈迦の教えを厳格に守っている上座部仏教に対して大乗仏教の私達との違いを改めて知ることが出来ました。
 釈迦生前の仏教においては出家者に対しての戒律は定められていたが、釈迦入滅後仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域も出てきた。例えば食生活の違いで托鉢での食事時間の問題や食べ物に代わる金銭や日常品等を受けた場合、その扱いはサンガ(教団)によって解釈に違いが出てきたがそれぞれ源典を支持するもの、修正するものに分かれてきた。時代の流れもあるがあくまでも厳正に遵守する上座部グループと修正を支持するグループによって大衆部(大乗)に分かれていったと云われている。

 上座部仏教は、自己の厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われ一般の人たちは救われません。上座とは教団内で尊敬される比丘のことで長老とも漢訳される。以前には小乗仏教とも云われていましたが乗り物に例えると小さな乗り物となり、大乗仏教側から付けられた差別用語になると云われて現在では上座部と改められています。

 大乗仏教側は小乗仏教では修業をした人だけしか救われず一般の人々は救われないことになってしまう。しかし釈迦はすべての人々を救いたかったはずであるという思想のもとに修正誕生したのが大乗仏教です。大きな乗り物ですべての人々を救うことを目的にしてます。日本に伝えられた仏教は大乗仏教を基本にしています。

         
          
  
タイ王国の日本刀



               平成29年7月  八大  








天領の地 日田

 今月4日から降り続いた九州北部豪雨災害は福岡、大分で大変な被害をもたらしました。
咸宜園
 昨年日田市を訪れる機会がありました。山々に囲まれた盆地の中央を筑後川の支流になる三隈川が流れ、江戸後期の儒学者広瀬淡窓の私塾・咸宜園に多くの若者が集まり街が栄えた結果文化的な雰囲気が色濃く残っております。街筋の地名と云い言葉を交わした人々との会話の中にも小京都を感じさせる雰囲気がありました。
 この関東の地からは大分県の日田市を良く知る人は少ないと思いますが、江戸時代には幕府の直接管理する天領として九州では交通の要衝でもあり西国郡代が設置され多いに栄えた所でありました。
 街の名産の日田杉は筏を組んで河流しを輸送手段としていたそうで街の経済を富ませ豊かな文化と富は人口を吸い寄せ日田が「小京都」とも「水郷」とも呼ばれたそうです。
 ここでは儒教の影響もあり言葉を漢語読みする遺風は至るところにあるそうで、水郷をすいきょう、舟遊びをゆうせん、日田をひた、などと京言葉に近い感じを受けます。
 けれどもこの数日の災には集中豪雨、濁流、大災害が連呼されております、この街に濁音は全く似合わない。
古くから云われていた坂東太郎・筑紫次郎・吉野三郎と日本三大暴れ川として番付にあった事を忘れてはいけなかった。
 「咸宜園」           
日本最大規模の私塾で「ことごとくよろしく」とはすべてのことがよろしいとの意。淡窓は門下生一人一人の意思や個性を尊重する教育理念を塾名とした。
江戸後期から明治30年までの80年間に全国から入門者が約4800名に及んだと云われています。
 現在は水戸の「後楽園」と足利の「足利学校」と協力して日本の教育遺産として世界遺産に登録準備中との事です。
追 新しい話として岡山県備前市の閑谷学校が加わりました。


咸宜園概要


                                         

                                             


         


              平成29年7月  八大












二本松城址・戒石銘碑

 福島県二本松市にある二本松城址は日本100名城の一つで別名霞が城とも呼ばれ国の史跡に指定されている。

 城の入り口には二本松藩五代藩主丹羽高寛が家臣の儒学者の献策により享保の飢饉の後、財政に苦しんだころ藩政改革と綱紀粛正の指針として刻ませた「戒石銘碑」があります。
 その碑文は「爾棒爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」(なんじがぼうなんじがろく たみのあぶらたみのあぶら
げみんしいたげられやすし じょうてんあなどりがたし)とある、この城の武士たちは登城や下城に際し必ずやこの碑を見たことであろう。
 その内容は、お前達の月給は給料は民百姓の汗だよ脂だよ、百姓が働いて米を作りそのコメを武士は棒禄として領主から戴いているのである。武士は己が非生産の者であることを片時も忘れず、自分達は百姓の労苦によって給料を得、生かされているのだということを常に考えなくてはならないと訓えているのである。
 下民は虐げ易くも、上天は欺き易し。武士共よ考え違いをするな、百姓や町人は身分として低い者であるから、虐めたりバカにしたりしてはならない。そんなことをしたら天がその行いを許すまい。天を欺くことは出来ないことを心得よ。
 儒教の精神そのもの、なんと厳しい訓えであろうか。
この四行の武士に対する訓えを戦前の政治家の多くは扁額にして座右の銘としていたとのこと。
 選挙の時だけ言葉巧みに演説し国民を一時的にごまかすことが仮に出来ても天を欺くことは出来ないぞと云っている。
私はこの話を30年ぐらい前に足立区から出た孤高の庶民派代議士、鯨岡兵助先生から訓えを聞いたことがあった。
今日は東京都議会議員の選挙だ!
          平成29年7月2日   八大







半夏生とたこ焼き
(はんげしょう)
半夏生
 日本の農事暦では一年を24等分し、その節目節目に名前が付けられていて「二十四節気」と呼ばれています。有名なところは春分・夏至・秋分・冬至があります。                                       
 それを更に三分割して、より季節の移り変わりを表現する言葉として「雑節」があります。節分や八十八夜なども該当しますが半夏生は雑節の一つで梅雨の終わり頃を指す言葉です。
 農家にとって半夏生は畑仕事や田植えを終わらせる目安となり、その後数日間は体を休める習わしがありました。
カラスビシャク
この時期に烏柄杓(カラスビシャク)別名半夏という漢方薬の原料にもなっている植物が生える時なので「半夏生」と呼ばれているそうです。
又それとは別に湿地に咲く「片白草」別名「半夏生」「半化粧」と云われる葉っぱの一部が白く咲く時期だからとの説もあります。
半夏生
暦的には夏至から数えて11日目と云いますので今年は7月2日~7日間位が半夏生の時季になります。
 面白い風習がありましてこの時期に北陸地方や西日本方面では鯖や蛸や鱧や餅やうどんなどを食べる習慣があるそうです。
 なんでタコが・・と聞いたところその吸盤のように稲が沢山実ることを願ったそうです。先ごろテレビの料理番組で疲労回復の効果があるのはタコに多く含まれる「タウリン」が有効だと聞きましたので・・それでガッテンしました。昔の人はそのことを知っていたんですかね・・・?
 せめて私はいつもの般若湯と「タコ焼きパーティー」でもして滋養の吸収に勤めたいと思います。
            平成29年7月2日  八大












近江神宮の復権

 近江神宮は第38代天智天皇をお祀りしておりまして、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる全国16社の勅祭社の一社であります。
 ここは昭和15年11月7日の鎮座であり神社としての歴史は新しいですが、この地域の発展は大津宮に都を置いたことによって今に繋げてきました。
 古くから湖国では天智天皇に対する宗敬が厚く1350年の歴史に立脚するとして創建運動が高まり昭和天皇の御代に創建されたものです。 
 我が国の法律の源をなす「近江令」がここ大津宮で制定されたが、その中でも庚午年籍(戸籍の制定)と班田収授(土地制度の改革)については今の世にも寄与されている。
 特筆は2つ、社会生活の基本である時報を始めたことで知られる水時計は良く知られており、6月10日の時の記念日には漏刻祭として毎年斎行されている。
 もう一つは、天智天皇御製
「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」は小倉百人一首の巻頭歌として国民に親しまれ、歌かるたの祖神として仰がれており正月のかるた名人位、クイーン位決定戦が行われていることは良く知られています。
 ここ大津宮は壬申の乱の悲劇に逢って5年半で崩壊しその後は歴史の中に埋もれて幻の大津宮となってしまったが今、眼下に琵琶湖を眺め思いを巡らせるとき、歴史とは勝者による物語と云われるがこんな事実があることも多くの人に知って頂きたいと思いました。
                                          平成29年6月  八大








   
   20世紀の「男気」十か条

    <1,983年の夏> 35年程前のメモの中から出てきた「男気十か条」
   当時は意気盛んな四十台半ば、手帳の中に挟んだ紙切れが・・出て来た。
    自信をもって云えることが幾つあるだろうか?  

    1  個として自立し公のために尽くす
    2  人を感動させる独創的な仕事をする
    3  無駄なことを面白がる事ができる
    4  すべての人にいい顔はしない
    5  云うべき事は云い怒るべきときは怒る
    6  批判を受け止める懐の深さを持つ
    7  失敗を恐れず行動が出来る
    8  人をレッテル貼りせず差別をしない
    9  自分の弱さをさらけ出すことが出来る
   10  人情を重んじる心を持つ

   年齢の違いだけでは済ませられないことでもあるが、世を思うあの頃の
   思いを今に絞り出すことが出来ないだろうか、、、。




無財の七施(Take&Give)

 私達の日常生活では、物がなくても周りの人に喜びを与えていく、少しでも喜んでもらえる方法がある、それが無財の七施です。世間一般の損得勘定では、与えた人よりも与えられた人の方が得をするようなイメージですが、布施とは、ほどこしをした人の方が幸せな気分になり、与えられた人よりも与えた人が幸せになるのです。
 子供の頃、虚無僧姿で托鉢に来たお坊さんにお金をあげたけれど無言でした。親類のお坊さんに話したところ喜捨をさせてあげてやるのだから、御礼はお前が云うもんだよ・・と云われたことを今でも覚えています。
周りの人に喜びを与えて自分が幸せな気分になる方法とは
その1 眼施(げんせ)優しい眼差しで接する
その2 和顔悦色施(わげんえつじきせ)優しい笑顔
その3 言辞施(ごんじせ)優しい言葉で接する
その4 身施(しんせ)自分の身体で出来ることを奉仕
その5 心施(しんせ)心から感謝の言葉を述べる
その6 床座施(しょうざせ)場所や席を譲る
その7 房舎施(ぼうじゃせ)自分の家を提供する
 四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」という習慣が残っています。その心掛けがあればみんなが幸せになれるのに・・云うはやさし行うは難しですよね。
               平成29年6月  八大





沖ノ島(宗像大社)

 
玄界灘に浮かぶ沖ノ島は「神の島」と呼ばれ島全体が宗像大社沖津宮の御神体で今でも女人禁制の伝統を守っている。古来より島に立ち入り見聞きした事を口外してはならず「お不言さま」と呼ばれ、男性であっても現地に着いたあとは御前
浜でまず全裸で海に入って神事の一環として禊を行なわなければならない。
これを男女差別だと言われることもあるが、これは島の神
が田心姫神(女の神)であり、女性が島に上陸すると嫉妬
され祟りがあると言われている。

 一般人の上陸が許可されるのは毎年5月27日に日本海海戦を記念して開かれる現地大祭の時に限られている。
 沖の島には鏡や玉類、武器、馬具、装身具など8万点が国宝の指定となっており「海の正倉院」と呼ばれている。
今年の7月には祭祀遺跡として世界遺産に指定されることがほぼ確定しているらしい。
 5年ほど前に百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男」が本屋大賞に選ばれてベストセラーとなって、久し振りに日本人としてワクワク感を味わうことが出来ました。出光興産創業者の出光佐三をモデルにした国岡鐵造の大活躍を改めて思い起こしましたが、そのいちずな信仰心の対象が宗像大社でありました。
 私は昨年に宗像大社を訪ねた際に沖ノ島・大祭の話を聞きましたので、今年の始めから事前の申し込みをして待ったが誠に残念なことですが抽選に外れてしまい渡島することが出来ませんでした。本を読んで悔しさを堪えています。
              平成29年6月  八大





虎塚古墳


 栃木県から茨城県にかけて流れる那珂川の河口近くには縄文時代から続いている古代人の住居跡や古墳などの遺跡が多くみられる処である。その中に虎塚古墳と云う東日本では最初に発見された装飾古墳があります。埋蔵文化財資料館には原寸大の石櫃が展示されているが原色の赤色に圧倒されます。壁の上段に連続三角文、その下に円文や太刀、鉾などの武器や武具などがベンガラ(酸化鉄の赤の顔料)で描かれている。石櫃の西壁や東壁にも9個の赤い円(鏡と思われる)や武具を思わせる道具などが描かれている。その当時も葬送を司る画家がいたのかもしれないことを感じる。

 装飾古墳は九州に多く発見されているが、そのころ関東へ人の移動があったことが覗える。
 年代的には6世紀末から7世紀初頭とみられていますが、その幾何学的な模様は今の現代アートを見ているような感覚を感じる。
虎塚? 鎌倉時代、この地に虎御前という人の屋敷があった・・と土地の古老の話を聞きましたが空を見る
古墳内は春と秋に一般公開されるとの事でした。
                平成29年5月  八大